* 死の淵からのルポの凄み 〜②
 ー淡々とした文章だが、内容が内容だけに凄みがあるー
  ● 細やかな喜び ーp48
 いま寝ているベッドは、"オリ"のようだ。 気を緩めて、身体を狭めると、柵の範囲がすかさず
小さくなってくる。 一度、詰められると、迫ってきた柵は、もう動かない。
身体全体が、不自由な位置で止まる。あらゆる方向へ、もう一回、自分の手足を伸ばす必要がある。
右手で左の柵を持って、右半身を持ち上げる。または、その逆。
目の前に、柵が迫る。 柵のなかで、のたうちまわる。 トドみたいだなあ、といつも思う。
思うようになかなか動けないのだが、ベッドの柵を持って、バタンバタン、ドタンドタン。
ほんの少し、右に寄れた。それでも、‘身体’を感じて、ボクは嬉しいのだ、
自分で、自分の身体を、動かせたことを。 だけど、いつもできるわけでもない。≫
  ● 書くことが、生きること ーp222
 自動体位交換機能付きのエア蓄ベッド。それに助けられて、ボクは寝ている。
1時間おきにガーガーと音をさせて、エアーが入る。そして、ボクの身体は右に傾いた緊左に傾いたりする
家族が1〜2時間おきに椅子に座らぜてくれたりもする。自分では動けないからだ。
 こんなに身体が変わってしまったのが、いまでも信じられない。つらかった。けれど、どうだろう?
そうなってしまった身体を嘆いていても、しかたがないじゃないか!
 このつたない文章が、いまのボクにできることなのだ。
どうしても書かなくてはならなかった。ボクには唯一、書くという機能を神さまが残してくれていた。
書くことが生きていてよいと唯一、言ってくれている気がするから、ボクは書き続ける。
脳のほうはさっぱりだけど、書くことができる。
その機会を与えてくれた友人や仕事仲間に、感謝しても感謝しても、足りないくらいだ。
本当に、ありがとう。
 これからもボクはつまらなくても、忘れても、書き続けると思う。
これからもずいぶん、おもしろい人生を送ることができそうだ。
迷惑をかけてしまうかもしれないが、これからが楽しみだ。
書くことが、生きることなのだ。 書いて、書いて、書きまくるぞ。  ー2013年12月 神足裕司
 ▼ 著者は、家族が身近に世話をしてくれているが、介護重度5の老人は生きていること自体が拷問。
 これは、病院の利益、家族の無知のため、拷問のため生かしておくのと同じようなもの。
安楽死も最近になって正面から取り上げられるようになったが、まだまだである。 現在の私は、 
「知ること、書くこと、何気ない日常を味わい楽しむこと」が、生きることになっている。
そうこう考えると、まだまだ日常生活を色濃く、その間の「ぼんやり」時間を大事にすべきだが・・
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4554, 横尾忠則の老人論
2013年09月04日(水)
                      「猫背の目線」横尾 忠則 (著)
  横尾の戒老録だからこそ、風がわりで面白い。「猫背の目線」とは「老人のものの見方」という意味である。
 私より10歳年上で3年前の初版で、古希越えの経験が書いてある。 再来年に古希越えの私に丁度良い老人論。   
    ーアマゾン内容紹介ーより
 ☆ 体の声を無視した結果がストレスを起こす。老年を迎えた猫好きのアーティストは、嫌なことはせず、
  好きなことだけをして生きる。少し日常の目線をずらしてみれば、あなたも今日からできること。最新エッセイ集!
