* そういえば、お金に窮したことは一度もなかったな〜
       〜お金についての考えは人生に対する考えと同じ〜
 用心深い性格もあるが、事業人生の中で、お金に窮したことは一度もない。
両親、特に父親は、お金に対して厳しい人で、見栄や、無駄金、死に金、
小銭の扱いに常に目を光らせていた。普段の生活は徹して節約をし、外食や、
ブランド物趣味には、極端に厳しい姿勢であった。しかし、書籍の購入には、
一切、何もいうことがなかった。 
 学生時代、上京をして寮に住んでいた時の仕送りも、ギリギリの生活費しか
送ってくれなかったが、ヒモジイ思いをすることが無かったのは、節約が
身に付いていたため。当時の学生時代は、家庭環境に関係なく、殆どの人が、
似たようなギリギリの送金。カナダの学生は、それが首相の子供であっても、
アルバイトで生活費を稼ぐのが暗黙の習性という。
 その節約も、21歳の「欧州一周旅行」で、全てパーに。
「使ってこそお金の価値が現出する」と信じるようになっていた。
父が、末期ガンで死期を悟った時に、身近で実感したことは、「お金は、持って
旅たつことが出来ないこと」。 結婚直後からは、「稼いだときに、1〜2割を家内
の別立てをして、残りは、使い切る」と、方針を変えた。それもあって、より遊んで
おけば良かった、という後悔はない。死んだ瞬間、お金は一切、必要なくなる。
 また、お金が無くて呆然とした経験が一度も無かったことが良いのかどうか。 
健康面を除いた娑婆の苦しみの中で、「金の不自由」が、一番、辛いという。
現在、家内名義の家では少し肩の狭い思いをしているが・・
 他人事ではないが、一般的に、熾烈な事業の中で、万一の場合の
用心深さがあまりに無さ過ぎるのではと思うのは、老いのなせる業か。
<お金について> を書くと、あまりにシリアスになるが、なればこそ、
自分を見つめる合せ鏡になる。そこには、欲が、そのまま露出している。
 それは健康に対していえることだが、70歳を過ぎたから、死を従容と
受け入れたいものだが、現実となると? 

 ――
 面白いもので、9年前の、同月同日に、同じテーマで書いてあった

・・・・・・
 2237, お金の正体 −1
2007年05月19日(土)
      「お金の正体」 ー日下公人
              (((。・-・)从(・-・。)・゜
「生・死」と「金」の話題は尽きることは無い。
特に「金」に関してはもういいや!と思うが、それでも次々面白い道理に出あう。
しかし、どれを読んでも面白いのは、金が欲の集約でもあるからである。
この本を図書館で手に取ったときは、あまり内容のない本に思えたが、
実際読んでみると、面白い本である。
「お金の正体」はつきつめると
「その人が求めている幸せは何ですか?」ということになる。
幸せとは何ですか?は、これも単純で解りきったように思えるが、実は深い問題である。
私が好きな「幸せはアルコールのようなもの」とか、軽く扱われない大きな問題である。

以前にも何度か書いてきたことたが、
父が死を覚悟した時にジッと私の顔をみて、数千万円の数字を紙に書いて
「この数字と銀行預金の同じ数字と何処が違うのだ?」
と深刻な顔をして私に問いかけた。
「事業という楽しみの後に残ったカスがお金である!」が父の口ぐせだったが、
それでは、そのカスも紙に書いた数字でしかないことに気づいたのだ。
「実際に使えないなら現状なら、無いに等しい」といいう言葉を加えた。
しかし両親は、そのカスを更に楽しんで使っていた。
それ以上を求めること自体は、少し求めすぎのように思えたが、
それでも逝く直前に割り切れない何かが心が残った。

その時、何かを伝授してもらった。
「仕事を遊びまで高めること、そして、そのカスとしてのお金を、
仕事とは別の趣味を見つけ楽しむこと。それも楽しんだら、
大らかな気持ちで余韻を楽しむこと」である。

