映画評論 ~『浅田家』 ―1

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浅田家!」(二宮和也)のキャストは?ロケ地やあらすじをチェック ...


  
   * 家族写真
 アメリカものに、これはというのが見当たらないこともあって、この映画を
選んだが、これがナカナカ見応えがあった。見終わった後に、そのままを家内に
話すと、「これって秀作で話題になって映画よ!」と宣う。私が見るというので、
ネットで調べていたようだ。
 一回り(12歳)年上の葛飾に住む従兄が、親戚の葬式の御斎の隣席で、
『あと10年は長生きをしたい。カメラとドローンの進化で画面、映像の世界が
様変わり、直に最新のTVを購入したが良い!』と言われて、早速、居間と寝室の
TVを高画質大型TVに切替えて3年経過するが、この言葉そのまま! 写真好きで、
何かの特許を取得したお陰で、生活の最低保証があり、生涯、好きな写真を撮り
続けた人生を送っていた。子供の頃から青年期には年代ごとの家族写真があるが、
ほぼ従兄が撮ってくれたもの! 

  ~まずは、あらすじより~
≪ 幼いころ、写真好きの父からカメラを譲ってもらった政志(二宮和也)は、
 昔から写真を撮るのが大好きだった。そんな彼が、家族全員を巻き込んで、
消防士、レーサー、ヒーロー、大食い選手権…。それぞれが“なりたかった職業”
“やってみたかったこと”をテーマにコスプレし、その姿を撮影したユニーク
すぎる《家族写真》が、なんと写真界の芥川賞木村伊兵衛写真賞を受賞!
受賞をきっかけに日本中の家族から撮影依頼を受け、写真家としてようやく
軌道に乗り始めたとき、東日本大震災が起こる―。かつて撮影した家族の安否を
確かめるために向かった被災地で、政志が目にしたのは、家族や家を失った人々
の姿だった。
「家族ってなんだろう?」「写真家の自分にできることは何だろう?」
シャッターを切ることができず、自問自答をくり返す政志だったが、ある時、
津波で泥だらけになった写真を一枚一枚洗って、家族の元に返すボランティア
活動に励む人々と出会う。彼らと共に《写真洗浄》を続け、そこで写真を見つけ
嬉しそうに帰っていく人々の笑顔に触れることで、次第に《写真の持つチカラ》
を信じられるようになる。そんな時、一人の少女が現れる。
「私も家族写真を撮って欲しい!」 それは津波で父親を失った少女の願いだった―。
「一生にあと一枚しか、写真を撮れないとしたら?」の病院での父・長男・次男
の怪我と看護師の母による家族写真が最後の方に映し出される。≫
 ―
▼ 20歳代に、自己コントロールが出来なくなるため、断片的としても、節々を
 書いてきた。しかし、写真は、ほぼ撮って無かったのが、残念である。気持ちに
余裕があろう筈はなかった!

・・・・・・
6777,閑話小題 ~慈悲の瞑想
2019年10月04日(金)
   * 瞑想の具体的実践と効果をみると
 明治以来、資本主義社会の価値観の中で、『倒産や会社清算が悪い」と
信じてきた。しかし自分が31年の事業を清算するにあたって実感したのは、
善悪が複雑に重なっているということ。思いもよらぬ断層の中で、節目を
清算というカタチで綺麗サッパリ終わるのも、ひかれし者の虚言として… 
 当然、バッシングが飛んでくるが、それを、一つずつ引きずっていては、
自滅する。当然、対応できる生活習慣の質も変える必然が求められる。
 早朝3時半に起床、二時間かけて、この文章の下書きを修正、書上げて、
(冬季を除くが)、信濃川の二つの大橋を一周し… と禅坊主?のような
フローが続く。何処の世界にも8割の不燃焼の人たちが存在する。それらが、
3月に一度は、直接、罵声を浴びせる。その対応として、その日の内に、
その生首を全身全霊で?回、叩き切るイメージを持つのがストレス解消に。
ところが、その対象者が3年もしないうちに、一身上の大問題にぶち当たる。
 これは必然でもある。家族や身辺の人は、同年代が多い。その中で、
マイナス系の人が、率先してくるから、当然、毒素が多い輩。この現象が
不思議でも何でもない必然?。 …消去したが、深手を負って、目の前に、
何とか現われてくる人に対しては、更に断絶するため、親切にするのが一番。
 そこで出会ったのが、以下の以下の『慈悲の瞑想』。
現実社会で、現に経験してきたから、これにピンときた。
 
