閑話小題 ~良いとこ一年 ?

 

   * 人生も終盤に入り

f:id:horii888888:20200119045522j:plain

f:id:horii888888:20200119045541j:plain



 ある随想に…<77歳以上生きるとしたら、60歳から年金を貰った方が得と、
知っていたが、迷わずに、60歳から前倒しで年金を貰っている。>とあった。

私も前倒しである。75歳辺りを寿命と見据えたからである。しかし、

どうも、その兆候は、見えてない。
 年金事務所からの送付によると、これまでのかけ金総額が1400万… 
240×13年=3120万は受取っている。6年でチャラで、元はとっている。
 男性の介護期間が平均9年、女性が14年。男性が81歳が平均寿命72歳から
介護になって然るべきだが、その兆候は全くない。40年来の飲み友達が年内に
80歳を迎える。最近、転倒をして大怪我をしたが、死に至るほどでもない。 
…やはり、75歳から肉体的衰えが激しいと。 あと一年になったが、
  <歳月、人を待たず>  面白い様に日々が飛び散っていく。
 ―
   * 一昨日みた映画、『ジョジョ・ラビット』
 一昨日の昼に、川西のシアターで『ジョジョ・ラビット』をみた。
ナチものだが、これは、その重苦しさが少ない。それでも映画館から出る際は、
暗い気持ちになっていた。「ジョジョ・ラビット」とは、臆病なウサギという
不名誉なあだ名。生活感希薄で現実味が薄いが… ナチものなら致し方がない。
≪  【解説】
マイティ・ソー バトルロイヤル」のタイカ・ワイティティ監督が第2次世界
大戦時のドイツに生きる人びとの姿を、ユーモアを交えて描き、第44回トロント
国際映画祭で最高賞の観客賞を受賞した人間ドラマ。第2次世界大戦下のドイツ
に暮らす10歳のジョジョは、空想上の友だちであるアドルフ・ヒトラーの助けを
借りながら、青少年集団「ヒトラーユーゲント」で、立派な兵士になるために
奮闘する毎日を送っていた。しかし、訓練でウサギを殺すことができなかった
ジョジョは、教官から「ジョジョ・ラビット」という不名誉なあだ名をつけられ、
仲間たちからもからかいの対象となってしまう。母親とふたりで暮らすジョジョ
ある日家の片隅に隠された小さな部屋に誰かがいることに気づいてしまう。
それは母親がこっそりと匿っていたユダヤ人の少女だった。
 主人公ジョジョ役をローマン・グリフィン・デイビス、母親役をスカーレット
・ヨハンソン、教官のクレツェンドルフ大尉役をサム・ロックウェルがそれぞれ
演じ、俳優でもあるワイティティ監督が、ジョジョの空想の友だちである
アドルフ・ヒトラーに扮した。≫
 ―
▼ 私の評価は85点だが、一般的には90点辺り。終盤には母親がユダヤ娘を
 匿った罪で絞首刑になるが、その後は、助けられた娘と供に弟して生きていく。
年齢と共に、シリアスな映画は避けたくなるが、それでも、見ずにいられない
性分には抗せない。いや、30分も経過しないうちに、別世界に没入させるためだ。

・・・・・・
6519,閑話小題 ~史上最低横綱の引退劇!
2019年01月19日(土)
   * 遅きに失した引退
 あまりに気の毒な稀勢の里の引退。あれはない! マスコミは、受けを狙い
綺麗ごとで並びたてるが、記録は、史上最低横綱を示している。その中で、
見つけたのが、Yahoo!のニュース記事。何故、辞めさせなかったのか?
TVの美辞麗句は何故なのか? 辞めずに出てくること自体、恥の上塗りである
ことを何故にいえないのか。私が思ったままの、以下の記事を読んで、健全な
論評にホッとしたのは私だけだろうか! TVなどの大衆迎合が、如何に好い加減
かである。失禁した男の子が、真赤な顔で立ちすくような姿が同情を生んだのだ
ろうが、それにしても、マスコミって何でしょうか? 全国版世間向けの窓?

