* 「お金=信用」と、「神=信仰」は同じようなもの  〜?     ー「お金の執着」が経済を狂わせるー小野善康 より
 お金の本質に関して多くの本を読んで考え続けてきた。ここで、お金と神の本質を同定し分かりやすく書いている。なるほど、人は
心情的に多くの金を持ちたがるはずである。とはいえ、それは心情である。傍に迷惑をかけない範囲で、自分の好きなことに時間をかけて
使うべきである。通帳にあるのは単なる数字の羅列。その辺りの知識がないと必ず後悔する、それが人生である。 ーまずは抜粋ー
≪ 一方、お金はどうか。人は物やサービスという実体を消費して、生活している。経済は、それらを効率よく手に入れるため発達してきた。
多種多様な物欲と技能を持つ人びとが、それぞれの能力を最大限発揮して、生活を物的に豊かにするためには、自分の得意な物を作って、
他人が得意とする生産物と交換すればよい。それによって、自給自足では望めなかった生活永準を実現することができる。そのための
交換の場が市場であり、お金は交換手段として生まれ発達してきた。 物々交換では自分の欲しい物を相手が持っているとともに、
自分も相手の欲しい物を持っていなければならない。経済学で言う、交換における「欲望の二重の一致」である。このとき、誰でも普遍的に
欲しがる物があれば、交換手段として最適である。二重の一致が一重で済むようになり、いつでも自分の欲しい物と交換できるからである。
そのため、宗教が雷や山から始まったように、お金もはじめは、それ自体が安定した実用価値を持つ米や金銀などであった。
しかし、交換機能だけを考えれば実用価値などいらず、信用だけで十分である。持ち運びや保管には、かえって実体として機能は邪魔になる。
そのため、金銀の代わりに大銀行の金銀預り証が紙幣としての役割を持ち始め、20世紀に入ってからは金銀との交換性とも切り離されて、
純粋に交換手段の不換紙幣が定着した。しかし何の価値のない紙幣を流通させるのに、信じ込ませることが必要である。それが信用である。≫
▼ 金も、社会的価値として信用出来るから流通するのである。それ(交換手段としていた金)が、いつの間にか、将来の不安を解消する手段に
 すり替わってしまっていることに人は気づかない。 金は使うべき時に使うのが道理ということ。 何で人は、お金を残して死ぬのだろう?
 死後に残された金は、あくまで死の不安の遺物。しかし交換手段の額が大きいほど、自由になる幅が広くなることは確か。が、それも幻想。
 やりたいことをするのが自由である。何がしたのかをハッキリさせて使ってこそ金(自由)の効用が生きてくる。 貯めたは貯めたで、
 金に未練を持ったまま死んでいく。つくづく、人間は頭が変である。自分の好きなことをして行蔵として残せばよいものを。
 100億円遺した人と、100億円使い果たした人と、どちらが面白かったかをみれば分かること。人間両手に持てるのは2千万まで!
