* 書きネタが無いと、御呼びですか!
大家さん: 書きネタが無くなると、御呼びですか。仕方がないがね。
熊さん: 北朝鮮が、オリンピックに参加だってさ。有得ないと思ってたがね。
寅さん: 精一杯の虚勢さ。まあ、物資不足は明らかだこそ、ここが土壇場。
    国そのものが張りぼて。よくぞ、やってるよ。そろそろボロが出るさ。
大家* 中国が、本気になってきたからね。そこに、韓国が抜け駆けをして、
   オリンピック参加の勧めの尻尾振りをしたから、アメリカと中国は動転?
   韓国も開戦ともなれば、百万、二百万の死者も出るから、解るがね。
八っあん: この時節に冬季オリンピックとは、何でまた?の疑問が残るね。
   ここまでは、手を出せまいという思惑のためですか。
熊さん: これほど辛辣な挑発を繰返したのだから済やしないよ。
寅さん: 何かマンジリしなかったが、数ヶ月の猶予期間を稼げただけでも
   良しじゃないかい。ただ間延びをしただけだと思うけどね。
八つぁん: どうも私たちの心の底には、最悪の事態を期待する悪魔が存在
   しているところがあるね。アメリカ人なら、まさか大陸間核ミサイル
   が飛んでくるとは思わないから、今のうちにヤッチマエと。
熊さん: どうも朝鮮半島問題は暗くなるから、大相撲の話題にしましょうや。
   といっても、これはモンゴル人問題になるか。 …でも気が晴れるね。
大家さん: 朝青龍白鵬が長年かけてつくり上げた「横綱アドバンティジ・
   システム」が、露わになり、使えなくなったから、今までとは違うよ。
   これは八つぁんが創った造語だけど、ズバリ言当てているね。
八つぁん: それでもやってくる可能性があるね。貴乃花の母親に手紙でも
   出して、バラエティで10回、このキーワードを繰返せば、ポチとはいえ、
   立合いの張り手を禁止条項にせざるを得なくなるね。
熊さん: 「横綱アドバンティジ」の実情を聞いて、白鵬と遠藤の立合いを
   見てから、白鵬への見方が全く変わったよ。 大陸と島国の考え方、
   体質の問題になるよ。開放したのだから…云々か、日本の国技だから、
   島国用に合わせなければならないとか…。確かに難しいのは解るけど。
大家さん: 白鵬への大横綱とかいう特別視が無くなったのは大きいね。
   新弟子からして誰も偉大な力士と思わなくなってしまったのは、本人に
   とって衝撃さ。でも、その孤独こそ、最も大事なことだが、その自覚は、
   逆上せガエルになった当人には、土台、無理だろうね。
八つぁん: 今場所は、色いろな面で面白いだろうね。大鵬の孫もデビュー
   するしね。ところで、先日、元・琴欧州が開いた小部屋のブルガリア
   の新弟子のドキュメントを見たけど、一人の新弟子の稽古の激しさが
   直接、伝わってきたね。土俵の中でのド突きあい、殴りあいだね。
   あれじゃあ、強くなるわけだ。
大家さん: 私も見ていたが… 他の部屋の幕下力士が「御前は気が弱い!」と
   注意していたのが、本人には堪えたようだね。「自分は東欧から遠来して
   いるだけでも気が強いはず。何で気が弱いと言わなければならないのか!」
   と…。 幕下力士は、「気が弱い」と、「気が優しい」の言い違いを 
   していただけ。気が優しいのは、気が弱いとは、違うのさ。
熊さん: こういう問題があるからこそ、面白いんだよ。白人、赤、茶色の
   人種が肌の色を超えて戦うからさ。俺も、哲学的になってきたね。

・・・・・・
5782,多国籍タウンで夢を追う
2017年01月13日(金)      
    < にっぽん紀行:オオクボ・ドリーム
     〜東京大久保 多国籍タウンで夢を追う〜>
            2017年1月9日放送(18:10〜18:45NHK総合)
  * Tokyo Okubo 外国人の夢 行き交う街で
 大久保が今では町全体が外国人街の様相を示していると、以前から聞いていた。
その実情を外国人の目線からレポートした内容で、非常に興味を持ってみた。
世界各国、特にアジア各国から重い事情をもって来日して必死に働く彼らの姿は、
