*「過去」はわたしを忘れない  〜『貧乏の神様』柳美里
 芥川賞作家の柳美里の『貧乏の神様』の中にあった言葉。
現役時代の「森の生活」の時節は、過去は遠い彼方のように思っていたが、
還暦を過ぎる「サバンナの生活」に移行したころから、以下のように
過去への心象風景がチョイと変わってきた。 〜その一節より
≪ ・・「過去」とは、過ぎ去った時間や事柄を示す言葉ですが、
 わたしは、「過去」は決して過ぎ去らない、と思うのです。
自分が2つの足を置いているその場所に、過去は地層のように堆積し、
精神が地震に遭ったように揺らぐと、足元に亀裂が走り、地層(過去)
が露出する――  放浪の最中に、わたしは何度も過去に待ち伏せされ、
過去の落とし穴に足をとられそうになりました。
 わたしが過去を忘れても、過去はわたしを決して忘れない。
過去が更新されて「今」になるのではなく、過去は過去のまま
更新されるのです。未来は全て過去にある、という言葉の意味を、
40歳を過ぎて噛み締めています。≫
▼ <過去を忘れても、過去はわたしを忘れない!>
<未来は全て過去にある> の言葉が先の少ない時節の胸に刺さる。
 秘・異郷を中心に50回のツアーに行った先のどこかが、TVの旅番組で、
毎日のように現地レポートされる。その度に、それぞれの記憶が露出し、
その体験した記憶に、新たな現地の映像が加わっていく。この随想日記も、
早朝に15年分を読み返していると、過去からの声が、それぞれの同月同日の
「いま、ここ、わたし」の声が、ざわめきのように「いま、ここ、わたし」
に語りかけてくる。 葬式で、故人の決して後味が良いだけでない思い出が、
心の足元を揺らがすことがある。サバンナ(御隠居)の生活では、有り余る
時間の中で、過去の堆積物から思いもよらないフラッシュが沸いて出る。
あの暗い老人は、その暗黒の堆積物の暗部に引き込まれた結果である。
「因果応報」「因縁」というが、隠れている過去は、何かをキッカケに
表立ってくる。それが現在か、近い将来になるかでしかない。
 人生とは、過去という荷物を担いで、一歩一歩を独りいく道のりである。
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5044,生と死をめぐる断想  ー1
2015年01月05日(月)
    『生と死をめぐる断想 』岸本 葉子(著)
 * 死をそばに感じて生きる 〜団十郎の辞世
   ー 色は空 空は色との 時なき世へ ー
 以下は、序文の冒頭の内容。日本人の2人に1人の割合でガンになり、
3人に1人の割合で亡くなるという。高齢化で、ガンになるまで、死ななく
なった結果、死を意識する時間が長くなったこともある。今では死に関する
知識を、一般の人が、ネットなどから死生観を収集したり、表現できる機会が
増えている。 ー まずは序文の冒頭からー
≪ 2013年2月に亡くなった歌舞伎俳優の市川團十郎の辞世の句だ。
 葬儀の場で長男の團十郎のパソコンに残されていたという。
詠まれたのは前年の十二月、亡くなる数ヶ月前である。
 色は空(そら)、空は色(いろ)との 時なき世へ、と海老蔵は読んでいた。
この句に接し、『般若心経』の中のあの一節を思い浮かべる方は多いだろう。
色即是空 空即是色。それに寄せて読むならば、冒頭の句は、
 色は色(しき)空  空(くう)色(しき) との時なき世へ、となる。 
色はかたちあるものと、ひらたくは言われる。空は空っぽ、何もない、という
ことか。空しい、ということか。かたちあるものは実は何もない、空しい、と
教えているのか。そうではない。(略)・・ このことは追々深めたい。
時なき世とは。時間のない世。時間を超えた世。超時間性は永遠と言換えられる。
それは、この世に対するあの世なのか。この「時なき世」が團十郎の句では
「色は空空は色」と「との」でつながる。「との」は、と言われる、とか、と
聞いている、の意だ。色即是空、空即是色とかねてより聞いている時なき世。
「へ」は方向を示す助詞である。色即是空、空即是色とかねてより聞いている
ところの 時なき世へ、自分はこれから行くのである。團十郎の死生観を
表す句と言える。(略)・・ 團十郎が、死を前に遺した五七五が、芸についての
教えでなく死生観の表出だったのは、私には少し意外、けれどもすぐに理解できた。
團汁郎は長く血液のがんを患っている。治療の副作用による絶え間ないめまいと
吐き気を無間地獄と、あるインタビューでは曝えていた。何度も再発入院し、
骨髄移植をしていた。・・・≫
▼ 色を「しき」と「いろ」、空を「くう」と「そら」と、息子が間違えて
 言ってしまった可能性もあるが、真偽はわからない。栄華を極めたあと、
とたんの苦しみの死際の言葉であればこそ、心に響く。 即興の辞世!
