* 大いなる判断ミス
・あと4日で衆院選挙が実施される。安倍首相の疑惑隠しと、民進党の自壊に
つけこんだ解散であることは自明。「希望の党」の設党の勢いからして、
「もしや?」の可能性もあったが、舞上がった小池が大失敗をした。民進党
自民党一強体制の破壊のため頭を下げ、解党までして合流しようとした矢先、
「左翼と、元・元首を、さらさら入党させるつもりはありません!」の一言
で、自民党大敗の流れが大きく変わった。安倍打倒で結束していた対立軸
がブレタのである。その一言で、私も「小池はダメ!」と変心をした一人。
白け、冷静になったのである。結果論になるが、「まず全て取り込み勝利し、
その後、解党なり、排除すれば良かったのである。
・それに第二次朝鮮戦争の勃発への危機感が日ごと高まりもある。北朝鮮
とって核弾頭ミサイルの脅しには日本ほど好都合な国はない。やり返せない
のである。開戦ともなれば、首都圏と原発基地近隣の被害は甚大になる。
最も心配していたのが自宅から30キロ先にある柏崎刈羽原発への攻撃だが、
この緊迫した世界情勢の中、大国とわたり合えるのは、安倍首相しかない。
皮肉にも拒否された左翼系のグループの立憲民主党が予想以上の伸び。
私は、まだ誰に投票するか様子見… 安倍首相と小池とれば、「希望」より
政治経験の深い安倍に傾くのは自然の理。となれば「政権交代はない!」。
 <稼働をしてない原発は、空箱と同じ>と知り、安堵。興味本位で言えば、
今回の総選挙ほど物語に満ちた選挙はない。 小池もタレント議員上がりの
都知事の器。それだけでも充分に御立派。今は「万一」に備える時節になる。
 恐ろしいのは戦争の惨劇がリアルに世界中に垂流されること。それと難民!

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5695,閑話小題 〜県知事選の結果に
2016年10月18日(火)
  * 県知事選の結果には驚いた
 先週の木曜日に近くの従兄が亡くなったこともあって、県知事選と、
長岡市長選を全く忘れ、むろん、その結果も知らなかった。翌朝になって、
家内から「森市長が負けた」と聞いて、耳を疑った。 家内も、
「昨夜半、森市長が勝つと思っていたので選挙結果に吃驚した!」という。
 忘れてなかったら、長い目で、森市長に投票と決めていた。その直前まで、
アンチ建設省米山隆一に投票に決めていたが、改めて自頭で考えてみて、
長岡市長として実績と、安定した業績を考えて比較したところ、森市長が、
県知事に向いていると判断を切替えていた。
 以前、30年間、新潟駅前で事業をしていたこともあり、県知事関係者から
相談を受けた大学ゼミの後輩の「道路アクセスと経済効果」の専門家に、
「停滞する新潟県の発展には何をしたら良いか?」と、相談され、
即座に、「新潟駅から新潟飛行場までの新幹線の延長」を提案した。
そして、有志を集めて、その利点を幾つかあげて議論いるうち、新潟駅
空港を結ぶ沿線に多くのプロジェクトの絵図が浮かんでいた。
 元建設役人の森市長なら、それを熟知しており、最後の政治生命をかけた
政策としたと推測される。
 米山新知事、新潟が今も昔も、「江戸の天領」が見抜けるか疑問である。
泉田知事は、その重要性に気付いてなかった! 気づいても、プロジェクト
を推進するには実力不足を自覚していた? 僅差でもない結果は、国家として?
原子炉再開に慎重な泉田知事を追い落とした自民党に対する反対とすると、
新潟県民の良識は満更でもないと知った。もし、安倍政権が自滅の道を歩む
とすると、この知事選挙が大きな道しるべになる。17年前に、新潟県知事
を、泉田と、森の何方かを選ぶかの自民党の裁定が、泉田。今から思うに、
森の方が遥かに、新潟県にとって良かったのでは。 
 それからしても、『森県知事』が、『米山県知事』より、良かったはず。
17年前の市長選で、『米山長岡市長』より『森長岡市長』が良かったように。
市長、県知事は、住民にとって未来の選択。 東京都知事選挙のように。 
ただし、米山隆一には県知事としての「大化け」のノビシロを持っている?