アジアの縮図を見ているよう。一つ間違えると、不法労働者として、国外追放に
なる立場。貧しい母国には仕事も希望もない。ネット検索に「大久保ドリーム
NHK」と入れると、以下の通り要約した紹介があった。舟板一枚下は奈落の底。
≪ よく大久保を訪れるというレポーターが大久保を案内。ホットク、ケバブ
 など世界の食にありつけると紹介。この街の住民の3割が外国人、彼らは夢を
求めてやってくる。バブル景気を境に大久保には外国人が増え始めた。商店街
では、インドネシア語や中国語、ロシア語など様々な言葉で放送が流れる。
外国人が経営する店も軒を連ねる。一方で移り変わるも激しい。
パキスタンからやってきたシャヒーンさんは、大久保では名のしれた実業家で
アリババと呼ばれ、タイ料理店を10店舗展開している。 アリババはつねに
新しいビジネスを探している。この日も不動産業者と交渉していた。
アリババは、この街には面白さがいっぱいあると話した。
★インド出身の料理人、モハメド・ユースフさんは、一旗あげたいと日本に
やってきた。得意料理のニハリや、ビリヤニを紹介した。給料は手取り16万円、
5万は家族へ仕送り、3万円は小遣いで、のこりは貯金している。自分の店を持つ
のが夢だと話した。ユースフさんは店の近くのアパートで、同僚と一緒に暮らす。
彼にはインドに妻と3人の子どもがいる。いつか家族を日本に呼びたいと話した。
メインストリートから一歩入った住宅街には多くの外国人が住んでいる。
ユースフさんが働くインド料理店の2階にはモスクが作られた。また、キリスト
教教会には以前からの韓国の人に混じって、フィリピンやベトナムなど7カ国の
人たちがやってくる。 ユースフさんは、ランチタイムの客の入りが悪いことが
気になっていた。2日後、ユースフさんは道でチラシを配っていた。チラシを
見て、店を女性が訪れ、おいしいと話した。仕事の間、ユースフさんはインドの
妻に電話をしていた。今年中に日本に家族を呼び寄せるつもりだという。
ミャンマーからやってきたチッピョンさんは娘のパンズンさんと8畳一間で暮ら
している。ミャンマーの地方の町で家族5人で暮らしていたが、軍事政権で身の
危険を感じてチッピョンさんが日本に、その後、娘を呼び寄せた。娘は日本語を
勉強している。午前4時半、チッピョンさんは仕事にでかけた。夜は居酒屋で
アルバイトをしている。娘の学費70万円を稼がなければならないのだ。時給千円
前後のアルバイトで生活を繋いでいる。そのころ娘は昼ごはんを作っていた。
チッピョンさんが戻り、2人で昼食を食べた。食事の後、チッピョンさんは仮眠を。
★大久保の路地裏にある仏堂は、中国や台湾の人たちが多く訪れる。12月上旬、
中国出身の高さんが訪れ、写経をしていた。100ページ近い写経をやりとげる。
高さんは、10年前に来日。沖縄や大分のホテルで働き、10日ほど前に契約が切れ
仕事を失った。仏堂の管理人、游人樺さんは、高さんを気にかけていた。いつも
は6時に仏堂を閉めるが、高さんのために空けていた。翌朝7時、写経が完成し、
仏様にお供えした。高さんはこの仏堂の近くに住んでいたという。車に家財道具
が詰め込まれていた。しばらく友達の家を転々とするという。大家さんの好意で
車だけ置かせてもらっていた。高さんは「ありがとう」という曲が好きと聞かせた。
高さんは、故郷に錦を飾れるようになってから帰りたいと話した。≫
―――
▼ シリアスな内容で、身近にアジアの底辺の窮状を見せつけられる。彼らは
 隠れ経済難民で、これでも故郷の生活からしたら恵まれているのだろう。
難民受入れに厳しいと言われても、観光ピザで数知れず流入している実情がある。
自宅の目前にアパートがあり、東南アジア系の若者が住んでいるが、騒いでも、
何ら気にならない空気のような存在。<アメリカの中・下層白人が、トランプを
支持するのが分かる>と思う日々が遠くない将来、やってくるのだろうか。
アメリカの大部分の被支配階層の人たち、いつか当ててやろうと信じている
から絶対格差に耐えられるという。
・・・・・・
5417,人生で最も大切な技術 ー?
