「老いへの不安 歳を取りそこねる人たち 」春日 武彦 (著)
 面白い本を図書館で見つけた。一日一日、老いていく日々だが、どうも心は歳を取そこねている。実感がわかないのである。
この本は老いの見本帳、それも老醜の見本帳である。わざわざ自虐的な、マゾ的な、げんなりするような事が書いてある。
<・・人生など呻き声をあげたくなるようなことの連続ではないか。まして老いたら、それはそれで独自の当惑や「釦の掛け違い」、
 恥や失望や悔しさが待ち受けているに決まっている。ならばそのようなものを、まずは他人事として味わってみるのも一興ではないか。
 ・・ 気負った言い方をすれば、種々様々な悲しみや煩悶や屈託を見知ってこそ我々は豊かになれる。その上で若づくりする初老期を
 笑うのも結構だし、共感するのも結構ということになる。> と。  これまで両親、親戚、近所の老人を見てきた。
 それが何時の間にか、その仲間入りである。しかし歳を取りそこねているようだ。知的好奇心や、やりたいことがあまりに多い。
 気持ちが枯れてきた実感など、どう考えてもない。しかし鏡を見ると歳相応で、ますます怒りっぽくなっている!
   まずは ーアマゾンの内容紹介よりー
 老いることは、むずかしい……「若さという神話」への無自覚で強迫的な執着は虚しい。 ならば、望ましい「年寄り」の適切な
モデルはあるのか? 歳をうまく取れないために生じる恥、勘違い、いかがわしい振る舞い。老人の不安に向き合ってきた精神科医が、
臨床現場での知見と数多くの文学作品の読解をもとに、老人の心に迫る。 哀しくもおかしな老いの見本帳
   = 序章 初老期と不安 =
 ≪ 人間の心を安定させ安寧を保つ装置のひとつとして、惰性というものが挙げられる。我々は基本的にマンネリに則って生きている。
 退屈で変化に乏しく、うんざりする。だがこの十年一日のトーンこそが我々に安心感を与えてくる。とりあえずこのマンネリに
しがみついている限りは、大きな聞違いや不幸は(たぶん)生じない。 自分の存在意義も生きている意味も現実の確実性も、
みんな惰性の中に埋め込まれている。 過去を振り返ってノスタルジックだとか懐かしいと感じられる事柄の大部分は、
リアルタイムにおいて惰性やマンネリに彩られていた事物なのである。
 日々の惰性がストップしたとき、そこに出現するのは異形の現実である。精神的にショックを受けたとき、生活の根幹を揺るがせる
事態に直面したとき、世界は親しみやすさを失う。当たり前の世の中が、よそよそしく違和感に満ちたものとして迫ってくる。
我々は孤独感と不安とに襲われる。それこそ実存的な風景とでも称すべきか。おそらく死とはこのような感覚の究極としてあるのでは
ないかと予感したくなるような風景に向き合うことになるだろう。我々は日々の惰性を憎みつつも、それによって安心感を得ている。
そしてときに訪れるささやかな絶望や悲しみを介して、惰性が、マンネリが失われる恐ろしさを薄々理解している。≫
 ▼ 「初老期の不安は、それまでの人生の惰性を失うのではないか?」という見方は確かに心当たりがある。老いとは、一日一日、
死にむかって歩いている時期にある。そして、それまでの人生の返り矢が次々と返ってきて弱者への道を歩むことになる。
