シネマ観賞 ~<HOKUSAI‘北斎’> ―1 ‹5月28日›

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   * なかなか見応えのある映画
 金曜日は定例の映画観賞日。面白そうとワザワザ行った訳でもなし…
週一の習慣なればこそ行き当ること。当時・ライバルの浮世師とのエピソード
が次々と出てくる。…北斎は「時代のせいにするな、己の“好き”を貫け!」と。
コロナ禍の現在こそ見習いたい江戸の“謎多き天才”の映画…
 アフリカ、中近東旅行の中継地として、ローマ、パリ、ロンドンに立寄る際、
有名美術館がコースに入っている。 欧州では、レオナルド・ダヴィンチ、
ミケランジェロ、ラファエルなどがライバルとして有名だが、彼らと肩を並べ
られて語られるのが浮世絵師たち。 コロナ禍のいま、我々はかつてない苦境
に立たされている。「どう生きるべきか?」「何が正解なのか?」
「自分の役割は?」―― 不安定な状況下で、己の存在意義をこれまで以上に
思案している人も多いだろう。 そんなときこそ、導となる映画がこれ。
伝説の浮世絵師・葛飾北斎の知られざる“生きざま”に迫る「HOKUSAI」である。
 まずは… ネットの紹介文から
≪ 本作は、名画群「富嶽三十六景」を生み出しながらも、そのパーソナリティ
 が謎に包まれている北斎の半生にフォーカスを当てた、壮大な物語。 
辛酸をなめ続けた下積み時代や、理不尽な政府に弾圧される日々、
それでも描き続けた北斎の気高い“魂”を力強く活写する。
いまを生きる我々が、最も必要としている「信念」が、ここにある――。
 ~九十年の人生で描いた作品、三万点以上~
信念を貫き通した孤高の絵師の生き様が、いま初めて描かれる。

作品は誰もが知っているが、作者の“素顔”は誰も知らない孤高の天才、
それが葛飾北斎。「HOKUSAI」は、決して最初から天才ではなかった彼が、
愚直に「好き」と向き合い続けたことで“伝説”へと成っていく姿をエネル
ギッシュに描いている。他の絵師と比べてどれだけ格下だろうと、時代の逆風に
さらされようと、己の感覚に正直に「好きなことで、生きていく」を貫いた北斎
時代を超越するクリエイターの矜持に、いまを生きる勇気をもらえるはず。≫
 ――
▼ 作品の中の江戸文化が、例えば花魁の教養、着物などが、豪華絢爛に表現
 してある。また幕府の上層部の思惑も数百年の時空を超えて、迫ってくる。
そして、天才なるが故の浮世絵師同士の争いも、ライブ的な趣があってよい。
作品で、世の中を変える力を持てるが故の苦悩も充分に伝わってくる。
< 生まれた時代や才能の有無、年齢に関係なく、ただ「好きこそものの上手なれ」
 を突き詰めた結果、“本物”になったのだ。心を濁さず、取り組み続けること。
この“真理”は、いまの時代こそ切実に響く。>  

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7015,閑話小題 ~パンデミック、4ヶ月の総括 ~2
2020年05月29日(金)
    * 世界規模では
 世界の感染者数は、560万人。死者は35万人。
死者総数は、アメリカ10万弱、イギリス3万7000、イタリア3万3000、フランス
2万8500、ベルギー9千300、メキシコ8千100、日本は875人、韓国270と少ない。
ドイツ、日本の死者が少ないのは、健康保険などの長年かけた医療制度の拡充が
背景にある。特に日本は、手洗い、ウガイ、マスク着装、家庭内のスリッパ着用
習慣がある。…問題は二次、三次の感染のウエーブに対する若者、壮年者の対応。
一年後の死者は、10倍の350万人も有得ない数値ではない。アフリカ、南米が感染
に対して、全く無防備のため死者数には悲観的。 問題は、2,3波の増強された、
コロナ菌。 研究者曰く…「野球の九回戦の現在地点が1回の表裏が終わり、2回
に入ろうする地点。先は長い」。 リーマンショックに対して問題なのは、当時
の時は、末端の派遣、アルバイトに直撃したが、今回のは、末端から中間層まで
須らく直撃したこと。このコロナ菌の性質が‘潜伏したり、再発したりする悪い’
こと。空間を少なくとも既存の二倍とる必要がある上に、誰が細菌持ちか判別
不能なこと。一度、感染者が出た時点で、そこは即死状態で閉店せざるを得なく
なる怖ろしい現実がある。これが世界中のあらゆる場面になるため、経営者は、
明日は吾身の状態。新店の開店は、もう無理。既存の新装オープンしか… ?
