「嫌老社会 老いを拒絶する時代 」長沼 行太郎 (著)
   * 歴史的一回限りの、新種の階級問題
 10数回にわたり、「老いへの不安 歳を取りそこねる人たち 」春日 武彦 (著) を取り上げて老いを暗黒面から考えてみた。
昔から老いは嫌われ片隅に追いやられてきた。ところが戦後の中核をなしてきた団塊世代が熟年をむかえ、大量に溢れ出してきた現在、
彼らを軸とした世代内の格差と、他の世代との格差が、大きな問題になってきた。周囲に元気な人が多いため自分たちが老人の意識が
今ひとつ持てないのである。彼ら自身が老いを嫌い、その下の世代からも目の上の瘤として厭われている。それが年金格差であり、
貯金格差などを起因とするから問題は複雑である。それは親子、嫁姑関係にも微妙に関係してくる。
   まずは、内容ーアマゾンから
【 「老い」を嫌悪する時代そのものを問う! 今後、ますます高齢社会を迎える中、「老い」をどのように捉えればいいのか。
 「老い」を拒絶し嫌悪する時代に、歴史的な背景から団塊世代の問題までを多角的な視点から論じ抜く。
 高齢社会・日本において、いま考えるべきは「老い」の技術と思想だ。団塊の世代の問題、老人は過去にどのように処遇されてきたか、
 老化を忌避する社会の今後の展望 …誰もが避けられない「老い」をテーマとして、歴史的な経緯から今後の展望まで多面的に捉えている。】
   ー世代内格差についてー
≪ 一般的に老いは、現役時代の収入・資産状況の結論が出て、それが固定化される現象であるから、老後には、現役時代に拡大した格差は
 固定されたままで、リベンジがきかない。とくに、老後の生活水準では、企業年金を積み、退職金の高い企業に勤めていたひとと、
そうでないひととの間での格差が歴然とする。 ・・・ 団塊世代では蓄えも退職金も世代内格差が大きいという団塊世代を対象とした
アンケート調査もある(『日経新聞』2006年1月8日)。金融資産が500万円未満が34・4%、500万〜1000万未満が19・2%、これでほぼ半数を超える。
退職一時金も、「なし」が25・6%、500万円未満が22・8%で、半数近い。 言うまでもなく、団塊世代の多くのひとが、退職後も生活のために
働かなければならないと答えるのはこの事情があるからだ。つまり、日本社会全体の「希望格差社会」(山田昌弘)、希望の持てる階層と希望を
喪失した階層とへの分裂社会への移行を、膨大な高齢層が集中的に表現することになるわけで、団塊世代の場合、シニアデバイドは、世代問題、
人口問題、収入階層問題、という3つの次元の交点に現れる、歴史的に一回限りの、新種の階級問題なのである。また、この団塊世代に始まる
世代内格差は、団塊世代のあとにくる世代にも継承拡大されていくことが予想される。≫
 ▼ 団塊世代の「金融資産が500万が三分の一の、過半数が1000万未満。退職金無しが四分の一、500万未満が半数。」という現実も厳しい。
  これで20万そこそこの年金では、ギリギリの生活になる。この年代はバブル期に良い思いをしたため、その段差は大きい。それでも半数は
  一千万以上の金融資産があるし企業年金も入る。そのため現役時代の格差が、そのまま延長される。 国家衰退は、個々人に直撃する。
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3728, 全米N0・1弁護士の勝ち抜きセオリー  〜?
