『生と死をめぐる断想 』岸本 葉子(著)
   *「いのち」に「わたし」がいっとき宿る 〜玄侑宗久
 「而今」とは、今のつらなり。あるのは「今」「今」「今」だけである。
 禅とは、この「而今」を繰返づことで、「わたし」の輪郭を薄くする行。
成るほどである。今、この瞬間が永遠のときの一端がある。
瞑想は「わたし」という「閉じた系」から「いのち」を開放するものだと。
  ーその辺りから抜粋ー  〜P90
≪ 暗唱をしているとき意識は「而今」にあると、玄侑氏は言う。
而今」とは目的論も因果律も届かないような、三昧にある時だそうだ。
たしかに、すでに口から出て過ぎ去った音を意識が追いかけたり、
次に出す音を頭の中で先取りしたりすると、とたんにつかえる。あるのは
常に「今」「今」「今」。音の連なりは、すなわち「今」の連なりである。
暗唱をするとき、その間だけでも「而今」を体験している。(略)・・ 
 玄侑氏も認めている。人間である限り「わたし」を完全に「なくす」ことなど
あり得ない。であるからこそ禅は「而今」を繰り返すことで「わたし」の
輪郭を少しでも薄くしたいと願うのだという。
 玄侑氏が再三書いているのが、「わたし」と「いのち」の関係だ。
「いのち」は「わたし」の生れる前からある。
「いのち」に「わたし」がいっとき宿るのだと。
「いのち」が存在の実相で、「わたし」は頭で作り上げたフィクション。
 はじめにそう読んだとき、逆ではないかと私は思った。
「いのち」が「わたし」に宿っている、「いのち」が「わたし」の一部だろうと。
なぜって私の体の諸器官が停止すれば命は終わる。たしかに、私の体が土に還り、
その土から芽が出て、その草を虫が食べて、虫を鳥が食べてといった意味での命
の連続はあるだろう。が、それは灰を収めた骨壼も壊れて形をなくした後という、
相当に長い年月のことだ。頭では理解できても、実感からはかけ離れている。
植物も動物もひとつの生態系をなし人間もそれに属するもの、といった類の知識、
それこそ知性によってとらえられるものだろうと。
 自分の命があと数年単位なのか数十年の単位なのかと気を張っている、
そんな長いスパンの命のことを考えられない、という反発もあった。
が、往復書簡をするうちいつの間にか、「わたし」が「いのち」にいっとき宿る、
「わたし」<「いのち」という発想が自然なものになってきた。・・ 
それとは別に、「わたし」を超えた何かもっと全体的な何かがあるらしい
ことを感じるようになってきた。・・ ≫
▼ {「いのち」が存在の実相で、「わたし」は頭で作り上げたフィクション
 でしかない}という玄侑宗久の言葉に近い{大自然が元もと存在していて、
自分の姿を見いため人間をつくった}を、何かの宗教書で読んだことがある。
地球上に生まれた生命が延々と時間をかけて、この「わたし」が存在する。
その全てを経たものを「いのち」というなら、その「いのち」にいっとき
宿るのが「わたし」というのは当然である。死ぬのは、それから離れるだけ。
・・・・・・
4687, エッセイ力は人生力 ー2
2014年01月13日(月)
               「60代からのエッセイ教室」木村治美
  * エッセイを書く目的と、日記との違い
    ーまずは、その辺りの抜粋より
《 あるエッセイ教室の作品集を読んでいたら、はからずも、エッセイを書く
 目的を端的にいい当てた文章に巡りあった。その文章は創刊号であるためか、
おのおの、自分の作品のあとに、小さなコラムで、なぜこの教室に入って
エッセイを書くようになったかの動機を綴っている。ひざ思わず膝を打ちたく
なったのは、つぎの一文であった。「エッセイを書こうと思うようになったのは
十年前のこと。それまでは、日記に思いを記していた。心の重荷をおろすように
書いていたが、後日、読み返すと、もっと心が重くなった。物事の見方、人の心
の動きを観察することで、誰が読んでも傷つかない文章を書きたくなった。
きれいごとのとらえ方ではない。考えることで、自分を成長させたい」
 ここにはエッセイが日記と異なる点が、自分自身の体験から、明確に意識
されている。感動的ともいいたい鋭い「気づき」である。エッセイには自分自身
がどこかに登場していなくてはならない。しかし難しいのは、書いている自分と、