 マインドフルネス瞑想や禅などの仏教的な話の後、
上座部仏教の慈悲の瞑想について2人が語る場面が出てくる。
≪永井: 慈悲の瞑想は、完全に自分のふだんの心の働き方が終わって
 透明な状態になった段階で、今度はあえて言葉を使って、ふだんの
 心の働き方をさらに強力に逆転させるんですね。
香山: あれはすごいと思うのですが、
「 …私の嫌いな人々も幸せでありますように 
 私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように 
 私の嫌いな人々の願い事が叶えられますように・・・」
 と念じるのだが。
永井: むこうはどういう人であれ、それとは関係なく、その人自身が真に
幸せでありますようにと、こちらから一方的に、心の底から願うということが
重要ですね。 ≫

▼ 著者の香山が、これを深く実践していれば、彼女がヘイトやレイシスト
蔑む対象は最終的にはいなくなるはずだが、年を追うごとに世の中に対する
憎しみのようなものが増大していくように見える。同じ人間、当然である。
 私の場合、一度、消去した相手に、これは意外と簡単に可能になる。
『ああ、幽霊が居る。まあ、幸せそうで良かった。幸多きことを!』と、更なる
断絶を… SJでのヨガ効果もあってか、これが気楽に可能。 慈母観音とは、
こういう複雑な心情を溶かすのだから、深い愛があってこそ。 …成るほど!
 やはり、無知と慈愛慈悲がない人は、不孝になるのは解る。 特に??

-追文ー
 ということは、怒りの毒消しで何より、慈母観音を想念して替わりに、
その人を祈ってやればということ! それが仏心ということ? 難しいが
出来ないことではない。

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4209, アラン 幸福論
2012年10月04日(木)
             『アラン 幸福論』 合田正人
 アランといえば幸福論で、まず思いつく人。幸福論と言えば、スイスの
ヒルティ、イギリスのラッセル、アランの幸福論など「世界三大幸福論」。
アランのそれは93の断章からなっていて、かみくだいた、「幸福小咄」
「幸福のコラム」といった軽いもの。とはいえ、ちゃん哲学に関するもの。
かれの幸福論は、観念論というより、あくまで日常生活に立脚して
幸福への指標を導き出した文学的にも優れたものとして読まれてきた。
アランは、「人は誰にでも幸福になれる」そして「人生の主役になれ」、
そのために「ダンスのように人と付き合え」、
最後に「幸福になることは義務である」と断言している。 
  ーここで紹介されている断章の一部よりー  〔 解)は、私の主観 〕
・よい天気をつくり出すのも、悪い天気をつくり出すのも私自身なのだ。
という言葉のとおり、「哲学は、生についての省察である」という立場から、
幸福は誰かに与えられるものではなく、「自らの意志と行動によって
つくりだすもの」であると説いた。
・不幸になったり不満を覚えたりするのはたやすい。ただじっと座っていれば
いいのだ。人が自分を楽しませてくれるのを待っている王子のように。」 
      解)王子のようにただ待っているだけの人が何と多いことか。
  待つだけでなく、不平不満を言い、人のせいにする大多数のように。
・自分で自分を不幸にし、その不幸を伝染、増大させていく人々こそが
本物の不幸をもっと不幸にしていく」 解)正反対もいえる。
・よい天気をつくり出すのも、悪い天気をつくり出すのも私自身なのだ。
                 解)だから人生は意思の格闘技である。
・快楽を抑制したから人間は幸福になるのではなくて、幸福であるから
快楽を抑制することができる。 解)金持ち、喧嘩せず。
・喜びは行動とともにやってくる。 解)行動の行は決心、判断の意味がある。
 自分の勘を信じて行動をし続けよ、ということ。
・幸福は自分の手作りである。解)時間をかけ、ライフワークを続けることか。
・幸せだから笑うのではない、笑うから幸せなのだ。 解)自嘲も笑いか?
・未来に幸福が見えているなら、すでに幸福である。 
        解)おもしろそう!楽しそう!と思うことから何事も始まる。
悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する。 
      解)意志が濁ると意地になる。楽観6の悲観4の割合が丁度よい?
▼ アレンではないが、「幸福になる五ヶ条」が目前のパソコンに貼ってある。
「一、今日一日、親切にしようと思う」
「一、今日一日、明るく朗らかにいようと思う」
「一、今日一日、謙虚にしようと思う」
「一、今日一日、素直になろうと思う」
「一、今日一日、感謝をしよと思う」である。
                  これがいざ実行となると難しい。
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6413,読書日記 ~人生の黄金律
2018年10月04日(木)
          『砂漠と鼠とあんかけ蕎麦』山折哲雄五味太郎・対談
    * 「殺すな」「盗むな」「嘘つくな」
 なかなか面白い対談集である。 
 まずAmazonの紹介内容からして惹きつけられる
< 考えることの面白さを思い出させてくれる、過激でキュートな対談集!
 ここまで言ってしまって、いいのだろうか?
絵本作家と宗教学者が、「神さま」について、延べ30時間にわたり、
とことん語りあった白熱の対談。
 ・そもそも「神さま」って、何?
 ・日本人は宗教を「感じる」民族
 ・「祟り」は日本のお家芸
 ・グローバリズム=「ノアの箱舟」戦略
 ・海とキリストと親鸞
 ・エコロジーと言うなら、間伐材で火葬せよ
 ・滅びる覚悟を持て=「無常」戦略…etc. >
 ――
カスタマー・レビューが簡潔に要点を書いている。
< 絵本作家の五味太郎宗教学者山折哲雄の不思議な組合わせの対談集。
 対談のきっかけは、1995年の某TV番組での司馬遼太郎山折哲雄の対談。
神道とはどういう宗教なんですか?」と司馬が質問すると、
「あれは宗教ではありません、生活の礼節ですよ」と山折が軽く答えるのを
五味太郎が見て(この人はすごい!)とその瞬間から恋に落ちたらしい。
五味は早速「神って、いったい何ですか?」と聞いてみたくて山折に対談を
申し込んだ。という経緯で成立した、延べ30時間にわたる対談をまとめた
モノがこれ。
五味の素朴な疑問に対して、古今東西の知識を縦横無尽に駆使して答えを探す
山折のやり取りが見物です。ホントに山折先生、博識です。
一神教多神教、その成立の背景は風土の違いによる、という指摘には納得
させられた。>