~辛辣になるため、批評、批判を控えていたが、より掘下げた記事!~
≪ 「史上最弱横綱稀勢の里を生んだ“機能不全”横審の大罪
    ★ 「相撲が幼い」
横綱が負けると、普通は館内から悲鳴にも似た声が上がる。期待を裏切られ、
「まさか」という気持ちがそうさせるのだ。しかし、稀勢の里(32)の場合は
「あー……」という、諦めまじりのため息が大半。もはや、負けて当然、と
思われているのだ。15日も栃煌山に完敗し3連敗。昨年9月場所から数えれば、
横綱として史上ワーストの8連敗となった。立ち合いから前に出るも、まわしを
取るのか押すのかハッキリしない取り口で、栃煌山にあしらわれるように寄り
切られた。そして翌16日、ついに引退を決断。記者会見ではその心境を、
「私の土俵人生において、一片の悔いもございません」と語ったものの、
相撲取材歴50余年、評論家の中澤潔氏は現役最後の取り組みを見て、こんな
ひどい横綱は今まで見たことがない」と、こう続ける。
「新入幕力士が横綱と当たったときのような相撲でした。稀勢の里は立ち合いで
前に出たが、いきなりもろ差しを許している。年齢や地位を考えれば、これまで
の集大成を見せるべきなのに、相撲があまりに幼すぎます」  横綱としての
通算成績は「36勝36敗97休」。2017年3月場所で左上半身を大ケガ
したとはいえ、土俵に上がるより休んでいる方が多い。もともとメンタルが脆く、
大関時代から「ノミの心臓」と言われ、何度も綱とりに失敗した。だからだろう、
稀勢の里本人に対しては当然として、そんな横綱をつくり上げた相撲協会
横綱審議委員会に対しても批判の声が上がっている。
・中澤氏は「本来、横審とは相撲協会のチェック機関ではないか」と、こう話す。
【横審が誕生したのは1950年。当時、東富士、照国、羽黒山の3横綱がいたが、
成績不振のため、協会は横綱大関降格ルールをつくってしまった(後に撤廃)。
これに好角家たちが『自分たちで横綱をつくっておいて、降格を許すようでは
権威も何もない』と猛反発。『強い横綱をつくらなくてはならん』という名目で
横審が誕生した。それが今の横審は何ですか。見識も知識もないド素人の集団。
しかも、彼らの素人目で見ても、稽古総見の稀勢の里は『不安』だったという
じゃないですか。それが実際に3連敗。引退勧告などをすべきなのに、それすら
できない。これでは何のためにあるのかわかりませんよ】
・問題横綱を野放し、横審がマトモに機能していた時代も過去にはあった。
貴乃花大関時代の94年、9月場所で全勝優勝を果たすも、7月場所が優勝次点で
すらない11勝だったことから、横審は昇進見送りと判断。貴乃花はこの年の
1月場所と5月場所で優勝しており、安定感は稀勢の里の比ではなかった。
にもかかわらず、「基準を満たしていない」という理由で昇進を拒否された。≫

▼ 大衆迎合も極まれりのマスコミ。TVタレントという職業。如何に世間受けを
 する人の良さそうな何を、即席評論家に仕立て上げ、表面的な現象の一部分を
捉えて迎合する。その典型が、あの横審であり、大相撲協会である。貴乃花
引退の至る批評も、誰もしない。もっとも、『20回以上の優勝の俺様に、それ
以前には千代の富士を理事長にしないのが不満さ。それも言えずに、悶々として
「相撲道」とか訳のわからない文言を並びたてているだけのボンクラ!』とも、
言えば、総スカンを食らうのが、日本の風土。その500m~1k圏内の常識世界
で生れて、死んでいくのが世間様。その9割は面白おかしく作り上げられた嘘、
常識ってやつ。それが本人にとって全世界なら、それはそれで幸せなこと。
 ってなことを真面目くさって書いているのが、この私。 
流石に、天覧相撲は? まだ白鵬が残っているから…辛うじて? でも、天皇
在位で最後、ご覧になりたいでしょうが。 いや~ 白鵬もヘロヘロじゃね~ 

