* 見え隠れする魂のイメージ
 一昨日、8年前の10月23日分のテーマ、『魂とは』が、考えさせられた。
幽体離脱の経験が何度かあるので、高橋信次の娘・佳子の『魂』の説明が、受け
入れやすい。深いところで、亡き両親と繋がっている感覚が現にある。 
誰にもあるのだろうが、その感覚を、
< 私たちの心・想いは、平和で満ち足りた天上界から苦しみばかりの地獄界まで、
あらゆる世界に通じています。その魂の抱いている内宇宙とは、それにとどまらない。 
魂の次元は過去・現在・未来が一つになり、自他を超えるもの。魂とは、この人生
だけでなく、永遠の生命として経験してきた幾度もの人生の記憶と限りない智慧
湛えた存在であり、私たちを超えた無意識の膨大な経験と記憶の貯蔵庫、宇宙の源
という次元に繋がっています。> 
 とすると… 両親から受継いだ愛情に繋がっているような感覚が納得できる。
心とは、岩から流れ込んだ淡水と海水が混濁した洞窟内に。魂は外海に例えると
理解しやすい。自他の自が洞窟、他が外海。心と魂の説明を簡潔にした解釈は、
他に多くある。他と繋がっている感覚は、両親の愛情の温もりの感覚にある。
『魂を込める』といえば、「いま ここ わたし」に心を集中した状態である。
それが永遠の世界にコンタクトした垂直の時間になる。

――――
3498, 高橋信次の娘・佳子のいう〈魂〉とは
2010年10月23日(土)
  先日の読売新聞の一面に高橋信次の娘の高橋佳子の著書広告があった。
 高橋信次といえばGLAの教祖で、何冊かを20歳代に読んだ記憶がある。
  ーまずはウキィペディアによると
≪ 10歳頃(1937年頃)から現在で言う「幽体離脱」現象のような霊現象を体験
 するようになり、その肉体の自分とは違う霊体の自分を「もう一人の自分」と
呼び、その現象に幼心に疑問を持ち、以来約32年間、電子工学や物理学等の自然
科学を修めつつ、探求を続けた。しかし、従来の宗教書を読もうとはせずに、
独自の探求を続けた ・・・≫
 ウキィペディアには、彼とGLAの詳細がこと細かく書かれている。
それより、彼女の魂の解釈が分かりやすい。
  ー概要と印象的な部分を私の主観でマトメテみたー
*敗北の時代 ー現在の日本は、困難な時代である。高度成長以降バブル崩壊
 から嘘のように元気を失っている。財政赤字は900兆以上にもなり、収入は
 日ごと目減りを、老後を支えるはずの年金は崩壊の危機に直面している。
 自殺者は3万人を10年以上続けており、明るい話題は陰を潜めている。
*最大の危機は「冒険」の喪失ー 何より問題は、未来に希望が持てなくなり、
 新しい挑戦が出来なくなっているからだ。
*人間には外界に左右されない内なる可能性があるーそのためには、今までに
 ない生き方に挑戦するとき、前向きな挑戦は本当に想像を絶するほどの違い
 が出てくる。人間の中には、未知の可能性がある。
*「人間は魂の存在」が出発点 ―「人間は魂の存在として受けとめること」
 −>「人間は肉体と魂から成り立つ」こと。
 まず人間の肉体は、地球上の生命進化の究極の姿を現す叡智に満ちたもの。
 この世界の物質をつくる元素は星の中で生成され、星が終焉を迎えるとき、
 超新星爆発で宇宙に散らばったものから出来ていて。その延長が肉体である。
 その魂の方はどうかというと、魂は心とつながり、 さらにその深奥に広がる
 存在である。肉体の基である外宇宙が百億光年以上のとてつもない広がりを
 抱いているものならば、 これに劣らない広大の内宇宙をもたらしている。
 仏教の一念三千という言葉は、その広がりを示している。私たちの心・想いは、
 平和で満ち足りた天上界から苦しみばかりの地獄界まで、あらゆる世界に
 通じています。その魂の抱いている。 内宇宙とは、それにとどまらない。 
 魂の次元は過去・現在・未来が一つになり、自他を超えるもの。
 魂とは、この人生だけでなく、永遠の生命として経験してきた幾度もの人生
 の記憶と限りない智慧を湛えた存在であり、私たちを超えた無意識の膨大な
 経験と記憶の貯蔵庫、宇宙の源という次元に繋がっています。あらゆる生命
 と存在を一つに結びつける、つながりと絆が張り巡らされたどの宇宙を、
 ≪ユニバース≫と呼ぶ。その≪ユニバース≫こそ、計り知れない広がりと深さ
 を抱いている私たちの母胎であり、だからこそ、私たち人間は、宇宙=
 ユニバースに通じるゆたかな智慧によって 自らが進化するだけでなく、
 世界と光の共鳴を果たせる存在となる。
*魂が引き出す宇宙=ユニバースの世界 ―我われは偶然が支配する科学的
 世界観の下では、自分が意味もなく生まれ、世界とは特別なつながりはない
 と思っているかもしれない。しかし、そうではなく魂の次元に気づいた
 時、みな「つながり」によって生かされる「絆」の塊となる。その絆の基、
 宇宙の源には、私たちが拠るべき、全ての解答と青写真が湛えられている。
〜〜
解)魂について、これだけ明快に説明している文章も珍しい。「魂とは、生前、
死後に自他を超えて広がる広大なる内宇宙の基につながっている」は、神秘的、
宗教的である。

