70歳を過ぎた現在、「60歳までに人生を前倒しをしていて良かった!」と、
つくづくと思うことしばしば。以下にコピーしたの13年前の文章を読返すと、
1年後に中越地震、その3年後に刈羽柏崎沖地震、4年後の2008年に、リーマン
ショック、更に8年後に東北大震災が、たて続いた。その結果、私も、まさかの
事業整理に至った。 作家の曽野綾子が、「人生の良いところは、60歳まで」
といっていたが、体力も考慮すると、成るほど正しいと実感する。 
 以下の内容を書いて13年間、友人、知人、親族が次々と倒れ、亡くなった。
病に倒れて発する共通の言葉は、「まさか、自分が! これから、ノンビリ
するつもりだったのに!」である。 死に直面した時の恐ろしさと動揺は、
「人生に、やり残した無念」があるため。 とすると、老後の残務整理は、
それを探し、潰していくこと。そうこう考えると、【して失敗した後悔より、
しなかった後悔の方が遥かに大きい】ことになる。 どうだろう?
「してしまった後悔1に対して、しなかった後悔が3」ではないか。
 30年分を10年に圧縮して生きた50歳代は、充実感があって実に面白かった。
60歳代の最大のイベントが、会社整理だったが、3・11もあって、未練も後悔も、
最小になっていた。両親の晩年に同居していたこともあって、「その都度、
計画的に楽しんでおくべし」という、人生の何たるかを、後姿から学んでいた。
この教えを学んで実行していたのは大きい。10年前と、13年前に書いてある
文章を読返してみると、計画通りに、遊び、楽しむ必要性を知っていた。
その時々に、真面目?に学び、楽しみ、遊んでおけ、ということ。
 辛いことも多かったが・・ それも楽しみの内。
――――
2003/06/16
50歳の頃ー1
  −60歳までの人生
 曽野綾子の本で『人生の良いところは60歳まで』という文章があった。
丁度私が50歳の時であった。50歳で、母親を見送り(亡くなり)人生の
損益分岐点を超えたという思いがあった。あとの人生を如何生きようかという
自分への問いかけをしていた。その翌年、下の子供と家内と3人で南米の
ギアナ高地に出かけた。テーブル・マウンテンのキャンプ場で、夕陽を見ながら
息子と日本酒を飲みながらふと思った、「自分の人生の元は充分にとった」と。
 その時に考えたのは、
曽野綾子の『人生60歳までがよいところ』なら、それ以降の人生を60歳
までに詰め込んで生きよう!『人生の純益』を60歳までにとってしまおう」と。
・海外旅行をそれまでに50回行くことー不景気で無理か?
・人の目を気にしない生き方を更に徹しよう
・好きな事を可能な限りしよう 等、生き方を変えようと。
しかし曽野綾子は60歳少し前の文章である。
その時、母の行き方を見ていたこともあり、まだ解っていないと思っていた。
本当に良いのは60歳からというのを母から教わっていたが、しかし
「60歳以降の前倒しにする決心』は良いと解釈した。 
 その翌年にネパールに行ったとき、67歳の初老の人から人生の秘訣を
教えてもらった。「私は43歳までに必ず死ぬ家系であった。それを前提にし、
そこまでに人生のすべてを燃焼し尽くした。その一つに日本を全てを家内と
娘と3人で回り尽くした。しかし死ななかった。その後は世界にチャレンジを
始めて、ほぼ全てをまわり尽して現在もこうして生きている。短命の家系の
前提がなかったら人生をここまで味わいつくせなかった!」。 深い人生の示唆
であった。「60歳までに人生の全ての前倒し」を自分の生き方に取り入れた
直後であったから、尚のこと心に響いた。あと2年半で、その60歳である。
「それでは60歳以降如何いう生き方をするのか?」。
元を取ってしまったので、逆にあとは一日一日をじっくりと味わって生きる
ことができるのではないだろうか。そして、それまで経験をしたことのない
分野を探し出しチャレンジすることである。その意味では、逆に広い世界に
飛び出せるのではないかと考えている。
 最近、景気後退ー恐慌一歩手前になってきたり、SARSやテロなどで
アフリカや中近東には以前ほど気楽に行けなくなってきた。
この時勢に優雅に海外旅行などともいっていられなくなってきた。
あの時点にやはりギアチェンジをしていて良かったと思っている。
――――
2006/05/23
1876, 10年後に後悔する事とは?