2016年01月13日(水)
       『幸福の探求―人生で最も大切な技術』マチウ リカール著
   * 幸福の探求
 図書館でみつけた非常に面白い本。当分、細部の知識化のため、
24の各章をテーマとして取上げる予定だが、それだけの響きがある。
 フランスの知的環境の整った家庭で育ったエリートが、チベット仏教
ひかれ、それまでの業績をすべて捨て、ネパールの僧院で30年以上の修行を
行なった後、現在はダライラマ法王のフランス語通訳やインタビュアーの役を
任せられ法王の協力で行なわれている「心と生命会議」なども参加している。
 この経歴で、「世俗的な精神性」の幸福について書いているため、いずれの
言葉も心に響く。 新年早々、現在の私には得難い指導書になる予感がする。
  〜まずは、アマゾンの内容紹介〜
≪ リカール,マチウ: 1946年フランス生まれ。チベット仏教僧。
 パストゥール研究所のノーベル医学賞受賞者フランソワ・ジャコブ教授の
指導の下、分子生物学の国家博士号を取得後、チベット語を学び、仏教修行の
道に入る。チベット仏教の文献を欧米に翻訳・紹介、ダライ・ラマ14世
フランス語通訳も務める。フランスにおいて細胞遺伝子の分野で将来を嘱望
された研究者の経歴を放棄し、ヒマラヤ山間で仏教僧として35年間修行に専心。
現在は著述家、翻訳家、写真家としても活躍するほか、瞑想の脳に及ぼす効果
に関して展開中の科学研究にも参加。チベットとネパールを生活の拠点として
人道的プロジェクトに従事する。 ≫  
  〜リチャード ギアの内容紹介より〜
≪ マチウ・リカールは、深い思いやりとシャープな論理性と、思わず笑い
 出してしまうユーモアも交えて、人間の可能性に関する偽りを暴き出し、
これまでの仮定に反駁してくれた。‘本物かつ永続的な幸福が可能であるのみ
ならず、幸福は人間の生得権である’ことを明確に示した。我々の中で最も
叡智に富み、最も信頼に値する友人による類い稀なる書である。≫   
▼「はじめに」で、《 本書がフランスで出版されるやいなや、喧々轟々の
 議論が全国で沸き起こった。インテリ層は幸福には関心がない、という意見
を明らかにして、技術として習得することが可能である、という私の議論に
一切耳を傾けようとしなかった。ある作家は、「幸福を逆手に取って人心を
惑わせるのもいい加減にしてほしい」と詰問するような記事を書いている。
挙句の果てに、「幸福の妖術師」と題する雑誌の特集記事まで出る騒ぎに。
パリでの議論やマスコミとの応酬で散々な目にあい、ばらばらに崩された
ジグソーパズルのひとかけらのような自分を見る思いがした。ネパールの山に
戻り、元の生活を始めたことが無常の喜びとなった。以前よりは確かに多忙に
なったとはいえ、ネパールのシェチェン僧院を本拠地として、ヒマラヤを
見上げる隠遁生活を年2ヵ月程度することにしている。》と、あった。
 一冊の世俗的な『幸福本』に、フランスのインテリ層が、ごうごうたる
議論を起きたのは、35年のチベット仏教修行の裏づけのある内容なら、
インテリ総掛りでも論破できないはず。「幸福の妖術師」良いじゃないか!