  老いるのは、まず肉体からだが、それに従って確実に心も老いていく。それに気づかないのが老醜。如何に包み隠すしかない。
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3710, 自己を見つめる  ー番外
2011年05月23日(月)
   * つれづれに、早朝に・・
 あの日々から二ヶ月近く過ぎ、少し気持ちが落ち着いてきた。 しかし、いくら平気な顔をしていても、やはり一大事である。
数日前に、自宅に一本の電話がかかってきた。 家内が買い物に行っていたので私が受けた。 「日テレの番キシャの記者ですが、
震災の影響で廃業されたホテルの件の取材の電話です!」で・・・、拒否反応の感情が先に立ち、「そういうことは、
一切お断りをしています!」と、直ぐに切ってしまった。 当然といえば当然。 番組では当方は取り上げてなかったが、
「震災倒産」がタイトルで、東北から離れた地域の北海道とかの遠方でも、倒産が出始めてきたという趣旨の内容であった。 
 ところで、東京も含め関東甲信越以北のホテルは壊滅状態。東京の4月のホテルの平均稼働率が80パー以上だったのが、
半分以下まで落下したとの新聞報道があった。 それを見越して見切ったが、読みどおりホテルは壊滅状態。
実際のところ、前倒しを決断できる状態だったから、見切りが出来た。 が、月末の資金繰りに困るようだったら前倒しは無理。
 当方は10年前の9・11ショックで、売り上げが4年かけて3割以上も激減した上、二年半前のリーマンショックで、更に半減。
三分の一まで落ちていた。 それでも、借入返済の減額や、人件費などの政府補助で何とか遣り繰りしていた矢先の、この震災。 
シュミレーションをすると、半年後には丸裸。 今なら銀行債権以外は清算が可能。 それならばと見切り廃業を決断した。 
結果からみて、「少し早めの見極めは打撃は半減、少し遅めは打撃が倍増?、その差は4倍」と、実感している。 
 兄と姉の倒産劇を身近で相談に乗っていたから、断末魔の苦しみを肌で感じてはいた。「金がないのは首がないのと同じくらい苦しい」
が生前の父の口癖であった。それは「日々の資金繰りに追われることだけは避けろ」という教え。 それだけは避けたいと思っていたが、
こういう結果で終わっても、資金枯渇の苦しみは殆ど経験しないで済んだのは救いである。 どっちにしても人生は甘いものではない。
生きてきた、そのままが、返りや矢として自分に戻ってくる。プラスにもマイナスにも。 「これが、生きるということだったのか。
それならば、もう一度」という二ーチェの言葉は、なかなか言えないが、人生全体から搾り出しても言わなければ・・
 9・11、9・15、3・11と歴史的経済震災と自然震災に続けて直撃をされると、運、不運とかいう以前の諦念の問題になる。
学生時代に合気道の経験があるが、そこで学んだ一番の教えは危機の際の「引き」である。 危機に出会うことを避けるのが真の極意だが。
 来年に入ったら、謹慎期間が(私にとって)終わるので、倒産劇の悲喜こもごものミニ講演を受け付けます。
ここに書けないことが、けっこうある。 個人的には、何時でも・・・臨場感があって、面白い材料がタップリ・・・ 味付けもして?