《 ★ ー新潟 与党敗北で再稼働困難に 10/17(月) 産経新聞 掲載 ー
 新潟知事選で与党敗北 野党系・米山氏当選 柏崎刈羽の再稼働困難に
 任期満了に伴う新潟県知事選は16日投開票され、無所属新人の医師、
米山隆一(49)=共産、自由、社民推薦=が、前長岡市長の森民夫(67)
=自民、公明推薦=ら無所属新人3人を破り、初当選を果たした。
東京電力柏崎刈羽原発(同県柏崎市など)の再稼働に反対する共産党など
野党の後押しを受けた米山氏の当選で、政府や東電が推進する再稼働が困難に
なる可能性がある。投票率は53・05%で、過去最低だった前回の
43・95%を9・10ポイント上回った。(産経新聞)》

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5330,閑話小題 〜メガネ店に隣接したコンタクト専門店
2015年10月18日(日)
   * メガネ店に隣接したコンタクト店
 あと三ヶ月で自動車免許の書き換え。毎回、問題は眼の検査がギリギリ線上。
その都度、何とか合格してきた。70歳誕生日の免許書換えの法定講習会に
行ってきたが、その検査では今回は無理。レンズの入替えか、コンタクトか、
白内障手術かの判断。で、「メガネスーパー長岡店」に、問い合わせの電話を
入れると、一度、コールセンターにつながり、眼医者が、(週3日だけ待機)
する隣接するコンタクト専門店を紹介された。こうしないと、店単位の判断
のため、コンタクト隣接店の紹介をさせないための対策だろう。
 で、昨日、早速、紹介された店に行ったところ、強度から、メガネでも何とか
合格ラインのレンズにすれば、クリアするという。そこで、コンタクトのコストと、
レンズの値段を聞いたところ、コンタクトなら3分の1という。コンタクトの選択肢
は考えてなかったので 判断は二日後に延ばすことにした。 ちなみに値段は、
一日使い捨ての30個入りのソフトコンタクト(乱視用)で、7千〜8千円。
コンタクトは20歳代に10年間近く使ったことがあるたって抵抗感はないが、
一つ位、クリアするレンズも必要?レンズの入替えか、コンタクトか迷うところ。
現時点ではコンタクトだが? コンタクト専門店で判断予定!
   * やはり原監督が辞意
 昨日のヤクルト対巨人戦は、20分位で他のチャネルに変えてしまった。
巨人の対戦相手を原監督の来年の姿を見たくないため、応援するのも複雑
な気持ち。原の監督年齢が、既に過ぎてしまっていたのは誰の目にも明らか。
今朝のヤフーのニュースに、<負けて決勝に進めなかった結果、辞意を表明>
と載っていたのを今朝になって知った。これで良いのだろう。ドラフトがある
ため、早々、監督の人選になるが、一時的に江川か、正当なら桑田か、巨人の
コーチ陣の中からか、この数日は面白くなった。原監督は、総括として、
歴代の上の部類に入る名監督である! 巨人のGMに留まるか、一度、
すべてを脱ぎ捨て、数年、休むか? やはり、一度、休むがよい!
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4965,閑話小題 ー誇りを持つのはいい、誇ってはいけない
2014年10月18日(土)
   * 誇りを持つのはいい、誇ってはいけない
 誇りの持てない人こそ誇りたがる?それ以前に、誇りとは、どういう意味か。
ネット辞書によると、「その者自身の具体的な長所や美点に対する心理」
「名誉に思えること」 自信がないと、虚勢でそれを現出させがちになる。
隠せばこそ誇りとして、熟成されるが、ついつい、見せて誇ってしまうのが、
人間の性である。他人を見ていると、それが分かるが、自分のことになると!
誇りの逆が卑屈だが、これを、この言葉に当てはめると、
「落ち込むのは仕方がない、卑屈になるな」になる。 
ほおっておけば、老いるほど卑屈になるは!
   * 人と違う生き方は孤独のようだが、実りは大きい
 意識するしないにかかわらず、それぞれが人と違う生き方をしている。
ただ、人を意識しなければの話。スポーツジムのヨガに週2〜3回、二年半、
参加してきたが、少し暗がりの中で毎回のように言われるのが、
「各々のマットは、各々の全世界です。周囲の人を意識しないで、自分だけの
世界に入って下さい!」である。実際に参加していると、殆どの人が、忠実に
自分の世界に入りきっているのが分かる。人と違う生き方は、人を最小に
意識した生き方ということになる。その第一歩が、人と比較しないこと! 
その為には、まずは、自分の好きなことを長年かけて続けること。
それには孤独の世界を大事にしなくては。
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4598, 読書という体験  ー1
2013年10月18日(金)
      「読書という体験」 岩波文庫編集部 (編集)
 読書を体験として捉えるところが面白い。
それも色いろな分野の識者の体験談?だから惹きつけられる。
   ーアマゾンの内容 よりー 
【熱い気持ちで読んだ本で経験したことの方が、実際に経験したことより
 今日の私にとっては何倍も大切な思い出になっているのだ ―香山リカ
 「読書だって“人生経験”」(学者、作家、)ー ジャーナリスト、
 俳優など、三四人の多彩な筆者による、さまざまな読書という体験。】
 まずは、読んだことのある著者から取り上げていくが、
 特に藤原正彦の内容が良い!