金を哲学的に考察すると、交換手段としてのルール(価値尺度)でしかない。
それでは目的はというと「魂の充足と自由」である。
「金」を通して(物や事で)魂の充足をしているうちに、目的と手段が混同し、
その混同が生き方を誤らせてしまっているのが現代の傾向である。
金という手段で「魂の充足と自由」をやり取りしているうちに、
金が魂と同類に思えてしまったのである。
だから価値尺度の通帳を見てニヤニヤしているうちに死に直面してしまい、
「金」が果して何だったのだろうかと錯乱してしまうのである。

ところで私の父親の迷いは何だったのだろうか?
その謎解きをしてみよう!
事業を楽しんで当時として、地方では財をなした。
そして、以前の家業の骨董屋の因縁で「骨董」の収集と、「国内旅行」を楽しんだ。
更に豪邸をつくった、そしてその8年後のある日突然死を宣告された。
目の前には、当時の数千万の預金と、幾つかの土地屋敷がある。
「それでも残ったこれは(資産)自分にとって何だろうか?」という疑問である。
死を直面して、混乱をしたのである。

父は事業も趣味も充分に楽しんだ。
そう、魂の充足はしたのである。
ところが、何かが欠けていたのである。
それは哲学的思考である。それも、難しい哲学ではない。
それで充分幸せであった!という心の安定を裏づける確信ができなかったのである。
「それでは完全燃焼などあり得るというのか?」という哲学的な答いが
出来なかったのである。

父の姿をみていて「哲学の基礎だけは教養として身につけておかなければならない」
ことを教えてもらったのである。

ー以前、書いた一部を紹介してみるー
ーーーーーーー
H0903  お金について

 誤解を恐れずに、いや覚悟の上に書いてみる。
これほど重要なモノについて誰も直視しない。
触れたがらないのはその本質があまりにも“現金”だからである!。
ズバリお金は“自由の塊”である。
世界の大部分のモノが引換に手に入る!人の心さえも。
それほど強力な魔物である。

それに支配された時、その人の奴隷使いにも変身してしまう。
反対に上手に使えば従順な召使いになる。
父がよくいっていた
“お金がないのは首のないのと同じ位つらい、
その苦労はこの世で一番の苦労だ!。”
“お金で奇麗事を言う奴が一番お金に汚い人だ!”
“生き金は使え、死に金は使うな!”
“お金の楽しみの(うまくいった仕事の)結果のもの。”
“それは使わなくては紙に書いた絵でしかない。”
“金・金・金!!とどのつまるところ、それだ、それ位重要である。
お金に窮してはじめてそれと気ずく。
それを誰も直視しようとしない。
世の中その為に首を吊り、人を殺しもする、盗みもする。
それを認めた上で、それにとらわれるな!
とらわれない為にはお金を貯めろ!”。