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3703, ジャズについて −3
2011年05月16日(月)
       ー 「音楽の本」三枝成彰著 より
 アームストロングとバイダーベックといえば、私が学生時代の1960年代後半は現役で、ラジオやTVで見かけていた。
当時の部屋にはステレオがあり、アームストロングのレコードを何枚か持っていた。 この著書で、彼が集団即興演奏を、
ソロ中心のスタイルに変えた役割を果たしたことをしった。 当時の、あのシワガレ声は、今でも脳裏に焼きついている。
近々、近くの図書館に二人のCDを探しにいくことにした。あると思うが・・・
【  * 〔 シカゴ・スタイルの中心、アームストロングとバイダーベック 〕
 ジャズといえば4ピートのリズムを刻むのが大きな特徴だが、それが確立されたのは一九二〇年代のことである。
この時代、腕の立つミュージシャンが集まったのがシカゴだった。シカゴを代表するジャズメンといえば、当時は若きコルネット奏者として
ニューオリンズからやってきたルイ・アームストロング(1901〜1971)である。 彼がジャズ史上に残した最大の功績は、それまでの
ジャズの集団即興演奏スタイルを、ソロ中心のスタイルに変えたことだ。他のミュージシャンもこの時期、同じ方向を目指していたが、
アームストロングの才能は圧倒的だった。1925年には自らのバンド「ホット・ファイブ」を結成し、やがて楽器をトランペットに持ち変え、
「ウエスト・エンド・ブルース」をはじめキラ星のごとくジャズ史上に輝く名演奏を残していく。 同時に、独特のしわがれ声に深い情感を
たたえたボーカルも評判となり、1926年の、「ヒービー・ジービーズ」では軽快なスキャットボーカルを初めて披露した。
30年代初めにはヨーロッパ・ツアーを敢行し、‘世界のサッチモ’となる。第二次大戦後はビッグバンド演奏をバックに従えた
エンターティナーとして、もはやジャズの枠にとらわれない活動を展開する。 もっとも、初期ジャズの優れたミュージシャンは、
黒人ばかりとは限らない。 1919年、アイオワ州ダヴェンポート。ドイツ移民の一家の次男坊が、ディキシーランド・ジャズの
レコード(兄貴の除隊みやげ)に夢中になっていた。やがて彼は、親兄弟の反対を押し切り、シカゴ周辺でコルネット奏者として
身を立てることになる。 この白人男、ビックス・バイダーベック(1903〜、93、)こそ、ルイ・アームストロ・ングに負けず劣らず、
多くの後進に影響を与えた天才ジャズメンである。 これこそ、白人ジャズマンの始祖である。ユニークなアーティストである
ライ・クーダーのアルバム『ジャズ』でも、、インナ・ミスト」「きらめき」と、彼が残こしてくれた美しい音楽を聴くことができる。・・】
  ▲ 歴史はクラシックと比べ、短いが、黒人の虐げられた歴史が背景にあるため、その奥行きは深い。
    その背景を、知って聴くと聴かないとは、雲泥の差が出てくる。特に日本の戦後は、アメリカ文化に大きな影響を浮けた。
    プロ野球に、ハリウッド、そして、ジャズにブルース。特に私の青春時代は、その最たるものだった。
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3338, 2011年新聞・テレビ消滅  −1
2010年05月16日(日)
  「2011年新聞・テレビ消滅 」 佐々木 俊尚 (著)
 プロローグからして、刺激的な内容である。
≪・・最初に言っておこう。2008年からアメリカで始った新聞業界の地滑り的な崩壊は、3年遅れの2011年、日本でも起こる。
 アメリカで起こった現象は、ほぼ日本で3年遅れで起きている。 それからして来年の2011年は、テレビ業界にとって二つの
 大きなターニングポイントの年である。アナログ波の停止による完全地デジ化と、情報通信法の施行だ。この二つの転回点によって、
 これまでの垂直統合モデルが剥ぎ取られ、電波利権はなんの意味をもたなくなり、劇的な業界構造転換の波へとさらされることになる。 
 何社かは破綻し、業界編成が起こるかもしれない。もちろんそれ以降も、企業としての新聞の一部は生き残っていくだろう。
 しかし、そうやっていきのびた新聞社やTV局は、もうマスメディアとはいえない別の存在になっているだろう。
 その先に何が待ち受けているのだろうか?≫
  ▼ この本を読んで尚のこと、日本でもかならず起きると確信してしまった。 現在、百貨店を見ればわかること。
 誰が5年前に伊勢丹三越を、大丸が松坂屋を、ヨーカ堂が西武・ソゴウを、阪急が阪神を、救済合併をするとは 思ってもいなかった。
 さらに数年内に、さらに高島屋も含めた再統合が始る。 その後塵がマスコミ業界で始る。さらに、iPadなどのタブレット式パソコンの
 普及が、紙からの移行を劇的に早めることになり、それがフリー (限りない無料化)を推し進めることになる。 著者は、
「これはマスコミのぬるま湯体質とか金融危機が原因でもない。大規模スーパーやビールメーカーの価格決定権の喪失ことではない」という。 
 現在、日本いや世界で起こっている行き詰まりと原因が同じような気がする。 TV局の最も大きな果実であるTV広告はネットなどの
 プラットフォームに奪われる。コンテンツ企業としては現在の制作会社と同程度ぐらいまで縮小せざるをえなくなる。それでは、新聞社は?