   * 教養を培う  ―私の「読書ゼミ」 藤原正彦 
NHKによる最近の読書調査を見ると、中学生.高校生がいかに本を読まないか、
 あらためて愕然とする。平均読書時間は一日に数分である。一方、テレビに
費やす時間は、平日が約二時間、休日が約四時間である。高校生三人に二人は、
一ヵ月に一冊も読まないという。読書以外に、文学、歴史、思想といった教養を
身につける方法はほとんどないから、このままでは早晩、日本は無教養な人々で
埋めつくされることになる。 教養がなくとも、日常生活をつつがなく送り、
幸せな人生をまっとうすることはできる。その意味で教養とは個人的なもの。 
教養がどうしても必要なのは、長期的視野や大局観を得たいと思う時である。
「長期的視野や大局観を持つとは、時流に流されず、いったん自分を高みに置き、
現象や物事を俯瞰しつつ考察するということ」である。このためには若いうち
から、「現状」を離れ大きな枠の中で人間や社会の本質に迫ることに慣れねば
ならない。そこで、時空を超える唯一の方法、すなわち読書により、古今東西
の偉人賢人の声に耳を傾け、庶民の哀歓に心を震わせる、ということが必要。
このような読書の累積が教養である。長期的視野や大局観は、リーダーとなる人
の絶対条件である。我が国の政治や経済政策がいつまでたってもうまく機能せず、
社会や教育が少しずつ荒廃していくのは、リーダー達の大局観の欠如による。
大局観がないと、常に時流に流され、右顧左眄し、対症療法に走ることになる。
大局観欠如の背景には、かつてあった教養主義の衰退、読書離れがある。
 リーダーだけが教養を積んでいれば、国民一般はどうでもよいかというと、
そうはならない。我が国が民主主義をとっているからである。国民の総意に
基づいて物事を決めるのだから、その国民に判断力がないと大変なことになる。
民主政治は衆愚政治になりはてる。 読書離れは、民主主義を最低の政治
形態にまでおとしめ、日本を滅ぼす。... 》
▼ この危機感から筆者は、大学で八年前に読書ゼミを始めた。主に一年生を
 対象とした週90分、半年間のこのゼミは、以後毎年開いているという。
この内容について次回に取り上げる。 武澤ゼミの武澤教授の指導に似ている。
事例の現象に隠されている本質は、かなりの読書量がなければ、理解不能
ものばかり。基礎教養が、人格をつくり、それが問題を解決する。
私のゼミの事例研究の前の一年は徹底的に指定された本を読まされるが、私は
二年目からの参加。ひと月もしないうちに、己の絶対量の読書不足を自覚する。
二年目の彼らに全くついていけない。それが時間が経つたびジワジワ効いてくる。
それまでの読書の絶対量の不足。この自覚が武澤ゼミ、学生時代の最大の収穫。
 卒業時には、ノイローゼ気味でコンプレックスの塊になっていた。
特に都会生まれの学生は、読書の必要性を知っていて、絶対量を読んでいる。 
卒業の越年を真剣に悩んだ結果、社会生活に入ってから、毎日、二時間の読書を
 続けることを心に決め、それが現在まで続いている。そのことで、心の個室
を持つことができた。足の踏み場もないが・・ 
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4223, 神は妄想である ー4
2012年10月18日(木)
 神は妄想である ー4                        
  * パスカルの賭け  ー「神は妄想である」リチャード・ドーキンズ著
 学生時代に読んだパンセの「パスカルの賭け」を読んだとき、いやに納得した
ことを憶えている。と同時に「裸の王様の真の姿に目をつぶって黙っていた方
が得」という、いかがわしさも感じとった。イスラム教、キリスト教ユダヤ教
の文明の対立が激しくなる中、無神論も、堂々と主張すべき時期に来ている。
パスカルの賭けも、あまり語られてないが、当然。 ーその辺を抜粋ー
≪ 仏の偉大な数学者ブレーズ・パスカルは、神が存在するという確率がどんな
に小さくとも、神の有無について間違った推測をしたときの報いには、かなり
大きな非対称性が存在すると考えた。< あなたは神を信じた方がいい、
なぜなら、もしあなたが正しければ永遠の幸福という利益を得るが、間違って
いたとしても、いずれにせよ失うものはないだろう。それに対して、もし
あなたが神を信じないとして、それがまちがっていることが判明すれば、
あなたは永遠の苦しみを得ることになるが、正しかったとしても、何の利得
もない。悩む必要がないのは明らかだ。神を信じなさい。 >である。
