『世界がもし100人の村だったら お金篇
         〜たった1人の大金持ちと50人の貧しい村人たち 』
              池田 香代子 (著), C.ダグラス・ラミス (著)
 21世紀の初年度が始まった2001年の9・11テロかで時世界が様変りをした。
ユダヤキリスト教イスラム教の対立の鮮明化である。これに中国の躍進と、
時代かかった北朝鮮が絡んだ複雑な様相が現在時点である。その結果、強者は
より強く、弱者はより搾り取られる様相になっている。当然、お金のない国家
対金持国家の対立が浮き彫りになっている。北朝鮮アメリカ、欧州対中東、
中東の内乱、IS国家の設立がテロなどを誘因する原因となっている。
 それそのままが、以下の数値で物語っている。
≪ ・2000年、世界のGDPは、ドルになおすと33兆ドル
   2015年は 73兆ドル。増えた富は、一番豊かな人びとの元に貯まった。
 ・世界を100人の村に例えると、世界の富のうち
   49%は、1人のいちばんの大金持のもとに
   39%は、9人のお金持ちのもとに、
   11%は、40人の、わりと豊かな人のもとに貯まりました。
  50人の貧しい人のもとにあるのは、たった1%です。
 100人の村では1人の大金持ちの富と99人の富がだいたい同じです。

・インターネットを使う人は28億人増えて 32億人。大よそ10倍に。
・中国では自家用車が300万台から1億2400万台に増えた。40倍である。
・世界の通貨、その国だけでなく、世界中で使われている。
  44%がアメリカドル
  16%がユーロ
  11%が日本円
  6%がイギリスポンド
  3%がオーストラリアドル
・世界の株の値打ちは、この15年で二倍近く増え、もうすぐに
 世界のGDPと同じになります。 ≫
――
▼ 21世紀は、ネット環境が進化し、世界の半数近くが、情報端末を
 持つようになった。今まで権力の乱用は、ネット上で一瞬で表沙汰になり、
権力者は、その座を追われる時代でもある。チャンスとリスクは裏腹だが、
そのバックグランドが、地域社会、国家内から世界に広がってしまった。
しかし、その基盤ルールのコントロールが、全くできてない。あるのは、
「弱肉強食」のルールのみ。そしてテロを含めた新たな戦い。

・・・・・・
5515,閑話小題 〜「はてな」のブログ、100万人超え
2016年04月21日(木)
    * 「はてな」のブログ、100万人を超えた!
はてな」ブログのビュアーの数が、昨日で延べで100万人を超えた。
開設以来、9年4ヶ月、一日あたり300弱になる。現在も、月当たり
を均すと、同じ300人になる。 月の4分の3が、250前後だが、
月に一週間ほど、その2〜5倍のウネリがある。なぜか、内容に力が入った
ときにビュアーが増える。
 当初からの個人HP「えんぴつ」が、ちょうど丸15年。この「えんぴつ」
のブログは一日40人前後。当初から増えも減りもしない。旧来からの知人を
中心にしたビュアーが見ているようだ。 内容が「はてな」と同じため、二つ
とも見る人もいないから、合計で一日330人が見ていることになる。
 一つにしないのは、万一の炎上したときのリスク分散のため。 
それにしても100万人とは驚き。それと15年と、9年4ヶ月も。
  * ああ、お金ですか
 誰かの言葉に、『 人々は、お金では貴いものは買えないという。
そういうきまり文句こそ、貧乏を経験したことのない何よりの証拠なのだ 』
がある。学生時代から社会に出だしの頃、自分のお金が手元になかった。
誰ものことだが、金が無いと、希望も夢も、遥か彼方にしか見えてこない。
そして10年、20年経ち、それなりの金額が、資本として見えてきた時、
自分の言葉と、目の前の具体的な夢と自信が見えてきた。貴いものも、貴く
ないものも、具体的な自由を現前に現してくれるのが、お金。問題は、それを
生き金か、死に金にするかである。 それもこれも妄想でしかないなら、
持った上で妄想をみたいもの。
・・・・・・
5150,知の逆転 〜?