書かれている自分との間に、距離をおくことである。自分を他人のように
客観視すること、といい直してもよいだろう。日記ではこの客観化がなされ
にくい。恨みも痛みもドロドロのまま流しこむ。恥も外聞もなく。どうせ自分
以外に読むひとなんていないのだから……。しかし、「後日、読み返すと、
もっと心が重くな」るのはなぜだろうか。日時がたったことで、やや他人に
なった自分が読むからである。おそらく、書いたのが自分であるだけに、
ヘドが出そうになったであろう。自己嫌悪である。そこで、「だれが読んでも
(つまりあとから自分が読んでも)傷つかない文章を書きたくなった」のである。
それには、教室という読者のいる環境で、「物事の見方、人の心の勤きを観察」
しようと思い立った。それが自分を成長させる。そう、日記は記録とはなり
えても、以上に述べたような効能は期待できない。・・・ 》
▼ この随想日記の「閑話小題」は、エッセイそのもの。だから読書日記の
 メモ的のものより面白い。これを書くときは、ネタ切れのケースが比較的多い
ため、苦し紛れで日常の身近なことを書くしかない。それが面白みを出すようだ。
だから、何気ない日常の現象と気持ちを書いている「バードウォッチ」の内容
こそエッセイになっている。そのため、時どき、切り取って、「閑話小題」
に転用する。何気なく思っていることを書き出すと、ハッとすることがある。
人はそれぞれの心の中で様ざまな思いを数限りなく繰り返しているが、
そこにこそ砂金が混ざっている。それを取り出し、書き出すのがエッセイの目的
であり、日記との違いになる。日記は他の砂も含まれるし、それも必要とする。
・・・・・
4320, 病気の9割は薬なしで治る
2013年01月13日(日)
        「病気の9割は薬なしで治る」 高田明和 (著)
 図書館で借りてきたが、成るほど面白い本である。母親の末期の入院などで、
現在の医療制度と病院に不信感を持っているが、それでも日本の医療制度は世界
で一番良いというのを知り、あまり声高に批判はしなかったが、良くぞ書いて
くれた内容。大方は知ってはいたが、あくまでも病院・医院の経営体の中の医師
の立場があり医師の倫理だけではやれないのも事実。
  ー内容説明(アマゾン)ー
「五分五分です、と言われた手術は8割成功する」「余命○年の本当の意味は?」
「薬は10種類知っていれば何とかなる?」「みんな最後の医者にはなりたくない」
「医者ランキングの正しい判断基準とは?」・・浜松医大名誉教授が名誉を
捨てて?、患者に言えない医者の本音、実態を暴露した超問題作≫
  ーまずは概要ー
≪ この本は、医者の立場に本音が紹介されている珍しい内容。 日本全国
 約28万人の医者が使うマジックのネタ明かしをしている。今や医者から
みたら患者は、患者様=「お客様」である。下手に「大丈夫、安心してください」
というと、何年後かに病気になったときに、ああ言われたから、安心していた
のにと文句を言われる。だから代わりに「お若いですね」というケースが増える。
「お若いですね」とか、「心臓が実年齢より20歳は若いです」とかいうのは
医学的根拠がない。少し変と思って病院に診察に来て、何ともないと不安になり、
「どうしてこうなるのですか?」と聞かれた場合は、中年女性の場合、最も良い
のは「更年期障害」です。これは卵巣の機能が衰えて閉経を迎える時期に起こる
病気で、症状は、腰痛、のぼせ、動悸、間接痛、頻尿など、人によって違って
さまざま。しかし、これは重い病気でなく、ある時期が来ると治るもの。
これは誰も、ある年齢にくればかかるもので、「不摂生のためでなく、
本人の責任でない」という思いが安心感につながる。
 近年、精神的な問題で身体の具合が悪くなるケースが激増しているが、
病気になったのは自分の責任と思わせないことが重要。その場合、ウツ病とか、
気の病とか言うのを患者は嫌う。一番、抵抗なく受け入れられるのが、
自律神経失調症」。「自分の気が弱いのでなく、自律神経が弱ったため」と、
いやに納得する。 しかし、実は欝病でしかないのに・・ お医者さんが、
「とりあえず薬を出しておきます」という言葉にマジックがある。
これは、「別に薬を飲まなくてもいいけど、患者さんが安心するから一応出して