 素晴らしい魂との出会った思いである。 〜で、以下につながっていく。
・・・・・・
5052,生と死をめぐる断想  ー5
2015年01月13日(火)
            『生と死をめぐる断想 』岸本葉子(著)
  *「いのち」に「わたし」がいっとき宿る 〜玄侑宗久
而今」とは、今のつらなり。あるのは「今」「今」「今」だけである。
 禅とは、この「而今」を繰返づことで、「わたし」の輪郭を薄くする行。
成るほどである。今、この瞬間が永遠のときの一端がある。
瞑想は「わたし」という「閉じた系」から「いのち」を開放するものだと。
  ーその辺りから抜粋ー  〜P90
≪ 暗唱をしているとき意識は「而今」にあると、玄侑氏は言う。
而今」とは目的論も因果律も届かないような、三昧にある時だそうだ。
たしかに、すでに口から出て過ぎ去った音を意識が追いかけたり、
次に出す音を頭の中で先取りしたりすると、とたんにつかえる。あるのは
常に「今」「今」「今」。音の連なりは、すなわち「今」の連なりである。
暗唱をするとき、その間だけでも「而今」を体験している。(略)・・ 
 玄侑氏も認めている。人間である限り「わたし」を完全に「なくす」こと
などあり得ない。であるからこそ禅は「而今」を繰り返すことで「わたし」
の輪郭を少しでも薄くしたいと願うのだという。
 玄侑氏が再三書いているのが、「わたし」と「いのち」の関係だ。
「いのち」は「わたし」の生れる前からある。
「いのち」に「わたし」がいっとき宿るのだと。
「いのち」が存在の実相で、「わたし」は頭で作り上げたフィクション。
 はじめにそう読んだとき、逆ではないかと私は思った。
「いのち」が「わたし」に宿っている、「いのち」が「わたし」の一部だろうと。
なぜって私の体の諸器官が停止すれば命は終わる。たしかに、私の体が土に還り、
その土から芽が出て、その草を虫が食べて、虫を鳥が食べてといった意味での命
の連続はあるだろう。が、それは灰を収めた骨壼も壊れて形をなくした後という、
相当に長い年月のことだ。頭では理解できても、実感からはかけ離れている。
植物も動物もひとつの生態系をなし人間もそれに属するもの、といった類の知識、
それこそ知性によってとらえられるものだろうと。
 自分の命があと数年単位なのか数十年の単位なのかと気を張っている、
そんな長いスパンの命のことを考えられない、という反発もあった。
が、往復書簡をするうちいつの間にか、「わたし」が「いのち」にいっとき宿る、
「わたし」<「いのち」という発想が自然なものになってきた。・・ 
それとは別に、「わたし」を超えた何かもっと全体的な何かがあるらしい
ことを感じるようになってきた。・・ ≫
▼ {「いのち」が存在の実相で、「わたし」は頭で作り上げたフィクション
 でしかない}という玄侑宗久の言葉に近い{大自然が元もと存在していて、
自分の姿を見いため人間をつくった}を、何かの宗教書で読んだことがある。
地球上に生まれた生命が延々と時間をかけて、この「わたし」が存在する。
その全てを経たものを「いのち」というなら、その「いのち」にいっとき
宿るのが「わたし」というのは当然である。死ぬのは、それから離れるだけ。
・・・・・・
4687, エッセイ力は人生力 ー2
2014年01月13日(月)
              「60代からのエッセイ教室」木村治美
  * エッセイを書く目的と、日記との違い
    ーまずは、その辺りの抜粋より
《 あるエッセイ教室の作品集を読んでいたら、はからずも、エッセイを書く
 目的を端的にいい当てた文章に巡りあった。その文章は創刊号であるためか、
おのおの、自分の作品のあとに、小さなコラムで、なぜこの教室に入って
エッセイを書くようになったかの動機を綴っている。ひざ思わず膝を打ちたく
なったのは、つぎの一文であった。「エッセイを書こうと思うようになったのは
十年前のこと。それまでは、日記に思いを記していた。心の重荷をおろすように
書いていたが、後日、読み返すと、もっと心が重くなった。物事の見方、人の心
の動きを観察することで、誰が読んでも傷つかない文章を書きたくなった。
きれいごとのとらえ方ではない。考えることで、自分を成長させたい」
 ここにはエッセイが日記と異なる点が、自分自身の体験から、明確に意識
されている。感動的ともいいたい鋭い「気づき」である。エッセイには自分自身
がどこかに登場していなくてはならない。しかし難しいのは、書いている自分と、
書かれている自分との間に、距離をおくことである。自分を他人のように
客観視すること、といい直してもよいだろう。日記ではこの客観化がなされ
にくい。恨みも痛みもドロドロのまま流しこむ。恥も外聞もなく。どうせ自分
以外に読むひとなんていないのだから……。しかし、「後日、読み返すと、
