* つれづれに
 先週末に、NHKスペシャルで、三回にわたり、金正恩の特集を組んでいた。
北が核放棄というが、全く怪しいもの。北朝鮮ウォッチャーの女性評論家が、
「その確率は2%」と宣っていたが、そんなもの。これまで、ことごとく、
約束を反古にしてきて、誰が信じるか? 問題は、明らかに耄碌な人、
トランプの甘さ。
 あそこまで罵倒した黄色人種を、白人ファーストのアメリカの極右が
見逃すわけがない。何があっても殺戮するのが、あの国のやり方。
そんな、甘いくはない。アメリカと英国が組んだら、まだ圧倒的軍事力がある。
英国のEU離脱も正しい判断かも知れない。その背後にプーチンの影が見え隠れ。
――
 野口悠紀雄の『「超」リタイア術』を10年ぶりに本棚から手にしたが、
さっそく、目に飛び込んできたのが、
「リタイア=将来のために現在を犠牲にする時代から卒業すること」の文字。
リタイアしてまず実感したのが、このこと。これまでの「会社のため云々」の
ワク組のタガと、常に3〜5年先から現在をみる奇妙な習性から解放された
爽快感は計り知れない。夢の実現のための日々を過ごしていた20,30歳代の
日々は、それはそれで悪くはない。あれは犠牲でも何でもない。
サラリーマン人生とは違う生き方をしてきたこともある。自ら望んで始めた
事業の苦労は犠牲ではなかった。リタイアで、大方の人は、コペルニクス
転換が、この言葉に込められている。将来のため、(役職に応じた)会社の
ためが、今度は用無しの身分になり、自分のための人生に直面する。
問題は、仕事とは別にライフワークを持っていたかになる。ここで、世間教の
皆様方が右往左往を始める。世間話が趣味ともなれば、半径500m内で群れる
ため、行蔵のない人たちの空疎の群れになり、生きてきたように死んでいく。 
それも人生だが… 何れにしても砂利は砂利、大して変わらないですか。

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閑話小題 〜馬の腹中で一夜を過ごす
2016年04月25日(月)
   * 馬の腹中で一夜を過ごす
 先週のシネマ、『レヴェナント』の中で、追手に追詰められて、断崖から馬
もろ共、落ちた主人公のデイカプリオが、林の木と馬がクッションになって、
何とか助かるが、その前に熊に襲われた重症の身で、激寒の中で、一晩を
過ごすが、その時、死んだ馬の内臓を抉り出し、素っ裸になって腹の中に
潜りこむ。息子の復讐のための執念が、一瞬、それをさせたが、朝、腹の中
から血だらけで出てくる姿は圧巻。これでデイカプリオはアカデミー賞の主演
男優賞を貰ったが、さもありなん。
 以前、読んだ慧海の『チベット旅行記』で、ヒマラヤ超えの山中で、雪の中
で、連れていた二匹の羊の間で何とか一晩を過ごす場面に驚いたが、これは
馬の生肉の腹の中! こういう話は実際に、あるのだろう!
