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ー知の逆転ー 対談相手〜マービン・ミンスキー
* ユングとフロイト
ユングとフロイトについてミンスキーはフロイト寄りの論だが、説得力がある。
私自身、ユングのいう、「意味ある偶然の一致」=シンクロニシティ(共時性)
の体質?が少しあるので、ユングに傾倒していたが、違う論も面白い。
ーその辺りを抜粋 〜P195
≪ ーあなたは人工知能に関連して心理学の分野も研究されるわけですが、
以前「カール・ユングの人気は全くおかしい」とおっしやっておられました。
なぜそのように考えておられるのでしょうかー
ミンスキー: カール・ユングは科学分野からとうの昔に消え去ってるでしょう。
ーそれに異論がありませんが、フロイトはどうでしょうー
ミンスキー: ジークムント・フロイトはなかなか興味深い人物です。
たくさんの新しいアイディアを持っていましたが、あまりに時代に先駆ていた。
たとえば、神経系の中をいかに情報が伝わっていくかについての理論を、早く
から論文にしていたけれども、一九五〇年になるまで活字にならなかった。
神経細胞がどのように情報を伝達するか、それが経験によっていかに変わって
いくかなど、さまざまなアイディアが入っていたのですが、あまりにも当時の
他の理論と異なっていたために、なかなか出版されなかったのです。
フロイトの学生だったユングは、面白い理論を構築し始めます。その過程で、
異なるいろいろな文化が実は同じようなアイディアを持っていたことに気づく
わけです。たとえば、それぞれの文化の伝説や神話がやたら似ているとー。
悪い行いをすると神様が出てきてその行いをこらしめるといった話ですね。
だからユングは、全ての人々の心は、何かテレパシーのような神秘的な方法で
コミュニケートしているんじゃないか、と考えたわけです。これに対して
フロイトが怒って、以来、二人は二度と口も利かないようになった。
互い相手の主張がばかげていると思ったんですね。ばかげていたのは明らかに
ユングのほうでしょう。でも、いまだに多くの人々が、彼の説を良しとして、
意味のある心理学だと思っているようです。・・・ ≫
▼ 改めて、フロイトとユングの違いをダイジェスト的に論じているが、
色いろ相まって人間の心は構成されているため、フロイトの考えだけでは
限界があるし、ユング的霊性も限界がある。ネット社会で、共時性が如何に
意味を成していくか、失っていくのか? 対談者とインタビュアーは、後者
のようだ。ネットが共時性そのものに、なったため、それが如何した?
レベルになった? 生物、人間が進化してきた過程で膨大な経験がある。
・・・・・・
4789,葬式は、要らない ー2
2014年04月25日(金)
「葬式は、要らない」島田裕己著
ーアマゾンのレビューよりー
《 過激なタイトルだが、葬式が「要らない」のではなく、そんなに
金をかけるものでは無い、と言いたいのだ。「高い高い」と言われても、
何もお寺が強要してる訳でもなく、また業者も商売なので多少の出費は仕方ない。
人が嫌がる、または面倒な事をお願いするのだから。また諸外国と(金額の)
比較をし、日本が異様に高いというが、国柄や文化がそれぞれ違うのであまり
参考にはならない。要は個人個人が思うようにすればいいだけの話。
でも日本人はそれができない。冠婚葬祭に関しては世間体やら周りの目を
気にする体質ですから。ある意味、日本に住んでる以上葬式にお金がかかるのは
仕方の無い事かも。日本人は世間体を絶ず気にする。それがあらわれるのが葬式。
布施や香典は行う側の気持ちによるとされてはいるものの重視されるのは、自分
がいくら出したい・出せるかではなく、他人がいくら出しているのか、である。
こうした感覚が日本人のなかに育まれる上で重要な働きをしたのが村落共同体の
成立である。江戸時代に入って寺請制度が導入されたのは大きな意味をもった。