2011年06月10日(金)
 * 「必勝の議論」を組み立てる ー 物語にして話しなさい    『議論に絶対に負けない法』ー ゲーリー・スペンス著
【  ● 説得力を増強する議論構築法と表現の魔術
 法廷内でも法廷外でも、夕食を食べながらでもコーヒーを飲みながらでも、どんな場合でも、議論は一つの物語に変えることができる。
議論には、そう、三匹の子ぶたの家と同じように、骨組みがある。オオカミに激しく息を吹きかけられて家が崩れ落ちるかどうか、
吹き飛ばされるかどうかは、その家がどんなふうに建てられたかにかかっている。全ての議論にとって最も強い骨組は「ストーリー」である。
 「さあ、お話をしましょう」 
 ストーリーを話すというのは、大昔からお互いに教え合う大事な手段だった。たとえば焚き火を囲む集まり、一族が皆、焚き火を囲み、
目をまん丸にした子供たちが大人の後ろから覗き込んで一心に耳を傾けている。過ぎた日の物語を語る長老の乾いた声が聞こえてくるだろうか。
人々は物語から何かを学んだ。サーベルタイガー(剣歯トラ)を取り囲んで殺す方法、はるか遠くの森でマストドンの王を仕留めた話、
そして長老がいかにして嵐を生き抜いたか。 愛の物語もあれば、特別な秘薬の発見の物語、隣の種族との恐ろしい戦いの物語もある。
人間の知識はすべて太古にはストーリーの形で伝えられてきた。ストーリーを話す生きものは、私たち人間だけ。 ストーリーを話し、
それを聞くという行為は、人間という種と他の生物との最も大きな違いだ。子供のころ聞いた物語は大切な経験として心のなかに残り、
大人になった時に物事を判断したり決定したりする際の拠り所になる。意識の中にも無意識の中にも永遠に植え付けられる。
私たちが楽しむ映画やテレビドラマ、芝居、これらは高度に進化した形のストーリーだ。 一番効果的なテレピコマーシャルは、
三十秒あまりの小さなストーリーだ。 ジョークも小さなストーリーだ。 世に名を残した偉大な教師はストーリーを使って教えた。
キリストの壁え話もストーリーだ。 ・・・工場の工場長が機械が故障したのを知った時、修理しようと集まっている工員たちに
まずする質問は「どういう話になってるんだ〜」 だろう。 警官が私たちの車を止めてボクサーみたいな顔を前の座席に突っ込み、
まずつっけんどんに言う言葉は「さあ、話を聞かせてもらおう」だろう。 】
 ▼ この10年間の随想日記で、一日一話の物語を作っていたことになる。身近な縁者と、未来の自分が読んで納得できるように
  加工することで、自分の情報整理と管理をしてきた。初めの数年は大変だったが、何時の間にか、それが面白くなっていた。
  物語化すると頭に残るのである。後年に再び読んでも新鮮さが失われていない。それにしても、実践から得たこの物語化は面白い!
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3363, すでに世界は恐慌に突入した ー4
2010年06月10日(木)
  * ロボット・トレーダーとは!
 「怪しげな超高速取引のロボット・トレーダーの優劣の戦いが始っている」と、この本で紹介している。
現在、ゴールドマン・サックスや大手ヘッジファンドは、膨大の資金を投じて超高速超高速コンピユーターを導入し、
取引に使っており、今やニューヨーク証券取引所における、この高速取引のシェアは七割に達しようかという勢い。
その中で問題とされているのは、フラッシュ・オーダーという取引執行形態である。このフラッシュ・オーダーとは一般投資家の
注文状況を、一〇〇分の三秒ほど早く見ることができる。一方、超高速コンピューターは○.○○〇四秒で、注文を処理することができる。
一〇〇〇分の一秒の間に何百という注文が執行できる。 これで、どういうことが起こるかというと、一足先に一〇〇分の三秒早く
一般投資家の売買動向がわかるので、その状況を的確に判断して儲けにつなげるというわけである。 たとえば、A社の株価は
現在四九四円とすると、この株価の売りと買いの注文状況が出たとする。この場合、成り行きで一万株買ってくれという注文であれば、
通常なら四九四円で買うことができる。場にある四九四円の売りものを拾う形となるからです。ところが、ここにフラッシュオーダーの
機械がセットされていれば、一〇〇分の三秒早くこの成り行き注文を感知することができる。すると一足先回りして、この四九四円の
売りものを買い付け、その後○・○○〇四秒の速さ、一万分の四秒のスピードで、四九五円に売り注文を出すことができるのです。
こればこの取引でこの一万円を儲けることができます。一方、成り行きで買いに行った普通の投資家は四九四円で買えるはずだった
A社の株式を一円高い四九五円で買ってしまったわけで、一瞬速く四九四円の売りものをフラッシ・オーダーの取引で拾われてしまう。
これは、あくまでわかりやすい形を説明したもの。
▼ 以上のことは、法的に今のところ押さえ込むことが不可能という。ロボットに、それを憶えこませて小口に分けたりして、
法令を違反しない範囲で取引をしてしまう。ということは、ほんの一部の超大手以外は、戦いにならなくなっている。
さや抜きロボットで膨大な利潤をあげているが、司法が介入できないプログラムが入ったロボット・トレーダーの出現である。
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2988、「平均」顔は美しい
2009年06月10日(水)
                    「世界は感情で動く」 マッテオ・モッテルリーニ著   読書日記
 * 面白い実験 ー「平均」顔は美しいー
 世の中には面白い実験をする研究があるものだ。目・鼻・口・額などの部分を、それぞれ平均して合成した顔が、
