〜NHKBS1【三和:人材市場〜中国・日給1500 円の若者たち〜】
   * 弾け出された中国の若者
 あるのは小さなカバンと、着たきりのTシャツと、ズボンと小銭。
月給制の職場に堪えられず日雇い仕事で日々を暮らす若者。寝ぐらは、
ゲーセン。その実態は、現代社会の蔭を象徴している。日本のホームレスの
中国・深セン・バージョンというところか。大陸なればこそ、深刻度は深い。
これなら犯罪を犯しかねない状況である。
   〜NHK・HPより〜
《 中国・深センにある職業斡旋場・三和人材市場。
 工場労働からはじき出され、1日働いて3日遊んで暮らす「三和ゴッド」
と呼ばれる中国の若者を、何が追い詰めているのか。
 総資産が1億7000万円以上の富裕層が7万人に達する深セン
格差社会の底辺から脱出できずもがく若者たちの間に不満が高まっている。
豊かになる夢を持ってやって来た出稼ぎ労働者の希望は、失望と不満に変わる。
三和市場で日雇いの暮らしを3か月送った男性は、深センを離れることを決めた。
中国の繁栄を謳歌する最先端都市・深セン。その発展を支えてきた人々。
しかし急成長がもたらした貧富の格差と負の連鎖によって、若者たちの夢は
更に手の届かないところに行こうとしている 。》

▼ 月給制は縛られ窮屈と、日給の働きを求め、ゲーセンで過ごす若者達。
情報化がもたらした原子化した流砂の民の象徴。誰が悪いのではない…
思わず魅入ってしまったのは、彼らの姿の中に、何やら、老い先短い?
我が身の姿「俺たちには明日がない」に重なる部分があったからか。
ネットサーフィン、TVドラマ、TV]映画、シネマ館の仮想の世界に日々、
逃避しているような? としても、それで充実するから不思議だが。
 
熊: カミさんとガキがいる以外、俺と大して変わりはしないよ。 
寅: 俺もだがね。原子化さえしてない俺たちは、良い悪いかは別として
 少しましかい。でも、砂粒がネットで強固に繋がるのも問題だね。
 それとゲーセンでネット仮想世界の逃避ね。八つぁんと大して変わりはしない。
熊: インドの人力車の車夫と似ているね。俺たちの寝泊りは、人力車のかわり
  に長屋の部屋だけど。でも、老い先短くなれば、何もかも同じよ。
大家: 私に対する嫌味かい。確かに死んで三日もすれば3百年前と同じさ。
 情報社会のグローバル化ってのは、誰もが一瞬で底なしになる可能性があるね。
寅: 豊かさで恩恵を受けるのは衣食住を除けば、情報の質量の差だろう。
 それが両親の質と、本人の才覚で変わる。確かに出発点で殆どが決まるね。
熊: 俺なんて、貧しさしか知らないだろう。豊かさの恩恵を一度でもよいから
 受けてみたいね。良いことなかったもの。バブルで阿波踊りしたかったね。
 大家さんは経験したというじゃないですか。
大家: ああしたよ。20年、いや40年は、そりゃ天国さ。良い時代に良い思い
 をさせてもらいましたよ。それがあったから、老いても心だけは豊かさね。
寅: 行蔵内の御宝が無いと、人間、老いてからの歪みが大きくなるの。
 それが顔に出るから、恐ろしいね。他人事じゃないがね。
熊: 何で今、俺の顔を見るんだよ。貧乏も馴染むと、けっこう面白いんだ。
寅: でも、傍で見ていて、「天気晴朗なれど波高し」がピッタシだね。
 舟は大揺れでさ。特に月末は、ウドンばかりじゃないか。
熊: 御前も同じようなモノじゃないか。御前のように宝籤など俺、買わない。
大家: 御前らが話すと、折角の社会問題も卑しい話になってしまう。

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4443, ヨガと座禅の違い
2013年05月16日(木)
 毎週二回、スポーツジムの「ヨガ」に参加して14ヶ月、百回はゆうに
超えているが、回数を重ねるたび、身体も、気持ちも解れていく。学生時代に
野狐禅だが、六日町の雲頓庵で持ち込んだ卒論の種本を読みながら、合間に