おきます」という意味。 加齢による病気は薬では治らない。 食事療法と、
運動しかよくならない。私の知人は、「加齢による病気は時期がくれば治るって
みんな案外知らない。だから、ある薬を飲み続けるようにしておけば、必ず治る。
そうすると、患者から勘違いをされて痛みが消えたときに感謝される」という。≫
▼ 医者といっても、少し考えれば分かるが、身体と脳の修理屋。
 それも経営が重視されれば、患者の思っている医師像とは掛離れて当然のこと。 
命にかかわる仕事のため、勝手に医師も患者も聖職と思い込んでいる。
命にかかわるなら、新幹線やタクシーの運転手も同じ。 ところが情報化で、
その実態が暴かれて、以前とは違ってきた。とはいえ脳卒中やガンで倒れれば
医師に頼るしかない。 医師は激職、よほどの使命感がなければ勤まらない。 
 ・・・・・・・
3945, ファイナル・クラッシュ ー4
2012年01月13日(金)
      「ファイナル・クラッシュ 世界経済は大破局に向かっている!」  
 以下の文章は欧米の資産家の資産運用の一部を垣間見せる内容である。
彼らは、リーマンショックを大地震と例えれば、それから発生する大津波
ファイナル・クラッシュは当然、織り込み済み。逆に、それを逆手にとって運用
利益を狙っている。その中で、日本は一部の人を除いて、この大地震に気を取られ
ファイナル・クラッシュには、いま一つ警戒感が足りてない。前ぶれ波の直撃で
惨事を受けた立ち位置にいたため二波、三波の大津波が見えている。
 ー 以下に欧米のファンドマネジャーの世界の一部が垣間見れる ー
【 タネ本の著者ヒューゴ・ブローは、卒業後、ロンドン市立大学に進学、
 金融関係の仕事に就いてチャネル諸島英仏海峡、イギリス王室属領)や
イギリスで働き、出版当時はあるプライベートバンクのファンドマネジャー
となっていた。プライベートバンクは、日本の銀行のようないわゆる商業銀行
とは業態が異なる。 基本的に株式会社ではなく、預かり資産に対して無限責任
を負うパートナーによる個人銀行である。王族や貴族を含む世界トップクラスの
富裕層を顧客とし、その資産の保全や運用を主な業務としている。 ロスチルド
(日本では 「ロスチャイルド」 として知られている)メロンといった
家系に属する、表に出ない富豪たちは、それぞれのプライベートバンクお抱えの
ファンドマネジャーを囲っている。著者はそうしたファンドマネジャーとして、
「この地球上で最も裕福な人たち」の資産運用を担当しているという。
資産を運用してもらうには、最低でも一億ドル、日本円で100億円程度は
必要であろうという、世界でも指折りのマネジャー。ファンドマネジャーは、
だいたいロンドンかニューヨークの近辺に住んでいる。だが、著者がタックス
ヘイブンであるガーンジー島に住んでいるのは、税金を嫌ってのことだろう。 
おそらく自らも巨額の報酬を得ているのだと想像する。 私はこれまでにも、
彼のようなファンドマネジャーに何人も会っている。イギリスでは一定以上の
資産家には必ずファンドマネジャー、顧問弁護士、顧問会計士、子弟教育
コンサルタントがいる。かかりつけの家庭医がいるのと同じようなもの。
イギリスには、ファンドマネジャーを家族で引き継ぐ習慣もある。ちょうど、
執事を代々引き継ぐような感覚である。そのあたりの習慣は日本とは全く違う。
私はイギリス人の友人から、その人が資産運用を任せているファンドマネジャー
を繹介してもらい、それを私の日本人の顧客に紹介するようなこともしていた。
私はクラブ主催者を通じて著者の本名を知ったのだが、本書ではペンネーム
「ヒューゴ」で通す。】
▼ こういうのを見ると、力の蓄積があり、豊かな階級の人が、ますます
 豊かになるように出来ている。それがリーマンショックで一部は破綻したが、
その傾向は、そのまま。資産運用のプロがいて、どのプロに任せればよいかを
資産家は考えていればよい。それは実績と、それに裏付けられた信用である。
世界の1%が富の過半数を占めているが、ファンドマネジャーが弱者から吸い
上げるシステムは数百年かけ作り上げられている。 これが世界の現実である。
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3580, 何故、民主党が駄目か!