すべての村人は村内にある寺の檀家になることを強制された。よって村人は
必ず仏教式の葬式をしなければならなくなり、戒名も授けられた。
仏典は膨大な数が存在するが戒名についての説明はない。仏教が広まった
地域のなかで戒名という制度が存在するのは日本だけ。初期の仏教はインドで
生まれ主に東南アジアの国々に広がった。その後生まれた大乗仏教はインドから
中国に伝わった後、朝鮮半島や日本に伝えられた。最後に生まれた後期密教は
チベットに伝わった。 出家した僧侶がその証に戒名を授かる点は日本も他の
仏教国と同じだが、一般の在家の信者でも死後に戒名を授かるのは日本にしか
ない制度だ。しかも日本は出家であるはずの僧侶が妻帯し戒律を蔑ろにしている。
破戒の道をたどっている僧侶が授戒を行い矛盾している。多くの宗教にも出家の
制度は存在しない。あるのは仏教とキリスト教のカトリック、東方教会だけ。
仏教でも本来、出家した人間に僧侶としての名前が与えられるのであって、
俗人にそれが与えられることはない。が、日本では禅宗で在家の信者の葬式の
作法が確立され、その際、いったん出家のかたちをとらせたため戒名が授け
られることになった。寺にとって財政を支えてくれる檀信徒の存在は不可欠で、
寄進された土地や田畑は寺領として寺の維持に貢献した。が、明治に入り寺請
制度は廃止され、寺領は召し上げられた。奈良の寺々は葬式仏教の前の時代に
創建されており境内に墓地を持たず檀家も存在しない。寺領没収後は他の収入の
道を確保せねばならなかった。境内に墓地を持ち地域の住民を檀家として
かかえる一般の寺院は葬式仏教の道を歩むことで生き延びることができた。
寺は檀家の布施がなければ寺は成立しない。戒名料が高騰するのは戒名の本質
死後の勲章だからであり、立派な戒名が葬式を贅沢なものにしていく。
が、戒名のあり方や戒名料への批判はあっても改革が行われないのは寺院経営
の問題が深くかかわっているからである。寺は宗教法人であり、檀家は法人を
構成するメンバー、つまりは信者である。・・・ 》
▼ 上記の内容は、この情報化では一般的に周知のこと。ますます、お寺は
衰退し、墓参り仏教も、変化する。戒名など、いらないし、年内に自分で
つけた戒名の位牌をネットで注文しようか、そんな必要もないか?
私の場合、家族葬で20人ぐらいで、葬儀社の指定した僧侶にお経をあげて
もらって、それで御終い! それを、むしろ願っている。死んでしまえば、
それまでよ! である。 墓は、このブログで充分!
・・・・・
4422, 糞袋の内と外
2013年04月25日(木)
「糞袋の内と外」石黒 浩 (著)
「世界の中の自分は時に不自由であるが、世界を飲み飲んだ自分は自由
なのである」という新聞広告にひかれて、アマゾンで、この本の内容紹介を
読んでみた。まだ発刊して間もないこともあり、レビューも何もない。
パソコンとネットの機能から、逆に人間の脳の機能を逆照射した哲学を読んだ
ことがある。 ロボット工学者が、人間の形を持ったロボットの視点から人間
を見つめると、また違った何が見えてくる。 まずは ー内容紹介ーより
≪ 人間は感覚器が集まった糞袋。しかしその糞袋は、自分が自分である
ということを確認する手段を持たない。CNNの「世界を変える8人の天才」
のひとりに選出されたロボット工学者、石黒浩。最先端のテクノロジー開発
を通し人間の本質を見つめる中で、「生きるとはどういうことか?」
「人間とは何か?」という問題を常に問い続けている。【人間を「糞袋」
と捉えることで、どのような答えが浮かび上がるのだろうか? 】約2年間に
わたって発信してきたツイートをもとに考察を深め、いま本当に伝えたい
メッセージを丁寧に綴った、渾身のエッセイ。≫
▼「人間は感覚器が集まった糞袋」と「世界を飲込んだ自分は自由なのである」
という意味について考えてみる。まず「人間は感覚器が集まった糞袋」を、
「人間は考える製糞器」であると言い替えると、動物とロボットと際立って