広い禅室で独り座禅を組んだことがあった。ただシーンとした中、
「直ぐにでも止めようか」という気持ちと戦いながらのたった独りの座禅は、
永平寺での一瞬気持ちを緩めれば、禅僧に叩かれる状況より辛い。誰もいない
ため、直ぐ止めたい誘惑との闘いになる。ヨガで仰向けになり全身を弛緩する
「死者のポーズ」があるが、これは座禅の禅定に似ている。飛行機内の座席で、
耳栓をして姿勢を正し、次々出てくる思いを泡のように流していると、何かの
ゾーンに入ってしまい、10時間以上の時間がアッという間に過ぎてしまう。
ヨガは、瞑想で心を解すのが目的で、禅は、その状況から仏の悟りに近づく
ことにある。
ーヨガと座禅の違いをネットで調ベた、納得した3つをコピーしてみるー
《 人は疲れたときに目をつぶる事がある。そこで何かを思い浮かべながら
 瞑想にふける。この繰返しがヨガという。 このヨガはもともと
「軛(くびき)」ということで、牛に車を曳かせる腕木を指した。これが
次第に神の力に人間を結びつけることを意味するようになり、その修行法と
して智慧、愛、行、瞑想が重視された。一般にヨガと呼んでいるのは、
このうちの瞑想による神人合一の方法である。このヨガは紀元5世紀ごろ
には「ヨーガ・スートラ」を根本経典としたヨーガ派が独立してさかえ、
完全性をそなえたひとつの霊魂を最高神としてあがめた。このヨガの修行法
が仏教にも広く取り入れられてきた。それが坐禅につながっていく。 》
《 ヨガと坐禅は、まず姿勢を正して、呼吸や五感(眼、耳、鼻、舌、身)
 を整え、誘惑をさけ、精神統一するのはどちらも同じ。ヨガは、これに
よって初めて超自然的な力が得られ、対して禅は「禅定」に深くかかわり、
静けさを求める。禅とは(ジャーナ、禅那)という梵語の音写で、釈尊
悟りを追体験して”身心脱落”し仏の境地になりきり坐禅をすること。
禅は「無」を標誘し功徳や利益を求めない。ひたすら足を組んで坐禅をする。
ヨガは神人合一して身心の健康を増進させる。 》
《 ヨガは、インドに古くからあり、ウパニシャッドと言われる古代インドの
 哲学書にも出てくるもので、瞑想や呼吸法、座法などによって心身を鍛える
事で、心の動きを抑制する方法として古くから用いられた。後に、ヨーガ学派
という哲学集団によって、解脱への実践方法として体系化されていったと
言われています。そして仏教においても、このヨガは悟りへの実践方法として
用いられ、釈尊も、瞑想によって真理を悟ったと言われますし、「瑜伽行」
という修行法として確立されました。現代のヨガも、もともとはそのインド
独特の修行法をアレンジしたものですから、仏教の修行とヨガとは、出発点は
同じであると言えるでしょう。違いと言えば、仏教における修行は、さとりを
目指す為の方法であり、現代のヨガは、心身の健康維持のためのもの、という
点でしょうか。座禅とヨガとの関係についてですが、ヨガは、座法や呼吸法を
盛り込んだ、精神統一の方法でありますし、「禅」といいますのは、「禅定」
つまり精神統一をし、真理を観察することであって、「座禅」は座法や呼吸法を
用いた「禅定」一つの方法ですから、根本的な部分で同じ要素を持つ。 》
▼ ヨガは座禅と出発点が同じ「座法」「呼吸」を盛り込んだ精神統一の方法に
 対し、座禅は精神統一を通して真理を観察するもので、少し意味合いが違う。
腰痛持ちの私にとって、週二回のヨガは腰痛緩和の自己マッサージ治療。
私の腰痛は完治はないが、仲良くするのは可能。その方法がヨガに多くある。
手軽なベストの場が見つかったもの。たまたまー「早朝座禅」山折哲雄著ー
を見つけ読んでいるが、数日前から、30分早く起き、早朝座禅を取り始めたが、
これが良い。4時から7時までは、正にゴールデンタイム。
60年以上溜まった毒出し、矯正の時間でもある。

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5175,人生相談という気晴らし! 〜?