H0403事業百訓
 385 、否定は結論であって、探究を中止する事だ。
  正しい結論は自ら体験をして、あらゆる角度から探究をして、
  疑問を解明してこそ出るものだ。
  根拠のない否定は自らを否定する事になる。(高橋信次

・・・・・・
2004/07/11
1195, 授かった不思議な力
 ー鈴木秀子の本を何冊か読んだことがある。先日図書館で借りてきた対談集
を読んで、その中の臨死体験の話に興味を引かれた。何かこの世には窺い知れ
ない何かがあるような気がする。何回か書いたことがあるが、私にも何回か
幽体離脱?の経験がある。 歳を重ねれば重ねるほど、「不思議」という言葉
の奥行きの深さを感じるようになってきている。
私は「自分の接した人の運勢が良くなる」話しは、かって聞いたことがない。
神憑りである、いや今風にいうと「上げまん」だが、これは結婚した場合である。
有能な右上がりの人は、周囲に似た現象が生じるだろうが、全ての人の運勢を良く
はしない。やはり、何かの特殊能力が臨死体験以降身についたのだ。人間には、
本来持っているが退化して隠れてしまった能力が多くあるような気がする。
 あるキッカケでそれが飛び出してくるのだ。

 以下は、ある対談集を書き写した。 
ーー
臨死体験後、不思議なことがありました。
結婚式に招かれて待機をしていたら、背広を着た人が男性がいらして、
「あなたのような人にようやくお会いできました」っておっしゃるんです。
自分は高野山系統の住職で、生まれたときからひとを見ぬく特別の能力がある。
そして、あなたの授かったような能力を自分も欲しかったけれどもらえなかった。
どういう能力ですかと聞くと、大きな大宇宙の力が私を通って出会う人に伝わって、
どんどんその人の運勢が良くなる能力だというんです。

私も最初はその能力をまじめには信じませんでしたが、それだけ色いろなことが
重なると信じざるを得なくなりました。今では人に会うのが楽しみになりました。
そのたびに、その方の運勢がこれから良くなると思うと、人に会うのがうれしい。
だから生きていくことが、とても楽しくなったのです。…

…人間は地球上にみんなバラバラに住んでいるような気でいて、実は根っこで
繋がっているということです。自分の手にたとえると良くわかりますが、
人は指の部分、見える部分だけを見てこの人の学歴がいい、お金があるって
お互い比較するんです。でも手のひらの部分、根っこの見えない部分では
平等で,全部繋がっているんです。
何が平等かというと,命をもらって生かされている存在であるということ。
誰もいつか死ぬということ。大宇宙の大きな慈しみに満たされて生かされている
大切な存在という三つにおいて平等だと思うんです。

…だから臨死体験をしてつくづく、あの至福の世界が本物で、この世は
経ていく世界だっていう感覚があるんです。やはり人間の本分、ビーイングと、
現実社会での自分の役割、ドゥーイングのつながりに意識を向けていかないと
虚しくなっていくのではないかと。
人生のテーマを考える時、ビーイングの世界にまなざしを据えてこそ、
充実したものになるのではないでしょうか。
 
 ーその臨死体験の講演をまとめてみるー

奈良での学会に出席するため、友人のいる修道院に泊めてもらっていた。
その修道院は、宮家の立派な屋敷を改造した建物で、二階の客間から下に降りる
階段は高く急であった。