2015年04月21日(火)
         ー知の逆転ー 対談相手 オリバー・サックス
   * 没頭している「平和の時間」こそが
 午前中、4〜5時間、仏間にある書斎コーナーで、本を読んだり、パソコン
に向かっているが、その時間はアットという間に過ぎてしまう。集中している
ためだろう。ネガティブになりがちな身の上?に、老齢化が重なっているため、
落込みへの解毒剤になっている。冬場を除いて、朝方の自転車散歩も加えて、
何とかポジティブ3にネガティブ1の比率を維持している。
 ここで、<没頭している「平和の時間」が、最も望ましい>というが・・
この随想日記の習慣の効用である。没頭には、長年の継続が必要である。
 ーその箇所を抜粋ー p149 
≪ ・・私自身も、書き物をしたり考えたりすることに没頭しているとき、
 あるいはピアノを弾ひたいたり音楽に浸っているとき、神経症うつ病
消えて、時間というものを意識しないで平和な時を過ごすことができます。
われわれは誰もがそういう時間を必要としているのです。フロイト精神分析
では、楽しいことに没頭しているときの平和な時間という部分が看過されて
いると思います。彼の精神分析では、生は緊張として捉えられ、緊張が解ける
と何もない状態になると解釈されているわけです。しかし、ポジティブな
平和な時間というものは芸術や科学の基盤であり、最も望ましい状態では
ないでしょうか。≫
▼ 「平和の時間」は、外界の喧騒から隔絶出来て、気持ちが集中、脳も、
 心もシンプルでいられる。週一のシネマも、ポタリング(自転車散歩)も
「平和の時間」。リタイア直後に立てたプログラムは、まず、ストレスによる
自己崩壊を避けるためだったが、結果として「平和の時間」の維持の効用に
なっていた。今までは会社の維持に向けられたエネルギーが、「平和の時間」
に向けられるから、悪いわけがないが、だがストレスは生半端ではない。
それが当り前だが! 知恵を使って、見方、支点を変えれば、逆境さま様!
ものは考えよう、面白いもの。 偶然だが、以下の内容が、丁度良く続く。
・・・・・・
4785,閑話小題 ー倒産よもやま話 〜?
2014年04月21日(月)
   * 倒産よもやま話(三年目の実感) 〜?
「その直後、気持ちを落ち着かせるため、東京周辺に一週間ほど出たい」と、
弁護士に相談すると、「一番、大事な時。それは問題に対し後ろ向きになる。
苦しいが今は、直面し続けるしかない!」と一喝。そのことは以前から体感して
いた為、納得。問題の中心点を凝視し、立ち向かい続ければ、時間が解決する。
この経験で、身近の経験者のことが、解っているようで実は何も解ってなかった
ことに気づいた。実は、「犯罪者が捕まり、ホッとした気分は、こんなもの?」
という風な、変な安堵感もあった。 現時点では、『人が死ぬって悪いこと?』
と、ほぼ重なる。 バブル崩壊、9・11、9・15、3・11で、時代が根こそぎ
変わってしまった。現在時点の、良い悪いは、表面的な現象。
10年前から、現在に至るまで何が起こった? 身近の天変事変では、中越地震
柏崎沖地震、東北震災。 世界では、数万規模の死者が出た、幾つかの大地震。 
経済では200年に一度といわれるリーマンショック。そして、今後10年で、
その数倍規模?の自然災害、経済災害が、間違いなく起こる可能性が高い現在、
「倒産、廃業が悪」の図式・考えを捨てるべきではないか?というのも、
排除してはならない。その辺は、自分の自頭で考え、判断すべきである。
 その上に、飛躍的なパソコンの携帯の進化で、これまでの現実社会をネット
社会が覆ってしまった。そしてアメリカのルールに習え、のグローバル化
これが、良くいえば創造的破壊という美名の元に始まっている。
その最たるものがTPPである。経済的な日本併合である。それにしても、
国家戦略ゼロの日本の思考能力に暗澹たる気持ちになる。この節目は、やはり
明治維新、太平洋戦争の敗戦に匹敵するか、それ以上の事態。それに、呆気無く、
飲み込まれてしまったのが、この一連から、鮮明に見えている。私のケースは、
事業からの私自身のリストラであり、経済社会からの完全リタイア、排除である。
で、近く避難先で、町を見下ろしている。  