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3345, 閑話小題 ―つれづれに
 2010年05月23日(日)
  * トヨタのレクサス
 先日、車検に出していた車を引き取りに行ったところ、30分ほど待ってくれというので隣にあるトヨタの中古車センターで車を
見ていたところ営業マンがよってきた。そこで時間つぶしの事情を話したが、ついつい「高級車か、スポーツ車で面白そうな車があるか?」
といったところと、マークとレグサスを見せてくれた。私は先代の車をいれて22年間、ソアラに乗っている。現在の車は18年も
乗っているが今でもエンジンの衰えが全くない。 で、外からはレグサスを見てはいたが、運転席に初めて座ってみた。何か違うのである。 
偉くなったような選ばれし者といって気分になるのである。 自動車も18年もたてば車も格段に進化しているのである。
二年前の車で、600万が367万円。 個人として買えないことはないが、リーマンショック後の恐慌の世。
この暗い世相で無ければ、おそらく買っていただろうが。もっとも、最近は遠出は年一もないし、乗るのは市内のみ。
 良く稼ぎ、良く遊ぶためにも、景気回復が待ち遠しいが、当分は無理。  TVでも買え換えるか。
  * ペット大嫌いな人と、インコ
 去年の10月に、メキシコ・コガネインコを飼ってから7ヶ月になる。家内がペット大嫌いで、買った当初は居間の
ベランダに鳥篭があることもあり、一月ほど居間に用がある時以外は、立ち寄らなかったほどの拒否反応。
ところが現在は、休日など見ていると一日数回は、籠前に置いてある簡易イスに座ってインコと戯れている。
インコが人に時々必死に呼びかけてくるのを聞くうちに情が移ったようだ。あれだけ、嫌っていたのに。
小桜インコを5代(匹)飼っていた十数年は、全く感心を寄せなかったのに。犬と同じ位の感覚で人の気持ちを察知する。
そして、自分をかまってもらいたいのである。今まで鳥を多く飼ってきたが、自分の糞が好物というのは始めてである。
ウサギが、そうだと聞いたことがあったが・・・
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2970住まうこととさまようこと ー2
2009年05月23日(土)
  * まずは「住まうこと」とは
 住まいは、外壁で外と内の世界が分けられており、昼は外が光の世界になり、夜は逆に内側が光の世界に逆転する。
外部空間の環境と、家の内部空間、その両者の布置が、部屋の雰囲気、広がりを決定する。住居は、壁で囲まれ、
垣をめぐらしている。それは自然に対する防禦でもあり、人間に対する遮断でもある。また住まいは上下の構造になっている。
ここで、「空間の詩学」という本を紹介し、その中の「家とはまさに「垂直的な存在」であるとして、次のように述べている。
「垂直方向は地下室と屋根裏という両極によって確保されている。この両極性の特徴は、大変深くおよんでいるために、
非常に異なった二つの座標軸を開いてみせる。屋根に関しては屋根裏では、人は梁全体の硬い骨組みがむき出しになっているのを、
見ることができる。そこで大工の手堅い幾何学にあずかるのだ。 そこで、地下室はどうであろうか。きっと、そこは役立つものと
考えるだろう。便利さの合理性を幾つかあげるだろう。しかし、そこは家の暗い存在、地下の威力をわけもつ存在である。」 
殺人事件の映画では、刑事が犯人の家に踏みこんで調べると、そこには地下があり、殺人のための道具や、
死体があったりする。 逆にファンタジー映画の場合は、屋根裏部屋の箱の中や、見知らぬドアに、
光が満ちていて、別世界への入り口になっている。 屋根裏部屋は最も孤独で静寂な上昇の象徴でもある。
私が4?10歳まで育った商家では、戦後の数年後に建てられた4Fのビルであった。
1Fが店、2Fが事務所と倉庫、3Fが台所兼食堂、そして家族の住居、4Fが従業員の宿泊部屋、そして街全体を見渡せる屋上。
まさに垂直的な存在、そのものであった。幼児期の、そこの体験は、まさしく小説のような生々しい物語の連続であった。