▼ 実を言うと、前回のテーマの『閑話小題 ~まず聞いてやること!』
 の‘ユング心理学の真髄’のネタは、この本である。ここで、(そもそも
「神さま」ってなに?)の素朴な質問を、哲学宗教学者がアッサリと答える。
安易なればこそ、奥行きが深くなる。山折は、日本の近代にとって、20世紀
夏目漱石の時代だったいう。 唐突に、「殺すな」「盗むな」「嘘つくな」
という、いわば人類的な黄金律を破り続けてきたのが人間という、強烈な認識
を文学作品にあらわした、これが漱石という。
 ところが、21世の現在、これらが真に問われる問題に直面している。 
北朝鮮の金様は、実権把握のため、恩人の叔父、実兄、身近な幹部を処刑。
ロシアのプーチンも、スパイ上りの昔とった杵柄で、対抗馬を処分。アメリ
のトランプは、次つぎ露呈するスキャンダルに平気で嘘を重ねる。
「殺すな」「盗むな」「嘘つくな」の真逆、「殺し」「盗み」「嘘の上塗り」
を地にいっている。まだ憶えているが、中二の頃、隣の席に平気で嘘をいう
男がいた。この頃は危ない御年頃、少年から青年に一歩足を踏み込む時節。
フランスでは授業に哲学を取入れて、考える基礎を叩き込む。多人数家族で、
末っ子もあって、「他人の陰口と嘘は、絶対タブー」の暗黙の了解があった。
それは、子供の世界でも同じ。捻じれていても、嘘はつけない、つかないのが
当り前だったが、こういうのが、居るんだと。それと印刷屋の子供が、映画
の入場券を家から盗んで、ばら蒔いているのもいた。振り分け前なればこその
世界だからである。奇妙なことに、アンハッピー組は、ほぼ亡くなっている。
改めて、「殺すな」「盗むな」「嘘つくな」は、黄金律だが、悪口、陰口で、
「間接的殺人?」をし、「知恵は盗む」し、「尾ひれはひれの嘘話」を酒の
肴にしているのが常。それが全世界に近い人が、三分の二? その下位の
三分の一の約二割に、マイナーの八割が集中することに気づかない。
上辺の社会的役割に関係ないのは、金、トラ、プー、習の顔ぶれで分かること。
「何を偉そうに!」と思うのは当然だが… じゃあ、ヒトラースターリン
毛、ムッソリーニの悪行と比較して、遥かに低いと見てとれるでしょうが… 