 ☆ 古稀を迎えた猫好きの芸術家は考えた。「忙しいのは他人の時間に振り回されるから」「病気自慢が体を浄化する」
 「努力は運命の付録のようなもの」―老年が人生を仕上げる時期ならば、ひとつ人生を遊んでやろう、遅ればせながら
  隠居を実行しよう。自然に、創造的に生きたい老若男女必読。
 ー アマゾンのレビューの内容がよい! 出版社か、筆者自身?の書き込みと疑いたくなるほど、である。
《 「今まで芸術と生活を二つに分けて、芸術に集中さえしていれば生活を疎かにしたってどうってことないと考え、
 全てを芸術論でかためてしまう人生観を送ってしまったところがあった。芸術は芸術の中でのみ完結するという
錯覚は、完全に幻想だったことが理解できた気がする」 この言葉が核心といっていいだろう。
 若い頃から、ナルシシストで自意識過剰の横尾は、75歳になる今年も、そこから抜けるために未だ苦労している。
自意識過剰から抜けるための試みの一つが、全国あちこちでやっている公開制作である。 公開制作について横尾は
「(公開制作を行っていると)無私になる。不思議なことに雑念が去来しなくなる。『私』の意識が薄れる」と語る。
この公開制作時のテーマは「T字路」である。なぜT字路なのか?それは62〜63歳の頃に10年ぶりに帰った故郷の西脇で、
子供の頃に良く通った、T字路に建つ模型屋が奥の壁を残して、あとは見る影もなくなっている姿に、膝が崩れ落ちる
ような衝撃を感じ、そのT字路を描くことでノスタルジーをもった「個人」から自由になり「普遍的な個」と感じるからだ。
横尾は幼児の頃に叔父の家に養子に入り、溺愛され育った。彼にとって過去の記憶はすべてよきものと言っていいだろう。
決して忘れたい過去に苦しむ人間ではないのである。芸術と生活は別、と考えて60代にまで至ったこと自体にに驚くが、
同じくナルシシストで、「芸術と日常生活は別」と同じことを言っていた三島由紀夫に傾倒し多大な感化を受けていた
ことを考えると、不思議ではないのかも知れない。》
▼ 横尾は、「隠居は、嫌なことをしない、好きなことだけをする生き方らしい」と、述べている。それからすれば、
 昔から隠居ということになる。目先、不自由でない位の金と、有り余る時間が人生を通してあった。
足らなかったのは、それを使うほどの能力。 事業人生の結果は、自己精算に近い事業整理で終わったが、
充実感が残った。それは、有り余る自由な時間に恵まれていて、事業も生活も趣味も楽しんだ手応えが残っているから。
そう思うしかないが・・
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4179, プライドと自尊心と虚栄心
2012年09月04日(火)
 * 「プライドが高い」「誇り高い」「自尊心が高い」の違いは?
言葉のイメージとしては良い順に ・自尊心がある ・誇り高い ・プライドが高い になる
 ー 哲学者の池田昌子は、このへんのことを解りやすく説いている。 (ー14歳からの哲学ーより)
≪「自尊心がある」はプラスを含んだ言葉で、「プライドが高い」は自分の弱さをカバーするための防御する気持ち。
自分がしていることを自覚できるのは、それについて考えられる精神を所有している人間だけ。精神は自分を自覚する。
精神としての自分を自覚する。そこで精神にとって精神よりも大事なものはないと知る。なぜなら、精神としての自分に
とって何が大事かを考えることを知ることができるのが、まさに精神だからだ。自分を大事にするとは、つまり精神を
大事にすることである。「自尊心」とは、自分を尊ぶ、自分を愛するということの、本当の意味がこれだ。
自尊心を持つことと、プライドがあるということは、間違いやすい。誰も自分が大事で、プライドがあると思っていれば、
他人に侮辱されても腹が立たないはずだ。なぜなら自分で自分の価値を知っているなら、他人の評価は気にならないはず。
もし腹が立つなら、自分の価値より他人評価を価値としているからだ。それは自尊心でなく、虚栄心ということになる。≫
▼ 自尊心は『本当に自分を尊く思える心』。プライドとは全く違う。人から否定的な事を言われたり、弱い自分が
さらけ出されても自尊心が高ければ、心は揺らがない。自尊心が低いと、他人の評価を気にしてプライドと言う
虚勢で弱い自分をカバーする。プライドの高さは虚勢の高さに他ならない。自分を尊び、価値ある存在と信じる
自尊心とは違う。そのため自尊心の低い人ほどプライドが高くなる。年齢をかさねるにつれ、それが小さくはなるが、
女子と小人は、その壁がますます高くなっていく。誇り高いというのはプライドと意味は似ているが、虚勢の高さは
プライドほど高くはない。自尊心とは自分に自信があって生まれる。プライドは、自信がないための防御の柵をいう。
無知蒙昧のカラ元気。 居るよ、こういう人!地頭が悪いというか、底がない? 何か、自分のこと?と思い知る。
プライドも自尊心もズタズタ?が現在の私だが、ことの本質(世界恐慌)をみれば極当然のこと??