 ところで、40数年前に、居酒屋・養老の滝のFCを、建てたばかりの飲食
ビルで始めた数ヵ月後に、近くの肉屋の人が来て、「朝、潰したばかりの豚肉
のツナギのルートがある」というので、見せてもらったのが、舌から大腸まで
繋がった内臓一式。思わず吐きそうになるほど生々しい。これを自ら捌いて、
串に刺して焼いて売ったのが、戦後、何もなかった下町の飲食店と屋台。
 必死さが、それも平気で捌いてしまう。事業の出だしとして、私にはベスト
の経験になった。それと飲食店のカウンターの内側と外側の大きな段差の違い。
要は、腹を括れば何でもできる。時にサラリーマンが、「屋台をひいても、
自分で商売をしたい」とか言うが、腹を本当に括れるかどうか。 括れない
人が、腹を括った結果を痛烈に批判する。気持ちは分らないでもないが・・

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4048, 一時停止 ー6
2012年04月25日(水)
  * 人間は大文字で書かれた矛盾     
         「一時停止」 谷川俊太郎ー自選散文ー1955〜2010
≪ 唐突なようだが・シモーヌ・ヴェイユのことばを孫引きさせてもらう。
(精神がつきあたるもろもろの矛盾、それらのみが実在するものであり、
実在性の基準である。想像上のものには矛盾はない。矛盾とは必然性の
如何を試すものである)
(存在の奥深くまで体験された矛盾、それは我々の身も心も引き裂く。
それが十字架である)
自己弁護のためにひくにしては、これらのことばがあまりに痛切であることは
感じてもらえるだろう。私は十字架にまで到達できる人間ではないけれども、
せめて矛盾をかいま見る地点にまでは行きたいと思う。矛盾の一方に身を
置けば、たしかにそこにも悲劇は待っていよう。作家の自殺のいくつかは
そうした場所で行われたのではないかと私は想像する。だが矛盾そのものを
生きることは ―それは私には想像もつかない。ヴエイユの言う矛盾は、
いわば大文字で書かれた矛盾であり、人間そのものと言っていいと思うが、
そのことが、つまり究極には矛盾しかないのだということが、私に勇気を
与える。私の出会うもろもろの小さな矛盾も、最終的な矛盾と構造的に結ば
れているに違いない。ひとつの矛盾を解決し得たと思うとき、それがすでに
もうひとつの矛盾のはじまりになっている。その無限地獄にこそあるいは
書くことに第一原因がひそんでいるのかもしれない。―その辺でやめておけ。
おまえにはそんなことまで論ずる資格はありはしない。どうしてそんなに
大仰でこわばった口しかきけないのだ。 おまえの内なる自然の荒廃は
その口のききかたからもあきらかだよ。見栄をはって、もっともらしい
愚痴を人に聞かせる暇はもうないそ。 (一九七二年) ≫
▼【 ヴェイユの(精神がつきあたるもろもろの矛盾、それらのみが実在
であり、実在性の基準である。想像上のものには矛盾はない。矛盾とは
必然性の如何を試すものである)】が良い。人生を総括すると矛盾の塊である。
しかし、その矛盾こそ実在であると知れば、人生を、そのまま受け取ることが
出来る。「矛盾は人間そのもの」とすれば、自分だけでなく他人を受け入れる
ことも出来よう。激しく生きるほど矛盾は大きくり、その重圧に潰されながら
生きていくことこそ人生の味わいを深くする。人間は矛盾だらけか〜
 他人のそれは見えても、自分のは見たくないもの。
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4422, 糞袋の内と外
2013年04月25日(木)
              「糞袋の内と外」石黒 浩 (著)
「世界の中の自分は時に不自由であるが、世界を飲み飲んだ自分は自由
なのである」という新聞広告にひかれて、アマゾンで、この本の内容紹介を
読んでみた。まだ発刊して間もないこともあり、レビューも何もない。
パソコンとネットの機能から、逆に人間の脳の機能を逆照射した哲学を読んだ
ことがある。 ロボット工学者が、人間の形を持ったロボットの視点から人間
を見つめると、また違った何が見えてくる。 まずは ー内容紹介ーより
≪ 人間は感覚器が集まった糞袋。しかしその糞袋は、自分が自分である
 ということを確認する手段を持たない。CNNの「世界を変える8人の天才」
のひとりに選出されたロボット工学者、石黒浩。最先端のテクノロジー開発
を通し人間の本質を見つめる中で、「生きるとはどういうことか?」
「人間とは何か?」という問題を常に問い続けている。【人間を「糞袋
と捉えることで、どのような答えが浮かび上がるのだろうか? 】約2年間に