2011年01月13日(木)
 自民党は駄目、そして民主党に替えてみたが、これが更に駄目。 
国家崩壊の下地を自民がつくり、その上を民主党が加速して突っ走っているのが
現状。これは民主党の枠組みが戦後体質を引きずったまま現在に至っているため。 
世界中がネットで覆われて、人々が世界中に行き来し、情報、金が行き来している
中で内向きな福祉重視では、対応できない。元もと世界は長年かけ人種格差、
国家格差、経済格差がつくられている。現に白人が有色人種を支配している
厳然たる事実がある。米英を頂点とした白人国家が、後進国援助という建前を
立て、実は有色人種の世界を支配してきたのである。そのことが長年の時間をかけ、
民族間、国家間で、格差になっている。ところが、この10年でネット社会が世界
を覆い、様相が一変してきた。国家間、民族間の垣根越しに情報や人間が行き交い、
その結果、フラット化が始った。それが日本にも押し寄せてきている。明治来、
自民党などの保守政党と官僚とが結託し、利権構造をつくり上げ支配してきた。
そのプロセスの中で特権階級が出来て現在の日本を支配している。その二世、
三世が政界の多くを占めている。それを嫌った国民が、平等を旨とした民主左派に
政権を与えた。それで国家が動かなくなってしまったのが現在進行中の内部分裂。
これまで右上がりの経済成長の中で批判政党だった民主党は国家の舵取りは最も
不得意。社会の建前は平等だが不平等が世界の現実。そこに社会主義的政策を
真正直にとれば、時代逆行に陥るのは当然。国家という枠を超えたグローバル化は、
当然弱肉強食が激しくなり、格差が大きくなる。それをフォローをするのが政治
であって、格差そのものは、止めようがない。小泉元首相は間違った政策をとった
のではなく当たり前の政策をとっただけ。 何で国内の出稼ぎのアジアの労働者より、
日本人が優遇されるのか?それは日本人だからだ。その日本人の中でも格差が
つくのは、世界の格差の構図に比例してきただけ。公平と平等は違うのである。 
戦後から日本はアメリカの間接・被占領統治国の立場で憲法を与えられ、無能化
教育をされてきた。その両輪として加担したのが自民党社会党である。
自民党社会党も、あたかも貴族院の様相。 中国とアメリカの大国の間で、
真の独立は難しいとしたら、アメリカの属国として割り切るか、スイスのように、
軍備力を徹底的に補強するしかない。原爆などの破壊兵器の保持は、最低条件。 
現在の日本の民度は、それをするに低すぎる。それならばアメリカ属国として
生き抜くしかない。地勢的に日本は丁度よいところにある。 
とすれば、現在の立場が一番よいことになるが・・
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3205, 古町の衰退
2010年01月13日(水)
 大和百貨店の撤退、書店の北光社の閉店と、新潟のダウンタウン古町の衰退が
問題になっており、その連載が地元紙・新潟日報一面で「古町 揺れる灯」として
連載をされている。ダウンタウン地盤沈下を今さらの問題だが。 
郊外には大型SCが多くでき、互いに凌ぎを削っている。更に、駅には駅中
専門店街が次から次へとオープンしている。その中での衰退は当然である。 
私事になるが、年に4〜5回行っていた古町には、去年は一度も行かなかった。
タクシーの往き帰りが勿体ないのと、不況の中、飲む回数も減っている。
日報の記事は10回シリーズだが、何か哀愁に満ちた内容。スナックが酷いとは
聞いていたが、15〜6年前に450軒あった飲食店が、現在は250軒になって
日ごと客数が減っているというスナックのママさんの悲鳴がインタビューで
あったが、この数ヶ月でも多くの店の閉店するはず。
 (字数制限のためカット、2012・01月13日)
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2009年01月13日(火)
NHKの日曜日大河ドラマ天地人」で、若き直江兼継が修行した
「雲頓庵」が舞台になっている。雲頓庵を思い出しながらみているが、何度か
隠れ屋的に通ったことが青春時代の一ページとして残っている。
特に当時、80歳半ばの怪僧の新井石龍禅師の思い出は鮮烈に残っている。
  以前、社内報で書いた部分を紹介してみる。
ーS63・05 新井石龍禅師に学んだ事 ー?