・・・・・・
5788,閑話小題 ~つれづれに大相撲 ②
2017年01月19日(木)
  * つれづれに大相撲 ~②
 20年、NHK大相撲の解説をしている「北の富士」が、心臓病の手術で今場所
は休んでいる。スキャンダル塗れの現役時代だったが、解説者としてははまり役。
以前、「神風」という元力士の解説は、歯切れが切れて、相撲ファンを楽しま
せてくれていた。途中から「玉ノ海」と交互に出ていたが、何時の間にか消えて
しまった。相撲解説としては、「神風」の右に出る人はいない。
 ラジオ放送を含めて65年以上も相撲を趣味としていた者にとって、半端な解説
は耳障りである。 横綱をはった「大乃国」や「北の富士」と「舞の海」とでは
一言一言の滲み出る実感の重みが違う。 その中で、舞の海が堂々と持論を披露
するには、余程の苦労をしているのだろう。解説者は、まず自分が好角家で、
その楽しみを視聴者に伝えるのが第一歩。論理力のない人の解説は聞く方も大変。 
中でも「高見盛」の解説が劣悪。愚直が売りの力士だったが…
 白鵬最盛時代が終り、
・これまで目立たなかった地味なモンゴル人が台頭を始め、
・怪我などで出遅れた「逸ノ城」「照ノ富士」のグループと、
・学生相撲出身の「遠藤」「正代」「御嶽海」「北勝富士」「小柳」の若いが
 相撲センスがある新興グループ。新鮮なチビッ子力士は、あくまでアナザー。
 地元出身の「小柳」は、あと1年後の力士。目先の期待はしない方が良い。
・そして、潜在能力が燻っている元期待された力士たち。
大相撲、のめり込まないで適当に観ている分には面白い。

・・・・・・
6155,読書日記 ~合理的無知とは誰のこと? -1
2018年01月19日(金)
   『クラウド時代の思考術ーGoogleが教えてくれないただひとつのことー』
                   ウィリアム・パウンドストーン著
   * 人は自らの知らないことを知ろうともしない
「知れば知るほど、知った領域の周辺の知らない知識が多いことに気づく。」
これは知識の質量の拡大、向上の継続の必要性を一言で解らしめる言葉である。
このブログを開設して17年近くになるが、‘対自分’的には効果的であり、
面白いが、‘対他人’的には、マイナス効果の比重が大きいのは自覚している?
エゴイストの本音の丸出し、経験と知識の未消化そのままを露出し続けてきた。
露悪、偽悪、そのものである。 直ぐ上の姉に、青年期の頃から、
「あんたの欠点は悪ぶること」と、キツク言われ、他の姉からも、
「露悪というより偽悪。まだ偽善なら良い…」とも。
「まず偽善を演じな。演じれば自ずに善人になれる。偽悪も続けていれば
悪人になってしまうよ」とも。 偽悪と偽善の問題?… 露悪よりマシ?
姉に頭が上がらないのを長女である家内に詰られ続けられ、末っ子は大変。
品が無い? だって男だよ幾つになっても。わざわざ言うことでもない?
 ~クルーガー効果という研究結果がある。 
≪ 優越の錯覚を生み出す心理学的現象は研究によって、自らの能力の低さを
認識することの困難さが過剰な自己評価につながる、認知バイアスの一形態で
あると認識された。なぜ人間は自身の不得意を認識できないのか(2003年)と
いった認知的不協和に関する調査は、与えられた活動の評価基準の無知に由来
する自己評価の誤りの多さを示している。自身の能力に対する過大評価の傾向は、
読解や診療、自動車の運転、チェスやテニスの試合など様々な場面で見られた。
また、この効果を策定したダニングとクルーガーによって2012年に行われた
「なぜ能力の低い人間は自身を素晴らしいと思い込むのか」の調査によれば、
 能力の低い人間は以下のような特徴が分かった。
・自身の能力が不足していることを認識できない
・自身の能力の不十分さの程度を認識できない
・それ故に、他者の能力を正確に推定できない
その能力について実際に訓練の後であれば、自身の能力不足を認識できる。
2005年に執筆された自身の著書「Self-insight」の中で、ダニングは自己認識
欠損の類推を「日常生活の病態失認」に適用し、身体障害者が自身の身体能力
の不全を否定、或いは認識しないといった認知バイアスが存在することを発見。
「あなたが無能なら、あなたは自分が無能であることを知ることはできない。
正しい答えを生み出すために必要なスキルは、正解が何であるかを認識するため
に必要なスキルと同じである。」
2000年、この効果を策定したダニングとクルーガーは、優越の錯覚を生み出す
認知バイアスについて1999年の論文で、イグノーベル賞の心理学賞を受賞。≫

