つれづれに 〜書いあったクリスマス

[つれづれにー日常のチョッとしたこと]

   * 60年前のクリスマス
 昨日のクリスマスイブ、TVで過っての思い出深い話を聞く街頭インタビューを
していた。そこで、この25日分の、この随想日記をみると、よく書いていたと、
自分でも驚いている。 しかし、少年期のイブの思い出は、書いてなかった。
≪ 幼稚園から小学校低学年の頃、我家でも、クリスマスにツリーを飾っていた。
 二番目の姉が、率先してツリーに色々な飾りをしていた。私と共にい近くの店に、
星、サンタや動物の人形、点灯などを買いにいき心トキメキながら飾り付けるのが、 
一番の楽しみだった。そして、翌朝には、贈物が、枕元に置いてあった。
 クリスマスソングが流れ出すと、あの頃の、あのツリーと生活を思い出す。
レジャーの少なかった当時、クリスマスと年末年始は、大きなイベントだった。
10歳まで住んでいた繁華街の真只中の4F商業ビルの3階の住居、刺激的で、
激しくて、今から考えてみると、小説の世界。ある規模以上になったら、職住を
別にしないと、家族崩壊まで、追いやられる危険が増大していく。 そこに家族が
住んでいたのは、8年間。引越し先は、駅裏の、店から歩いて10分ほどのところ。
 ところで、過去のクリスマスを読み返してみると、20歳代のブルークリスマス
記憶に残っている。そうこう考えると、人生の花は、20歳代の青年期と、10歳まで
住んでいた店の3階に住んでいた頃、ということ。クリスマスという切口で振り
返っても、結構、面白いことが多くあった。書き残すことは、人生の秘儀である。
 今日は、ステーキランチでもいってみますか
・・・・・・
4666, 閑話小題 ー40数年前のクリスマス
2013年12月25日(水)
   * 40数年前のクリスマスか〜
 TVでも、ショッピングモールでもクリスマスソングが聞こえてこない。
出歩かないこともあるが、10日前の飲み会に向かう途中で通った駅前の市役所
アクロプラザ大広間の電飾クリスマスツリーぐらいである。 ショートケーキを
買ってきて、少しその気分を味わう程度で十分ということ。TVでクリスマスに
関するハリウッドの心暖まる映画を放映しているが、ほぼ全部見たものばかり。
エス生誕の祝いも、日本人には関係ない。
 ーそこで過去のイブの日をブログ内検索をしてみたー
≪ーある時間の断片 ●12月25日 1968年ー 11時に起床。午後本を読んだり、
食事をし過ごす。夕方、米林が帰省をしていく。夕食後、会社の論文の構想を
色いろ書いてみる。21時に、市川さんの友人等5人を引き連れて赤坂に行く。
いざ中に入ろうとすると、一人として物怖じをし入ろうとしない。
今さらと強引に入れようとするが3人逃走。やっと市川さんと、あと一人を入れる。
入って、踊りだせば後は狂ったように踊りだした。24時に帰寮。変な学生時代
最後のクリスマスであった。来年はどんなクリスマスを過ごしているだろうか。
●2003年12月24日ー その一年後1969年のクリスマスは、ジャスコに勤めて
 四日市から転勤した神戸の垂水。転勤直後の店頭で、瀬戸物の叩き売りを
やらされたり、店舗の大改築の真っ只中にいた。クリスマスの日は、寿司屋で
