〜『他者という病』中村うさぎ
   * 「私が私でなくなっていく」恐怖
 去年、月刊誌『新潮45』で、彼女の手記にのめり込んでしまった。
シリーズとして後半に入っていたが、読んでいて何故か支障はなかった。
それが、一冊の本になったのを、先日、図書館で見つけたが、初めから
シリアスである。 <「私が私でなくなっていく」などという体験は、
そうそうできるものではない。ならば、それを書いていったらどうだろう>
と、筆先は力強く?進んでいく。 〜文章の出だしからして驚かされる〜
≪ 2012年の8月中旬、私は突然の病に倒れて入院し、約3ヶ月半の入院の間に
 一度の心肺停止と二度の呼吸停止状態を経験した。病名はいまだにわからない。
主治医は「スティッフパーソン症候群の可能性あり」と診断したが、あくまで
可能性であって確定にはいたらず(というのも、その後の検査の結果、いくつか
当てはまらない項目があったからだそうだ)、とりあえず対症療法として
ステロイド」や「ホリゾン」といった薬が投与された。
スティッフパーソン症候群」とは、「スティッフー=硬直する」
「パーソン=人」という意味で、要するに「硬直する人」という病名である。
 その名のとおり、入院してから私は日に日に身体が硬直してねじ曲がり、
激しく痙攣して全身に痛みが走るようになった。ついには立つことも歩くことも
できなくなって車椅子でしか移動できない身体になり、寝間着を着替えるために
看護師さんたちに触られるたびに激痛で大騒ぎするようになった挙句、ある時、
着替えの最中に突然死んでしまった。
 「ホリゾン」という薬が投与されるようになったのは、この心肺停止と呼吸
停止の二週間後からである。この薬のおかげで突っ張り痙攣といった症状は軽減
したのだが、相変わらず歩くことは叶わず、退院後もしばらくは車椅子生活を
余儀なくされた。 しかし「ホリゾン」が効いたおかげで、その後、私が心肺
停止や呼吸停止に陥ることはなくなり、手が震えて食事ができないような事態も
徐々に改善されていった。
 まあ、「めでたし、めでたし」と言いたいところではあったが、
じつはそう楽観的な事態でもなかったのである。
この「ホリゾン」という薬の副作用が、私にとっては大問題であった。
この薬は脳に作用して人格を変えてしまう、というのだ。
人格が変わったら、私は私でなくなってしまうのか?
「私」という自我は保ったままでも、周囲から見ると別人となってしまうのか?
想像するだに恐ろしいことであった。
「私とは何か」という問題をずっと追い続けてきた私が「私」でなくなったら、
私は何者を追えばいいのか、いや、それよりも、「ホリゾン」の副作用で
論理的思考力を失ってしまったら、私はもう思索のできない人間になるのか。
今までだってたいした思索はして来なかったじゃないかと言われればそれまで
だが、たとえ稚拙であろうとも、「考えること」は私の生き甲斐でありアイデン
ティティでもあったのだ。それを失うことは、ある意味、命を失うことより
恐ろしい。
 だが、「私が私でなくなっていく」などという体験は、そうそうできるもの
ではない。ならば、それを書いていったらどうだろう。
「死の体験」と並んで、それは貴重なルポルタージュとなるのではないか?
と、そのように考え直してみた頃、「新潮45」という雑誌に、今回の話を書く
こととなった。私が「死」によって何を感じたか、薬の副作用で「自分が自分で
なくなっていく」ことをどのように実感したか… そのようなことを書ければ
本望だと思った。が、あいにく、薬の副作用による人格変容に関しては、本人に
自覚がないため、客観的にレボートすることはできなかった。ただ、今回の
単行本化にあたって読み返してみると、「ああ、この時の私は明らかに
おかしいな」と気づくことができる。読んでいて赤面することもしばしぱ。≫
▼ 青年期の落ち込んだ時、何もかもが虚無のような、得体の知れない心理に
 陥ったことがある。自分の土台が消滅し、手がかりが全くない感覚である。
あの感覚の得体の知れない恐怖は何だったのだろう。
・・・・・・
3992, ビジネスマン退職後の誇りある生き方
2012年02月29日(水)
   ービジネスマン退職後の誇りある生き方ー キングスレイ・ウォード著
 * ある二十日鼠の研究
 この著書は10年前に買って飛ばし読みをし、書棚にあった本だが、
リタイア後に改めて読でみた。実際に、その年齢に達しないと理解できない
ことばかりである。以前読んだ時に記憶に残っている言葉に、「私にとって
年寄りは自分より15歳年上をいう」である。老後に失うものは記憶力と体力
というが、著者は、「物忘れは、記憶装置の取り出し機構が、いわばクシャミ
をしただけ」という。ここで、
≪ ある二十日鼠の研究がある。実験者に、一方のグループは愚鈍な鼠で、
 一方のグループは賢い鼠であることを告げられた。実験結果もその通りで、
賢いグループの方が愚鈍のグループよりも速く迷路からの出口を見出すことを
証明した。実験者たちは遺伝子の研究に関わっていると思っていたので、
実験はこの二つのグループの知能が同程度であり、この実験は予測が結果に
及ぼす影響のテストであることを知らなかった・・・≫とあった。
老齢は頭脳も肉体も衰退するというが、思い込みが老化を推し進める。
実際に、この随想日記を11年続けていて、それ以前より遥かに知能がアップ
し続けている実感がある。 スポーツジムに通いだして一年足らずになるが、
足腰の重さと腰痛が8割以上も良くなった。ただ習慣からくる慢性症状と老い
を勘違いしていることが多い。老いは失うものも多いが、得るものの方も
多いと、この年齢に達して思うこと。 若いときには傷つくことも多いし
不安定だったが、人生を精一杯生きている実感が溢れていた。どちらも同じ。
二十日鼠と対自としての自分は同じ。「努力すれば何とかなる」と、自分を
信じて努力を続けるのと、「自分はダメだ」と諦めて、その繰り返しを呟き
努力しないのとは数十年で雲泥の差ができる。 親にも責任がある。
「この子は親に似て頭が悪い」と言い続けるのと、「この子には凄い才能が
ある」と、褒め続けるのとでは、これまた本人にとって大きな環境の違い。
「死ぬまでは生きている、精々、前向きに楽しむこと」が誇りある生き方になる。
愚鈍な方たち、何故か自分をワザワザ愚鈍たらしめている。
何故なら愚鈍なことをしてきたからである。 他人事でないか・・ったく。