わたって発信してきたツイートをもとに考察を深め、いま本当に伝えたい
メッセージを丁寧に綴った、渾身のエッセイ。≫
▼「人間は感覚器が集まった糞袋」と「世界を飲込んだ自分は自由なのである」
 という意味について考えてみる。まず「人間は感覚器が集まった糞袋」を、
「人間は考える製糞器」であると言い替えると、動物とロボットと際立って
違うところは、動くエネルギーが動植物系と電気かガソリンの違いになる。
人間の燃えカスは、一度、糞袋に溜められて排出される。人間は世界を飲み
込んで(環境を直感して主体的に)動くところが違う。それも自由度が高い
ほど人間度が高い、ことになる。自由こそ人間たる要素である。
世界を知り、そこで方向を探し出し、常に環境の変化に対応し、殻を破り
 続ける糞袋が人間の本来の姿。だから、身近に飛行機、自動車、自転車、
パソコンなどの身に合ったツールやシステムを使いこなし、自由度を高める
ことが必要。優秀なロボットを創ることで逆照射をして、人間の本質を探る
切り口は新鮮。人間の肉体を内と外面をシビアに捉え完成に近づける過程
から見えてくる姿は、哲学でいうところの「他者」と「自分」の関係を
考える上で面白い。この工学者は、自分の姿のロボットをつくり、生身の
自分から見つめている。第三者が触ったり、殴ったりした時に何かを感じる
はず。これは自己承認や、他者承認の問題に似ている。ロボットから見たら
糞袋に過ぎない人間の肉体。ロボットのように、第三者からの指示や
プログラムでしか動けない哀れな糞袋が、あまりに多い。そういう私の貧弱な
プログラムこそ最も稚拙!後悔先に立たず。自分を腹から笑えるだけ、
まだましか。


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5884,本物の教養 −3
2017年04月25日(火)
          <人生を面白くする 本物の教養 〜出口治明 (著) > 
   * 教養とは、そもそも何か?
 「教養とは、知識、経験から養われた素養」と、考えてきた。
そのベースには、地縁、血縁、学縁の影響を受け、文化、文明と、時代背景
の影響を受ける。
 第1章の目次そのものが、その説明になる。
≪  第1章 教養とは何か? 
・人生を面白くするためのツール 
・知識は手段、教養が目的 
・「自分の頭で考えられる」ことが教養 
バロメーターは「腑に落ちる」という感覚 
・「腑に落ちる」ことが本気を呼び起こす 
・意見が決められないのは「考え不足」が原因 
・「反対のための反対」に陥っていないか? 
・いま教養人であることが求められている 
 〜第1章「教養とは何か」からの抜粋…
≪ 教養とは何でしょうか? どうして人間には教養が必要なのでしょうか? 
 もし、そう質問されたら、私の答えは「教養とは、人生におけるワクワク
すること、面白いことや、楽しいことを増やすためのツールです」という一言
に尽きると思います。よりワクワクする人生、より面白い人生、より楽しい
人生を送って、悔いなく生涯を終えるためのツール、それが教養の本質であり
核心であると私は考えています。
「あの人はすごい教養人だ」と他人に評されるかどうかなどは、どうでもいい
ことです。教養とは、人からの評価を高めたり箔をつけたりするためのものでは
なく、自分の人生をより彩り豊かにするためのものだと思います。
ですから、教養を高めれば人生をもっとエンジョイできるのに、どうしてそう
しないのか、という逆の問いかけもまた可能です。
 日本人は、?心の幅〞が不足しているように感じます。とくに戦後の日本人は
そうではないでしょうか。焦土から立ち上がって、とにもかくにもアメリカに
キャッチアップしなければという時代が長かったので仕方がない面はあります。
だとしても、関心事が経済やビジネスに偏りすぎているように思えてなりません。
 日本人も、かつてはもっと人生をエンジョイしていました。
室町時代には奇天烈な装束を身にまとった武士が大勢いました。「婆娑羅大名」
や「傾奇者(かぶきもの)」と呼ばれた人々。いまで言うパンクファッション。
日本人は元来、楽しむことが大好きな民族なのです。
 戦後このかた、そういう感覚が追いやられすぎていたのではないか。
人生をもっと楽しむ心があれば、人間的な幅が広がり、魅力がより醸成され、
個人として熟成されます。突き詰めて言えば、教養とはそのためのツールに
すぎないのです。
 教養を身につけるには、ある程度の知識が必要です。教養と知識は、不可分の
関係にあると言っても間違いではありません。しかし、勘違いしてはいけない
のは、知識はあくまで道具であって手段にすぎないということです。