父の考え方は決して間違っていないと思うし一つの見方だ。
でもお金に対して奇麗な人であった!
 ーーーーー
ヾ(´Д`、)マタネ
・・・・・・
5178,閑話小題 〜日本の将来に疑問
2015年05月19日(火)
   * 後世への恥さらし 〜歴史的汚点の結果に
大阪都構想は、僅差で否決され、これで維新の党は消滅をする。
 これは既存政党丸がかりで「維新の党」を潰したと同じ。後々、
この否決は、日本の没落の象徴として位置づけられる。大阪市民がノー
という選択をしたことは、間違いなく、日本の将来に暗雲をもたらす。
本気になって日本を変える気持ちが無いという選択である。
・ある批評家が、ブログで、「大阪市政廃止は、何の合理化にはならない」
と、したり顔で論じていたが、この問題は、「日本を本気で変えていく気が
ありやなしか」の突破口の杭になるかどうかだった。東京オリンピック開催を
選択した上に、この有様。これが日本の現状である。それにしても、日本の
既成政党が、こぞって、反対したとは、何をか言わんである。この結果の、
マイナス効果は、大阪だけでなく日本を痛めつけるだろう。
・私が橋下を代弁すると、『仕方がない、この結果の評価は歴史が証明する。
それにしても、この既成政党の全てが総がかりで反対とは、世も末。
これだけ、内側の市長と、県知事の立場で内部告発をしても、市民、府民
理解できないとは思いもよらなかった。何が地方再生だ。その前に、大阪を
まな板に上げ、徹底的に合理化をすべきだろうに。 これでは、生活保護
対象者は大阪に殺到する。彼らは、この甘さを享受したいからだ。
無念だが、仕方がない!』 
・これもそうだが、気持ちの悪い空気が覆い始めている。 こういう時に、
地震と噴火が得てして起きる。バブル崩壊の数年後に淡路・神戸大地震が、
リーマンショックの4年後に東北大震災が起きた。恐らく近い将来に経済の
クラッシュが起き、その数年後に大震災の可能性が・・(逆もあるが)
 何か、自分の死の不安を重ねている? ようだが。
・・・・・・
4813,閑話小題 ー高齢者の三割が認知症とは
2014年05月19日(月)
   * 高齢者の三割が認知症とは
 先日の朝日新聞の社会面に「認知症徘徊 不明届け一万人」の記事があった。
その中で「65歳以上の高齢者のうち462万人が認知症で、軽度認知障害
400万人もいると推計される」とあった。高齢者が人口に占める割合が
23〜4%からすると、高齢者が3000万人。その中の862万とすると、
三割が軽度を含めた痴呆症になる。前期と後期高齢者では、二倍以上は違って
くるから、80歳までに4分の1、それを超えると、過半数認知症になる。 
そして徘徊で不明になるのが年に一万人というから、深刻な問題である。
 それからして、長寿を願うのは実は考えもの。独り住まいの高齢者が増加
している中、本人も周囲も深刻な問題である。「健康診断などしないで自然死も
選択の一つ」も、理解出来る。胃瘻で一度、管につながれると、簡単に取り払う
ことが出来ない。生かして拷問しているようでもある。 死ぬも地獄、生き延びる
も地獄。老いて死ぬのも大仕事である。これを書いたためか、自分が認知症
なって呆然と佇んでいる夢をみた。脳は面白いものである。その夢とは、
<店頭で、ハンバーガーとコーヒーを注文するが、商品がなかなか来ない。
それを(どういう訳か中年男)の店員に言うが、何も答えない。ところが後で
入ってきた若い男が目の前のチケットを取って、カウンターに並んでいる。
私が店のシステムの要領を得ないで財布を持って勝手に立っていたようだ。
仕方がないので、店から出て、他のテイクオフの店に行くが、店内の座席は、
二人以上でないと座れないという。どうも自分が認知症で、街を彷徨っている
ことに気づいた>ところで、目がさめる。何か恐ろしい夢だが、認知症とは、
こんなものと自分自身に知らしめる内容である。そうこう考えると、可能な
限り医者に行かないで、自然にまかせることも選択の一つである。いざ、余命
一年、半年と告げられると、その恐怖は、はかり知れないのは父親の姿で知った。
傍らに一年いて、その恐怖感が直に伝わってきた。それも、激痛が死にたくなる