その夜、寝つかれなかった彼女は、何となく夜中に起き出し、暗がりの廊下を
壁づたいにそっと歩いた。曲がり角らしきところで一歩足を踏み出したが、
実はそこは廊下ではなく、その急な階段だったのである。
 踏み出した瞬間、足は空をつかみ、体はバランスを失った。

恐怖を感じる暇もなく、一気に下まで落ち、床に叩きつけられて、そのまま気を
失ってしまう。 ふと気づくと、私のからだは宙に浮かんでいます。
そして、空中にまっすぐ浮いている私を、高いところから、もう一人の私が
見つめているのです。

空中に浮かんだ私 の足の周りを、なぜかたくさんの筍の皮のようなものが
覆っていました。 それが蓮の花びらだとわかったのは、ずっとあとのことです。
台湾のさる有名なお寺を訪れたとき、仏像の足の周りを筍の皮のようなものが
包んでいるのを見て、あ、これだったんだと思いました。

それは蓮の花びらでできた台座でした。
その筍の皮のような花びらが足もとから一枚一枚散っていくのです。
高いところからそれを見ているもう一人の私は、花びらが散るごとに、自分が
一つひとつの苦しみから解放されて、自由になっていくのがわかりました。
 
一枚落ちると、
「ああ、これでもう人の言うことに煩わされなくてすむ、私は自由になった」  
 と思い、さらにもう一枚落ちると、
「もう人に気を遣い、不安に脅かされなくてもすむ、私は自由になった」   
 とつぶやいているのです。 限りない解放感と喜びが胸に溢れてきました。  

花びらが最後の一枚になり、これが落ちたら完全な自由になれると思ったとき、
最 後の一枚の花びらは落ちることなく、からだがすっと飛翔しました。
そのとき、見ている自分と見られている自分が一つになりました。   

一瞬のうちに高さの極みに飛翔し、私は今まで見たことのないような美しい光に
包み込まれました。白っぽい金色の輝きに満ちた、いちめん光の世界にいたのです。
まばゆい輝きでしたが、まぶしすぎるとは感じませんでした。  
 
それは人格を持つ命そのものの光であり、深い部分で、自分とつながり、
交流している生きた光なのでした。
これが至福なのだ、完全に自由なのだ、と私は感じていました。
不思議なくらい、五感も思考もすべてが生き生きと冴えわたっています。
オリンピック選手がベストコンディションで世界記録を破る瞬間とは、
こんな状態のときなのでしようか。

からだの全機能が最高の状態に保たれ、調和し、研ぎ澄まされているのです。
その冴えわたった意識の中で、私ははっきりと理解したのでした。
 「この命そのものの光の主に、私はすべてを知りつくされ、理解され、
受けいれられ、許され、完全に愛しぬかれている」 これが愛の極致なのだと。

もし愛の究極の状態というものがあるのなら、こういう感情に貫かれること
ではないかしらとも思いました。真に満たされた状態とは、こういうことを
言うのでしよう。しかもその満たされた光の世界には、時がないのです。

 あっ、これが永遠なんだと私 は思いました。
心は愛に満たされ、知性は冴え、能力のすべてが最高の状態で調和しています。
 そんな至福感に包まれていたとき、どこからか声が聞こえてきました。
「癒してください、癒してください」  
 その声には、少しつたない感じの独特のアクセントがありました。  
その声が聞こえてきたとき、光であり命そのものの主が「現世に帰りなさい」
と言いました。
それは言葉ではなかったのですが、そう伝えられたのがわかりました。
そしてさらに、「現世に戻ったとき、いちばん大切なのは、知ることと愛する
こと、その二つだけが大切なのだ」というメッセージを私は受け取ったのです。  
 
真夜中に突然、大きな音がして叩き起こされたシスターたちが見たのは、
寝巻き姿で階段の下にうずくまっている見知らぬ女性だった。 鈴木氏は、
それでも「大丈夫」と言いながらよろよろと立ち上がり、支えられながら
二階の部屋にあがったという。が、また気を失った。そして、上に述べられた
ような不思議な体験が彼女に起こったのは、救急車が到着するまで修道院
二階のベッドで意識を失っていたあいだのことだったようだ。
至福感のただ中にいたときに聞こえた、少しつたない感じの「癒してください」
という声は、そのときベッドの周囲を囲んでいたなかにいた外国人シスターの
祈りの声だったらしいという。