 学生時代に、父と禅師が親交があり、実家泊りに来ていただいた事等の因縁で、 
六日町の禅寺“雲頓庵”に読書を兼ね春・夏休みになると滞在していた。
度々なので自然と禅師と話をさせていただく機会があった。無知と若さの為に
生意気な質問をした私に、いつも笑顔で答えてもらったことが、今では懐しい
思い出。 京都大学哲学科卒で、気持ちは若い。女性で何度か失敗して、
その世界では登りつめることが出来なかったと、両親から聞いたことがある。
まだ鮮明に憶えている対話とは、
(私) −禅とは一言で言うと何ですか?
(禅師) −字の通り天地宇宙に己の単(一人)である事を示す(気づく)事。 
  ー 示単  社会に出て半年あまりで気負いすぎで早くも行き詰まり、五日間の
  夏休みでの雲頓庵の禅師との対話。
(私) −世間と理屈は違う。理屈どおりに世の中いかない事がよくわかりました。
(禅師) −あなたの理屈がおかしいだけ、世の中は厳しくも甘くもない。 
  世間も理屈もあるものか!(厳しく感じたのは自分自身そのものが甘いだけ)。
 後者の言葉には頭を真二ツにわられてしまった!というのが実感。頭で物事を
 考えていた私が、“自分が”前に出ていた私が、その時点でたたきこわされ、
  社会人の一員に一歩踏み入った瞬間だったことを憶えている。
 ー以下は、当時の日記であるー
  ー1968年 雲頓庵   9月10日
 7時5分起床。 掃除に食事、9時半より11時半まで勉強! その後に、長岡の
明治大学の1年の田村君と話す。3日まえにやはり勉強の為に来た男。夕食後
7時半より、午前様と「神」について話す。 午前様「一という数字はあるが、
一という実体はない。それを一といえば一であるが、一でないといえば一でない。 
一は万物であるともいえる」「人間は実体だけでない、魂であり、永遠的なもの
である。全ては生き続けている。」デカルトの「我思う、故に我あり」の言葉を引用。
「誰もが神の要素を持っている、磨くかどかだ」「人間の見る聞くは5感6感の
働きでしかない。それを超えた存在はいくらでも存在する。それは修行によって
初めて知る事ができる。」「神が罰を与えるのは、困らせる為でなくそれより、
間違いを知らしめる為である。」御前様と話していると自分の無知が露出される。 
明日は座禅を8時にくむ予定である。
  ー9月11日
 午前様が座禅の指導をしてくれる。解ったような解らないような! 
9時から夜9時まで座禅に挑戦!計8時間休み休みだ。午前中は雑念だけだ。
午後からは少し集中できる。感想はただ疲れただけだ。当然ながら禅の事は
さっぱり解らない。ここの2週間近くは、充実したものだった。
明日からは娑婆である、楽しみだ。 これから高橋さんと根本君と送別会だ。
 ▼ 恐らく日記に書いてなければ、全て忘却の彼方。書き残すことは痕跡
を残すことである。  ーつづく
・・・・・・・・・
2008年01月13日(日)
2475, 年頭の新聞の記事の総評 −2  才ノヽ∋ ー ヾ(´∀`o)+。…
産経新聞の30人の論説委員の「論説委員がもの申す」、見開きの二面全ページ
の寸評だが、的を得ているものばかりである。年頭の特集では一番、わかりやすく、
今年はどのような年になるかを考えるには、これを読み返せば、ほぼ網羅
といってよい。この中で、ある論説委員が取上げていた阿久悠の遺言の
ラストメッセージ、ー日本の社会が「湿り」と「暗がり」を失ってしまったー
は、面白い見方だ。 (字数制限のためカット、2010・01月13日)