ほど激しくなっていく。死にいくのは、簡単なことではない。そのため認知症
神様が与えた自然の業わいとも言える。マダラボケになるから、本人も、周囲も
地獄になる。 生きているうち、元気なうちである。以下の内容も、その類?
・・・・・・
4446, 屋根裏に誰かいるんですよ
2013年05月19日(日)
    「屋根裏に誰かいるんですよ ―都市伝説の精神病理」春日 武彦著
 数年前になるが、既に亡くなった知人の奥さんが会社の事務所に訪ねてきて
言うに、「誰かが留守に家に入りこみ、困っている」と切り出してきた。
それも会話の中で何気なくである。「ちょっと、待ってください。聞き捨てに
ならない話で、もう一度、本当に侵入していたのですか」と聞きなおすと、
現在も屋根裏に隠れていると、写真を数枚だし、ここですと言う。
私の目には見えなかったが、本人には見えるという。「警官に来てもらい
見たが、何も見つからなかった。が、私には隠れているのが分かる。ところで、
うちの主人が生前、そういう話をしてませんでしたか? 貴方にはシックス
センスがあると聞いてましたが、この現象をどう思いますか?」と真剣な眼差し。
「恐らく貴女は、魔界とか何か違う世界に取りつかれたと考えるしかありません。
そういう話は一度も本人から聞いたこともありません」と答えた。その話を、
その人の共通の知人に話すと、「実は私の家に訪ねてきて、全く同じ話をし
写真を見せてくれたが、何も見えなかった。他にも訪ねてまわっている」
とか。本人は60歳前後で、老女というには、まだ若い。 
  ーアマゾンの内容説明ー
 精神科医である著者が、現代社会におけるさまざまな精神病理を、きわめて
冷静に考察したものである。ある日、ひとりの老女が、「自分の部屋に勝手に
人が入ってきて困る」と訴える。その侵入者は、彼女の部屋にある日用品などを
盗んでいったり、ちょっとだけ位置をずらしていったりするという。しかし、
姿は見えない。まるで、「座敷わらし」などの妖怪のしわざとしか言いようが
ない不可解な話を、老女は真剣に語る。 表題となっているこの症例は、
「幻の同居人」と呼ばれる。このような症例は、多数報告例があるらしい。
患者たちは、脳に器質的な異常が認められるわけではなく、精神的にも問題ない
場合が多い。「妄想の突飛さと当人の穏やかな常識人ぶりとのあいだに乖離が
生じているときには、精神医学はたちどころに歯切れが悪くなってしまう」
と著者は言う。それがこの症例の複雑さと奇妙さとを物語っている。
▼ 当時は、この本の存在を知らなかった。 子供達の巣立った家で、
 当人は深夜怯えているのだろうが・・ 想像しただけで、背筋が寒くなる。
当人にとって感じるのだから!私も一時期、女性の幽霊?を見たり、幽体離脱
をしたり、面白い経験をしたことがあるので、当人が真剣になるのは分かる。
・・・・・・
4072, 南直哉 恐山菩提寺院代の話
2012年05月19日(土)
 昨夜の18日、BSフジ・プライムニュースに恐山菩提寺の南直哉(じきさい)
院代が2時間近く出演し、「生きる」ということ、「死」について、説いていた。
最近、「恐山」出版されたようだ。東北震災で家族を亡くされた人が多く訪れて
くるというが、行方不明の場合、縋る思いで恐山に救いを求めるのは分かる。
院代とキャスターの問答の中で多くの鋭い指摘があった。
・恐山は感情の器。 ・死は観念、生は感覚。 
・「やりすごす」ことの重要性。(なんとかやっていける方法がくるまで待つこと) 
・人間には存在が認められた経験が必要。最初の動力になる。 
 子供の頃に、その基盤を両親がつくるが、それが壊れてしまっている。
・自殺は選択の問題。まず生きることを選択すること。転んでも起き上がる
 ことが大事、自殺したくならないような人生は本来の人生でない。
・あの世があるか?の質問に対し、「その前提に、死後の世界がある、という
 認識がある。」その前提は何か?と逆に問う。
・最近さかんに「心の時代」というが、どんな時代にも、その時代を生きた人
 には心があったのであって、いまさら、この時代だけを「心の時代」と言うのか?
「心の時代」と声高にいう人たちは、そう言うことで、「心の時代」という商品