決して知識を増やすこと自体が目的ではありません。
 知識が必要なのは、それによって人生の楽しみが増えるからです。
サッカーを知らなければテレビでワールドカップを放映していても面白くも
何ともありませんが、サッカーを知っていれば最高の時間になります。
知識はその人の興味の範囲を広げてくれます。それが「教養化した知識」です。
 別に興味の範囲を広げようなどとは思わない、面白いことは一つあれば十分
だという考え方もあるかもしれません。もちろん、それはそれでいいのですが、
興味の対象が多ければ多いほど、本当に自分が好きなものや、打ち込めるもの
が見つかる確度が高まります。つまり、選択肢が広がるのです。自分が本当に
好きなものは案外見つからないものです。面白いことが多いのは決して悪い
ことではないでしょう。 また、面白いことは一つで十分だと考えていると、
食わず嫌いに陥る可能性があります。食べてみたらすごくおいしいと感じる
食事であっても、食べてみなければそのよさは分かりません。≫
――
▼ <「教養とは、人生におけるワクワクすること、面白いことや、楽しい
 ことを増やすためのツールです」でなくとも、広く深い知識は必要である。
その質量が視界と行動を促すことになるからだ。著者が、教養を広めるに、
「旅」が非常に有効という。私の旅行はパックツアーが主だが、最終日の
ホテルは主要都市の豪華ホテルと、美術館と史跡が組込まれている。 
秘異境ツアーには、アフリカ大陸や、南米大陸には、大自然、史跡などの
文明、乗り継ぎの主要都市には観光地と美術館・博物館巡りがセットされる。
この、どちらかというと、オマケも、回数を繰返すうちに目が肥えてくる。
「わくわく、どきどき」することを求めると、それが教養として身に付く事例
である。人生にとって遊びほど大切なことはない。問題は、「良く遊ぶこと」
その「良く」は、世間により淀むが、その解放から質的にレベルアップする。
 < 達磨さん、ちょいとこっち向け、世の中は、月雪花に酒に女だ >
・・・・・・
5154,知の逆転 〜?
2015年04月25日(土)
           ー知の逆転ー 対談相手〜マービン・ミンスキー
   * ユングフロイト
 ユングフロイトについてミンスキーはフロイト寄りの論だが、説得力がある。
私自身、ユングのいう、「意味ある偶然の一致」=シンクロニシティ共時性
の体質?が少しあるので、ユングに傾倒していたが、違う論も面白い。 
  ーその辺りを抜粋 〜P195
≪ ーあなたは人工知能に関連して心理学の分野も研究されるわけですが、
 以前「カール・ユングの人気は全くおかしい」とおっしやっておられました。
 なぜそのように考えておられるのでしょうかー
ミンスキー: カール・ユングは科学分野からとうの昔に消え去ってるでしょう。
  ーそれに異論がありませんが、フロイトはどうでしょうー
ミンスキー: ジークムント・フロイトはなかなか興味深い人物です。
 たくさんの新しいアイディアを持っていましたが、あまりに時代に先駆ていた。
たとえば、神経系の中をいかに情報が伝わっていくかについての理論を、早く
から論文にしていたけれども、一九五〇年になるまで活字にならなかった。
神経細胞がどのように情報を伝達するか、それが経験によっていかに変わって
いくかなど、さまざまなアイディアが入っていたのですが、あまりにも当時の
他の理論と異なっていたために、なかなか出版されなかったのです。
フロイトの学生だったユングは、面白い理論を構築し始めます。その過程で、
異なるいろいろな文化が実は同じようなアイディアを持っていたことに気づく
わけです。たとえば、それぞれの文化の伝説や神話がやたら似ているとー。
 悪い行いをすると神様が出てきてその行いをこらしめるといった話ですね。
だからユングは、全ての人々の心は、何かテレパシーのような神秘的な方法で
コミュニケートしているんじゃないか、と考えたわけです。これに対して
フロイトが怒って、以来、二人は二度と口も利かないようになった。
互い相手の主張がばかげていると思ったんですね。ばかげていたのは明らかに
ユングのほうでしょう。でも、いまだに多くの人々が、彼の説を良しとして、
意味のある心理学だと思っているようです。・・・ ≫
▼ 改めて、フロイトユングの違いをダイジェスト的に論じているが、
 色いろ相まって人間の心は構成されているため、フロイトの考えだけでは
限界があるし、ユング霊性も限界がある。ネット社会で、共時性が如何に
意味を成していくか、失っていくのか? 対談者とインタビュアーは、後者
のようだ。ネットが共時性そのものに、なったため、それが如何した?