と、プライドの心が囁き出す。そして、そのプライドの壁の上から、そこに来ている恐慌の大津波を眺めている日々。 
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3814, リタイヤの生活は退屈か?
2011年09月04日(日)
 良かったのか悪かったのか、10代半ばから常に受験、就職、事業などで、常に追い立てられて生きてきた。 
しかし思いもよらずに? ここで追い立てられてきた人生から50数年ぶりに解放された! のが、現在である。 
その前のイメージは、本音でいえば味も素っ気もないのでは? と思っていた。
しかし、その立場になって分かったことは、「それはそれなりに充実している」ことである。
 10年かけてネットに重心を移動していたこともあって、気持ちに余裕がなければ、こうはいかないのだろう。
事業の結果がこうとしても、これだけ世界規模の経済震災や自然災害が次々と生じれば、諦めもつくもの。
現在の状態を抵抗なく受け入れている自分に驚いている。逆に、何だったのか、この10年は?と、疑問も生じる。
止めようもない右下がりの落ち込みに、対処療法しか手の打ちようがない日々も辛いもの。6年前に銀行からの
会社売却の話があったが、これは「生きたまま銀行系列のホテルに、ただ同然に持っていかれるレベル」の案件。
あれから6年間も持続した分、実質な回収とも解釈ができる。 反面、倒産は避けられたかもしれない。
それに関しても後悔は全くない。 目先の資金繰りの綱渡りは、事業人生で一度も経験したことはなかった。 
半年後には給料、退職金の大部分も、取引先の支払いも、(資金繰表から逆算して)不能になるのが明確であった。
そのため目先資金の余裕のあるうちにと、会計事務所、弁護士、私と役員で相談の上に、少し早目の整理に入った。
それが打撃を最小限で終わらせたことになる。 そうはいっても会社の死は、そう生易しくはない。 
 当分はiPadに集中。 最適なアプリを画面上に配置することと、新しい何かにチャレンジすることである。 
10数年前に亡くなった母親の老後の様々なチャレンジを身近にみていた。その辺にヒントが隠されているようだ。 
「良い人生、悪い人生ではなく、充実している人生」がキーワードになる。
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3449 秘・異郷の旅、よもやま話 -6
2010年09月04日(土)
  *初めて経験した大自然の懐
 広大な大自然に初めて唖然としたのが、カナダのロッキーの懐に入って時である。
トロントと、ナイアガラの滝をみた後にロッキーを巡るコースのため、その途上のバスの中で寝入ってしまった。
そして目を開けると、何かこれまで見たことのない山々と渓谷が続いている。「これは、まだ夢の中。
それにしても、リアルな夢じゃないか」と思っていた。しばらくして、これが夢ではない現実に気づいた。
これは何処かの星の異次元の世界としか考えられなった。(その後、これと同じような異次元の世界を数多く見る
ことになった) そして、次から次へと想像を遥かに超えた光景が、これでもか、というほど現われてきたのである。 
「これまでの人生と、これからの人生という境になるほど、この感動は大きい」という言葉が、溢れ出てきた。
これをキッカケに大自然に魅せられ、世界の秘境・異郷の大自然の世界に引き寄せられるようになった。
 大自然には、
・「山脈」「湖」「滝」「川」「氷河」「密林」といった山脈系
・「海・海岸線・島」「クルージング」という海系
・そして「平原・草原」「サファリ」「砂漠」の平原系がある。
 目的別に分けると、リゾート、探検、遺跡探索などの知識収集、そして祭りなど、分かれる。
 どれが一番というのは一概にはいえない。どれもこれも、素晴らしいとしかいえない。
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3074,立花隆の緊急寄稿ー「自民党の破滅」
 2009年09月04日(金)
 週刊誌は図書館か昼飯時の喫茶店以外は読まないが、週刊文春の新聞広告が面白そうなので買って読んでみた。
 特に立花隆の緊急寄稿「自民党の破滅」に興味があった。 