【このコロナ禍で…約7割の企業が[売上高2~4割減]、9割が[営業活動に遅れ]、
3割強が[経営戦略の見直しに着手をした】という。これでは、当然、失業者が
街中に溢れかえる事態は避けられないきびしい現実が待っている。
高級料理用の養殖真鯛や、和牛、そして洋食用野菜の在庫が膨れ上がり、廃棄
せざるをえない実態のレポートがあった。この事態に権力者は、外敵を探し、
戦争を仕掛ける戦略をとるのが常套。日ごと危ない日々が、続くことになる。
1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が、発生。1918年から1920年に流行した
スペインかぜの直後。何か嫌な予感がしないでもないが… 

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6648,閑話小題 ~前日の文章と気づかずに…
2019年05月29日(水)
    * 何てこっちゃ
 先日のこと、前日のテーマ日記の下書きを1時間近くかけて修正し、さてアップ
しようとして、それが何と前日の文章と気づいたのである。 文面は如何にでも
手直しできる未熟な内容と知った時のショックたるや、如何ばかり! ところが、
実は、この経験を何度かしていたのである。そこで気を取り直して新たなテーマ
をたてて書き下ろすには、数倍の気力を要する。 気力充実してないと、文章は
書き続けられない。 同月、同日分の内容を流し読みをして思うことは、内省が
浅い自分の枠。だから、自然と無口になる? 一度、書いた自分の文章を客観視
することは土台、無理。翌日、読返すと、まず誤字当て字。人は、まず対象の
欠点を察知し、それだけが記憶として残す習性がある。 それが如何した?
と自嘲するしかない。
 ―
    * トランプが帰国の当日に、何故に
 よりにもよって、「トランプの帰国当日に、わざわざ外務省役人の父娘2人が
殺傷された事件」と思ってしまうのは… 『相棒』などの刑事ドラマの見過ぎ?
犯人も予定通り?その場で自殺。 真実は永遠の彼方へ。これが単純の無差別
殺傷事件だろうか? 何処か?の挨拶代わり?のメッセージ。 「公安扱い」
になるのだろうが… 危ないテーマ故に、ここまで。
 ― 
    * 先週末にみた映画、『空母いぶき』
 先週末に公開された『空母いぶき』の内容とは。
トランプ大統領の訪問姿と、川崎の外務省役人父娘の殺傷事件が、何やら、
映画の延長のドラマを見ているようで…
【  現代最新鋭機の空中戦とは!!?  (漫画原本)
  中国軍に占領された尖閣先島諸島に接近する「いぶき」第5護衛隊群!!
 垂水首相を筆頭に内閣が国内外に必死の対応を行う中、中国軍空母「広東」
から最新鋭機「殲20」が発艦 ―― 「いぶき」艦隊を襲う!!! 対応するは、
イージスミサイル護衛艦、そして空自最新鋭機「F35JB」!!! 】
 ▼ 実は、日本にも空母があって、その事実を大統領の訪問で、知らしめ
 ようとする政府筋の思惑がみえみえの国策映画のような。 米中貿易戦争、
それは、50年先を見定めた戦争の一端でしかない。最終的には、中国、インド
に、その覇権は移ることになるが、その間に日本の人口減からくる衰退は
避けることは出来ない。平成の時代が、そのための国家的リストラのホップ
の時代。「令和の時代」は、ステップに。 縮む時節には縮めば良い。
その辺りを間違えているのが現政権の政策。「天気晴朗なれど、波、高し」

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6285,読書日記 生きることへの冒�必とは! ~2
2018年05月29日(火)
          『旅人よ どの街で死ぬか。~「男の美眺」』
                   (伊集院静 2017年)から。
   * 旅、あるいは「出逢い」について
◉ 「人間は焦がれる生きものである。