 を作っているではないか?等々だが、訪問者が色いろの遺物を持ち込んでくる。
 その中に花嫁姿の人形が年に十数持ち込まれる。10年もすれば百以上になるが、
 捨てるに捨てられないという。毎年、その人形に拝みにくる家族がいるからだ。
 その花嫁人形も、特注のものばかり。院代の話の奥行は深い。東北大震災で
 奥さんがお産のため実家に帰っていて、亡くなられたヤンキーっぽい若い人
 の話が、涙を誘う。ただ独りで来たが、哀しみが感じられなかったという。
 哀しむまで心が追いついてないのだ。本当の悲しみは時間とともにやってくる。 
 あっという間の二時間だった。30年前に行った恐山は、強烈な印象である。
 山鳴りと、硫黄の臭いと、老人が多く入っていた硫黄風呂。あちこちに
 置かれていた遺品。そして、イタコと涙ながらに話している人たち。
 目の前に広がる白っぽい小さな湖。哀しみの感情の器である。
・・・・・・・・ 
3706, 自己を見つめる −23
2011年05月19日(木)
   ー 他者について ー     「自己を見つめる 」渡邊二郎(著)   
 幼児の頃から、「自分」は、他者の呼びかけによってカタチづくられていく。
一般的には、「他者」は、自分以外の人や、生物、そして物を総称して呼ばれる。 
二人称の「汝」と「我」の出会いと対話から生じてくるのが他者である。
【(* 対人関係の葛藤の海 ーp186) 二十世紀になって、たとえば
ブーバーなどを中心として、多くの思想家によって二人称の「汝」と向き合った、
「我と汝」の出会いと対話の関係が、人間存在の根本事実として、改めて
強調されるようになったのも当然である。とりわけ、人間関係が稀薄になって
ゆく機械的現代文明社会のなかでは、「我汝関係」の豊かな拡充が緊急の課題
として重視された。ブーバーなどは、汝の奥に、永遠の汝の面影さえ予感して、
神の前に立つ自己の存在の確認を、汝との出会いの延長線上に設定するほど。
こうした我汝関係の思想は、十九世紀前半のフォイエルバッハあたりから始まる
とも言えるが、とりわけ現代において強調された重要な問題意識である。
 さりながら、そうした他者のうちに、たとえば、サルトルは、むしろ逆に、
鋭く私の秘密を握って、私に対して支配力を行使しようと隙を窺っている、
油断のならない「まなざし」を予感した。したがって、そこでは、自他の関係は、
永遠に自由をもった者同土の「相克」が宿命となる。調和的な共同主観などは
幻想であり、むしろ、個別の体人同士の峻烈な争いと闘いが、対人関係の根本
事実と見なされるわけである。 ヤスパーも、人間関係において、やはり、
争いを、不可避の個別的限界状況と捉えていたことは、すでに述べた。
・ つまり、一つには、人間関係の根本には生存競争という非情な争いが、
 一皮剥けば、いたるところに隠れ潜んでいることが、すぐに露呈してくる
 からである。実際、人間関係の深刻な極限的状況においては、食うか食われる
 かの、生死を賭けた争いの火花が噴出してくることは、誰もが覚悟している。 
 また、平凡な日常生活の場面においても、いろいろな局面で、先着順や成績順
 や業績順や体力順によって、岐路が分かれ、自他の運不運の差が顕在化して、
 憂き世での浮沈が結果としてくる。
・ さらに二つには、自己と他者は、相互に協力し合いながらも、
 「愛しながらの争い」において、互いにたえず、本心を確かめ合おうとし、
 公明正大さをめぐる人間的吟味の鋭い眼を、相互に向け合う。すなわち、
 自他は互いに、相手が、どれほど誠実であるか否かを、いつも気懸かりの
 種とする。つまり、他者を、その誠意や裏切り、欺朧や正直、傲慢や謙虚、
 忘恩や怠慢などの点で、吟味して、他者が真に信頼の置ける人物であるか否か、
 人は不断に確認しようとする。・・・   】
▼ ソクラテスデカルト、カントの三者の考えは、みな「私」を拠り所
 にして他者や世界と立ち向かっていたと感じていた。しっかりした「自分」
があってはじめて他人と接しることができると考えていたようである。しかし、
19世紀初めに生きたヘーゲルは、この考えに根本から批判する。
自分が自分でいるのは、先に「私」があるのではなく、むしろ他者が先にいる
からであると。少なくとも、相互作用が必要と言う。「他者」が「私」のことを