 《 色即是空 死んでしまえば それまでよ 空即是色 》 
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4679, スマート革命 ー2
2014年01月05日(日)                                   
  * スマート革命とは? 「ゼロから学ぶスマート革命」山崎秀夫 (著)
 マックの各スマート機種は一通り使ってみたが、ただ驚きである。
これは「スマート革命」を象徴したもので、ジョブスは、まずは企業向けの
大型コンピューターを個人・家庭用の宅上型に作り変えたパソコンをiMac
として世に出した。次のiPodは、音楽業界に革命的影響を与え、更にiPhone
iPadと、次々とスマート機器を世に出し、そして現在、スマートTVを世に
出そうとしている。 アマゾンが書籍のネット販売を始めしばらく経つが、
今では書籍の枠を超えた商品を扱うようになった。その書籍も紙に印字する
形態から、パソコン画面へ印字するデジタル書籍の時代が始った。
私の命名だが、これスマートショップ。この動きは、スマート自動車、
スマート家電、スマートTVに広がっている。 現在、スマートフォン
劇的に普及している。携帯電話にパソコンが融合したもの。そこに、会話式
のアプリが入ると、「手のひら音声ロボット」。テレビ操作、パソコン入力も、
電気製品の操作も、両手をハンドル操作に取られる自動車も、何もかも会話式
アプリ機能に従い入力をするようになる。それが「スマート革命」である。 
  ーアマゾンの読者レビューからー
《 ポストパソコン時代が進むと2015年には一人七台のスマート機器を
 使い分けるようになると予測。 それに合わせて1)新しいイノベーション
の形(事業モデル)と 2)新しい個人コンピューティングの形が出現します。
まず新しい個人コンピューティングの形を特徴つけるユーザーインターフェース 
従来のパソコン+ブラウザーWebサービス時代には、生活者は「テキスト入力で
パソコンと会話」していた。しかしスマート革命時代には機器と生活者の
インターフェースは、「スマート機器はユーザーの友達になる」と考えられる。
米国MITの社会心理学者シャリー・タークルは著書「Alone Together」の中で、
ユーザーインターフェースのあり方を「ソーシャルロボット」と呼びました。》

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4312, 幸せはいつうもちょっと先にある −2
2013年01月05日(土)
      「幸せはいつもちょっと先にある」ーダニエル・ギルバード著
 幸せの意味についての切り口が、分かりやすい。ーまずは、その箇所から
    * 3つの幸せ
≪「幸せ」という言葉には少なくとも3つの関連することがらを表すのに
 使われる。「感情の幸せ」「道徳の幸せ」「判断の幸せ」である。
○ 感情の幸せとは、気持ち、経験、主観的な心理状態の表現であり、
 物理的の具体的何かを指すものでない。幸せはこの時代に生きる人が
 暗黙的了解で通じる気持といえる。
○ 道徳の幸せとは、「○○だから幸せだ」になる。感情の幸せなら、
 排便への幸せに少し似ていると考える人が多い。それは低俗で安っぽい、
 意義ある人生の基盤になりえない空虚な牛の充足状態でしかない。 
 哲学者のミルがいう「満足した豚であるより不満足の人間のほうが良い。
 満足した愚か者より、不満足のソクラテスである方が良い。もし、愚か者や
 豚がこれに異を唱えても、このことを自分たちの側しか知らないからだ。」
 哲学者のロバート・ノージックは、この安っぽい感情の幸せの信念が間違い
 と、架空の仮想現実装置を使って説明した。「この装置があれば、誰もが
 思い通りの経験ができるし、自分が都合よく装置につながっていることを
 忘れることができる。彼は、以後の人生につながって生きていていいと思う
 人間は誰もいないと結論づけた。こんな装置で得た感情はちっとも幸せで