 副題が「小選挙区制度の罠」で、民主308議席自民党119議席の結果について書いている。 
  ーその概要といえばー
「日本はいつから「政権交代」を叫ぶだけのドブ板選挙で大勝できる、貧しい政治文化の国になってしまったのか。
 ぶっ壊されたつつあるのは自民党だけでない。日本国そのものなのだ。」というのが主旨である。 
小選挙区制度にしたことと、派閥を無くしたことが大きい。そのために都(県)議会並みの小さな選挙区では
ドブ板選挙活動を基礎にするかどうかで勝負が決まる。その結果、そこで育つ政治家のスケールが小さくなってしまう。
小選挙区制度になってから出てくる国会議員の人間的スケールが都議会議員並み。 国会議員レベルで、
国政を安心して任せる人格識見の持ち主が殆ど見られない。 これまでの中選挙区制度では、派閥があり、
そこで政治家を大きく育てるパドックの役割があった。 そこで政策力、リーダーシップ、そして政治家として
の日常のふるまい方を学んだ。自民党の中で、派閥の領袖は自派には総理総裁候補が多くいると自慢できた。
それが自民だけでなく民主党も、人材が払拭してしまった。
 自民党が「責任力」をスローガンにしたのは呆れるしかない。 せっかく総理大臣になったのに、その職責を
充分に果たせずに任期途中で政権を放り出すことを二度三度も続けた政党は、無責任の極地にあるというべきだ。
こういう中で、GDPの170パーセントの長期債務をいったいどうするのか。 両党とも、これをどうするか、
一回も真剣な議論が聞こえてこない。 小泉は「自民党をぶっこわす」と宣言して、伝統的な集票システムなど様々な
システムを壊したが、それが遠因で自民党の大敗につながった。選挙の当座だけ尤もらしいことを並べ立てて、あとは
TVを通じてプロパガンスを並び立ててしまえば、大勝を博すことが可能というのを05年の小泉郵政選挙が示した。
今回の選挙も大して変わらないのではないか。最大の心配なことは、自民党の「ぶっこわれる過程」に巻き込まれる
形で、「日本のぶっこわれ過程」がはじまってしまったのではないか、ということだ。民主党を含む日本の野党には、
口先だけの尤もらしいことの経験があっても、責任政党として国政を担ったことはない。その経験が無いことを
自覚して、一歩一歩を薄氷を踏む思いでいかないと、日本を本当に破滅させてしまう可能性がある。
−−
以上だが、自民党も一度政権を離れてしまえば「何で、こんな党に政権を預けていた愚かさ」に国民は心底から
気づくことになった。そうこう考えると、政界再編成は近い将来必ず起こる。もちろん自民党は解党をしてだが。
民主が政権を取ったところで、800兆の借金が消えるわけでない。ますます、借金が増えるのではなかろうか!
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2709, アメリカのコーヒー戦争
 2008年09月04日(木)
不景気が外食産業を直撃している。アメリカではスターバックスが苦戦している一方、マクドナルドが好調という。
数年前までは、マクドナルドのコーヒーは不味くて飲めたものではなかったが、最近は格段と美味しくなった。
スターバックスのコーヒーが4杯ドルに対して、マクドナルドが1ドルと4倍も違う。そのため不景気とガソリンの
高騰で、コーヒー好きのアメリカ人は低価格のMcにながれているようだ。二年前の株価を見ると両者とも35ドルと
拮抗していたが、現在ではスターバックスは、その半値、Mcは2倍になり、4倍の開きが出来てしまった。
皮肉なことに、売価が逆の倍率になってしまった。4倍といえば、味が大して変わらなければ、Mcに流れるのは当然。
そこでMcは低プライスのコーヒー専門店チェーンにも乗り出した。日本国内でも、不況の煽りで、スターバックス
ドトールも売り上げが前年割れをしており、それに対しMcは売り上げを伸ばしている。通勤途中の長岡駅周辺に
スターバックス、Mc、Uccコーヒー、ドトールがあるが、 最近、Mcとドトールには客が多く、コーヒーの値段が
400円以上のUccと、スターバックスは客が少ない。また新潟駅長岡駅にパンとコーヒーに絞ったカフェテラスが
あるが、両者とも好調。この20年来、個人経営の喫茶店がほぼ消滅した。ところが新潟の事務所の真前にコーヒー