  彼は焦がれていた。崇高なる精神がそこにはあざやかにあった。
  美しい旅人であった。人が何かに焦がれるのは、私たちの生が哀切で
  あふれているからである。」          64p
 <青年期には、確かに崇高な精神があった。あの精神は、今でも心の中核に
  確かに残っている。それが魂というのだろうか? 20歳代も、現在も… 。
◉ カタルーニャの広場の地の底から死者の声がする。その声は私の耳には
  届かない。だがじっと佇んでいると奇妙な心持になる。そしてかすかな
  声が我うちから聞こえてくる。
 「御前は何者なのだ? ここに何をしに来た。どういう血が流れているのだ。
  その血には誇りがあるのか。」
  自分という存在の、生きる根源としての誇りが、身体のどこかを刻んでも
  流れてくるののか、と問われている気がする。   78p
 <地球の各地で、感動で茫然とした時に、必ずといってよいほど、生じてくる
  内なる声である。「いま、ここ、わたし」が、この大自然に同化している。
  わたしは、何ものでもない。この一部であり、永遠のカケラでしかないが、
  ただ、いま、ここにわたしが間違いなく存在している… と。 >
◉ ルソーがなぜゲルニカを世界の理想と言ったのか。ゲルニカは町の中心に
 一本の樫の木があり、五百年近くの間、この木の下に人々が集まり、あらゆる
 問題を合議し、決定してきた。イサベルとフェルナンドが結婚し、大航海時代
 のスペインが誕生する以前から、この共和制の原形を人々は存続させていた~。
  ~一本の木を見る旅をぜひおすすめしたい。  91-93p
 <庭の草木の全てが両親が植えたもの。春から夏にかけて、その多くが花を
  咲かせる。確かに、二人とも亡くなったが、残したものは生きている。>
――
▼ 『男はつらいよ』の寅さんが、旅先の年寄りに、「ちょっと、旅のお方!」と
 呼び止められる場面がある。その土地モノにとって、旅人は止まり木の渡り鳥。
ましてツアーの団体客など… 30歳近くまで東京、三重、神戸、千葉、金沢と
今からすると「旅の人」だったが、私は何ものでもなかった、なれなかった
存在だった。大波の合間を自分という板切れにしがみ付いて漂う存在でしかない。
それが青春なのだろうが。その時の出逢いと邂逅こそが人生だったようだ。
それは人生全般に言えること。だからこそ、人との「別れ際」が重要なのである。
行動指標に「後味の悪いことは極力避ける」を通していたが、甘かったようだ。
それは大方の人に見れるが、大方の人は関係ないこと。 
「世界は広い、そして深い!」…求める者にとって、世界は辛い以上に面白い!
「半径500の世界は狭い、そして浅い!」のは、出ないだけ。 
‘自分の知っていることしか知らないことを自覚ない’から自分を保てるのさ。
アナタじゃない、今の私。落ち着くところは無知蒙昧! せめて比べないこと。

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5918,閑話小題 ~帰りの宇宙船内で
2017年05月29日(月)
   * 帰りの宇宙船で
 「何故に生まれてきたか?」の問いかけの答えを考えるに、
「宇宙彼方の惑星から地球の80年の旅に来ていると想定すると考えやすい」
と、そして、「子猿に纏わりつかれ、殆ど地球上の大自然も、人間も、人間が
営々としてつくり上げた「文化・文明」をみること出来なかったことに後悔
する」と書いた。 秘境異郷ツアーに嵌って、私にとっての世界の果てからの
現実社会からのトリップする経験をしてきた。この感覚を「人間の生死」の
極みの実感から、「人間の生きる目的」を考えるヒントにしている。
旅行から自宅に近づくにつれ、ホームベースがあればこそ、余裕を持って世界
の果てに飛ぶ立つことが出来た。それを拡大して、宇宙の果てから地球へ、
約80年の時間に色々な条件を与えられた上に、世界と内界を知り、味わい、
宇宙船に乗って帰っていく。宇宙船内で、自問自答するのは、如何だろう?