その中の誰よりも美しい顔になったという。考えさせられる結果である。国民の裁判制度が始った現在、特に考えさせられること?。
アメリカで長年にわたって取り入れられてきた裁判員制度だから、裁判長の1人の判断より公平かつ、信頼度の結果があるからだ。
それと平均顔の方が美しいと同じと考えるのも何だが、裁判員制度も悪くはないような気がする。 
秋葉原のワシントン・ホテルで若い女性の幽霊の顔が浮かんでいるのを見たことがあるが、
これを読んでいて、あれは数千人、いや数万人の平均顔に思えてきた。ノッペラした何の特徴もない顔だった。
 ー まず、その部分を書き写してみる ー  P-185
 テキサス大学の心理学者ラングロイスとログマンは一九九〇年、「平均的な」男女の顔は、その「平均的な」顔をつくるのに使った
個々の人びとの顔の誰よりも美しいと判断される、という結論に達した。二人はこの実験のために、336人の男子学生と214人の
女子学生の顔写真を集めることからはじめた。その後、男女それぞれのグループから無作為に96枚を選び、そこからさらに32枚から成る
部分集合をつくった(男子の集合が3つと女子の集合が3つ)。これをもとにして「平均的な」顔をつくるのは簡単だった。
リタッチのプログラムを呼び出し、いくつかの写真をクリックし、それぞれのピクセルに数値を与え、さまざまな写真から
詳細部分の平均を引き出す。二人の研究者はおおよそこのようなやり方で、女性の平均的な顔を3つ、男性を3つ作りあげた。
それから80人ばかりの人に、「平均的」人相を作るのに使ったほかの写真と比較してもらった。
すると男性の「平均的な」顔も女性のそれも、合成するのに使ったほとんどすべての本物の顔より美しいと
判断されたのである。なんともうるわしい結果であろうか。しかし、これは「合成した顔がすべて個々の顔より美しいのは、
多数の人の平均的顔には、一つ一つの表情を傷つける様々の欠点が見えてこないからである」と結論づけている。
集団の「平均的」判断としてまとめられるてしまうと、個々の間違いや偏見がチャラにされるからである。
▼ 以上だが、美はバランスである。 目や鼻や口の形もバランスー均整がとれているのが良いということ。
バランスか〜、 バランスでしかないのか〜、 服装、化粧は、そのバランスを直すことこと。
人間の持つ幻想は、そのバランスに惑わされやすい、ただ、それだけのことなのか? 
クレオパトラは、大した美人ではないが、幻想を活用することを知っていただけ!と言うが。
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2624, いのち楽しみ給え ー1
2008年06月10日(火)
 図書館で借りてきて、直ぐにアマゾンで注文をした本である。長男が吉川英治の本の中から、人生の言葉を選んだもの。
なかなか、味わいのある言葉が並んでいる。 吉川英治といえば「宮本武蔵」「三国志」「新書太閤記」を読んだが、
これだけ、多くの「心に残る言葉」に再び出会えて良かったが、当時読んでも、その深さが解らないものも多かった。
やはり人生の経験を多くしてみないと理解できないこともある。「いつもの時代でも、亡ぶ者が、かならず抱いている滑稽な信念は、
(おれは亡ぶ者ではない)という錯覚である」  『新書太閤記』が、新鮮に聞こえてくる。
                     『いのち楽しみ給え』 吉川英明編(講談社) ー読書日記ー
  * まずは、第一章 生きるということ より
 花は、散る支度をし始めるときが、花の一生のうちでもいちばん美しいし、盛りも見える。」 「新・平家物語
幸福とは その人の心の手のひらがそれを持つか持たないかだけのはなしである。
       幸福とはじつにそんな平凡で無味ににたようなものだ 「草思堂随筆」
円(まる) 円   
いくら見ていても、円い線はどこまでも円い。 果てなく、屈折なく、究極なく、迷いなく円い。
この円を、乾坤にひろげてみると、そのまま天地。 この円を縮めてみると、そこに自己の一点がある。
自己も円、天地も円。 ふたつの物ではあり得ない。 一つである。        「宮本武蔵」円明の巻
無為の苦しさは、無為を悶える者でなければ分らない。安楽は皆 人の願うところだが、
安楽安心の境地とは大いにちがう。なさんとして、何もできないのである。     「宮本武蔵」円明の巻
平常の取捨は、熟慮のいとまもあるが、生涯の大運は、突として来る。
(右か? 左かり?)は、多くは急場に迫って来るものである。「新書太閤記一むすめに与ふ」昭和36年夏軽井沢にて   
倖せ何とひと問はば  むすめはなにと答ふらん 珠になれとはいのらねど あくたとなるな町なかの
よしや三坪の庭とても  たのしみもてば草々に人生植ゑるものは多かり  「書簡・川柳・緋句・詩歌集」
朝の来ない夜はない           座右銘
「なべて眼のあたりのことは、うこかし難い、また、変るなき鉄則に見えますが、どんな現実というものも、
じつは間断なく変っています、変るなと願っても、推移せずにはおりませぬ。人の境遇も、入お互いの心も」 (麻鳥)
                          「新・平家物語』静の巻        ーつづく
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2007年06月10日(日)
2259, 今日、ホームレスになった ー2
  (字数の関係でカット2008年6月10日)
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2006年06月10日(土)
1894, 不良のための読書術ー2    おっ w(゚Д゚)w ハァョ?