・・・・・・
4418, 残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法 ー7
2013年04月21日(日)                
 * 幸福とは何か ー大富豪とマサイ族   
        「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」 橘玲
 幸福とお金の関係は、なかなか難しい。幸福の必要条件の一つにお金があるが、
十分条件では決してない。その辺りを、以下で大富豪とマサイ族を比較して
分かりやすく説明している。
≪ アメリカでは一九八○年代から、幸福を心理学的に計測するという試みが
 行なわれている。これは厳密に科学的なものではないが、様々な調査によって、
統計的にほぼ同一の傾向を確認できる(大石繁宏著『幸せを科学する』)。 
ある調査によれば、人生の満足度を七点満点とすると、アメリカのビジネス誌
『フォーブス』に載った大富豪たちの満足度の平均は五・八だった。彼らは
資本主義社会の頂点に立つ成功者で、豪邸やプライベートジェットなど望む
ものはなんでも手に入れることのできるひとたちだ。 アフリカのマサイ族は、
ケニアタンザニアに住む半遊牧民で、必要最小限のものしかない貧しい暮し
をしている。同じ調査で、彼らの人生の満足度は五・四だった。目の眩むような
大金は、ひとをたった○・四ポイントしか幸福にはしてくれないのだ。
もちろんこれには様々な解釈が可能だが、大富豪がマサイ族の村に行ったと
したら幸福だと思うだろう。マサイ族の若者がニューヨークを訪れれば、
極貧と不幸に打ちのめされるかもしれない。幸福感は相対的なものだからだ。
マサイ族が幸福なのは、家族や仲間との強い絆(愛情空間と友情空間)のなかで
暮らしているからだ。それに対して貨幣空間の成功者である大富豪は、
その成功ゆえに愛情や友情から切り離されて幸福を感じられなくなる。 
 でも彼の人生は、まだマシな方だ。この調査によれば、世界でもっとも
不幸なのはロサンゼルスなどの大都市で生きているホームレスだ。
彼ら貨幣空間の敗残者は富も人間関係もすべて失ってしまい、自分たちより
過酷な生活をしているインドのスラム街の人たちよりはるかに幸福度が低い。
もっともこれは、それほど奇異な結果ではないだろう。お金が幸福の必要条件
ではあっても、十分条件でないことは誰だって知っている。ぼくたちがお金に
こだわるのは、それが「安心」「安全」という大切な価値と結びついているから。
ヒトはずっと不安のなかで生きてきたから、安心を得ることは幸福の大事な条件
のひとつだ。そして市場経済においては、この安心はお金で買うしかない。
日本国の財政が未曾有の赤字に陥り、少子高齢化で年金制度が破綻必至になった
ことで、この国を重苦しい不安が覆っている。老後を国家からの年金に頼って
いたひとが、安心を奪われてしまったのだ。 でも単純な経済問題だから、
お金により解決できる。財政破綻で年金の大幅減が実行されても、宝くじで
一億円当たったら、どうだってよいと思うだろう。(当たらないと思うが) 
幸福のためにお金を求めるのは、きわめて合理的な行動。ところが皮肉なこと
に、宝くじの当せん者を追跡調査をすると、実はあまり幸福のなっていない。
買物や豪遊で賞金を使い果たすころには、自分には何も残ってないことに
気づくのだ。 ・・・ ≫
▼ ー我われがお金に拘るのは、「安心」「安全」という価値に結びついて
 いるためーというのは分かる。ならば、日本は世界一の「安全」で、「安心」
して暮らせる国で、万一のことがあっても、生活保護がある。しかし自殺は
先進国の中でトップクラスにあるし、国民は幸せそうでない。何故なら国の
先行きが見えないためである。先行きなど、かつても見えなかった。
中途半端な幸せを長年続けてきた結果、激変の最中、動揺しているのである。
東北大震災から数ヶ月後、アフリカの難民をよびよせ、被災民の状況を見て
もらったが、殆どコメントをしないで帰った。彼らにしたら何をか言わんである。
豊かさの中の極貧生活が不幸の最たる状態であるのは、大都市のホームレスを
見れば分かる。今や夫婦間資産格差が出来た私など、不幸の最たるもの?