観て、経験した、感動と、感激と、感涙した極上の感情体験。四苦八苦、四楽
八楽の経験。それを阻んでいたのは、地球のシリアスな小憎らしいが、可愛い
子猿たち。それらも元の惑星に着いたと同時に宇宙の旅として忘れ去られる。
ただ、帰りの宇宙船内には、両親など因縁のある人たちが居る。数年前から、
早朝の仏壇前で、因縁深かりし故人のイメージを繰り返し想い浮かべている。
「末期の死の床での予行演習」の準備の一環ですか、これは。「暗い!」と、
いうアナタ。これは時間をかけ身につける「必須科目」。私だけの話だが… 

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4823,変えてみよう!記憶とのつきあいかた ー4
2014年05月29日(木)
         「変えてみよう!記憶とのつきあいかた」ー高橋雅延・著
   * 万能薬としての「語り直し」
 ー「事業人生の45年」の語り直しーを書き始めたが、何故か心が重い。
 気持ちの中で目的のため、多くを切り捨ててきた部分を違う視点で見ることに
なるからだ。しかし、一つのことを得ようとしたら、それに見合うだけを捨てて
かからないと、何も得ることができない。万能薬として「語り直し」も、劇薬
にもなってしまう。これまでの記憶のありようを現在の主観的経験で変えようと
するのが、「語り直し」である。  ーその辺りから
《 その人の立ち位置によって、同じできごとでも違って解釈できる。だから、
 過去のどんなできごとも、必ず違ってみることができることを、肝に銘じて
賜おくことが必要だ。その上で、ある過去のできごとについて意味づけを変える
ために、そのできごとを、それまでとちがうことばで語り直さなければならない。
世間には「時間が癒す」という言いまわしがある。ここで、見過ごされがちな
ことだが、「時間が癒す」のは、単に時間が過ぎ去るからではない。
時間が過ぎ去る間に、人はそのできごとについて何度も考え、悩み、さらには
新しい経験をする。このことによって、元のできごとの意味づけ、語りかたが
変わるからなのだ。 ・・(中略)
「記憶をつくり変えたり、それを遠ざけるのは無理なことである。・・(略) 
しかし、―つねにー私たちは、自分の苦悩、自分自身の内的経験、自分自身の
精神の経過を処理しているわけである。それは、過去とよばれる客観体ではなく、
現在とよばれる主観的経験である。変える必要があるのは、誰か他の人間では
ない。最も大きく影響されているのは、私たち自身である。記憶をぬぐい去る
ことはできないが、記憶の有りようを変えることは可能なことを、私たちは
知っている。」・・ 》
▼ 現在、連続シリーズで書き始めたのは、「語り直し」だが、それより、
 全く忘れていた記憶の書き加えが多くなる。それが、書き直しということだが、
太い幹の記憶から、忘れていた細い幹と小枝と葉っぱ記憶が出てくる。
その記憶が新たな気づきを喚起する役割なってくる。若い時分は、誰も経験も
知識の絶対量が足りなく、ただ漠然と日々を過ごすしかなかった。あるのは、
何とかなるのでは?という、儚い想いだけ。語り直しは内省そのものになる。

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5553, 「要するに」「面倒くさい」「面白くない」「あとでしよ」」
2016年05月29日(日)
   * 「要するに」「面倒くさい」「面白くない」「あとで」
<「要するに」「面倒くさい」「面白くない」「あとで」>は、自らの壁を
つくることになることに気づかない。この随想日記を読み返すたびに、
「要するに」が目に付いてしまう。 要約を一度する癖も必要としても、
自分の理解した枠に、せっかくの新しい知識、情報を押し込むために、
次の深化が、そこで止まる。
 最近、老いの一現象か、「面倒くさい」の思いが先立つ。しかし、何事も、
「面倒くさい」先に、面白いこと、楽しいことが待っている。乗り越えてこそ、
面白いのに、「よる年波に勝てず」と、年齢のせいにする。「面倒くさい」を
乗越えるためには、一日、週、月、年単位のスケジュールを予め組むとよい。
 次に、「面白くない」。 これは老化のバロメーターである。以前は、
あれほど面白かったことが、何か詰まらない。「あれは、ああいうこと、
これは、こういうこと」と、小さな自分の範疇に入れてしまう結果である。
何事も、急がしい合間に、無理をしてするから楽しいことが多い。
老いるほど、中村天風の『積極一貫』を心がけなければならない。
「あとで」と後回しにして、多くのチャンスを逸してきた。「あとで」と
後回しにした事の山積みが、あまりに多い。『20秒ルール』と法則があり、
とにかく、20秒以内に、手をつける。投手がキャッチャーからボールを
受取ってから投球に入らなければならない時間を、何事にも当てはめれば
よい。これは、上記は老化現象として、私たちの生活を劣化させる。
・・・・・・
5188,人生相談という気晴らし! ~⑩
2015年05月29日(金)
            『人生、しょせん気晴らし』中島義道
  * 父親とは、息子にとって「存在自体が悪」である
 父と息子の関係は、古代より続く永遠のテーマである。「息子にとって、
存在自体が悪!」とは・・ 私にとっての父親は、最大の理解者で、
独立を一歩、踏出したベストのタイミングで亡くなった。私に必要だった
のは、まず父親からの独立だが、計ったように亡くなっていった。
 人生で一番に恵まれていたのは、父親の直の愛情。その温もりは、
今でも残っている。ただ、私には具体的な指示は一切しなかった。
私から、能動的に具体的な何かを求めてくるまで、何も言わなかった。
≪  Q: 父親とはどういう存在であるべきか?