幸い肋骨のひび程度で大怪我をまぬかれた鈴木氏は、事故後の静養中にさらに
次のような体験をしている。
階段から落ちた翌日は、運動会の次の日のように全身がズキズキ痛んでいました。
全体が大きな瞳れ物と化したようで、ベッドの上で寝返りを打つのも、つらい 
状態でした。けれども、そんな肉体の痛みとは裏腹に、精神は高揚していて、
とても 気持ちがいいのです。

階段から落ちた前後の自分の行動の記憶はまったくないのに、あの不思議な
光に包まれた記憶は鮮やかに脳裏に焼きついていました。あのまばゆい光の余韻
や、悟りの境地にも似た研ぎ澄まされた感覚は、忘れようとしても忘れられない
ものでした。私は限りない至福感に満たされ、恍惚とした気分でベッドに横た
わっていました。 ようやく歩けるようにたった次の日、外の空気が吸いたく
なった私は、痛いからだをひきずって窓のところへ行きました。
窓を開けると、そこには秋の田園風景が広がっていました。
刈り入れを終えたあとの田圃がどこまでも続き、稲が束になって下がっています。
のどかな景色を眺めながら、自分が今、奈良郊外にいることをふと思い出しました。  

すがすがしい稲の香りが胸の中に広がったとき、突然、大きな感動がからだを
貫きました。 稲や土、光や風、自然界のありとあらゆるもの、大宇宙のさまざま
なものがすベて、素晴らしい秩序の中にあって、それぞれが一つひとつの役割を
果たして調和している、そうして燃えている―─。  

それは閃きに似た強烈な感動でした。大宇宙との一体感を、頭ではなく、
からだ全体で、魂の深みで悟ったような感じでした。目から鱗が落ちるどころ
ではありません。そのような至福の状態が三日間くらい続いたでしようか。
からだが治っていくにつれ、その高揚感も薄れ、やがて徐々に日常の平静な状態
に戻っていきました。

けれども、あの光に包まれる体験をしてから、まるで別次元の境地に達したよう
に、私の中ですべてが変 化していました。それまで悩んでいたいろんなことが、
とても小さく見え、いっせいに霧が晴れたように、私の人生はすがすがしく晴れ
渡っていました。そして、私の心の中には、ある言葉が、美しい鐘の音のように
響きわたっていました。
 「大切なのは、知ることと愛すること。それだけが大切なのだ」

鈴木氏は、その後に彼女の身に起きた数々の不思議な出来事によって、あの光
との出会いの体験が、たんなる夢や幻覚ではなかったという確信を深めていく。
その第一は、この事故の5〜6年前から患っていた膠原病が、事故のあと完全に
治ってしまったということだ。
膠原病は原因不明の難病だ。彼女の症状は、急に寒さにあうと、からだ中が硬直
してしまうというものだった。血管の流れは滞り、手は死人のように真青になって、
ときにはからだに鉄の輪をはめられたような痛みで息もできないほどだったという。
長年苦しめられていたそんな膠原病が、すっかり治ってしまった。
検査の結果、血管が詰まっているところはどこにも発見されず、本人も医者も
びっくりしたという。病気はその後二度と再発することもなく、それどころか、
あの臨死体験以来、病気ひとつせぬ丈夫なからだになったという。

 彼女が自分の体験を幻覚でないと確信した別の理由は、
レイモンド・A・ムーディー・Jrが書いた臨死体験についての本を読んだこと
であった。事故のあと、まだ入院をしていたあの日、見舞いに来たイギリス人の
シスターが、いま面白い本を読んでいるといって紹介してくれたのがムーディーの
『 LIFE AFTER LIFE』(日本語版『かいまみた死後の世界』評論社)であった。
そのなかには、臨死体験をした多くの人々のエピソードが集められている。
友人が、「臨死体験をした人たちの中には、光に出会う人々もいるらしい」と語り
始めたとき、鈴木氏ははっとする。
「その光は生きた光で、まばゆいけれど、まぶしすぎるという感じではなくて‥」 
だとすれば、それは彼女が出会った光とまるで同じだ。
鈴木氏は、そのとき初めて自分のあの体験が「臨死体験」だったことを知ったという。
こうしてムーディーの本に出会い、それを読み終えた頃に、担当の医者から膠原病
がすっかり治っていることを告げられたのだ。