             おはよ〜!(*^ワ^*)i 
あるHPを見ていたら、次の言葉に引きつけられた。
「10年後に後悔しそうなことをリストアップして、それを潰していく
生きかたをする」である。(七田チャイルドの七田真氏と本田某氏の対談)
 私が十年前に考えたことは、   (。-`ω-)ンー
「50代の10年間で60歳以降の人生を全て押し込んで生きる」である。
20~30年間を50歳代の10年間で全て前倒しにする、と。
それがこの程度の変化でしかなかったのか?。 という自問自答は残るが。
現在になって振り返ると、先まわしをして良かったと思っている。
後悔しそうなことを潰していく生き方は消極的に思えるが、
「消極的な生き方(後回しーその大部分は中途半端)が一番後悔する」
とリストアップすれば、逆に積極的な生き方が出来る。  
 想定可能なマイナスをあらかじめ潰すのは、最善の行為と同じか、
それ以上である。後悔することは、その時は気がつかない行為か、判断ミス
が最悪だったということ。 それが想定可能かといえば、可能である。
ということは最善の準備と同じぐらい大事なことになる。
                          (‐”‐;)
ところで10年後に何を後悔するだろう?
一期一会と、何ごとも真摯に立ち向かえば後悔することはないはずだが。
いや10年前に事業で時代の先行きを、より悲観的に読んでいれば
もっとシビアな手が打てたはず。
 ー面白おかしく「10年後の最悪の後悔」をイメージをしてみた?
・酒を飲んで暴れて、家内に愛想をつかれて離婚。
 現在は年金で、何処かの街の安アパートで冷酒を飲みながら懺悔の日々・・
 それでも冷酒を飲んでいるのだから、懺悔にはならないか?-ω-`A) フゥ…
・死んで、この世にいない。誰も、もうこの男のことを憶えていない。
 二人の子供も、あの父親のことだけは思い出したくもないと墓参りもない。
(しかし、自分がいないのだから後悔しようがないか!)                 
脳梗塞で入院しているが、気が短く、毒舌が冴え、
 同室の患者や看護婦から嫌われて自閉症気味。
・考えていたより遥かに、日本という国家の疲弊が酷い状態。
 10年前に海外に思い切って財産や生活の場を代えておけば
 よかったと、毎日の生活の追われる日々。
ありそうな10年後の姿である。より深く時代を読まなくては!
酒にも、病気にも注意しなくては!    
―――
〜2016年6月29日・記
この2年後に、リーマンショックが起きて世界経済は大混乱をした。
その煽りを受けて、3年後に事業清算に至ったが、何とか、それまでの
生活の延長上にある。大病もなく、この随想日記を書き続けている。

・・・・・・             
5219,閑話小題 〜中学校の古希会
2015年06月29日(月)
   * 中学校の古希の会
 一昨日、湯沢のニューオータニで長岡市立東中学校の『古希の会』に参加。
一次会が17時から19時半、二次会が、その直後から別会場で開かれた。
9割が、そのまま移動。 参加総勢が61名で、女性34名、男性27名の割り。
同期360名のうちの二割弱になるが、年齢からみて多い参加者である。
男は大よそ4分1が亡くなっている。 私のクラスは、52名中、10人出席。
男6名、女4名。市内在住の男は、私1人の参加。県外が4人になる。 
死亡は、男27名中7人、女性は2人。 喜寿は、恐らく今回の半分だろう。
連れ合いの看護や、当人自身の問題で欠席が多々あるという。 卒業以来、
初めて会う人が同クラスで二人で、教師と、自衛隊を勤め上げていた。
様々の人生模様があるが、出席者は比較的恵まれた人たちだろう。大病で、
ゲッソリした人が何人かいた。 自衛隊、教師、病院の薬剤師、日立、小松、
など仕事はさまざま。古希となると、元肩書きなどの意識が消えているので、
昔の時代に立ち戻りやすいようだ。多く人が「古希の実感ゼロ」という。
 司会を自から申し出たが、思いのほか緊張してしまったのに驚いた。
直前に500mlの缶ビールを飲んだこともある。その上に、一線から引いて、
何かが緩んでしまったということか。17時から19時半まで一次会。
その後、近くのスナック風の宴会場で二次会が開かれた。私は20時53分
の新幹線で帰ってきた。これだけの同期の人が集まるのは、これが最後。
喜寿は、この半分〜三分の二だろう。 翌日の二日酔いは全くなかった。
後は急勾配の坂、70歳代が控えている。特に、男にとって厳しい。
 そこで、「あと10年は生きるつもりだったが・・マサカ」の坂が?