 ないからだ。ようするに豚ならいざ知らず、洗練された有能な生き物には
 相応しくない目標ということ。
○ 判断の幸せとは、「○○について幸せだ」である。我々はものごとに
 ついての価値判断について幸せという言葉を使う。妻がタヒチに半年の
 赴任で、自分が子供達の面倒を見るとき、「自分は幸せでないけど、
 君が幸せなら僕も幸せだよ」という場合である。ここには、自分は幸せで
 ないけど、妻が幸せなら、仕方がないという判断が入っている。≫
▼ この3つの幸せが、混同してしまうから問題が生じる。ただヒタスラ
 仕事に打ち込み、別荘をたて、そこで茶道具を買い集め、茶会を開き
楽しんでも、最期に何か物足りない感情が残ったという類の話は、日常見渡せば
幾らでもある。この3つが混同している典型的事例である。感情の幸せを
追うあまり、太った豚が、その辺の豚たちいへの面子で、本来の質素倹約を
忘れ、何処か判断を間違ってしまった?のでは?いう後悔の念が纏わりつく。
 しかし感情、道徳、判断の幸せを分けて道楽をしていれば後悔はないはず。
フランクルの、「良く遊び、良く学び、良く働く」の3つを、特に「良く」
を意識して、バランスよく追求すれば、空虚な気持ちはないはず。
「つねに面白いこと、ためになることを思っていれば、それで幸せになれる」
ということか。
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3937, 閑話小題
2012年01月05日(木)
  * 年末年始
 この年末年始も、例年のように過ぎていった。事業から離れて初めての正月
になるが気持ちは何も変りない。ただ以前ほど政治経済のニュースに敏感に
反応しなくなっている。こうなれば、良いも悪いもないが。 まだ事業を
続けていたとしたら、この激流の中で夜も眠れない日々が続いていたはず。 
事業から一歩退いてみると、この断絶の大きさが更に鮮明に見えてくる。
TV番組も、派手な内容のものは少ないようだ。正月で特別なことと言えば、
蔦屋で数年ぶりにDVDを一本借りて見た位。
  * 元旦の殿町で
 元旦は、例年、東京から帰省してきた次男夫婦と、長男と、私たち夫婦、
合計5人で居酒屋での新年会が恒例になっている。次男夫婦は地元の同級生と
二次会とかで別行動。今年は長男と殿町に行った。駅前は、居酒屋チェーン店が
元旦でも営業をしているが、さすが殿町は殆どの店が閉まっていた。
その中で、一軒のスナックに入ったが、先客が二組み飲んでいたが、
危なそうな客。一時間ほど経った頃、50歳頃の革ジャンを着たテキ屋か、
ヤクザ風の客が私たちの隣に座った。隣なので何気なく話すと、奥さんと喧嘩を
して飛び出してきたという。暫くして「マスター、一軒回ってまた来るね!」と
出ていこうとするので、酔った勢いもあり、「勘定を払わないで出ていくの?」
と言ってしまった。ところが、「何だ御前、俺を馬鹿にするのか。
御前に、そんなことを言われる筋合いはない!」と凄んでくる。そのへんは、
慣れたもので「別に馬鹿にしたわけじゃない。自然に出てきた言葉。
そう思うのは貴方の勝手」と答えると、凄い目で飛びかからんばかり。
長男が、その辺の呼吸を知らないようで、立ち上がり乱闘寸前。ようは、呼吸。 
押しても引いてもダメで、「元旦そうそう、あまり怒るなよ!」とか
言っていれば良い。危ない奴ほど、簡単には手は出さないのは経験上知っている。
で、本人はプイと出ていったが、マスターに「あの客、馴染みなの?」と聞くと、
「一げんです」という。飲み逃げ、手馴れたもの。初めての店で、
「少し他の店を回って後でくるね」じゃ、飲み逃げそのもの。で、結果、
飲み逃げの手助けをしたことになる。 特に年始のスナックは泥棒が多いと聞く。 
それにしても、危ない客。 そういう私も、それを楽しんでいる変な客。
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3572, 人は何故、肯定思考に心がけなければならないか?