▼「・無知がどれほど正確な判断や決断に影響を与えているか、
 ・デモクラシーがどれほど脆弱な大衆の知恵と判断に基礎を置いているか、 
・知識の多寡が個人の豊かさとどれほど相関しているかを、繰返し述べている。
青年期の挫折経験の必要性は、如何に己が無知かを骨身にしるための必要条件。
「破壊からの創造」の言葉が示すように、一度、それまで植えつけられた常識を
粉々にし、棚卸をし直し、再出発する機会になる。 
 20歳半ばの金沢時代に学んだことが、「自己能力の限界の設定」。闇雲の
プラス思考や、ポジティブ思考だけでなく、冷徹な自己能力の在庫管理が必要
ということ。…とはいえ、選ばれやってきた、大よそ『80年滞在の地球旅行』。
可能な限り、広く、深く知って、味合わないと生れてきた意味(価値)がない。
アポロンの託宣を通じてもっとも知恵のある者とされたソクラテスは、
これを、【自分だけが「自分は何も知らない」ということを自覚しており、
その自覚のために他の無自覚な人々に比べて優れているのだ】と考えたとされた
無知の知」。「賢い者ほど、無知であることを自覚しよう」を伝えたかった。
学生時代の総括が<私は全くの無知!>の自覚。ならば生涯、独学を自らに
課すことを誓い… で、17年前から、この習慣化に至る。で、以下の間抜けな
泥棒のように「見えないレモンジュース」を顔に塗ったつもりのように、毎日
ネットに… 成るほど、馬鹿は死ななきゃ治らない。