私なら「あと5年は・・ マサカ!」になる。プラマイ3歳だから、
二年半を無事なら想定内、先は短い! とにかく古希の関所を超えた!
・・・・・・
4854,「事業人生を決心して45年」の語り直し ー24
2014年06月29日(日)
   * 転進の決断と、次への構想
 そこで、新潟駅前の更地と、現在のアクロスプラザ近くの角地の更地を
有効に生かすことが急務と考えた。その角地は兄名義、新潟駅前は私名義。
背に腹は変えられないと、考えに考えた結論が、兄名義の更地を売却し、
新潟駅前に、ビジネスホテルにした遊休資産の活用である。その一角に
当時の稼ぎ頭の学生服を入れる構想。結論からいうと、鉛筆ビルの衣料
量販店の建替えは、時代の要請ではなかったことに逸早く気づいていた。
 但し転用可能のビルでもある。兄は、当初に打ち上げたファッション衣料
チェーン化に集中すべきと主張!私と意見が分かれた。
「もし、やりたいなら、出ていってやれ!」と。そこで思い出したのが、
ここに戻った時点で、「実兄との問題もあり、5年間が目安!」と公言して
いたこと。「身の引き時!30歳代前半からみて、ここで決断をしないと、
姉夫婦と同じトラブルを、実兄とすることになる。同じエネルギーなら、
新規事業に集中する方が遥かに有利」と、直感が働いていた。あのままでは、
間違いなく相打ちになった。2〜3ヶ月に一度の名古屋、岐阜、大阪、岡山
などの仕入れで、各地のビジネスホテルに泊まっていた。その仕入れ後に、
同行した同僚との現地の料理屋での一杯が楽しみになっていたが、食事代は
限られている。そこで、安いホテルを探し、その差額を加えるしかない。
その出張が宿泊客のニーズを知る立場になっていた。 産地の岐阜駅周辺
にも、客室主体のビジネスホテルがあって、そこを定宿にしていた。
立地は二等地だが、ユニットバスのある格安ホテルである。さらに現在は
無くなったが、倉敷に大学校庭をイメージした、レンガをモチーフにした
スケェアガーデンホテルがあった。そのイメージをレンガ外装に、客室主体に
したホテルと、学生服ショップを併設させれば、間違いなく大当たりする!と。
で、何度か実兄と衝突をするうち、半年後を期限にと、思い切った次の創業
の決断をする。あの兄に本当に本店が? その後、20期、全て赤字で消滅。
他人事ではない! 激変の時代、利益を出すのは本当に大変である。 
これを書いて見えてきたのは、私も、実力相当の結果に終わったこと。
それと、引き時のタイミングの見極めの難しさ、である。
・・・・・・
4487, 怒らないって本当は恐い! ー3
2013年06月29日(土)                 
  * 怒るとは哲学することである    『怒りの作法』小川仁志 著
 考えるきっかけのひとつに「感動すること」がある。ところが、ここで
「怒るとは哲学をすること」と、いう。突然、死に直面すると、「まだ遣り
残したことが多い自分が何ゆえ死ななければならないのか?」という怒りが
沸くという。そして当然、「死とは何?」に行きつく。怒りは対象を
根こそぎ否定し、一歩踏み込むことになる。 ーその辺りからー
≪ 哲学の端緒としての疑う行為とは、「何かおかしい」という、現実に対する
 怒りなしには生じえないのです。その意味で、哲学はその出自においてすでに
怒りと密接に絡みあった営みであるということができます。哲学の父とされる
ソクラテスよりも、さらに前の時代の哲学者たちは皆、自然現象のメカニズムに
疑いを投げかけ、これは決して神の仕業などではなく、世の中を構成するもっと
理屈の通った原因によるものにほかならないと考えた。 現代社会とは異なり、
容赦ない自然の猛威に為すすべもない時代、彼らはさ苛立ったことでしょう。
 自然は何からできているのか、世界は何でできているのか、いったいこの世の
本質とは何なのかと。その精神を受け継ぎ、哲学は西洋社会で鍛上げられてきた。
世の中を説明するための原理として耐えうるように。そしてデカルトを生み、
カントを生み、へーゲルを生み、二ーチェを生み、今なお多くの哲学者たちが
西洋社会で怒りを露わにしています。それは現実に迎合したり、諦めを隠ぺい