仲間内で飲んでいた。その後、神戸の場末のストリップ小屋に先輩に連れて
行かれた? 面白さより、気持ちが悪い!という実感が残っている。
それより観客の冷やかしの掛け合いが面白く、館内は爆笑の渦だった。
その時は、僅か入社八ヶ月で、もう靴部門の責任者であった。30歳過ぎの古参
女子社員が部下で、どうもこうも! そして年越しは床屋の椅子の上。
考えてみたら、年越しを実家以外で過ごしたことはなかった。
『何が流通革命だ!』と思いながらの年越しも、今から考えれば良い思い出。》 
▼ やはり、書き残してあるのは良い。読み返すと、40数年前の記憶が
鮮明に読み帰ってくる。で、以下の10年前に飛ぶ!
ー2003年12月25日(木)ー995, クリスマス−2
昨日は学生時代のイブの日を書き写したが、その[一年後のクリスマス]
を記憶の中から引き出してみる。
《 ジャスコオカダヤに入社して四日市本店に勤務、そこから合併先のジャスコ
 フタギの「神戸垂水店」に転勤になり、半年経っていた。会社は幹部候補生を
即戦力にする為に、店と売り場の高速配転をしていた。2ヶ月もして慣れると、
即配転である。四日市、神戸、桑名等。5番目の売り場では、関西では初めての
靴部門の立ち上げの責任者に取立てられていた。それにしても、あまりにも過酷。
当時のスーパーは、まだ得体の知れない新参の危うい小売屋でしかなかった。
濁流に放り込まれて、毎日が濁り水の中を溺れながら押し流されている日々。
 現在考えても、よくぞあの濁流に飛び込んだものだと思う。それだけ当時の
流通は暗黒の世界であった。いや今もそうだが。話はそれたが、クリスマスは
食堂でささやかなクリスマスパーテーをやったような記憶があるが、確かか
どうかはハッキリしてない。その後に会社仲間と寿司屋で酒を飲んでいたような
記憶があるが、これも如何であろうか。女性とは一緒ではなかったようだ。
そうなら何処かで記憶が残っているだろう。クリスマスなどと浮世のことなど
考えられない、あまりに異常の世界であった。合併は、信じられないほど現場の
摩擦がある。その先兵は如何立場かという知識は全く無かった。先ほど書いたが、
流通業は当時は濁流そのもの。信じられないような光景が様ざまあった。
 ところで、その年の年越しは宿直で、床屋で髪を刈っていた。
当時の関西は、年越しは床屋が深夜まで営業をしていた。それまでの年越しは
全て実家で両親と供に年を越していた。 刺激が強すぎた日々でも、芯には
染まらないのが私の特性。これは武澤ゼミのお陰だ、また欠点かもしれない。
また創業という目的があったこともある。「クリスマス」「年越し」の視点で、
過去を切り取ると多くのことが記憶の底から湧き出てくる。メリークリスマス!
・・・・・・
クリスマス−1
 クリスマスといえば色いろ思い出がある。
子供の頃ツリーを買ってきて電飾を姉たちと作った時のトキメキを
クリスマスソングを聞くと思い出す。
またパリのシャンゼリデ通りの電飾の美しさも忘れられない。
またフィンランドヘルシンキのクリスマスイブを何とも言えない
神聖な思い出であった。
街全体が張り詰めた独特の雰囲気に包まれていた。
丁度、日本の年越し似ている。
 