違うところは、動くエネルギーが動植物系と電気かガソリンの違いになる。
人間の燃えカスは、一度、糞袋に溜められて排出される。人間は世界を飲み
込んで(環境を直感して主体的に)動くところが違う。それも自由度が高い
ほど人間度が高い、ことになる。自由こそ人間たる要素である。
世界を知り、そこで方向を探し出し、常に環境の変化に対応し、殻を破り
続ける糞袋が人間の本来の姿。だから、身近に飛行機、自動車、自転車、
パソコンなどの身に合ったツールやシステムを使いこなし、自由度を高める
ことが必要。優秀なロボットを創ることで逆照射をして、人間の本質を探る
切り口は新鮮。人間の肉体を内と外面をシビアに捉え完成に近づける過程
から見えてくる姿は、哲学でいうところの「他者」と「自分」の関係を
考える上で面白い。この工学者は、自分の姿のロボットをつくり、生身の
自分から見つめている。第三者が触ったり、殴ったりした時に何かを感じる
はず。これは自己承認や、他者承認の問題に似ている。ロボットから見たら
糞袋に過ぎない人間の肉体。ロボットのように、第三者からの指示や
プログラムでしか動けない哀れな糞袋が、あまりに多い。そういう私の貧弱な
プログラムこそ最も稚拙!後悔先に立たず。自分を腹から笑えるだけ、
まだましか。
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4048, 一時停止 ー6
2012年04月25日(水)
* 人間は大文字で書かれた矛盾
「一時停止」 谷川俊太郎ー自選散文ー1955〜2010
≪ 唐突なようだが・シモーヌ・ヴェイユのことばを孫引きさせてもらう。
(精神がつきあたるもろもろの矛盾、それらのみが実在するものであり、
実在性の基準である。想像上のものには矛盾はない。矛盾とは必然性の
如何を試すものである)(存在の奥深くまで体験された矛盾、それは我々の
身も心も引き裂く。それが十字架である)自己弁護のためにひくにしては、
これらのことばがあまりに痛切であることは感じてもらえるだろう。
私は十字架にまで到達できる人間ではないけれども、せめて矛盾をかいま
見る地点にまでは行きたいと思う。矛盾の一方に身を置けば、たしかに
そこにも悲劇は待っていよう。作家の自殺のいくつかはそうした場所で
行われたのではないかと私は想像する。だが矛盾そのものを生きることは
―それは私には想像もつかない。ヴエイユの言う矛盾は、いわば大文字で
書かれた矛盾であり、人間そのものと言っていいと思うが、そのことが、
つまり究極には矛盾しかないのだということが、私に勇気を与える。
私の出会うもろもろの小さな矛盾も、最終的な矛盾と構造的に結ばれている
に違いない。ひとつの矛盾を解決し得たと思うとき、それがすでにもう
ひとつの矛盾のはじまりになっている。その無限地獄にこそあるいは
書くことに第一原因がひそんでいるのかもしれない。―その辺でやめておけ。
おまえにはそんなことまで論ずる資格はありはしない。どうしてそんなに
大仰でこわばった口しかきけないのだ。 おまえの内なる自然の荒廃は
その口のききかたからもあきらかだよ。見栄をはって、もっともらしい
愚痴を人に聞かせる暇はもうないそ。 (一九七二年) ≫
▼【 ヴェイユの(精神がつきあたるもろもろの矛盾、それらのみが実在
であり、実在性の基準である。想像上のものには矛盾はない。矛盾とは
必然性の如何を試すものである)】が良い。人生を総括すると矛盾の塊である。
しかし、その矛盾こそ実在であると知れば、人生を、そのまま受け取ることが
出来る。「矛盾は人間そのもの」とすれば、自分だけでなく他人を受け入れる
ことも出来よう。激しく生きるほど矛盾は大きくり、その重圧に潰されながら
生きていくことこそ人生の味わいを深くする。人間は矛盾だらけか〜
・・・・・・
3682, 節目どきに ー10
2011年04月25日(月)
* スポーツジムなど行ってみるまでは別世界だったが!