「本は見た目だと!」という声も、心の奥から聞こえている。文庫本は幾多出版された中で単行本として生き残ったではないか。
「文庫本の中にこそ良い本が残っているのに、表装が良い本がよい本を勧めるのはオカシイではないか?」というのも肯ける。
 この本は若者向け、初心者向けの本として割り切ってみないと・・・ だからこそ鋭い切り口になっている。
  =その面白そうなところを、筆者の方法で拾い書きをしてみた=
ゴダール式読書法の基本とは本を手に入れたら、適当のページを開いて、20~30ページを読む。ただそれだけである。
 読むページ数は決まってない。 小説の場合はやや長めに一章まるごととか。 短編だと一編丸ごと読む。それで解らないのは著者か
 編集者が悪いと思う。ここで一番難しいのは、その本の何処を読むかである。どんな本も本文の一ページに力が入っている法則がある。
 これを「ツカミの法則」という。それと、実用書などでは巻末の索引から、関心のあるキーワードを探し出す。
 30~40ページも読めば良い、くれぐれも全部読もうとは初めから思わないこと!
・本はタッチ・アンド・バイである。良いと思ったら買いである。そんな時、本の値段を他のものと置き換えてみればよい。
 コーヒー一杯500円と、文庫本。 居酒屋の突き出しとビールと、単行本。専門書なら、ジーパンかウィスキー。そう思えば良書は安い。
・良い本は見てくれでわかる。 良い本は見た瞬間グッとくるものなのである。
 本は見てくれでないと言うが、本は見てくれなのである。よくない本に見てくれを良くしようとするわけが無い。
・読書は悦楽の狩猟と宝探しと思えば良い!
・本は全て辞書と思えば良い。  適当に見たいところを見ればよい。
・筆者が生み出した「擬似速読術」
 *小説やエッセイを読むときには「  」内の会話だけを読んで、他の文を無視する。
  これは高校や大学入試のテクニックにも応用されているらしい。
 *専門書や実用書を読むとき、キーワードとなるような漢字とカタカナだけを拾い読みする。
  1P全体を見ると何度も出てくる言葉である。それがキーワードである。
 *一つの行の上のほうの10文字だけとか、まんなかへんの10文字だけを読んでいくもの。
  これはどんな本にも応用できる。
  ▼ 一箇所に拘らないで、鳥瞰せよ!ということ。鷲になって獲物を探すように本をみればよい! (ω・`) bai
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2005年06月10日(金)
1529, 「人を動かす」ー1        ー読後38年目の読書日記
この本は思い出深い。学生時代に出会い、この原則を忠実に実行してみた。その結果、数ヶ月もしないうちに、
私の周囲に多くの人が群れだした。丁度、都会の生活にも慣れ、
脱皮の時期であった時に書店で見つけて読みながら一つずつ実行したのだ。 成る程、
・自分の言いたいことを我慢して相手の話を聞き、かつ認めてやるのは難しい。
・それも相手が自分自身を重要人物と納得するように誘導するのだから。
・人を非難するかわりに、相手を理解するように努め、
・相手の話に興味を持って聞いてやることこそ万人の求めていることなのだ。 
(字数の関係でカット2009年6月10日)
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2004年06月10日(木)
 1164, 哲学について ー1
哲学について、いつか書いてみたいと思っていた。といって、これは簡単に書けるテーマではない。
知識の浅さがそのまま露呈してしまうゴマカシがきかないテーマであるからだ。
そうとわかっていても自分のために、まとめてみたいという誘惑にかられる。
挑戦をしてみるが、知識や経験の浅さを露呈しても今更と割りきるが、しかし恐ろしい。
今まで哲学書で、一番納得したのは末広渉の「新哲学入門」である。
「従来の物的世界像から事的世界観への転回をはかって、認識、存在、実践の三つの側面から、私たちを捉えている
近代的世界観の根底的批判を展開し、新しい知の枠組への案内を試みている」と、説明文に書いてあったが。
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日常におわれていて、ふと日常のおなじパターンを繰りかえしていることに疑問を感じ、「このことに何の意味があるのだろうか」