するために「真理」を妄信したりするような行為とは正反対の、いわば現実に
対する知的抗議ともいえる営みなのです。 怒りは言葉を生み出します。
怒ることを「黙ってはいられない」などと表現することがあるように、怒りは
人に対して言葉を発するよう仕向けるのです。それはまさに哲学の営みにとって
不可欠の要素であるといえます。 ・・・当たり前のことに怒る、わからない
ことに怒る、権力に怒る、従順なだけの民に怒る、自分自身の人生に怒る。
怒るとは、生きるうえでの情熱の尺度であり、それは悩み続ける人生を引き
受ける営みにほかなりません。 まさに怒るとは哲学することである。 ≫
▼ 問題解決には、粘り強い思考が要求される。単に感情をぶつけ合うのでなく、
 エネルギーを出し合って、ベストの道筋を考え出すのに怒りを利用すればよい。
創業は、正に怒りの連続になる。目に見えないものを独り信じ、一つずつ積み
上げていく。そこに計画通りにいかない苛立ちと不安と怒りが、自分の行為の
エネルギーになる。また考えるヒントになる。哲学者の中島義道の著書の中で、
彼が怒りっぽいことを具体的に書いていたが、この本を読んで、納得。
この一連の出来事で、多くの怒りに直面してきた。その都度、目を背けないで、
怒りの本質を凝視してきたが、成るほど、そこに経験者しか知りえない道理を
見ることが出来た。手の裏を返してきた彼等。 ああ、そうだったのか!
という気づき。それもあって、「怒るとは哲学することである」という言葉は、
実体験で非常に理解できた。結局、人間は色いろな究極の場面で、品性が出て
くるもの。それも、マイナーの方が表立って噴出してくる。年齢を重ねるほど、
哲学(考えること)する必要性がある。何故、あの時、あの人は、あれだけ
怒ったのだろう? 何故、私は、あの時怒ったのだろう? あの時の感動で
何が変わったのだろう? 感情の最たるものは怒りと感動?
・・・・・・・
4113, 世界は動き出したようだ!
2012年6月29日(金)
  * イスラエルのイラン攻撃の時期
 イスラエルのイラン核施設への攻撃が、現実味を帯びてきた。それに備えて
イスラエル与野党の大連立政権を樹立した。時期は米・韓大統領選挙の前か、
直後の辺りか。シリアの内戦は、その上空をイスラエルがイラン攻撃をするに
丁度良い。反政府軍への武器の供与は、イスラエルと西側がしているはず。 
イランを援護するシリアに対し、西側寄りのトルコが攻撃する機会を伺っている。
イランは半年以内に原爆製造の最重要部分が完成する。それが攻撃の根拠。
11月の米・韓大統領選挙は、現政権にとって、最も有効にはたらく。
それとギリシャ・スペイン発の世界恐慌発生が何故か重なる。中国も日本も、
この時期に政権交代期である。 オリンピックが終わる八月半ばから政治も
経済も世界情勢から目がはなせない。既に世界はカオスの入っているが、
これから具体的な世界恐慌中東戦争というカタチが現れてくる。イランは
ペルシャ湾閉鎖で対抗すると、アメリカとNATOの参戦に口実を与える。
その結果、イランは大打撃を受けるが、キリスト教圏とイスラム教圏の文明の戦い
でもある。これを機会に世界各国はハイパーインフレになる可能性があり、金融
システムは大きく揺らぐ。世界の金融システム炎上である。オーバ―かもしれない
が、これが現実味を帯びてきた。6京円の不良債権は膿みを出さない限り消す
ことは出来ない。それにはイランとシリアでの戦争が狙い目で、一石二鳥になる。
ロシアも中国も、それが分かってシリアの現政権を後ろで支えようとする。
小沢も、野田首相も、自民党幹部も、そのことを熟知?しているはず。日本も
イスラエル同様に、戦争と恐慌に備えた連立政権樹立が必要条件になる。
民主主義も、目先の正義も、世界恐慌と、大規模のカオスの中では必要が無い。
それを前提に世界は動き出したのである。小沢の離党も民主と自民党の妥協も、
その大きな渦の中から見れば小さなこと。恐慌と戦争に、平時の常識は全て
捨て去ることだ。これは仮説ではない。いや仮説として世界の動きを注意して
みると、全てが当てはまる。 世界は本格的に動き出したのである。
ー以上は、あくまで私の独り言である!半年後に、振り返ってみたら? 