スポーツジムに通いだして三週間になる。行くまでは別世界と思っていたが、
今では生活に組まれた日常になってしまった。ジムのシステムで、色々な
プログラムがあって自分にあったものに参加出来る。 その一つに
「イージーライン」がある。6つの機器を円座になって12人のメンバーが
参加、輪の真ん中にインストラクターが音楽に合わせて全員を誘導していく。
一つ置きにステップ台があって、大手を振って上がったり降りたりして息抜き
をする。25分間一コースだが、これをベースにして、ランニングマシーンや、
他の機器を使う。最後は小さな暗い部屋に6台ある電動マッサージの一つで
30分ぐらい疲れをとる。 他にもプールや風呂もある。 私の場合は滞在
時間は90分である。 そこに行ってきただけで、気晴らしになる。
私が選択したのは「金曜日が休日、日祭日は参加できないコースで、
時間帯は10〜17時。その時間帯なら、何時間もいてもよい。30坪位の
サロンもある。 金曜と日祭日は、車で5分ほどの近くの市営スポーツ施設
に行っている。ここは三ヶ月で1800円。昼時には数人しかいないのがよい。
とにかく健全な日常を維持しないと!
* ウォーカーの数が激減
晴れている日には早朝、毎日、信濃川の土手にサイクリングに行っているが、
散歩の数が激減している。初めは気のせいかと思っていたが、そうでもない。
原発事故による放射能に対する警戒のためだろうか。ウォーキングでこれだから、
行楽が大打撃になるのは仕方がない。ホテルは、どの業態も惨憺たるで、私も
早々見切って倒産した。特に温泉街が酷いとTVで騒いでいる。あの草津温泉
では95パーセントがキャンセルで、死活問題になっているとか・・
「新潟の月岡温泉の一番大きいホテルは二棟のうち一棟が休館。
オープンしている棟も、一番上の階しか電気がついてない」とか、
「長岡の奥座敷の蓬平温泉街は、客がほぼゼロ」、という噂が漏れ聞こえてくる。
日本国家始って以来の危機の一現象である。まだピンときてないのが日本の
平和ボケした大部分の人だけ。まだ、他人事としてしか受け取ってない?
・・・・・・・
3317, つれづれに ー閑話小題
2010年04月25日(日)
* 無理をするな、素直であれ! か〜
「無理をするな、素直であれ。すべてがこの語句に尽きる。この心がまへさえ
失わなければ、人は人として十分に生きていける」は、種田山頭火の言葉である。
この年になってこそ、その意味の深さが理解できること。それが許されない事態
が次から次へと起こるのが人生である。で、最後に落ちついた時に、この言葉が
出てきて、そして一人納得する。これを真正直にして生きればホームレスか、
引きこもりになる可能性が高い。現に山頭火は放浪の乞食。私なら「自然体で、
力まず、目を逸らさず、真正面に向き合うこと、それも正直に」と言うところか。
* 人生は放浪
山下洋輔がいみじくも言った「旅とは帰ってくるものだ。だから、人生は旅だ、
などという言葉がぼくには分からない。どこに帰っていくというのだろう。むしろ、
人生は放浪だ、といってくれたほうがよい。帰るあてがなく、行きっぱなしだ。」
還暦を過ぎると、この言葉が身に沁みる。 自分に植え付けられている死の
イメージが虚空に帰すからだ。 死んでしまえば、それまでよ」と口癖だった
父の言葉を思い出す。 引越し先で、全てを忘れる当てのない渡り。
* 人間原理とは ーウィキペディアによると
《 人間原理とは、物理学、特に宇宙論において、宇宙の構造の理由を人間の
存在に求める考え方。"宇宙が人間に適しているのは、そうでなければ人間は
宇宙を観測し得ないから"という論理を用いる。 これをどの範囲まで適用する
かによって、幾つかの種類を見つけることができる。人間原理を用いると、
宇宙の構造が現在のようである理由の一部を解釈できるが、これを自然科学的な
説明に用いることについては混乱と論争があり、未だ多数には認められていない。》
何か無理があるように思える考えである。人間原理の人間を自分に置き換えて
みると分かりやすい。もっとも、優秀な奴は、これに近い自分原理を持っている。
それが自分のステートメントだが、人類が、自分に当てはめると一神教みたいに
なってしまう。