六十二歳の父親です。三十歳代の息子と娘がいます。私が育った家庭環境は
封建的であり、父を敬う風潮のある時代でした。しかし、その風潮も現在では
古臭いと子供や妻に反感を買うだけです。最近、思うのは私自身が父親として、
どんな存在だったかということです。子供たちは、大学を出たのですが就職
氷河期ということもあり、安定した職につくことなく、社会を彷徨ってますし、
結婚もしていません。私は家族の幸せを考えこれまで働き、経済的な豊かさも
獲得してきたつもりでしたが、これで良かったのかと疑問が残ります。
子供たちに一体何をしてやれたのかと考えるとやりきれない思いに囚われます。
父親の役目を終える時期が近づいているのですが、父親とはどういう存在である
べきかと今頃になって悩んでおります。中島先生はどのようにお考えでしょうか?
  A: 父親は子供から忘れ去られることを望まなければならない
 今回の二つのご質問を読んで、あらためて私は「人生相談」に向いていない
なあと思かました。人生相談を持ちかける人は、たぶん常識の範囲を超えない
かぎりで、つまりあまり苦労なく実行できる範囲で、何らかのポジティヴな
回答を求めている。あるいは、ちょっと考え方を変えれば「楽になる」そんな
妙薬を求めている。とすると、私にはそういうご期待に答える素質も趣味も
ないからです。人生が何の意味もないことは自明であり、その無意味な人生
の終局は死であって、永遠の無に突入するのでしょう。こうした差し迫った
大問題に比べると、どんな相談も失礼ながらちっぽけなもの、どうでもいい
ものに思われてしまうのです。と厭味を言ったうえで、お答えします。
私も一人の息子の父親ですが、「父親とはどういう存在であるべきか」と悩んだ
ことはまったくない。なぜならば父親とは、とくに男の子にとって三島由紀夫
の言葉なのですがー「それ自体としての存在が悪だ」ということがよくわかって
いるからです。もともと存在が悪なのですから、善人ぶってもすぐに化けの皮が
はがれてしまう。父親は子供に何をしても、いや、何かをするほど嫌われます。
とくに、感謝されよう、尊敬されようとして何かをすることが一番いけない。
とすると、何もしないのが一番いいという結論が直ちに出ます。父親は勝手に
子供を作ったのですから、子供を経済的には二十歳までは支援する義務がある。
子供に生きていくカを授ける義務もあるかもしれない。しかし、それが「義務」
なのですから、何の見返りも期待してはいけない。とくに、「立派な人」に
なること、「幸福になること」を期待することが一番いけない。そんなことは、
(父親という)他人が口出すことではないのです。父親は苦労に苦労を重ねて
子供を育て上げたら、子供から忘れられることを望まなくてはならない。
子供に対する執着を断つこと、子供から独立することです。どうせ、ちょっとで
死んでいくのだから、子供の人生は、子供に任せて、残された人生を自分の
ために使ったらいかがでしょうか?悪人は悪人に徹することです。≫
▼ 父の亡くなった年齢に近づくにつれ、やはり父親が、最大の理解者で
 あったと同時に、教育者だった。いつも、待ってくれていた。傷ついて、
横たわっていた時に、ただ一言『死んでしまえ!』以外、何も言わなかった。
死ぬに死ねないから、ただ、ジッとしていた。そのジッとしている効用こそが
人生にとって大事なことである。  明日は、その父の43回忌になる!