でも不幸感はない。「不安感」が最小に縮んだからだ。先行きの不安感は、
今が不安定だと生じ、蓄積していく。着地をした現在、今さら「不安」
など感じようもない。
・・・・・・
4044, 一時停止 ー4
2012年04月21日(土)
         「一時停止」 谷川俊太郎ー自選散文ー1955〜2010
  * 他人との出会い
≪ 肉体的な成長だけで子どもがおとなになれるわけではない。肉体的な成長
に精神的成長が伴わなければ、人間はおとなになれない。その精神的成長とは
どういうものか、知識が増えること、感情が豊かになること、経験を積むこと、
考える力が増すことーいろいろな面から考えることが可能だろうが、そのどれも
が結局は<個>の自分の確立ということにむすびついていることに気づく。
 群棲動物である人間は、ひとりで生きてゆくことができない。そこから
私たちは複雑な社会的構造を生み出し、〈個〉は常に自分と同等な〈個〉、
すなわち〈他〉との関係において生きてゆく。〈個〉の確立とは自我の拡張と
同時にその制限をも意味している。言葉をかえると、他人と出会ことによって、
子どもはおとなへと成長してゆくと言うこともできるのではないだろうか。
もしそんなふうに言えるとしたら、私にとって初めての他人との出会いは、
いったいいつのことだつたのだろうと考えることがある。もちろん人間にとって
最初の他人とは母親であると言うこともできるかもしれない。しかし、ほとんど
の子どもにおいては、母親は自分自身の延長のような存在であり、母親を他人
として意識しはじめるのは、むしろ彼がおとなになってからだろうと思う。
似たようなことは他の身内・家族などについても程度の差はあるが、おおむね
あてはまるだろう。 ≫
▼ 学校時代は、進学する度に変わる同級生が、他者を考える上に分かりやすい。
 その時の面々が、その時の自らの分である。それは、自分の広がりでもある。
それが他人との出会いである。その範囲が広がれば広がるほど、その冷たさと
暖かさの差が大きくなる。その段差が、人間を成長させるのである。逆に言えば、
その段差が少ないと、成長が逆行していくことになる。自分を意識する前に
見知らぬものとの出会いがある。その境目が増えるにしたがって、己との枠が
でき、それが自分になる。それぞれの時代の相手の中に、自分の姿が合わせ鏡
となり、自分の姿の一部を垣間見ることになる。
 ・・・・・・
3678, 自己を見つめる −5
2011年04月21日(木)
  「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
  ー 境遇 ー
【人生においては、私たちは、それぞれの境遇で、様々な経験をしながら、
 自己自身の人生の有意義性を目指して、日々努力を重ね、永い人生行路の
 過程を踏み、自己の歴史が築かれてゆく。人生とは、そうした各自の時間的
 歴史的な行程であり、多様な諸経験を重ねてゆく遍歴の旅路である。
 人生は、しばしば、旅だと言われ、西洋でも、人間とは「ホモ・ヴィアトール
 (旅する人)」だと語られる。しかし、そのような遍歴の旅とは、いったい何で
 あろうか。とりわけ、多様な諸経験を経巡ってゆくということのなかに
 籠められている大事な眼目は、いったいどこにあるのだろうか。・・
  遍歴の労苦を通じてのみ、私たちの人格の花は、大きく咲き出るのである。
 格言に言われるように、可愛い子供には旅をさせねばならず、異境に出て、
 他流試合に揉まれ、異他的なものとの交流もしくは対決を経巡ってのみ初めて、
 私たちの人格は、大きく実るのである。そうした切磋琢磨と、人格的遍歴の
 過程を、すべての人が、互いに、愛の思いと暖かい心とを込めて見守らねば。
 こうして、人間的振幅や試行錯誤のすべてを受け容れ、また赦すところの、
 裏切ることのない、誠実な追憶の魂もしくは心のなかに、それらの歩みの
 すべてを銘記し、それらを、過ぎ去りゆくことのない、不滅で、貴重な人間的