それを考えると原発の全面廃棄など、とんでもない! 
必要悪だが、この時世、再稼働すべきである。日本も世界も危機である
・・・・・・・
3747, ジャズについて(�) ー「ジャズ完全入門!」�  −17 
2011年06月29日(水)
       ー 「ジャズ完全入門!」 後藤雅洋著 ー �
【 ジャスは「曲目ではなく演奏を聴く」と、もう一つ大切なポイント。
 それは「ジャズは、聴き手が音楽に寄り添わなければ楽しめない」ということ。
音楽を二通りに分けてみると、ポピュラーミュージックや歌謡曲のように、音楽
のほうから「ね、聴いて聴いて」とばかり優しく聴き手に寄り添ってきてくれる
ものと、クラシックやジャズのように、ある程度受け手の側が積極的に音楽を
理解するよう努める姿勢がないと、そのよさがわかりにくいものとがある。
これは、聞いてもらってなんぼの商業音楽と、ちょっと嫌味なコトバだけど、
「芸術性」を持ってしまった音楽の違いであるといってもいいだろう。
厳密に言えばジャズは大衆芸能から生まれたものなので、その昔は「ゲイジュツ」
というようなご大層なものではなかったのだが、ある時期から、やっている
ミュージシャンの思惑とは関係なく(もちろん自覚していた人もいるけれども)、
否応もなく芸術性を持ってしまったのだ。これは・国宝に指定された仏像のこと
などを例にすると、わかりやすいだろう。 はるか昔、お寺の仏像は信仰の対象
であり、その作り手は自分が芸術家であるなんて思ってみなかったろう。
しかし後世に、いつしか博物館に飾られるような美術的価値を持ってしまう
ことがあるように、大衆芸能であったジャズが芸術性というややこしいものを
背負ってしまったと考えていただきたい。そしてこの芸術性というような
ものは、とうてい一口で説明できないけれど、少なくとも、世間に流通している
商品のように口当たりのよいものばかりでもなさそうだということは、ご理解
いただけるだろう。有り体に言って、芸術とは、商業音楽のように誰もが喜んで
購入するような多数決の世界とは別の原理で出来ているものだし、結果として
TVのワイドショーのように「万人が理解できる」といったものでもない。
 (字数制限のためカット2012年6月29日)
・・・・・・・
3382, 考えない・日本人
2010年06月29日(火)
911・考えない・日本人 」林 秀彦 (著)
  * 家畜人間ジャップ       ーアマゾン、内容紹介、よりー
≪ まだ信じているのですか? あの事件が真実だなんて。911の以前と以後では
人間の歴史は完全に代わり、人間の条件も全く変わった。これだけは確かなこと。
911は、人間が最後にたどり着いた最大の愚かさと、最大の悪の結晶だった。 
これだけは確かである。911は、ある一部の人間たち、私風に命名すれば
「ファイナル・パワー・エリート」たちが仕組んだものである。 私は
911同時多発テロ」と呼ばれている事件は、すべて《彼ら》の自作自演であり、
ヤラセであり、捏造であり、その他どんな言葉を使ってもいいが、ブッシュ政府
が公式に発表している内容とはまったく違うものであるということを、確信する。 
 なぜか? まず疑ったからである。疑わしい要因、要素が多すぎると感じた
からである。次に考えたからである。知る努力をしたからである。そのときに
私の持った精神状態は、「情熱」と呼べるものとほとんど同じものだった ≫
ー以下の箇所は、家畜化された日本人への強烈な批判。ー(P/86)
 給費留学生など、日本の若い頭脳がアメリカに召集された。 江藤淳なども
その中の一人だったが、あのようなろくでもない日本人のクズが、モルモット
代わりに研究されたのかもしれない。 確かにあのような男を典型的日本人
モデルとして研究すれば、その洗脳のたやすさ、誘導のやさしさ、また、
一般的な人聞家畜化の手引き材料としては理想的だったに違いない。
 (字数制限のためカット2012年6月29日)
・・・・・・・・
007,誰が電気自動車を殺したか?