専門店が二年前にできた。それ以来、週に1〜2度はランチを食べに行くが、基本に忠実なコーヒーを出してくれる。
コーヒーは、良い豆を使って、基本に忠実に出し続けることが要求される。その維持がなかなか難しい。
この不景気の中、身近なランチや、コーヒーから節約をするもの、安いコーヒーに流れるのも仕方ない。
自動のコーヒー販売機のコーヒーがプロ並みに美味しいのに行き当たった。コインを入れてから、コーヒーを
炒って出す?ので、時間が4分ほどかかる。月に一度新潟駅の至近距離にある専門店ビルの地下のイオン内にある
カフェテラスの自動販売カプチーノが美味い。月に一度は行きパンとコーヒーを飲んでいるが、目当てはカプチーノ
Sサイズで150円、Lサイズで200円だが、充分満足できる昨夜のニュースで、昼飯に弁当持参が復活していると
報じていた。何か、身につまされる思いである。でも、暗い感じでないのが救いであるが・・・
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2007年09月04日 
「エーゲ 永遠回帰の海」 −1          −読書日記
  * 作者: 須田 慎太郎, 立花 隆 情報社
ポルトガルか、秋の紅葉のカナダか迷っていた時に、この本を読み、今年の旅はギリシャエーゲ海の旅を思いたつ。
(次男が「ギリシャに行って良かった」と言っていたこともあるが)面白いもので、いざ決定すると、写真も文章が
違ってみえてくる。 三日間のエーゲ海のグルージングとギリシャ本土の遺跡をまわると、また違って見えてくるが、
それもまた楽しみである。世界の遺跡の主だったところを見てきたが、遺跡の真只中に立つと何とも不思議な感覚になる。
数千年前に住んでいた人たちの気配を感じるのである。生活の跡に立っているのだから、当たり前といえば当たり前。
初めにハッとしたのはエジプトの遺跡群をまわった時である。行く先々、感動と驚きの連続であった。
遺跡を造った皇帝の意志と、当時の人達の息づかいが伝わってくる。生々しいのが2000年前に一瞬のうちに埋没した
イタリアのポンペイの遺跡。火山灰がパッケージになったため、殆ど完全に近い形で街と、店舗と、住宅がそのまま
残っていた。また死者の体を包んだ灰の中が空洞で残っていて、そこに石膏を入れた「人間の型」が気味が悪いほど
リアルに並んでいた。そこに立っていると、タイムマシーンで瞬間移動してきたような気持ちになってしまう。
この本は立花隆と写真家の須田慎太郎が、1982年に40日かけて行ったギリシア、トルコ取材をもとに出来た本である。
(出版までに20年以上を要した理由については本書にその経緯が記載されている。)写真家の須田氏の美しい写真と、
立花氏の紀行文がなかなかよい。ゼウスと人間の女の混血児であるディオニュソスの不完全な不死性と、イエス
復活神話や「一粒の麦もし死なば」という教えとの相似性。 アジアの地母神信仰がギリシアのアルテミス信仰に変容し、
それがさらにキリスト教のマリア信仰に姿を変えたこと。新約聖書ヨハネ福音書」の「初めに言(ロゴス)があった。
言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。」
というくだりが、新プラトン主義哲学のロゴス論を下敷きに書かれたことなど・・。ギリシアの神々は、一神教である
キリスト教の成立や普及過程において、形を変えてしぶとく生き残っていったということが、この本を読むとよく分かる。
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2006年09月04日(月)
1980, ある首斬り役人の日記 −2  \(^▽^*)おはよう         
               −読書日記
 HPで「首切り」と検索したら、イラクの首切りの生々しい映像が出てきたのには驚いた。
 さすがに首切りの場面は見なかったが・・ 更に、次の内容があった。 
  ー日本の首切り役人のことを書いた内容であろう。
罪を犯したある男が首切り役人に首を刎ねられる羽目になった。この男は最後の最後まで抵抗し、
たとえ首を切り落とされても執念でお前を末代まで恨んで、祟ってやると罵った。首切り役人は
「そう思うのなら切り落とされた首で自分の草履をくわえてみよ。
(字数制限のためカット 2013年9月4日)