2015年05月16日(土)
           『人生、しょせん気晴らし』中島義道
  * 老いた人の絶対的孤独との向き合い方は
 ここで、自分のしたいことを誠実に熱心に追及している限り、理解者は
出てくるというが、どうだろう? 今では、ブログなど、ネットで繋がることが
可能なので、ある程度の他者と繋がることが可能だが。
≪ Q: 〜年齢とともに肥大する孤独との向き合い方〜
 六十五歳の男性です。人間、歳を取るとだんだん孤独になるものだとつくづく
実感しています。若い頃は学才に恵まれていた男が、いつのまにか「俺は文化
なんてものには興味はねえ」と野卑な口調で本性をあらわしたり、デリカシーに
欠けていた男の品性がますますひどくなったり。さらには盟友が亡くなったり…。
そんなこんなで、私はこの七〜八年ほどの間に若い頃からの友人をあらかた
失くしてしまいました。孤独であることにもそれなりの味わいはありますが、
しかし、人生、いや歳を取るということは、かくも無漸なものなのでしょうか。
歳を取ることによって生じる、どうしようもない孤独にどう対応したらいいのか?
適切なるご教示をお願いします。
  A: 〜わずかでも心の通じ合える人がいれば絶対的孤独は避けられる〜
 私は「孤独」がそれほど嫌いではなく、「それなりの味わいがある」と思って
いますので、「どう対応したらいいか」に対する直接のお答えにはならないかも
しれません。あなたの問題にされているのは、主に「他人との関係」でしょう。
それにも二つあって、1つは、人間、歳を取ると「品性」がますますひどくなる
こと、そしてもう1つは、親しい他人や愛する他人が次第に自分より先に死んで
いって、だんだん心細くなること。前者については、私も同じ印象を持ってます。
私が同年齢の男女との付き合いをかなり切っているのは、―自分はともかく―
一般的に言って中高年の「醜さ」に耐え難いからかもしれません。それに加えて、
私は「哲学」なんぞに首を突っ込んでしまったので、50や60の「普通に出来
あがった」男たちと話すことは何もないと確信しているせいでしょう。
 この歳で、妙に哲学に擦り寄ってくる老人も嫌いです。大学の教師や研究者、
あるいは物書きをしていて気が晴れることは、若い学生たちや若い研究者たちや
若い編集者たちや若い読者たちとの「交流」が、適当にあることです。
もちろん、彼らの中にも「心の醜い」輩はいますが、私の周りには総じて
「心のきれいな」人が集まります。そう自分が厳選しているからなのですが。
このことは、第二の孤独にも通底しています。私の場合、特殊とも思いますが、
自分と同世代の男女との付き合いをほとんど完全に絶っていますから、という
ことは、小学校から大学までの同級生などとの交際はないので、誰が生き残って
いるのか、誰が死んでいるかさえ(連絡がないので)わかりません。それに、
私は目上の人との付き合いは(どんな恩人でも)苦手で、これもほぼ完全に切り
捨てていますので、目下、誰が死んでもいっさい葬式に行く義務はないのです。
別に老後の孤独に備えてこう準備したわけではありませんが、私はその時々で
一緒にいて心の通じ合える人がわずかにいればそれでいい、という「刹那主義」
に徹しています。どんなに歳を取っても、自分のしたいことを誠実にかつ熱心に
追求している限り、理解者は出てきますし、その限り絶対的孤独は避けられると
思いますが……。≫
▼ 著者から肩書をとったら、「醜悪なクレーマー」と思われる。
 これまでの著書を読んでいると、クレーマーとしての信じがたい内容が
リアルに書いてある。それはそれは・・ 特に街中や電車などの騒音に敏感。
それと、著書を出し、思いを表現していると、孤独感は半減する。中島の口癖、
「いずれ直ぐ死んでしまう!」は、亡くなった友人を自分に置換えると分かる。
『死んでしまえば、それまでよ! そんなことなど死んで3日も経てば・・』
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4810,Quirt <内向型人間の時代> ー1
2014年05月16日(金)
              <内向型人間の時代> スーザン・ケイン著
   * 内向型人間かどうかのチェックリスト
 私は、あまり外交的ではない。だから、事業創業の人生を選んだのである。
この書の冒頭にあった内向型リストで、○✖▽で、チェックしてみた結果、
20のうち、13が○、✖が3、どうだろう?▽が4で、明らかに内向的
人間である。家内は明らかに外交的人間と思っていたが、○が15に、✖が3、
▽が2で内向的人間には驚いた。専業主婦ということもあるが、驚きである。  
 ー以下、左が私、( )が私から見た家内である。
  ーまずはチェックリストからー 
           日本人、特に地方、北国は8〜9割は内向的人間? 