 いや、話の飛躍すぎ? 10の500乗の他宇宙の存在など知識が、
そう言わせているんじゃないですか? 

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3844, 正常性バイアスと同調バイアス
2011年10月04日(火)
 日曜日のNHKスペシャルで「巨大津波 その時ひとはどう動いたか」
が凄い!と家内から聞き、録画を見ることにした。 その内容は、
≪「津波が来るかもしれない」という時、人は何を考えどう行動し、
 何が生死を分けるのか。≫ が テーマ。
ここで正常性バイアスと同調バイアスが、多くの犠牲者を出してしまった
ケースを炙り出していた。そこでネット辞書で調べると
【 正常バイアスとは、外界の強烈すぎる刺激に対して、理知的動物がそれを
 心理で抑制して、慌てないようにしてしまうこと。当然、日常性を保護する
ために必要な措置だが、度が過ぎると「本当の危険」に対しても、「煙はやがて
収まるだろう」とか「今の地震が全てで予震などではなく、もっと大きな地震
などやってこない」とか、暴風雨被害や津波、テロ等々あらゆる事態に対して、
緩い判断をしてしまいかねない。現代は謎を駆逐した明るい社会である。が、
そのために殆ど無感覚者と化し、まさにこれが原因で被害が甚大化している。】
とある。また同調バイアスは、
【大災害のとき、人は大多数の人と同じ行動をとる(ことで判断を誤る)】
▼ ここで、「いざとなった時の人間の判断は、鈍い」ことを浮き彫りにする。 
 そこで気づいたことは、この千年に一度の大地震津波を察知して直ぐに
逃げる判断は、一般的に難しいという事実である。この大津波から連想される
のが、リーマンショック。これは数百年に一度の経済大震災であり、その本格的
津波大恐慌が今年から数年かけて、世界中を大混乱に陥れる大惨事の震災。
その影響は、まずG8の中で一番弱体化している日本の地方にやってきている。 
それが、次に欧米の株式の大暴落がくるのは必定。 日本の大多数の中小企業
と鈍い大衆には、それが他山の石としてしか見えてない。 地球規模の大津波
ハイパーインフレ)が目先に来ているのが現実とし受けとめることが出来ない。 
何故か? 正常性バイアスと同調バイアスが働いているからだ。
その先取りしてしまったこともあり、それがよく見える。 思わず耳を疑う言動
に唖然とすることしばしば。「御前のところは低地だが、自分のところは上
(業績の見通しは悪くない)、偉そうなことを言っているが、その様は!」と。 
私から見れば「 それは数年の時差でしかない、数キロ先に過ってなかった
津波が来ているのに、当方の崩壊の立ち話をしているだけ」という単純な
視線が冴えてくる。 色いろなシェルターや近くに裏山があるから、大丈夫の
ようだが・・人は人の智慧がある? 轟音をたてて、そこに来ている事実を、
「正常バイアス」と、鈍い連中間の「同調バイアス」が、動物的直感を狂わす。
 ドルとユーロの暴落は2年ほど前から始っていて、まだ下落の道半ば。 
株式の暴落も始まっている。 リーマンショックの上に半年前の東北大震災。 
この費用は増税で賄うしかない。 その各家庭の預金は、回りまわって、
アメリカ国債と日本国債にいっている。それも暴落することになる。 
ギリシャ国民の、あの鈍感さは察知しても、自国になると!  
偶然だが、以下に、日本の近い将来を暗示する内容が取り上げてある。
韓国ドラマが受けるのも分かる。 以下の状態を経験する以前に、
隣はカルト国家がある。