・・・・・・
2005/09/17
1628, ソウルの富士山ー日野敬三 対談集 −2

 作家の保坂和志の対談ーソウルの富士山ーも含蓄がある。
死に直面した日野の心理が二人の対談から、みごとに浮かび上がっている。

保坂和志
今日は日野さんが、脳の手術から回復される過程で体験されたことを、
闘病記というより旅行記のような感じでうかがいたいと思います。

ー日野ー
自分が脳を手術されて、術後び安静状態にあるんだとわりあい客観的に
自覚したのは一ヶ月ほどあとでした。
なんとなく現実がわかるようになっても、まだうつらうつら夢を見ている
状態がさらに一ヶ月続きました。そこには、どうも完全な夢とは違う。
自分がソウルにいて窓の外がソウルの街がみえる。(実際は東京だが)
そして、富士山でなくてカイラス山がみえる。もしかすると、この人生では
なくて、その前のいつか巡礼に行ったことがあるのかも、と思い直しました。
だとすると、僕の中で辻褄が合うのです。カイラス山はそれだけの格と威厳が
ある山ですからね。超意識の神話的空間内だったら、カイラス山も見える。
それだけのリアリティのエネルギーを持ってなかったら、何が聖山ですか。

ー日野ー
僕は実は世の中を楽しんでいる、あるいは生きていること、人間であることが
好きなんじゃないかと思い当たったんです。
それを好きでないように思い込んでいきていたのが、いよいよ最後のところに来て、
その思い込みが剥がれ落ちて本当の地が出たんだと気がついた。
もう一つ考えたのは、人生はなにも正しく生きねばならいことはないと。
楽しく明るければよい。正しくありたいと思ってきたが、それは最も大切では
ないと、ベッドの中で声に出して自分に言った覚えがあります。

ー保坂ー
今回の日野さんの体験がものすごく言葉にしにくいのは、
死のそばまで行ったはずなのに、死の遠くに行っちゃって、
ずっと夢とも幻覚でもなかった、本人はもう一つの現実だとおっしゃっている。
つまり、死とか、夢とか、現実とかの定義が一般のものとは違っているわけです。
ふつうの人も同じ手術をすればたぶん何割かは似たような経験をするものでしょう
けど、たいていは周囲の目が怖いから、その辺を正直に言わないだと思います。
日野さんの場合、職業的な自負なのか、ありのままに語れているところが非常に
貴重ですよ。

ー日野ー
僕に言わせれば、やっと退院をしてみたら現実のほうが定義が壊れかけている
かのように思いました。ちょうど僕の意識が戻ったころに、同じ脳の病気の
小渕前首相は亡くなるし、そのあとを継いだ森首相は妙なことを言い出すし。
もっとショックを受けたのは、社会面では子供達の殺しの記事ばかりですよ。
ものすごく異様だった。
ソウルで富士山やカイラス山を幻覚?で見ていて、
僕はとてもまともだったんだなと思いました。
僕らは日ごろいとも簡単に現実と夢と言います、全く別のように。
でも本当は、そう分かれる以前のところに生きているんじゃないか。
夢現のあいだ」ということを東洋人は古くから知っていたように思います。
夢現のあいだ」は「無現のあいだ」でもありましょう。

退院をしてから老荘の本、道教関係の古い本を改めて身近に読んでいます。

たとえば、中沢新一さんもチベット密教を修行して幽体離脱を体験した話を
書いているでしょう。
もうひとつの微細な分身をこしらえて、肉体から自由に出て動きまわる・・
僕も入院中にいろんなところに行きましたからね。
実際に行ける場所ではないにかかわらず、そこで見たり考えたりしているのは、
たしかに自分自身なんです。この僕の肉体に限定された存在がギリギリ最後の
ものじゃなくて、そこからまだ先の、本当のエッセンスのような小さく精妙な
自分があるらしいと思うとドンドン自分が怪しくなるから、まだきちんと考え
つめてはいないですけど。この予感は気味が悪いし、楽しくもあります。