 というと、無料モデルに呑み込まれ、コンテンツを有料化していくことが、ほぼ不可能になってきており、この業界の未来は最も暗い。 
 電子書籍のプラットフォームへと参戦する選択肢があるが、ここには、アマゾンやキンドルという強敵が控えている。     ーつづく
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2963, ディズニーランドとディナーショー
 2009年05月16日(土)
 先日、地元長岡の300人のディナーショーについて書いた。
「直感的にディナーショーの会場の雰囲気がディズニーランドと感じたが何故?」と考えてみた。 ディズニーランドは遊園地。 
家族、友人が連れ立って浮世から離れ異次元の世界を楽しむ幻想の世界。その辺がディナーショーと同じと感じたのだろう。
女性達が最高の御洒落をし、仮想(仮装)を楽しむところが酷似している。ディズニーランドの御人形に自分がなってしまうところがミソ。 
その点では、ベニスの仮面舞踏会の方に近いか。一万円でディナー付きでショーを楽しんだ上に、互いの着飾った姿を楽しめるのだから、
これはこれで良い。それも小さな地方の街で、300人も集合したハレの世界である。最近、「共同幻想」という論を知った。
そこに「共同幻想、他幻想、自己幻想」というのがあった。全てが幻想でしかないなら、仮装をすれば良いのである。 
服装は、第二の皮膚というなら、可能な限り良いものを着ればよい。虚飾も、それまた「虚飾した自分」である。
全てが元々幻想でしかないのだから。ただ、解った上で幻想を楽しむことだ。人生は楽しめるうちに楽しんでおくこと。 
また、笑えるうちに笑っておくことである。 そう思えるようになったのは、歳をとったということだろうか?
聞くところによると、300人のディナーショーは、地元では珍しいという。あれだけの女性を集めるというと、色いろな
難しい点があるはず。あの人と同席は嫌だとか、隅は嫌だとか、女は難しい。ディズニーランドというより、ズーの世界に近い。
それも固定化された城下街のこと。 私の知らないことだが、キメの細かいカースト制度(身分社会)があるのだろう。
誰々は銀行の重役とか、お医者様の奥様とか、今はときめく新興ソフト会社の社長婦人とか。
その渦巻く社会のアッパーが凝縮した世界を「御伽話」として、現に見ることができたのである。
まあ、そういうこと。 ミッキーマウスは、チャップリンからきているというが・・・
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2599, 楽天主義とは
 2008年05月16日(金)
こういう先行き不安定の時、せめて気持ちは楽天的でなければせっかくの娑婆、勿体ないではないかと思う日々である。 
そこで楽天主義を フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』で調べてみた。
≪ 楽天主義とは、optimismの訳語のひとつ。哲学上では最善説と訳される。対義語は悲観主義ライプニッツの予定調和を主張する
「最善説」に由来する。ライプニッツは、現実世界は可能なすべての世界の中で、最善のものであると考えた。
かれはまず想定可能なすべての世界を考える。しかし、このうち、内部に論理的な矛盾を孕む世界はそもそも現実化可能ではない。
そこで、この共可能的な事象の組み合わせからなる複数の可能な世界のうち、どのような世界が(神によって)実現されたかが問題。
そこで、かれは、神は定義に善なるものであることが含まれているのだから、選択された世界は最善であったはずだ、と主張した。
ヴォルテールはこの最善説を揶揄批判したが、ライプニッツは、現実世界が、すばらしい場所である、またはすばらしいことが
起きる傾向がある、ということを述べているのではなく、「現実は起こりうることの中では一番マシである」と主張しているのである。
ひとが想定するよりよい世界は、人間の限定された知性と知識では認識できない、何らかのそれを補う悪や、あるいは、現実化を阻む