住まい、商いが、混同した楽しいが、しかし戦いの連続の世界であった。 そして、ついに大事件が幾つか発生した。
それは、ここでは省くが。 住まいは、外と内があり、内の中にも垂直と、横断(機能別の空間)があった。
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2606, 脳内会話
 2008年05月23日(金)
昨日の新聞の広告欄にー「脳内会話」の法則ー成功も幸福も3つの言葉で手に入るー
という本が紹介されていた。さっそく、検索などで、その3つの言葉を調べてみたが、何処にもない。
そこで新潟駅の本屋に行ってみたが、やっとジュンク堂に、その本を見つけた。
しかし、色いろの場面で、幾つかの3つの単語があっただけで、それほど目新しい内容でなかった。
もちろん買わなかったが、それでは私自身の脳内会話の3つの単語を幾つか考えてみることにした。
擬人法で、
・まずは *絶対肯定君、(反対の *絶対否定君)
・次は *欲望君、 ( *真面目君)
・最後は *冷静君 ( *情念君)  としてみたが、どうだろうか。
数日以内に、この6人に問いかけをして、脳内会話をしてみる。
ところで、脳内会話は、読書や、日記、そして独り言などで、誰もがしていること。
この随想日記や、バードウォッチなども、独り言そのものである。
私は、亡くなった父親と対話することが度々である。
「ところでお父さん、貴方なら、この問題を如何考えるだろうか?」とか、
「兄のこの件に関して、如何判断する?」などなど・・・
他にも、大学ノートに「モーニング・ページ」を毎日のように書いている。
白紙に9つの桝を書いて、その真ん中にはハートの絵と、その外側に心臓の絵を書く。
そして思うままに、ペンの動くままに書き込むのである。
これこそ、脳内会話になるが、さっき考えた肯定君や欲望君、そして冷静君など擬人法をつかって書き込めば、
  ペンの動きは更に活発になるだろう。 まあ、子供じみているが、その子供じみているからこそ良いのである。

それより、迷ったこの本を買いたくなった。中古本は出てないが、まあ、面白いか。
読めば、また脳内会話の擬人の6人も違ってくるはず?。
  私「ところで、冷静君よ。この原油の値上がりで、如何なるんだろう」
  冷静「誰も答えなど無いから、変化の時々に考えるしかないだろう」
  私「そうは思っているが、スタグフレーションという本当に性質の
    悪い大雪崩か、大津波みたいなやつ。高台に逃げようにも。??」
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2007年05月23日(水)
2241, ヤバいぜっ!デジタル日本 ー2
         o(゜∀゜)o オッ ヽ(゜∀゜)ノ ハー
二ヶ月前に家内がワンセグの携帯電話を買ったのをキッカケに、私も三年前の携帯電話を買え替えた。
前の携帯電話とは全くの別もので、ミニ・パソコン?ではないかと!
この本に、私が感じとったことや知りたいこと、その方向がわかりやすく書いてあった。
 ーまずは面白そうな部分からー
*インターネットの本質  ーP・29
 インターネットとは何か?「バラバラで始まった世界のあちこちのネット同士を乗り入れ可能にするために、
 同じ技術を使いましょうという約束事である」 すなわち技術的約束事である。同じ技術的約束事を持っている
同士であれば、アメリカでも日本でも、どこからでも、必要なサーバーやクライアントに入ることができる。
またどの場所でも、それが可能であるのが利点というなら、デスクトップよりノートパソコン、さらには片手で扱える
携帯電話が、より有利になる。すなわち、技術的約束事を持った携帯電話、もう少し言うと、携帯トリプル?が
これから世界を席巻するということになる。
  携帯トリプル?とは、いわゆる携帯電話のことだが、それは既に単に電話ではない。
・メールやブラージングもでき、  ・ラジオも聞け、TVも見れ
・カメラもついていて、      ・GPS付や財布にもなりはじめている、
これは、もはや電話ではない。だから、この進化し続ける複合機を、便宜的に携帯トリプル?と呼ぶことにする。