−保坂ー
社会がひとつの現実だけをもって見ることができないのと同じように、
人間もやはり一つの個体のなかにすべてが規定されているのではないかも。

ー日野ー
その個体を離れるというか、さまよい出るというか、叩き出されるとうか、
どうであれ自由になることは楽しいですよ。
無責任ゆえの自由のみたいなものは。

ーー
冷徹な記者あがりの作家が幽体離脱をして、チベットの霊山のカイラス
にいってきた。それも夢ではないと言い切っている。
また、
ー僕らは日ごろいとも簡単に現実と夢と言います、全く別のように。
 でも本当は、そう分かれる以前のところに生きているんじゃないか。
夢現のあいだ」ということを東洋人たちは古くから知っていたように思います。
夢現のあいだ」は「無現のあいだ」でもありましょう。
という、クダリは、生死の狭間での極限から生じた魂の深い世界を
垣間見た体験があるからこそ、言えることだ。

人間の脳には、信じられない能力が隠されている。
死の瀬戸際を漂うと、その一部を垣間見ることができるのだろう。
死ぬ時の楽しみでもある。

ー面白いことに、去年の今日老子荘子のことが書いてあった。
意味ある偶然の一致である。
・・・・・・
2711, 臨死体験を経験できるヘルメット
2008年09月06日(土)
 何の知識無しで初めて幽体離脱を経験したときの驚きをリアルに憶えている。
それを契機に、キュープラ・ロス、立花隆臨死体験などの本を読み、その経験
の意味を知った。ところが最近になり、アメリカでパーシンガー博士の開発した
ゴッドヘルメットと呼ばれるものがあり、これ装着すると万人が体外離脱できる
という。博士はてんかんの治療で、脳を電極で刺激する手術を400例以上やって
いて、その手術の際に側頭葉のシルビウス溝と呼ばれる、右耳の上を電極で刺激
すると、体外離脱がおこることを発見した。これで体外離脱した意識が、遠くの
ものを見てきて、現実と一致したり、霊が他人の体をジャックしたイメージも
起こるという。これまでのように脳を開いて直接電極を押しあてたりせず、電磁気
で脳を刺激して、反応を見る研究が盛んのようだ。体外離脱とは、脳の中の幻覚
ではなく、アストラル体のような意識が、抜け出している状態ともいわれる。
実際に体外離脱の経験者に装着したところ、同じような経験をしたという。それまで
一部霊能者とか、そういう体質を持った人だけしか経験できなかったことを、科学者
は誰にでも体験できるようにする。何年もしないうちに、家電店頭で並ぶかも。 
これを被って気が向いたら幽体離脱をするのも面白いだろう。そういえばアルファー
波を発生させる器械を買ったことがあった。またマリファナを吸ったと同じ気分に
なるCDのセットも買ったことがあったが、少し酔ったような気分の状態になる。
私は酒に酔いの方が好きだが。他のTPOSが面白いだけであるが・・・恐らく、これを
被っても、私の経験した幽体離脱の緊迫した感覚とは違うだろう。色いろな状況の
中で独りで、誰にも言えない奇妙な体験だから神秘的なのであって、ヘッドギアの
器械で幽体離脱をしても、味も素っ気もないだろう。しかし、面白そうである。
前に書いたことがあるが、欧州の帰りの飛行機の中での夢。「自分の身体が突然に
フワフワ空に向かって上昇して、電信柱が下に見えてきた辺りで恐怖心が出てくる。
夢から早く覚めて布団に身体を戻さないと、我に返った。ところが、そこは飛行機
の中で、身体が地上に在るはずなのに逆に、その遥か上を猛スピードで移動している。 
そこには、飛行機も、シートも、周囲の人たち消えて、独り宙を移動している」
身体が凍りつくとは、このことだろう。 恐らく、死ぬ瞬間とは、あの感覚になる
のでは? 絶叫をしそうになったが、ギリギリ抑えることができた。
人間は大地の上で生きているのである。 死ぬと、大地から離れるのである。
幽体離脱で元の身体に戻ってこれないで、狂ってしまうケースもあるというし、
自分が外に出ている間に、動物か彷徨っている霊が入り込む場合が往々にあるという。 
オウム教が騒がれていた頃、ニュースなどの映像で、ヘッドギアをしている信者の
姿を見かけたが、あれがゴッドヘッドだったのか? 集団維持の手法や典型的カルト
の教え否定されるべきだが、宇宙からの視点とか、こういう幽体離脱の手法は、
なるほどと感心する。脳はまだまだ未知の世界である。脳は3?しか使われておらず、
10?も使えば天才になれるという。神様(自然)は何を脳にさせよとしたのだろう。
我われ凡人は、パソコンなど、道具を有効に使ってせめて5〜6?を使えるように
すればよい筈だが?