・・・・・・
5058,閑話小題 ~中の人・外の人
2015年01月19日(月)
        ーベストエッセイ~「中の人・外の人}いしいしんじ著~
   * 着ぐるみの「中と、外」
 黒いベール(ヒジャブ)で全身を覆ったイスラム教徒の女性。
異教徒が、あれを全身に覆って街中を歩くと、何か透明人間になったような
不思議な感覚になるという。それが動物の着ぐるみなら、尚のことだろう。
ファッションも一種の着ぐるみ。著者が一年間、外出に、これを着ていた感想が
何とも新鮮! 城下町は、家紋の縫ぐるみを街ぐるみ着ているようなもの。
常に、縫ぐるみの外と内を盗み見て、他人と自分を比べ、神経を尖らせている。 
 ~その辺りから~
≪ 三十になりたてのころ、外出するとき必ず着ぐるみをかぶっていた。
 着ぐるみには目がくりくりで表情がデフォルメされた「ファンシー」タイプ
と、わりとじっさいの動物に近い「リアル」タイプの2種類がある。
僕が着ていたのはすべて「リアル」のほうである。クマ、犬、ウサギほか。
 テレビ局の衣装部につてがあって、使わなくなった中古を安値で譲り受けた。
真夏以外、Tシャツ一枚の上に玄関で胴体をつけ、両足をはめ、すっぽり頭部を
かぶる。ふつうに地下鉄に乗り、書店で本をえらび、頭部をずらしてストロー
で水筒の水をのむ。外見は動物で、めちゃめちゃ目立っているわけだが、誰も
いない穴蔵にじっとひそみ、覗き穴から外界を盗み見ている、という感覚だった。
 着ぐるみのうちにこもって外を覗いているはずなのに、ときどき、巨大な外部
にハジキだされ、世界の外から内側を覗きこんでいるという感覚にとらわれる
こともあった。交差点を渡っているとき、酔ったサラリーマンに「ウサギちゃん」
と頬を殴られ、路上でネクタイをひっつかんだら、むこうは恐怖そのものの
真っ白な表情で、それこそ脱兎のごとく逃げていった。僕の内側と外側は
「からっぽ」ということで一致していた。だからこその着ぐるみだった。
 翌年に心身のバランスを壊し、実家に戻され、そこで、四才半の「いしい
しんじ」が三十年前に書いた原稿を発見した。その驚きをもとに小説を書いて
いくことになる。物語を書く身ということで考えれば、着ぐるみにこもっていた
一年間、僕は「胎児」だったという見方もできるかもしれない。
 いま住んでいる京都のひとは、「うち」と「そと」の使い方が絶妙である。
内面と外面と違うとう単純なことでなく、「うち」「そと」のあわい、中間領域
を共有しながら京都の暮らしが営まれていく。子どもにはみなが目配りするし、
お地蔵さんの掃除、水まき・おみやげにおすそわけ、すべてこの、流動する中間
領域でやりとりがなされる。路上で自転車をとめ、立ち話しているひとがやたら
目立つ。互い量なりあったあわいで、京都のひとはみな、惜しみなく「うち」と
「そと」の光を交換しあう。胎児だった僕が、マンションの部屋にとじこもる
ことをせず、着ぐるみを着ながら毎日に出ていたのは、やはり「うち」「そと」の
循環を、からだで、こころで、希求していたからだろう。そこから物語ははじまる。
「そと」から見える「うち」、「うち」から見える「そと」の世界。
そのあわいに、目にうつらない、ふくよかな世界がある。 (略)・・ ≫
▼ プロの作家のエッセイは、「成るほど」と唸らせる。子供のころ、両親の
 会話の中で度々、『旅の人』という言葉が印象に残っていた。『旅の人』は、
『よそ者』のことで、自分、家族、一族、従業員、近所、近隣、そして外部の人
=よそ者と、ハッキリ色分けをしていた。 それは現在でも地方では同じである。
そして、紋付袴のコスプレを、コスプレの自覚無しで、その中と、外を覗き込む。
 城下町は、ある意味、紋付袴のコスプレ世界。だから、旅の人の視線でみると、
これが縫いぐるみに見えてくる。その「あわい」が、気の毒か、幸せかは紙一重
・・・・・・
4693, 閑話小題 ーがん哲学外来 
2014年01月19日(日)
  * がん哲学外来科なるもの 
 病気の死因が95%、自殺が3%、その他が2%という。
その他の2%は交通事故、転倒事故、災害、犯罪の被害など。自殺の3%で、
その2倍の予備軍が存在するので、人生は苦海を四苦八苦で泳いでいることが
見てとれる。私も、あと一年で古希になる。父が亡くなった歳まで、あと3年。
亡くなる父親の姿から多くを学ぶことができた。「所詮、人生は夢幻、何事も
その時どきを精一杯生き、楽しむしかない。それも正道で・・」というところ。
 で、先日、図書館で『末期がん、その不安と怖れがなくなる日ー樋野興夫著』
なる本を見つけ、借りてきた。副題はーがん哲学外来から見えてきたものー。
がん患者の苦悩を真正面から取り組むもので、なかなかの内容。近日中の随想
日記で取り上げるつちもり?だが、心は重い!もし、余命半年と宣言されたら、
何も考えずに生きてきた多くは大混乱になるはず。従容と死に立ち向かうなど
土台無理。そこで「がん哲学外来」が出来たのだろう。 
 哲学の一番の問題は、知識を持ってしまった人間が、限られた生と、
その終りを予め知ってしまった。 そこで苦悶をし、考えるしかない。
それが哲学の大問題になる。それを具体的に受け止めようというから、凄い!
といえば凄いが、あって当然の専門部門。そこは極限の生々しい哲学的問答の場。
100%の解決でなくとも、70%にすることが出来るが、その差は、当人にとって
膨大である。生への希求の砂漠の中での水を与えるという喩えが言い得て妙になる。 
死んでしまえばゴミ?死ななくともゴミ?
   * パソコン売り場にて
 iPadを購入して2年半近く、今では身体の一部のようになっている。
しかし、ネットで、この文章を書いたり、検索したりするのはディスクトップ
パソコン。それも以前の会社の事務所にあった6年以上も使ったもので、
iMacにWindowsVISTAを乗せたもの。それが書斎と、居間にあり、これに
iPadがあればPCとネット環境としては十分。それも6年もたてば、
この世界は激変している(はず)。それとVISTAのサポートも三月で終了もあり
入替え時期。そこで暇をみては家電のパソコン・コーナーで見ると、面白い! 
春先の新機種の発売が始まるので待つか、昨年の秋の型落ちにするか?
あと一年、現状のまま? その世界に詳しいSEの知人は「机上型も、ノート型
でもタッチ方式が良い」という。しかしiPadがあるため迷いが出る。
次がディスクトップか、ノート型。 現在使っているパソコンをWindowsから
iMacの方に切り替え使うとするとノート型が良いが、iPadに重なり迷いが出る。
やはりギリギリまで待つのがベストのようだ。もしかして最後?のパソコンの
可能性がある。また、現役と違い、年金暮しも躊躇の要因になる。
消費税前の狂乱騒ぎの後の4月末が買い時だが・・それまで待つのが理になる。
これを機会にiMacの画面にするのがベスト? まずは、画面切り替えか!