この携帯トリプル?はマイクロソフトインテルの牙城ではない。国産OSを開発したり、リナックスなどに注力するより、
携帯トリプル?をどうすればよいか国際的戦略を組むほうが日本として大切なことになる。
インターネットは所詮、携帯トリプル?のバックテクノロジーに過ぎないことが、だんだんわかってくるだろう。
人々の生活を激変させるのは、インターネットではなく、携帯トリプル?である。インターネットは所詮、技術なのだ。
携帯T.?は、ハードやコンテンツではなく、まだまだスタイルを作ることができる。
その使いこなしの先端に立っているのが、いまの段階で日本人である。
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 *携帯トリプルーが、パソコンの未来 ーP・30
実際、携帯T・?はパソコンの問題を多く解決している。
まず、小さい。安い。通信が殆ど落ちない。画面が固まらない。
所有者の身元が比較的しっかりしている。課金が簡単など挙がればきりがない。
すなわち、携帯トリプル?は、パソコンの未来なわけだ。
見方を変えれば、パソコンで今やっていることは、数年後には携帯トリプル?でも出きるということである。
現在キーボードや液晶モニターは、当分小さくなりそうもない。
投射型レーザーのヴァーチャル・キーボードや、ゴーグルタイプのモニターなども具現化しているが、
まだまだ使いづらい。したがって、人間の手の先にあるキーボードという入力端末と、
液晶モニターという出力端末のサイズはそのままで、その間に携帯T・?が挟まって使用できるというのが現実的である。
言わば、ポケットに入れて持ち歩きのできるCPU(パーソナルコンピューター)ということになる。
iPadがハードデスクをポケットに入れる新しい提案なら、次なる提案はポケットサイズのパソコンだろう。
  ーー
 *インターネットの限界 - P・32
インターネットはまだまだ無限の可能性があるように言われている。私はむしろ逆で、行き先の限界をそろそろ理解しなくては
ならないと考えている。インターネットからまだ本物のスターは出ていない。それは何故か? インターネットが、スターを
生み出すような仕組みを持っておらず、ここでは全員がスターだからだ。インターネットは大きな夢を生み出すのが苦手で、
マス・マーケットを狙ったエンターティーメントを構築するのが難しいのだ。小さな個人の夢と欲望と、マスメディアとは
違う大きなスキャンダルのようなもので今日のインターネットのコンテンツは動いていると言える。
解) 確かに、携帯T・Xの最近の動きは異常と思えるほど進化を始めている。私のように明治生まれの両親を持つものにとって、
SFの世界のようである。特に携帯T・Xに関しては、戸惑うほど進化が激しい。この日本の携帯T.Xが数年内に世界の文化を
根こそぎ変え、また光ファイバーを全国にいち早く導入した効果が、現象として現れ、それが+?面で顕著になっていくだろう。
それが格差をさらに生み出し、社会を不安定にしていくだろう。 それも面白いだろうが・・・・ ´∀`)ノ~サイナラー
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2006年05月23日(火)
1876, 10年後に後悔する事とは?            おはよ?!(*^ワ^*)i 
あるHPを見ていたら、次の言葉に引きつけられた。「10年後に後悔しそうなことをリストアップして、
それを潰していく生きかたをする」である。 (七田チャイルドの七田真氏と本田某氏の対談)
私が十年前に考えたことは、「50代の10年間で60歳以降の人生を全て押し込んで生きる」である。
20~30年間を50歳代の10年間で全て前倒しにする、と。それがこの程度の変化でしかなかったのか?。  
という自問自答は残るが。現在になって振り返ると、先まわしをして良かったと思っている。 
  ≪字数制限のためカット2010年5月23日≫
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2005年05月23日(月)
 1511, 子供や若者が変!