論理的な自己矛盾を持っているのだ、ということである。ただし、この最善たる「現実の世界」は「現在」とイコールではないため、
進歩や改良の可能性が否定されているわけではない。 したがって、むしろ、起きたことは必然であった、というような納得と近い。≫
 ▼ なかなか、ライプニッツの最善説は、説得力がある。
「神は定義に全なるものを含んでいるから、その神が選択された世界は最善であったはず」という主張はよい。
 ものごとをどう解釈するかで殆どが決まるのだから、世界は最善と信じて疑わなければ、それはそれでよい。
 ただ落語に出てくる怠け者の与太郎の楽観ではなく、最善をつくしてひた向きに努力をすればこそ、悪いことも試練になる。 
 最善を尽くして天命を待つのが楽天である。過去を振り返ってみると、不安で眠れない日が続いても、結局は何とかなった。
 寝れない夜に、あれこれ考えて練っていたからこそ、何とかなったのである。
 私のギリギリの時の内語は、
「最善を尽くしてのだから何んとかなる、その結果に対しては、その時に再び最善を尽くせばよい」である。
 楽観とは、「今日は、昨日より良くなる、明日は今日より良くなる」という気持ち。
 同じ境遇で、片方はどんどん良くなり、片方は全く不幸な人生を生きることになるのは、楽観的に考えて、
 問題解決の核心に向かって努力をするかどうかの差である。鼻歌を歌いながらスキップをして目的地に向かうことである。 
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2007年05月16日(水)
2234, 国民投票法成立で思うこと!   (o゚▽゚)o オハョ〜
国民投票法が成立をしたが、遅いくらいである。グローバル化の時代には、益々軍隊の必要性が増えるし、
原爆保有を検討しなければならない時期になった。当たり前のことが当たり前で通らないのが、この国家?の憐れなところ。
北朝鮮が原爆を持ってテポドンで恐喝してきた時、一番簡単なのは同じ原爆を持つしかないのは至極当然のこと?被爆国として
核絶対反対!とは言ってはいられない。アメリカに民間人の町に原爆を投下されて数十万人殺されているのである。
    《字数の関係でカット11年05月16日)
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2006年05月16日(火)
1869, グーグル Google −6      ォ'`ョ━━(。・∀・)ノ゙━━ゥ★
 このへんの話に驚くようでは、かなり遅れているのだろうが、「情報化時代とはこんなものだ」
 という事例として理解しやすい。 まずは、ポイントを要約する。
 第二章 小さな駐車場の「サーチエコノミー」
グーグルの巨大な収益構造は、いったい何処からきているのか。この一見してグーグルや先端ネットビジネスとは
何の関係もなさそうな、ごく殺風景な場所にある小さいな駐車場から始まる。東京都大田区京浜島。
羽田空港の近くある小さな島である。そこで200台の駐車場 B&Bを経営している夫婦の話。
集客に大手旅行代理店に頼りざるを得ない駐車場ビジネスとうのは、経費を徹底的に押さえ込んで、かろうじて
損益分岐点を越えることができる微妙なビジネスである。集客に悩みに悩んでいた山崎夫妻がインターネットと出あったのは、
広告制作をしてくれた知人だった。「ホームペイジを作ったほうがいいよ」とアドバイスをされ「民間の羽田空港駐車場。 
B&Bパーキング。羽田空港近くの駐車場。オンライン予約可能」というキャッチフレーズを作り、HPから予約できるようにした。
これだけでもかなり予約が入ったが、さらに飛躍するきっかけになったのは、何といってもキーワード広告に参入したこと。
そのキーワード広告とは、グーグルの「アドワーズ」と、オーバーチュアの「スポンサードサーチ」である。世界的にも、
日本的にも、この2社がおおむね市場を分け合っている。 このサービスの内容とは、どのようになっているのだろうか。
例えば神楽坂の花屋の主人とする。   《字数の関係でカット09年05月16日)   ヾ(^ω^*) バイバイ!