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5316,閑話小題 ~本を読まないのはケダモノと同じ
2015年10月04日(日)
     藤原正彦・レポート~「読書と教養」が大局観を育てる~
  * 読書と教養が大局観を育てる
 読書をしない人は、直ぐに分かる。これだけは、隠しようがない。
今でも遅くない、学歴、血筋とは関係なく本だけは読まないと! 
 ここで、その読書と教養の必要性を、鋭く簡潔にまとめている。 
≪ 教養を、積極的に身につけていくにはどうすればいいか。
 もちろん、実体験を重ねることは非常に大切です。様々な人間と会い、
話をして、恋をしたり、裏切られたり、騙されたり、喧嘩をしたり、悲しい
別れにあったり、そういった体験すべてが教養になる。それが、後々の選択や
判断にあたって効いてくる。ただ、やはり実体験で得られるものは限られます。
1人の人が一生の間に関わることができる人間の数は限界があります。
ましてや、深く意思疎通をすることができるのは、その中でも一握りだけ。
そうすると、実体験による教養というのは、非常に重要だけれども、
限られたものにならざるを得ない。
 その点、読書を通してなら、古今東西の賢人の言葉に耳を傾ることができます。
あるいは、庶民の哀歓に涙すること、もできる。金持ちの驕り、貧しい人々の
苦しみに触れることもできる。美しいものに感動することもできる。
ありとあらゆる経験をなぞることができるのです。しかも、本には、誰かが
考えた「思考の形」が、まるごと詰まっています。普通の人がふだん喋る話は、
たいてい筋も順序もめちゃくちゃです。でも、本は、どんな本であれ、著者が
読者を説得するために必死になって書いていて、ちゃんと構造というものを
持っている。それを読むと、なるほどへ脳ミソの回転、論理の展開、とは、
こういうふうにするのだということを会得できる。物事をきちんと体系化する
能力、構造を分析する能力が身につくのです。 ・・(略)
 うちの女房の祖父は、今の愛知教育大学の前身の岡崎師範の教頭や時習館
高校の校長をつとめた教育者ですが、彼はいつもこう言っていたそうです。
「1日1ぺージでもいいから、必ず本を読んで寝なさい。1ページも読まないで
寝るのは、けだものと同じだ。けだものと人間との違いは、1ページでも
いいから、本を読むことだ」と。
 だから彼の子どもたちは、寝る前に2~3へージでも本を読んで、寝ていた
そうです。この教育の効果は絶大で、そうやって育った子どもたちは、皆、
一角の人物になっています。'本を読まない人間というのは、けだものと同じ。
だからこそ、これからの子どもたちにどうやって本を読ませるようにするか、
真剣に考えなければなりません。
 例えば、齋藤孝氏の言うように、小中学校の通信簿の国語に、「読書」
という欄をつけ加えるのもいいでしょう。そうすれは、多くの親が率先
して本を読ませるようになる。子どもの頃に本の面白さに触れれば、
本が好きになる。独創的で素晴らしいアイデアです。
 私が考えるのは、東大の入試で読書を課すという方法です。
例えば定員の1・2倍までは学力一本で判断し、そのあと、定員の1倍まで
しぼる過程では、読書を中心に面接する。入試の3年以上前に課題図書を
100冊くらい挙げて、それについていろいろ聞くのです。そうすれば
きっと、学生は目の色を変えて読むようになるでしょう。東大がやれば、
ほかの国立大学や私立大学も真似をする。そうすると、子どもの時から本
を読むようになるし、読む習悩さえつけば、面白さが段々とわかってくる。
もちろん、「朝の読書」運動が成功したように、他にも方法はいろいろ
あると思います。若い頃に読んだ本というのは、とりわけ感激するものです。
そうした読書体験が失われることのないように、今こそ大局観をもって
この国の出版文化を守っていかなければなりません。≫
▼ 読書の積み重ねのないのは、年を重ねると表立ってくる。
 特に 青年期に読書習慣を身に着けておかないと。しかし、実際は10歳。
とすると、受験に追われ、大学から本気になって読書を始めた私は20年近く
遅かったことになる。その弊害が、今でも続いている。子供の頃から、母親が
常日頃から読書の必要性を説いていたが、その割りに読書をしてこなかった
のは私の素養の低さである。しかし、現在でも、吸い取り紙のように、知識が
入ってくるのは、長年の読書習慣の効果もある。いや、知的余白が有余って
いるためか。これは余白という言葉自体が間違っている! 空即是色であ