若い人や子供をみて、「いまの若い者は!」とか、「今どきの子供は!」とだけは、言いたくはなかった。
同年代の人が、この言葉を言ったら顔を歪めていた。古代の遺跡にも「今どきの若いものは」と書き残してあったという。
しかし最近になって、じっくりと小学生や高校生を見てみると、やはり[最近の子供がおかしい」と思うようになった。
どうも、例の「ゆとり教育」のぶざまな結果である。一時「ゆとり教育」が騒がれたが、いまや余りの学力低下
文部省も慌てふためいて指導要領を見直すことになった。世界からみても、日本の学力低下が著しく目立ったためである。
20年前からスタートして、2002年開始の学習指導要領で完成したはずの「ゆとり教育」が、「学力だけでなく、
質そのものの低下になってしまった」と、いうのだ。それでは、その「ゆとり教育」とは何だったのか
 ー以下は、あるHPから抜粋した学力低下の実態であるー
OECDが3年に一回、世界41の国と地域を対象に行っている国際学習到達度調査の成績が前回は8位であったが、
今回の調査で日本は14位。3年で6位も転落してしまいました。 
 (以下、字数の関係上カット 09年05月23日)
・・・・・・
2004年05月23日(日)
1146, {上に立つ者の道}三十ヵ条
{上に立つ者の道}三十ヵ条がよい。
これは住友の岩澤正二氏が部下達に与えた指導者としての指標という。働くとは、
人間関係のどういうことが求められるか、どういう人間であるべきかの多くの示唆が含まれている。
耳の痛いことばかりである。住友の気概がそのまま伝わってくるようだ。
もっと早く、知っておくべきことがあまりにも多い。道としているところがよい。
理想は何処までも遠くにあっても一歩ずつ歩いていくべし、ということだろう。
1.むかう所を明瞭に示せ。              2.信を他の腹中に置け。
3.虚心担懐、光風霽月、是を是とし、非を非とせよ。  4.褒める時褒め、叱る時叱る。
5.権謀は無策に劣る。功詐は拙誠にしかず。      6.功を部下に推し、責めを身に引け。
7.広く意見を徴すべし。部下の話は熱心に聞け。    8.己に薄く人にあつく、己に厳に人に寛なれ。
9.長所を見て人を使え。人は誰しも長所を有す。
10.愚痴と立腹と厭味とは人の上に立つ者の大禁物、言いたきことあるも耐え得る雅量あるべし。
  (以下、字数の関係上カット 09年05月23日)
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2003年05月23日(金)
779, 茨城 のり子の詩
  何げなく読んだ茨城のり子の 詩がよい。魂の響きがそのまま直に伝わってくる。
    インターネットで調べてコピーした。 私の解説など入らない!        
  落ちこぼれ       茨城 のり子
       (字数の関係でカット2,008年05月23日)
 ・・・・・・
 2002年05月23日(木)
415、「テーマ日記を書き始めて一年 ー2」
ホームページ上のテーマ随想日記は、非常に有効だ。一年書き続けて、毎日それなりにチャンとテーマが出てくる。
10日に一度くらいが、まったく思いつかない状態になるが、それでも、その状態の中でも湧くように出てくる。
書き続けることが大事である。「一ヶ月で、千項目テーマをあげて文章を書け」といわれても絶対に不可能だ。
しかし毎日一項目書き続けることは不可能でない。その習慣をつければ、何とか千項目書けるのではないか。後二年近くかかるが。
それさえ作っておけば、自分のデータベースになる。大テーマを立ちあげた時に、それぞれの大テーマに合わせて
それを組み替えればよい。書いているうちにコツが解ってくる。新幹線の中とか、散歩の時間にそれを集中する。
またどういう訳か集中できるのだ。この時間の集中の積み重ねが膨大のデーター化になる。またテーマを考えることと、
そのテーマに対し色々言葉を組み合わせる作業が考えを深める。内容に対しては、それぞれ批判があると思うが、
その時点の自分の自然に出てきたテーマと内容なので、これ以上でも以下でもない。書き続けるポイントは「ギブ・アンド・ギブ」。
そうでなくては、続けられない。今までの自分の持っている経験・知識を全て吐き出し、現在、得た情報をそのまま
出し続けなくてはならない。しかしそれを実行していると、他のホームページのそれが良く理解できるからだ。そうする事が、
逆に自分の為になるからだ。仏教の布施、キリスト教のボランティアみたいに。それをすることで、他のページのそれが解ってきた。
自分が入れたエネルギーの数十倍、いや数百倍が入っている事が、理解できるようになったからだ。 
そうしていれば、相手の内容を見る目が違ってくる。また謙虚な眼で、それを見ることができるようになってくる。
またその時々のメルクマールにもなる。時間が経つにつれて、自分の考えもどんどん変化していく。
その変化した視点で、過去の自分の考えを見つめ直すこともできる。