2011年01月05日(水)
 肯定思考といえば、中村天風の「肯定肯定、絶対肯定」の言葉が思い出される。
また書店には肯定思考の本がところ狭しと並んでいる。考えてみれば新約聖書
弱者肯定の見本のようなもの。ありのままに、ほっとけば人間の思考はマイナス
思考、否定思考に流れされる。電車やバスに乗り遅れたことは思い出しても、
ギリギリ間に合った記憶はホボ忘れている。その数倍もあるのに。
楽しいことを忘れ、辛いことを何時までも記憶する習性が人間にはあるようだ。 
それは、我われの祖先がもたらしたもの。 大昔、毒のある食物で当たり、
野獣に襲われ食べられそうになったりすると、二度と同じ過ちを繰り返さない
ように、その記憶を長く残した。逆に、美味しい食べ物に出会っても直ぐに
忘れることにした。それに捉われると、次の食べ物に有りつけなくなくからである。
その習性に気づいてないと、良くない記憶だけが残ってしまい、自分だけ悪い
ことが起きてしまうと錯覚をしてしまう。 だいたい、良いこと悪いことが同量
が起こっていると考えればよい。しかし良いことを思い出す訓練をしていると、
どうも良いことが擦り寄ってくるようになっている。 私の場合は、三対一と
勝手に思っている。面白そうなことを探していれば、自然、その方に自分から
擦り寄っていく。例えとして私事になるが、47回の海外旅行、それも秘境ツアー
の経験は、週末のTV生活を楽しませてくれる。BS/TVで旅先の何処かを
放送している。一度行ったところを違う目線の映像を見ると、再び訪ねている
感覚で見ることができる。自然に他の行き先に惹きつけられ、欲も出てくる。
 マイナス思考は逆である。 嫌なことに捉われていると、それに類似した
TVや小説の場面で嫌な追体験をしてしまう。その繰り返しの中から怒り、
憎しみが憎悪に変わっていく。「人を恨めば、穴二つ」の相打ち、である。
だから、嫌なことは、意識的に排除すべきである。 言葉=精神。 
明るい言葉は、明るい精神と言い換えることが出切る。言葉を持ってしまった
人間は、二人称の身近な死から、一人称の「自分の死」を予感するようになった。
これが、マイナス思考を更に深めている。そのため神という共同幻想の仮身を
つくるしかなかった。 人間は人間であるが故に、脆いのである。
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3197,つれづれに ー 閑話小題
2010年01月05日(火)
  * 人生味わえば、8割は良いことになる
 1月3日のTV「熱中人生」で、藤岡琢也が対談した70歳後半の品の良い女性
が語った言葉が良い。「人生、生きてきて、良いこと2割。辛いこと8割だった。
しかし、辛いことを味わえば、8割は良いこと辛いことは2割になる」が、印象
に残った。「終戦直前に、近くの旅館に特攻隊員が数人、出撃の待機をしていた。
その話し相手に行っていたが、彼らが終戦の一月前に出撃していった。 
彼らが死んでいっても、自分の中に生きているように感じる。そのお陰で、
疎かに生きなくてはならないと、生きてきた。 人生は辛いことが8割だが、
味わえば、良いことが8割に変わる!」と、しみじみと語っていた。 
そう、辛さを味わうのである。 甘塩辛いが!
  * 面白いものである!
 実際に、数ヶ月に一度は全く書くネタが無くなる。書いていると自己嫌悪に
陥るのである。自己嫌悪は今さらだが、書き尽くして如何もこうもテーマが
なくなり、書いてきた内容に微妙な感情に押しつぶされ、どうもこうも、
ならなくなる。お手上げである。しかし、その時ほど、直後に何かが出てくる。
その何かとは、小さな井戸の水を掬いとった後に、何処から水が湧き出る感覚
である。だから続けることができる。これは人生と同じじゃないか? 
そう、挫折、その後に来る孤立と孤独の中から力が湧き出てきたのと同じ。
その時に、変化が生じる。そこ(底?)から知恵が出てくるのである。
その繰り返しから、知恵も、力も出てくる。 
  * 婚活ブームの後は、離活ブームだと!