○グループよりも一対一の会話を好む      ○  (▽)
○文章のほうが自分を表現しやすい       ○  (✖)
○ひとりでいる時間を楽しめる         ○  (○)
○周りの人にくらべて、他人の財産や名声や地位にそれほど興味がないほうだ
                       ○  (○)
○内容のない世間話は好きではないが、関心のある話題について深く話合う
 のが好きだ。                ○ (○)
○聞き上手だと言われる            ○   (▽)
○大きなリスクは冒さない           ✖   (○)
○邪魔されずに「没頭できる」仕事が好きだ   ○   (○)
○誕生日はごく親しい友人一人か二人や、家族だけで祝いたい ○(○)
○物静かだ」「落ち着いている」と言われる       ○ (○)

○仕事や作品が完成するまで、他人に見せたり意見を求めない。▽(○)
○他人と衝突するのは嫌いだ              ▽  (○)
○独力での作業で最大限の実力を発揮する        ○  (○)
○考えてから話す傾向がある              ○  (○)
○外出して活動したあとは、たとえそれが楽しい体験であっても消耗したと
 感じる。                      ✖ (✖)
○かかってきた電話をボイスメールに回すことがある。  ✖ (✖)
○忙しすぎる週末よりも、なにもすることがない週末を選ぶ ○ (○)
○一度に複数のことをするのは楽しめない         ▽ (○)
○集中するのは簡単だ。                 ○ (○)
○授業を受けるとき、セミナーよりも講義形式の方が好きだ。▽ (○)
▼ 意外なことに、アメリカ人でさえ、2〜3人に1人は、内向的人間という。
 事業人生を30年以上、たずさわり、人との接触が多い仕事もあって、外交的
部分も多かった?反面、嫌な場面へ行かないで済む、自由もあった。逆に仕事上、
内向的姿勢も求められたこともあった。家内の友人に、極度の内向型人間がいて、
その話を度々、聞くことがあった。内向的にも、暗いのと、明るいのがいる。
冷たいのも、温みがあるのもいる。携帯パソコンが一般に普及した中、情報選択
と決断が重要になっているが、この時代だからこそ内向型人間の時代というのも、
説得力がある。ヨガブームというが、週二回、26ヶ月、参加して、成るほど、
内向き、精神性の時代が、実感できる。 高齢者は、どうであれ、内向きに
なりざるをえない。 ーつづく

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5905,閑話小題 〜映画評:『スプリット』
2017年05月16日(火)
   * 『スプリット』〜映画評
 先々週末は行かなかったが、先週は『スプリット』をみてきた。評価:85点。
一人の男に24人の人格が宿って、監禁した3人の少女の前に次々に現れる。
恐いが、これが面白い。16年にわたり、随想日記を書き続けながら、同月同日分
を読み返していると、自分の中に、何人もの違った人格をみている心持ちになる。
人は毎日、進歩と後退をしながら変化しているのである。 その中で、50年近く
前の日記の内容に驚いてしまう。社会人になる前の使用前、リタイアの使用後
なら違って当然。「気持ちは大して変わってない」と思うのは、そう思いこんで
いるだけ? 読み返す度に、若い時分に戻りたいとも思わない… 
 ≪ 〜『スプリット』 あらすじ
級友のバースデーパーティの帰り、車に乗った3人の女子高生。見知らぬ男が
乗り込んできて、3人は眠らされ拉致監禁される。目を覚ますとそこは殺風景な
密室…彼女たちはその後、信じがたい事実を知る。ドアを開けて入ってきた男
はさっきとは違う異様な雰囲気で、姿を現す度に異なる人物に変わっていた―
なんと彼には23もの人格が宿っていたのだ! そして、さらに恐るべき24番目
の人格が誕生すると、3人は恐怖のどん底に。≫
▼ 内なる他者?が存在して、どれが主体人格かさえ分からない人が、世の中
 に現に存在している? 政治家など、理想の政治的リーダーを演じて票に
する日常。頭にあるのは、票とお金のことばかり。集金の主体は、汚職ぎりぎり
の塀の上の美味しい取引しかない。 で、主体人格が、まず歪む。
 演じる理想的政治たる表の顔と、それを演じる主体人格の間の皮膜の中に
自分の個性をつくるしかない政治屋タレント。心の底に、多重の人格が育つのも
解らないでもない。 24人目の人格が、人間の奥底に潜む、モンスターのような
強固の人格がオチとして現れ出てくる。 映画は面白い!