2007/02/18
2147, 白い雲に乗って ー2
         b(^o^)dおっ W(^O^)Wはー♪
  先日のつづきの夢をみた。
 半分は覚醒をしていたのかもしれない。
 前回の夢が契機になって当時のイメージがドンドン出てくる。
 如何いうことなのだろうか?
 それは57年前の世界そのものである。
 その世界から此方をみている感覚と、此方の感覚の間にある塀の上での
 微妙な世界に立っているようだ。    
 ーー
  白い雲に乗って再び、その世界(4歳)へ行ってきた。
 そこは前回よりリアルな当時の世界があった。
 中央保育園の面接があるというので、目新しい服を着せられて、
 母の手に引かれて「同じぐらいの小さい子が多くいるところ」に行った。
 そこは家から10分ほど歩いた小さな小路にあった。
 面接のオジサンがニコニコしながら、色々なことを聞いてきた。
 母に前もって聞いていたので、驚くほど上手く答えた。
 恐らく入れるだろうと思った。
  家(店)に帰った後、三輪車に乗って前の安栄館というビルの
 同じくらいの友達のところに行った。
 やはり最近できた大きなビルのところの子だ。
 何か遊んでいると楽しい!

  その数日後に場面が変わり、幼稚園の合格のしらせがきた。
 手紙を待っていたが、何時までたってもこないので、 お母さんが
「落第したのかもしれないけれど、そんなことがないはずだが・・」と言う。
 ガッカリしていたところ、合格の葉書がやっと届いたが、凄く嬉しい。

  クリスマスの飾り付けのため、二番目の姉の恭子と近くに
 ツリーの飾りを買いに二人で行った。大きな雪がフワフワと降っている。
 ツリーに吊るす色いろなものを二人で選んだ。
 小さな家とか、星とか、動物とか、人形などがあった。

・・・・・・・
12月25日 
1968年
11時に起床。午後本を読んだり、食事をして過ごす。
夕方、米林が帰省をしていく。
夕食後、会社の論文の構想を色いろ書いてみる。
21時に、市川さんの友人等5人を引き連れて赤坂に行く。
いざ中に入ろうとすると、誰も物怖じをして入ろうとしない。
ここまできて何だろうと強引に入れようとするが3人が逃走する。
やっとのこと市川さんと、あと一人を入れる。
入って、踊りだせば後は狂ったように踊りだした。24時に帰寮。
変な学生時代最後のクリスマスであった。
来年はどんなクリスマスを過ごしているだろうか。

ー2003年12月24日記
その一年後のクリスマスは、ジャスコに勤めて四日市から神戸に
転勤になっていた。神戸の垂水という街であった。凄い世界であった。
転勤直後に瀬戸物の叩き売りをやらされたり、店舗の大改築の真っ只中にいた。
クリスマスの日は、おぼろげな記憶だが寿司屋で仲間内で飲んでいた思い出がある。
神戸の場末のストリップ小屋に、現地の店の先輩に連れて行かれたりしていた。
興味より気持ちが悪いというのが実感であった。
その時は、もう靴屋ー靴部門の責任者であった。僅か八ッヶ月である。
まだ憶えているのが、年越しに宿直で年越し時間に床屋に居たことだ。
何か侘しい寂しい時間の中にいた。
何が流通革命だ!というのが、実感であった。
いま考えてみると、半分正しく半分は純粋になれなかったのだろう。
・・・
ある時間の断片
12月24日 火曜日 1968年
9時ごろ、長岡の姉の正子さんから電話。
千葉の姉の西村、小林さんの所にクリスマスプレゼントを届けるように
頼まれる。16時に部屋を出て、伊勢丹に行って、犬の玩具と電車を買って
東京駅に行く。
西村さんと待ち合わせるが、勘違いで30分待たされる。
その足で独りで銀座に行ってみる。
銀座4丁目から、みゆき通りを歩いてみる。
人の数は思ったより少ないようであった。
市川さんの部屋ですき焼きパーテーをしていた。
相楽がきていた。私と対立して寮から出て行った男だ。
少し休んで、新宿に出る。
23時過ぎまで飲みまわる。
0時に帰寮するが、市川さんが部屋に来て、再び寿司屋に飲みに出る。
明日自分を赤坂の「ムゲン」に案内をしろという。
自分のお客に案内するのに丁度よいという。
明日の飲み代は全て自分が持つという。
 それを袋一杯に買って家に帰って3Fの食堂で飾り付けをした。
ラジオのクリスマスの音楽を聴きながら、それを他の姉たちと飾りつけた。
ツリーの電飾がいやに奇麗だ!
こんな楽しい気持ちは初めてと喜んでいる自分を誰かがみている。
あれは誰だろう?
翌日の朝、枕元に箱に入ったサンタの贈り物があった。
雪が、ドンドン降っていて窓の下は雪で埋まりそうだ。
    
 突如、周りを見渡すと誰もいない空間になってしまった。
何処に行ったのだろう、皆は!
白い靄がかかり、その中で恐ろしさが襲ってきた。
目をつぶって白い布団を被った。
目が覚めると、そこは寝室の布団の中であった。
     
               (o ・д・)ツ  バイ!