 けれども、この論証には、はっきりとおかしいところがある。信じるという
のは政治問題とは違って、あなたがどうするか決定できるものではない。
少なくともそれは、自分の意志で決定できるようなものでも、自分の意志で決定
できるようなものではない。私は教会へ行くかどうかを決定できる。
私はニカイア信条を唱えるかどうかを決定できるし、聖書に手を載せて、そこに
書かれているすべての言葉を信じると宣誓するという決定をすることができる。
しかし、これらの行為のどれ一つとして、私が信じていないものを実際に信じ
させることはできない。‘パスカルの賭けは、神を信じているふりをするための
論証でしかありえない’。そして、あなたが信じると主張する神は全知という類
の存在ではない方がいいだろう。さもなければ、神はその偽装を見抜いてしまう
だろうから。「何を信じるか」ということが自分で決定できるものだという馬鹿
げた考えは、ダグラス・アダムズの『ダーク・ジェントリーの全体論的秘密探偵社』
において、みごとにからかわれている。そこにロボットの電子僧侶が登場するが、
それは「あなたにかわって物事を信じてくれる」、労働節約型の装置である。 
 宣伝によれば、デラックス型は、「ソルトレイク・シティ[モルモン教の本拠地」
では信じないようなことを信じさせることができる」というふれ込みの商品だ。
しかしいずれにしてもなぜ私たちは、「神を喜ばせたいならば、しなければ
ならないのは彼を信じることだ」という考えを、そんなに簡単に受け入れて
しまうのだろう? 信じることの何がそれほど特別なのだろう? 神が親切、
寛容、あるいは謙遜、あるいは誠意という報償をくれるだろうというだけのこと
ではないだろうか。≫
▼ 「信じることで、神から親切、寛容、謙遜、誠意という報償を与えられる
 だけで、十分過ぎる」ことも確かである。信仰は自分で自分の首を縛るだけか、
長年の歴史に耐えた教えに『良心』を育て導く道理が入っているため信じるに
足りるか。キリスト教圏だった、自分の子供には無神論より有神論者を
選ばせるのは頷ける。亀井勝一郎の「愛の無情」でも読み返すか。
  ・・・・・・
3858, 幽霊を哲学してみる
2011年10月18日(火)
 先日、ある人と食事をしていた時の話題。
《 最近、自分には学校とか病院の前に屯をしている霊が見えることがある。
貴方のブログに、そういう感覚があると書いているが、このことを如何思うか? 
最近、気晴らしにパワースポットに行くのが趣味になっている。長岡には、
そういうスポットは何処にあるのか?》という内容。〜それに対し私の返事は〜
《 ブログに書いてあるとおり、38年前に父親が亡くなった時から10数年、
 シックス・センスが身についた時期があった。実際に経験してみて、こういう
ものかと思い知った。 子供の頃から両親や姉などが、幽霊の話を真剣な顔を
しているのを聞いて、他愛無い話と子供心に思っていた。ところが、父が亡く
なった直後に「父親の死にたくない不安の気持ちが夢の中で乗り移り、我に
返った時に、父親の魂が自分に乗り移ったような奇妙な経験」をした直後から、
幽体離脱や、奇妙な偶然の一致などが多く続くようになった。 これだけは、
実際に経験してみないと分からないこと。 しかし10数年前から哲学に興味
を持ち読み続けてから、その感覚が薄れてしまった。特にカントを知り、
何度も読み込むうち、霊の正体が理屈で分かりかけてきた。私はカレーを食べる
と汗が人一倍出る。そのためカレーをイメージしただけで汗が出たり、カレーの
臭いさえしてくる。これは、嗅覚がカレーの言葉に刺激されるからである。 
それと、あなたが見える幽霊に似ている。そこに幽霊がいるのではなく、
貴方の中にある幽霊の刷り込みの感覚が働くためである。 それが分かると、
シックス・センスは、その入り口で遮断される。人間の脳は、生物が20億年
かけた生命の歴史が刻まれている。 霊も、その類である。》であった。
霊に関しては、そんな簡単に言い切れるものではない。過去を振り返ると
分かることだが、我々は共同幻想の中にある。人生は幻想の中で浮遊していて
いるだけ。見える人には見えて、見えない人には見えない。そう見えるも
脳の悪戯? ふと考えついたのが「目覚めた状態で見える夢」という言葉。
そうすると、やはり幻覚、幻想になる。 カラオケスナックは、酒で脳を麻痺
させ、映像と歌謡曲で幻想の世界を作り上げる場所。 映画館も、小説も同じ。
 たまたま、二年前の同月同日に「生きる幻想 死ぬ幻想−2」を書いていた。