2009年06月29日(月)
 昨日の午前、何気なくWOWOWに回すと、「誰が電気自動車を殺したか?」
というドキュメント映画を放映していたが、時が時だけに、その内容に引き
込まれてしまった。GMの倒産を暗示している内容で、映画の題名が良い。
19年前に画期的な電気自動車をGMが発表し、レンタルで貸し出した。 
しかし電力モーターの普及に不利になる多くの業界の圧力の中で、何時の間
にか消えていった。その犯人を追及する内容。 犯人を自動車メーカーGM、
石油メジャー、アメリカ政府、消費者、マスコミ、州環境保存局、などと設定
して、具体的に探っていく。 ーその映画内容の紹介のHPからー
「誰が電気自動車を殺したか?」(クリス・ペイン監督)。2006年 舞台は
ロスを中心としたカリフォルニア州。米自動車大手のGMが1990年に発表した
画期的な電気自動車「EV1」がさまざまな理由で、この世から葬り去られる
までを克明に描いている。当初、高性能で環境にも優しいEV1は羨望の的。
「とにかくスピードが速いから、反則切符切られるよ!」(俳優トム・ハンクス
も大絶賛。ところが石油業界から「石炭火力発電だって大気汚染の原因」との
声が上がって風向きが変わってくる。低公害車の販売を義務づける法律も骨抜きに。
トラブルも重なり、GMはリース中のEV1を回収し始める。もともと販売はなく
リースだけで市場に出回ったEV1は2005年3月、同州から完全に姿を消した。
そのころGMが大々的に販売していた車の一つが大排気量の装甲車のハマーが皮肉。
ちなみに、そのハマーで環境問題を訴える催しに颯爽と登場するのがシュワルツェ
ネッガー州知事。まるで笑い。 そのEV1自体にもトラブルがあったり、
技術的に未熟な面があったが、作品は地球温暖化の恐ろしさを訴えた
不都合な真実」(2006年)に勝るとも劣らぬ衝撃的な内容。
▼ 現在のアメリカの恐慌の原因を、その事例として、急遽つくられた錯覚
 するようなアメリカの社会の歪みを炙りだした内容で、三年前に作られていた
というのが救い。現在、車一台あたりの部品が3万だが、電気自動車になると
一万で済むという。ということは、部品メーカーが半分から3分の一に減り、
組み立ても同じことになる。既存のメーカーは規模が大きいところほど、
今後の転換が難しくなるのである。
・・・・・・・・・・
2643, 戦略+夢・ノート
2008年06月29日(日)
 大学ノートサイズのノートを、文庫本版と、バイブル版のサイズに変えた。
文庫版に統一するのが本当なのだろうが、あと一月で結論を出すつもりだ。
サイズを小さくすることで、携帯に便利ということで、これだけ変えるとは
思わなかった。文庫版の薄いものなら常に持ち運びが出来る。 常に携帯できる
のが、私にとってのポイントだった。早速、日常の思いを書く「随想日記」
「哲学ノート」と、5年?10年先を考える「戦略+夢ノート」を作った。
特に「戦略+夢ノート」が面白い。 5年を基点とした中期長期ノートとしたら、
どんどん書きこめるのである。そこに「7つの習慣」の「ベストの敵はベター」
を、副題として書き込んでみた。5年後(?10年後)を考えるということは、
5年前(-10年前)を振り返ることになる。ノートを開き5年先を想定することは、
「潮流とは何か」を考えることになる。長期の装置投資を事業するものにとって、
この程度の専用ノートを書き続けるべきであった。一度気がつくと、前から、
こういうノートを専用に作っておかなかったことが悔やまれる。ただし、これが
何時まで続くか自分でも楽しみである。(数ヶ月で自然消滅の可能性もある)
「モーニングページ」(毎日思いのまま書き込むノート)は、会社にきてからの
「ランチページ」として続いている。朝はこの随想日記を完成し、アップする
ことと、ウォーキングを優先している。(字数制限のためカット2011年6月29日)