 多重人格を検索したが、これが面白い。 近くテーマにする。

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5540,ドーキングスのセックス機械論
2016年05月16日(月)
 カントを頂点とした欧米の哲学の世で、< 生物の身体は遺伝子(DNA)を
運ぶ箱である>などと主張すれば、袋叩きになって当然の事。人は神様が
おつくりになったと信じて疑わない国柄の米国だから顰蹙をかって当然だが、
ドーキングは、「セックス機械同士が交わった結果、子供が生まれ、子々孫々、
遺伝子が生き繋いでいく」と言い切る。この論からすると、死後の世界とか、
生まれ変わりや、「自己存在とは何だろう?」など、考えることが馬鹿くさく
なる。 たまたま、やばい我々?の身体に、遺伝子が取りついただけ?
         ーエピソードで読む西欧哲学史:堀川哲著ー より
≪ ☆ 利己的遺伝子
1976年、オックスフォード大学の動物行動学の教師、リチャード・ドーキンス
(1941〜)が『利己的な遺伝子』という本を出した。ドーキンス、35歳であった。
この本は現代のダーウィン主義を要約したものであるが、ドーキンスの文才も
あって、センセーショナルな反響を呼び起こした。
 彼は、「神も仏もあるもんか、生物はセックス機械にすぎない」という。
ドーキンスは特に宗教を攻撃して罵倒するものだから、特にアメリカでは
超顰蹙であった。ドーキンスアメリカで講演しようとすると大変である。
硬派のキリスト教徒たちが「くたばれドーキンス!」と叫んで押し寄せる。
彼の理論自体は単純・明快である。「この本の主張するところは、われわれ
および、その他のあらゆる動物が遺伝子によって創り出された機械にほかなら
ないというものである」。 こうドーキンスは書いている。
生物の身体は遺伝子(DNA)を運ぶ箱である。よーく考えてみよう。
人間は、最初は一個の細胞である。お母さんのお腹の中に、微小な卵として
誕生するのである。 学校の生物の時間に教わったでしょう。
 細胞の核にはDNAという二本鎖がある。DNAは四種の塩基物質で構成される。
四つの記号でプログラムが書かれていると考えればいい。コンピユータ時代
にはそのほうがわかりやすい。DNAはA、T、G、C(塩基物質の名前の頭文字)と
いう四種の記号でプログラムが書かれるのである。
 人間には人間のプログラムがあり、ブタやダニにはそれなりのプログラムが
ある。私が何ものであるかは、このプログラムによって決定されるわけである。
 DNAのプログラムは自分が生き延びるように動く、そういうようにできている。
サバイバルの方法はといえば、それは自己の複製(コピ!)を作り出すこと。
私たち人間は有性生殖の生き物であるから、コピーの作業は異性との性交と
いう行為を通じて実現される。できるだけ多くのコピーを製造すること、これが
DNAの基本的機能である。DNAはそうするように作られている。雨が降るのと同じ。
 そのために、DNAのプログラムは私たちの身体を適当なときに発情させ、複製の
行為と駆り立てるのである。こうしで私たちは異性を追いかけ回すようになる。
人間誰でも年頃になれば、発情するようにプログラムされているということになる。
 ☆ 遺伝子は永遠だ
間違いなくいえることだが、私はいつか死ぬ。私の身体はやがて滅び去る。
しかし、私が子どもを製造する限り、私を製造しているDNAプログラムは
少し書き換えられて、子どもにコピー(複製)される。個体としての私は死ぬが、
私のDNAプログラムは、私の子どもがまた複製を作れば、永遠である。
私にとってはうれしくも悲しくもないけれど、そういうことになっている。
遺伝子DNAは利己的である。だから「利己的遺伝子」である。その意味は、
DNAは自己の複製を極大化するように行為する、そういうようにプログラム
されているということである。≫
▼ 30数年前になるが、犬のブリーダーが、生まれたばかり犬の子、7〜8匹の
 写真を見せてもらった時、それぞれの個性的な顔と姿を見た瞬間、「この子犬
たちは、以前存在した犬の遺伝子が、改めて、この世に現れ出てきた」と、
直感したことを憶えている。 もしかして、分霊の正体は遺伝子? たまたま、
自分とは、それに触媒の積み重ねでカタチつくられた存在に過ぎないのだ。
これを知っておくと、死に際の絶対孤独が和らぐのではなかろうか。同じか?