もっと心が重くな」るのはなぜだろうか。日時がたったことで、やや他人に
なった自分が読むからである。おそらく、書いたのが自分であるだけに、
ヘドが出そうになったであろう。自己嫌悪である。そこで、「だれが読んでも
(つまりあとから自分が読んでも)傷つかない文章を書きたくなった」のである。
それには、教室という読者のいる環境で、「物事の見方、人の心の勤きを観察」
しようと思い立った。それが自分を成長させる。そう、日記は記録とはなり
えても、以上に述べたような効能は期待できない。・・・ 》
▼ この随想日記の「閑話小題」は、エッセイそのもの。だから読書日記の
 メモ的のものより面白い。これを書くときは、ネタ切れのケースが比較的多い
ため、苦し紛れで日常の身近なことを書くしかない。それが面白みを出すようだ。
だから、何気ない日常の現象と気持ちを書いている「バードウォッチ」の内容
こそエッセイになっている。そのため、時どき、切り取って、「閑話小題」
に転用する。何気なく思っていることを書き出すと、ハッとすることがある。
人はそれぞれの心の中で様ざまな思いを数限りなく繰り返しているが、
そこにこそ砂金が混ざっている。それを取り出し、書き出すのがエッセイの目的
であり、日記との違いになる。日記は他の砂も含まれるし、それも必要とする。
・・・・・
4320, 病気の9割は薬なしで治る
2013年01月13日(日)
        「病気の9割は薬なしで治る」 高田明和 (著)
 図書館で借りてきたが、成るほど面白い本である。母親の末期の入院などで、
現在の医療制度と病院に不信感を持っているが、それでも日本の医療制度は世界
で一番良いというのを知り、あまり声高に批判はしなかったが、良くぞ書いて
くれた内容。大方は知ってはいたが、あくまでも病院・医院の経営体の中の医師
の立場があり医師の倫理だけではやれないのも事実。
  ー内容説明(アマゾン)ー
「五分五分です、と言われた手術は8割成功する」「余命○年の本当の意味は?」
「薬は10種類知っていれば何とかなる?」「みんな最後の医者にはなりたくない」
「医者ランキングの正しい判断基準とは?」・・浜松医大名誉教授が名誉を
捨てて?、患者に言えない医者の本音、実態を暴露した超問題作≫
  ーまずは概要ー
≪ この本は、医者の立場に本音が紹介されている珍しい内容。 日本全国
 約28万人の医者が使うマジックのネタ明かしをしている。今や医者から
みたら患者は、患者様=「お客様」である。下手に「大丈夫、安心してください」
というと、何年後かに病気になったときに、ああ言われたから、安心していた
のにと文句を言われる。だから代わりに「お若いですね」というケースが増える。
「お若いですね」とか、「心臓が実年齢より20歳は若いです」とかいうのは
医学的根拠がない。少し変と思って病院に診察に来て、何ともないと不安になり、
「どうしてこうなるのですか?」と聞かれた場合は、中年女性の場合、最も良い
のは「更年期障害」です。これは卵巣の機能が衰えて閉経を迎える時期に起こる
病気で、症状は、腰痛、のぼせ、動悸、間接痛、頻尿など、人によって違って
さまざま。しかし、これは重い病気でなく、ある時期が来ると治るもの。
これは誰も、ある年齢にくればかかるもので、「不摂生のためでなく、
本人の責任でない」という思いが安心感につながる。
 近年、精神的な問題で身体の具合が悪くなるケースが激増しているが、
病気になったのは自分の責任と思わせないことが重要。その場合、ウツ病とか、
気の病とか言うのを患者は嫌う。一番、抵抗なく受け入れられるのが、
自律神経失調症」。「自分の気が弱いのでなく、自律神経が弱ったため」と、
いやに納得する。 しかし、実は欝病でしかないのに・・ お医者さんが、
「とりあえず薬を出しておきます」という言葉にマジックがある。
これは、「別に薬を飲まなくてもいいけど、患者さんが安心するから一応出して
おきます」という意味。 加齢による病気は薬では治らない。 食事療法と、
運動しかよくならない。私の知人は、「加齢による病気は時期がくれば治るって
みんな案外知らない。だから、ある薬を飲み続けるようにしておけば、必ず治る。
そうすると、患者から勘違いをされて痛みが消えたときに感謝される」という。≫
▼ 医者といっても、少し考えれば分かるが、身体と脳の修理屋。
 それも経営が重視されれば、患者の思っている医師像とは掛離れて当然のこと。 
命にかかわる仕事のため、勝手に医師も患者も聖職と思い込んでいる。
命にかかわるなら、新幹線やタクシーの運転手も同じ。 ところが情報化で、
その実態が暴かれて、以前とは違ってきた。とはいえ脳卒中やガンで倒れれば
医師に頼るしかない。 医師は激職、よほどの使命感がなければ勤まらない。