意識することによってはじめて、「私」は、この世に位置づけられる。人生の
節目どきで、身近にいた他者が変わる時に、この意味が実に鮮烈に見て取れる。
  特に内面の希弱な人にとって、他者の交代の節目は、自分を支える基盤が
無くなり、大きく動揺する。老齢になるほど大きくなる。
 ・・・・・・
3341, 今日からデジカメ写真がうまくなる
2010年05月19日(水)
    「今日からデジカメ写真がうまくなる」 久門易著
 元もと写真が好きで多く撮ってきたが、デジカメが出来てから、それが
より多くなったようだ。それにしてもデジカメの機能の日々の進化は目を見張る
ものがある。プロとアマチュアの差は、「多くの角度から枚数を撮って、
その中からベストのものを選択できる要因の差」という。
 (字数の関係でカット2,012年5月19日) 
  ・・・・・・・・・
2966,ミューズが降りる
 2009年05月19日(火)
先日、立川談志のテレビインタビューを見ていたら「ミューズが降りた」芸
について語っていた。年に2〜3回はあるという。 話芸の中の人物に魂が
降りてきて、自分でも信じられない芸になる。その幾つかの中の一つの
「芝浜」の録画を放映したが、何度か観たことのある録画。名優の演技には、
度々あるのだろう。森光子の放浪記の演技の中でも多くあったはず?
談志曰く、「その時の芸は自分でも抱きしめたいようだ!」
  ーネットでミューズを調べてみると・・・
ー「ミューズ とは、ギリシア神話に出てくる、文芸・音楽・舞踊・哲学・天文
・芸術一般などの女神たちの総称。個々の女神は、Muse ミューズで単数の形に
なります。 大神ゼウスと、記憶を意味するムネーモシュネー女神のあいだに
生まれた、9人の姉妹とされている。ー 芸の中の人物を演じていると、
その人物が自分を観ている錯覚を覚えるという。 霊感の鋭い人の感覚は、
鈍い人に解りようがない。スポーツ選手でも、政治家でも、一番勢いの乗って
いるときは、誰でも神がかる。神?が本人を使っている状態か。頭に浮かんだ
イメージに自分を通してエネルギーを入れると、魂が入るということだ。
芸術品もミューズが降りた神の仮の姿とみれば、違った面も見えてくる。
私の同級生の兄が「能」をしているが、「能の世界は現実か、現実が幻想世界
か、混同することがある」(新聞紙上)と、同じようなことを言っているのだろう。 
ところで私にミューズが降りたことがあっただろうか? いや、誰にもあること
でしかないか?言わないだけ、表現する場がないだけ、表現方法を知らないだけ、
それだけ人間の脳力は深いということ。 
(後記ー偶然、昨年書いた、「ごっこ遊び」が、関連したような内容。)
・・・・・・・・・
602, ごっこ遊び
2008年05月19日(月)     
          ヽ(★>з<)。o○[ォハヨ]○o。
  ーまずは「ごっこ遊び」を、ー辞書で調べてみるとー
ごっこ遊びはこどもの遊びの一種で、何かになったつもりになって
遊ぶものである。通常、○○ごっこというように、何かの名前をつけて呼ぶ。
何かの職業のまねをして遊ぶ場合や、テレビやマンガのヒーローやヒロイン
のまねをして遊ぶ場合がある。こどもはあこがれを抱いた対象ならどんなもので
ごっこ遊びにしてしまうので、 「わんちゃんごっこ」や「お人形さんごっこ
など大人の予想しないごっこ遊びを始めることがある。】とある。 
子供の頃に、多くのごっこ遊びをした記憶がある。最近は、若者の間に
アキバ系で「メイドカフェ」なども、「ごっこ遊び」そのもの。
他にも、ロールプレーイング・ゲームがある。元々は戦争シミュレーション
ゲームから派生したアメリカで考案された遊び。参加者が各自に割り当てられた
キャラクターを操作し、一般にはお互いに協力しあい、架空の状況下にて
与えられる試練(冒険、難題、探索、戦闘など)を乗り越えて目的の達成を
目指すゲームの一種。様々な設定と制約の元で、空想上の世界で物語の登場人物
のように活躍できる。考えてみれば、世の中の多くは「ごっこ遊び」のような
もので、国が発行している札だって、所詮は紙切れでしかない。
 (字数の関係でカット2,011年5月19日)