レベルになった? 生物、人間が進化してきた過程で膨大な経験がある。
・・・・・・
4789,葬式は、要らない ー2
2014年04月25日(金)
           「葬式は、要らない」島田裕己著
   ーアマゾンのレビューよりー
《 過激なタイトルだが、葬式が「要らない」のではなく、そんなに
 金をかけるものでは無い、と言いたいのだ。「高い高い」と言われても、
何もお寺が強要してる訳でもなく、また業者も商売なので多少の出費は仕方ない。
人が嫌がる、または面倒な事をお願いするのだから。また諸外国と(金額の)
比較をし、日本が異様に高いというが、国柄や文化がそれぞれ違うのであまり
参考にはならない。要は個人個人が思うようにすればいいだけの話。
 でも日本人はそれができない。冠婚葬祭に関しては世間体やら周りの目を
気にする体質ですから。ある意味、日本に住んでる以上葬式にお金がかかるのは
仕方の無い事かも。日本人は世間体を絶ず気にする。それがあらわれるのが葬式。
布施や香典は行う側の気持ちによるとされてはいるものの重視されるのは、自分
がいくら出したい・出せるかではなく、他人がいくら出しているのか、である。
こうした感覚が日本人のなかに育まれる上で重要な働きをしたのが村落共同体の
成立である。江戸時代に入って寺請制度が導入されたのは大きな意味をもった。
すべての村人は村内にある寺の檀家になることを強制された。よって村人は
必ず仏教式の葬式をしなければならなくなり、戒名も授けられた。
 仏典は膨大な数が存在するが戒名についての説明はない。仏教が広まった
地域のなかで戒名という制度が存在するのは日本だけ。初期の仏教はインドで
生まれ主に東南アジアの国々に広がった。その後生まれた大乗仏教はインドから
中国に伝わった後、朝鮮半島や日本に伝えられた。最後に生まれた後期密教
チベットに伝わった。 出家した僧侶がその証に戒名を授かる点は日本も他の
仏教国と同じだが、一般の在家の信者でも死後に戒名を授かるのは日本にしか
ない制度だ。しかも日本は出家であるはずの僧侶が妻帯し戒律を蔑ろにしている。
破戒の道をたどっている僧侶が授戒を行い矛盾している。多くの宗教にも出家の
制度は存在しない。あるのは仏教とキリスト教カトリック東方教会だけ。
仏教でも本来、出家した人間に僧侶としての名前が与えられるのであって、
俗人にそれが与えられることはない。が、日本では禅宗で在家の信者の葬式の
作法が確立され、その際、いったん出家のかたちをとらせたため戒名が授け
られることになった。寺にとって財政を支えてくれる檀信徒の存在は不可欠で、
寄進された土地や田畑は寺領として寺の維持に貢献した。が、明治に入り寺請
制度は廃止され、寺領は召し上げられた。奈良の寺々は葬式仏教の前の時代に
創建されており境内に墓地を持たず檀家も存在しない。寺領没収後は他の収入の
道を確保せねばならなかった。境内に墓地を持ち地域の住民を檀家として
かかえる一般の寺院は葬式仏教の道を歩むことで生き延びることができた。
寺は檀家の布施がなければ寺は成立しない。戒名料が高騰するのは戒名の本質
死後の勲章だからであり、立派な戒名が葬式を贅沢なものにしていく。
が、戒名のあり方や戒名料への批判はあっても改革が行われないのは寺院経営
の問題が深くかかわっているからである。寺は宗教法人であり、檀家は法人を
構成するメンバー、つまりは信者である。・・・ 》
▼ 上記の内容は、この情報化では一般的に周知のこと。ますます、お寺は
 衰退し、墓参り仏教も、変化する。戒名など、いらないし、年内に自分で
つけた戒名の位牌をネットで注文しようか、そんな必要もないか?
私の場合、家族葬で20人ぐらいで、葬儀社の指定した僧侶にお経をあげて
もらって、それで御終い! それを、むしろ願っている。死んでしまえば、
それまでよ! である。 墓は、このブログで充分!