と疑念を持つことから哲学が始まる。この随想日記で「世間さま」を茶化して書いてきたが、これも哲学の初歩的なものだ。
「我々が住む世界の基本的な概念と原理に疑問に持つこと」が哲学の始まりである。前提そのものを先ず把握して、
それを疑ってかかることが哲学の始まりだ。過去の歴史的な偉大な哲学者が2千数百年にわたり,いろいろな概念を思索して
根本的なことを解明しようとしてきた。いまさら根本問題を深く考えても仕方がないが、といって避けては通れない問題でもある。
ー哲学そのものについては
 カントの哲学の定義が分かりやすい。
 (一)私は何をすることができるか。 (二)私は何を為すべきであるか。
 (三)私は何を希望してよいか。   (四)人間とは何であるか。
誰もが、漠然と常に考えている問題である。
第一の問いに答えるのは形而上学であり、第二の問いには道徳、第三の問いには宗教、第四の問いには人間論が答える。
 (字数の関係でカット2011年6月10日)
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2003年06月10日(火)
 797, 流通業界よりみた時代の変化ー
流通業界の事は度々書いているが、10年前の状態と今を比べると段差に驚かされる。
 ー10年前は、
ダイエー中内功は、まだ他の会社の建て直しをしていた。
西武グループ堤清二もバブルの後始末に入ったところであった。
・マイカルーニチイも創業者の一人小林某が、マイカルシティーとかいうアメニティーなど入れた複合の施設をつくっていた。
・長崎屋も駅前型から郊外にその重点を移そうと必死であった。
ヤオハンは香港に本部を置き中国に出店を始めていた。
・ソゴーも大型店を破竹の勢いで出店していた。
            (字数の関係でカット2011年6月10日)
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2002年06月10日(月)
 433,自由ほど不自由なものはなし!
自由ほど不自由なものはなし!誰もが経験がある事だと思うが。
 ー至近の例で、
サラリーマン生活をしてきて、待っていた定年がきた時ただ呆然。 こんな筈でなかった、何もできない自分に直面する。
あれだけ求めていた自由に躊躇してしまう。今まで束縛されていた組織からの自由を求めているだけ。
「自らに由る」という言葉の意味さえ考える余裕も無かった自分に直面する。如何してよいか判らない。仕方がないので、
それまでの行動をとるしかない。会社の近くに同じ時間に出勤。今まで行っていた喫茶店やスナックなどの溜まり場に
行きざるをえなくなる。目の見えない首輪がそのまま付いたままなのだ、紐まで付いたまま。
そして紐付き首輪を付けて、それまで出たことのない同級会に出たりする。「元・・などの肩書き」はそこでは何も
通用しない事をそこで思い知らされる。そして他の軽く軽蔑してきた人と同じレベルまで引き摺り下ろされる。
いや彼らの中味のほうがズット詰まっていることに初めて気が付く。自らに由るとは何か?自ら判断し責任をとることだ。
ただ群れて、その群れと同じ行動をして、何も考えず判断をしてこなかった自分に初めて直面する。自由とは本当に厳しいことだ。
人に甘く自分に厳しさが基本になくてはならない。普通、人間は逆になってしまう、自分に甘く人に厳しく。自由、平等、博愛の
フランス革命の精神。 自由に重きを置いたのが資本主義社会。平等に重きを置いたのが社会主義である。自由は平等ではなく
公平を求められる。それまでの平等の意識が根底から崩される。もう誰も相手にしてくれない小さな自分にはじめて気づく。
公平?社会がすぐに冷たく圧し掛かってくる。自由はそれに適応できる人には優しく、出来ない人には厳しく反応してくる。
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2001年06月10日(日)
 [48] 同じ人生を
全く同じ人生を生きたい!
私の常識的判断では、90%以上の人は‘とんでもない!’と即座に答えそうだが。
しかし生きていく上で、全く同じ人生を生きたい!と思える人生を生きることこそ必要な事と、ある人生論の本に書いてあった。 
そういえば父がガンで死を悟ったとき、母に何回も「もう一度生まれ変わって全く同じ人生を生き直したい」と言ったと聞いた。
その時はやはりとんでもない!と自問自答したことを憶えている。最近そうおもえるようになってきた。