 現在、婚活ブームだが、次は「離婚ブーム」が来そうだと、昨日の産経新聞
の社会面トップで取上げていた。20〜30歳代前半の女性の多くが離婚相談所
にくるという。 女が出来たとか、借金が多いとかいうハードなことより、
呆れるほど些細な動機。 熟年のように熟慮を重ねた上の離婚とは違い、単純な
気分で嫌と決め付けるケースが多いとか。以前なら親が説得する程度のことを、
親まで一緒になって悪口をいうから・・。 今のユトリ教育で育った人種なら、
分からないでもないが。 「結婚など、嫌が上のハク」というのは、長年、
連れ添ったものなら分かっているはず。 後記)去年に、偶然に同じような
テーマを取り上げていた。 それも、新年早々に! そんなものだろうが。
 ――
2832, 1秒でも早く・結婚したい女たち -2
2009年01月05日(月)
  ー前回に続いての、まとめである。
・雇用機会均等法の中で育った40歳前後のアラフォー世代の女性たちは、
 キャリア志向が強く「仕事をする女はカッコイイーッ!」という価値観。 
 彼女たちが20代のときは「結婚して家庭に入るよりも仕事に生きたい」
 と願い考える女性が多かった。その結果で晩婚化していった。
 その盛りが過ぎたキャリアウーマンが、40歳に近づいて焦り始めている
 ケースを取り上げていた。
・しかし、その下の若い世代(20代)になると、女の幸せを考えたとき
 「仕事で輝いたとしてそれが何ぼのもの?」「それが本当にカッコイイーッ
 のか?幸せなのか?」と考えるようになり、結婚も仕事もこなす女性の方が
 カッコイイーッという価値観が生まれてくる。 妻となり母となり、
 キャリアウーマンをこなす「キャリア・マザー」がカッコイイーッと捉える
 女性が多くなっている。 全体として結婚して人生のパートナーをつかみ、
 仕事もバリバリこなすライフスタイルの賛同者が多かった。
・その女性の反面、男子たちは女性化している。 かつてクリスマスの夜の
 予約に執念を燃やしていた男達は少なくなっている。肉食系動物より草食系
 動物系に男が変化しているという。 別に結婚に執着しない男が増えている。
 「現在の20歳の女性4人に1人が一生結婚が出来なくなる」というデーターも。
 女性週刊誌は、いかに男を見つけ口説き落とすかの特集が多いという。
 一時代前の男の週刊誌と同じになってきた。何か気持ちが悪くなってきた。 
 36年間、結婚生活を過ごしてきて結婚生活は、そう甘いものではないと実感。
 慣れるに10年、諦めるに10年はかかる。そのあと10年かけて同じ方向を見る
 ようになる。そして最後は「同居の貴女」になっていく。それでも結婚
 しないよりは良い。人生の半分(いや、三分の二)は、結婚相手によって
 良くも悪くも決まってくる。私生活の大部分を一緒に過ごすのだから当然。
 選り好みをしていたらチャンスを逸するし、焦れば「化け猫」を掴んで
 しまう可能性がある。どう見ても「化け猫と、ボケ犬」の組み合わせと
 しか思えないカップルが多い。もしかして結婚とは、こんなものかも。 
 「一秒でも早く・離婚したい夫婦たち」というテーマを思いついた。
 この数年に同年代の親戚の男が二組、熟年離婚をして旅先に家庭を置いて
 実家に帰ってきた。知人に倒産・浮気等で夫婦関係が破壊して、それでも
 同居している男が何人かいる。 相手が気の毒だが、他人の家庭のこと。 
 地獄は、末期の夫婦の不仲にあるようだ?貴方の家庭のことではありません?
 念のため。そして私の家庭のことでもありません。 過半数が、家庭内離婚
というから、熟年離婚を書くのは拙いか?私のように、浅くて長い河がある
のは、如何か? まだ歩いてわたれるから、まあいいか?
・・・・・・・・・
2008年01月05日(土)
 2467, 歌は世相につれ    ○( ̄ ̄ ̄ ̄o ̄ ̄ ̄ ̄)○ おっ は〜♪
20年ほど前に評論家が「ナンバーワン戦略では、直ぐ二番手に狙いうちにあう。
ナンバーワンを深化してナンバーツーが辿りつけないまで磨き上げてオンリーワン
になることこそ生き残りの戦略である」と論じていた。このオンリーワンの言葉を
パクッタのだろうか、スマップの「世界に一つだけの歌」に、このオンリーワン
という言葉がある。オンリーワンの意味をしらない作詞家が「ゆとり教育」で
育った若者に向た媚びた歌詞を作り上げたという見方ができる。彼らも普通の人
なのだから、そういう歌詩を批判する方が野暮といえば野暮だが。オンリーワン
の本来の意味が個性ということだから、その間違いを書いている。これだけ流行
するのは、時代の現状を現している。ゆとり教育肯定派は
・一部勝ち組が賞賛される時代、それ以外でも精一杯生きる何処が悪いのか?
・オンリーワンと勝手に思い込む何処が悪いのか?
・生きているだけで全てではないか、それを気づかしてくれる歌詞の何処が
 悪いのか? それはそれでよい。しかし、それだけでは人生ではない!
 人生は世界に一つだけの花ではない、人間は。傷つき、汚れ、ボロボロが人生。 
 (以下、中間略ー字数制限の関係で2,011年1月5日) 
・・・・・
2007年01月05日(金)
2103, ウェブ人間論