 経験の全体として、共同でいたわり、保持しようとすることこそが、あらゆる
 人間にとっての、最も崇高な、道徳的かつ人格的な相互的責務であると思う。】
▼ 神話は、まさに異境に出て行って、辛苦の中で勝利し帰還する物語が原型
 である。それは、自分の魂にとっても同じこと。異質なものとの出会い、
そして邂逅のプロセスを通して自己が深まり、広がっていく。ここでも「異境に
出て、他流試合に揉まれ、異他的なものとの交流もしくは対決を経巡ってのみ
初めて、私たちの人格は、大きく実る」現実の世間的価値観の中では、人格は
大きく実らないことは周辺を見れば良く分かること。更にいえば、自己とは
異質なものとの出会いと邂逅の中にこそ存在する。
  ・・・・・・・・
3313, 対話について
2010年04月21日(水)
  「プラトンー哲学者とは何か」 納富信留
 * 対話について
 プラトンの「対話篇」を分かりやすく噛み砕いてある内容である。
以下は、そのエッセンスの部分である。プラトンと、ソクラテスの立場を
簡潔に分かりやすく述べている。 ーまずは、その部分から (p28)
ソクラテスはつねに「対話」において人々と語り、プラトンはそれを「対話篇」
として書いた。ソクラテスプラトンとの出会いは、また、言葉を語ることと
書くことのへだたりと「対」として現れる。ここに、哲学成立の秘密がある。 
対話とは、人と人との出会い、言葉をつうじて何かを追求し明らかにしていく
営みである。それは、顔をもつ生きたひとりの人間と人間のあいだにかわされる、
一度かぎりのやりとりである。 対話は、それがかわされる特定の生きた状況、
時と場を離れてはありえない。会うのは心と心であり、ぶつかりあう言葉と
言葉が吟味により明るみに出し対話する人の生そのものである。そして、人と
状況は、その対話を通じて変化していく。対話を交わした人のあり方は、もはや
以前のものではありえない。 人が形つくる対話の言葉は、また、その人を
形作るものである。そして、対話は、二度とくりかえさることはない。 
これに対してブラトンは、語られる言葉を書かれた言葉にして残した一度しか
起こりえない対話を書き物に結晶させた時、それは時を越えて反復可能なものと
なった。書かれた対話は、うつろいゆく言葉を文字に留め、それを読むことが
対話を反復させる。私たちの心には、思りという新たな対話が生み出される。 
そうして書かれた対話篇において、対話は対話者たち、さらに、著者プラトン
手を離れて、私たち読み手のものとなる。 一時の対話を永遠へとつなぎとめる
著者と、それを再び時間においてくり返す対話者。対話篇を読む私とは、
そのようなもうひとりの対話者なのである。しかし、ソクラテズが従事する
生きた対話と、それを書きあらわした対話篇とのあいだに根源的な隔たりがある。
このギャップは、「パイドロス」で、エジプトの神々の対話という形をかりて
語られる、「書かれた言葉」への批判に現れる。文字が記憶と知恵のための
すぐれた発明であると自慢するテウトに対して、王神クムゥスけこう批判しる。
書かれたものを信頼することは記像力の訓練をなおざりにする想起の秘けつに
すぎず、それが与えるものは真の知ではなくその見かけにすざないと。 
書かれた言葉は、問いかけても何答えない。
 〜〜
 対話について、これだけ分かりやすく書かれているのものも珍しい。 
学生時代にプラトンの「ソクラテスの弁明」を読んでいたが、何を理解して
いたのだろうか。 字づらだけを見て、知ったつもりでいただけではないか?。
 反面、学生時代に寮にいたことや、ゼミや、クラブの人たちなど色いろな人と
一度限りの対話があった。その蓄積が人生の大きな基盤になっていた。そして
自分の壁を破壊してくれていた。現在、ツイッターが爆発的に広まっているが、
あれは会話?でしかないのか。それとも、人によっては対話になりえるのか? 
ブログでは対話が成立していると思うが!議論すること、書き留めること! 
その青さを持ち続けること!  チロリチロリだけでは、だめか?