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2005年05月16日(月)
 1504, 平等について−2
社会主義の失敗は、この「平等が基本」という前提が間違っていたことである。 建前と本音が人間にはある。 
その本音の部分を見落としたのである。だから、官僚という特権階級の利権の肥大化が資本主義者の特権階級より進んで
しまったのだ。現在の北朝鮮や中国の姿である。不平等といえばインドのカースト制度がある。大きく分けると、4階級。
細かく、500階級もあるという。下の人に不満があるかというと、そうでもないという。下ほど、多くの数の見下せる
人達がいることと、ヒンズー教の教義の裏づけがあるためだ。それと3000年の歴史がある。不平等という本音が、そのまま
生きている国なのである。先回書いた鷲田と三浦の対談の中に「運命まで平等にしようとする」が本質をさらについている。
 −−
・鷲田: 美人に生まれようが、ブスに生まれようが、偏差値が高かろうが、低かろうが、それはその人の運命である。
運命は自分で引き受けなくては、それが人間の基本です。 ところが世の中のすべてを同じようにならそうとする。
偏差値の高い人も低い人もなるべく同じ土俵において、差をつけようとする。どこかの放送局で女性アナウンサーがある年齢になって
他の部署に配置転換されたら、不当だとか抗議したというのが。TVを観るほうからしたら、原稿を読むアナウンサーならくたびれた
オバサンよりも、若いきれいなお嬢さんの方が良いに決まっている。放送局が配置転換をするのは当然のことです。
その当然のことをいかんというのです。平等になろうという意識が、いかんと言わせているのです。
・三浦: 運命まで、平等にはできるわけにはいかない。
・鷲田: そうですよ。運命の平等化なんてフィクションです。そのフィクションまで平等化しようとしたのがマルクス主義です。
そこが、あの思想の危険なところがあったわけです。その危険な余韻がまだ尾を引いているということです。
 −−−
フランス革命の「自由・平等・博愛」は、それまでの王政の矛盾を破壊するための理想であった。
人間は自由を目指し、平等であるべきだ、そのためには博愛をもっていなくてはならない、ということである。
しかし自由の獲得は簡単ではないし、人間は不平等である。そこで博愛で乗り越えていかなくてはならないということ?
・・・・・・・・・
2004年05月16日(日)
 1139, マザー・テレサ
「ライフ・レッスン」の著者であるキュープラー・ロスの本の中に度々出てくるマザー・テレサを調べてみた。
知っていたことといえば、インドのカルカッタで貧しい人のため全てを投げうって奉仕活動をして、その結果として、
ノーベル平和賞をもらい、数年前に亡くなった。という位であった。彼女の言葉の中から、彼女の素晴らしが、
そのまま伝わってくる。読めば読むほど、彼女の一生を投げ打った言葉の輝きがみえてくる。
そして自分の卑小さがみえてくる。ただ無心に読むとよい。
・インドの最下層の人たちは、あなた方が想像できないほど貧しい生活をしています。
  しかし、彼らの心はあなた方が想像もできないほど人間的です。
・この世の最大の不幸は、貧しさや病気ではありません。
  むしろ、そのことによって、見捨てられ、誰からも自分は必要とされていないと感じることです。
・今日、貧しい人々はパンやご飯、愛や神の生きた言葉に飢えているのです。
  貧しい人々は、水や平和、真実や正義に渇いています。 貧しい人々は、レンガでできた避難所、理解し、
  包みこみ、愛する幸せな心、という安息の場を与えられていないのです。
・私たちの使命は、ソーシャルワーカーではありません。
  貧しい人と共に生きて、貧しい人を愛することです・・私たちは、貧しさの中にこそ、喜びを見いだすのです。
・大切なことは、貧しく、見捨てられた人々に兄弟姉妹として接し、
  人々の痛みを自分の痛みとして受け止め、愛を分かち合うことです。
・私たちの目的は、神がこの世を愛しておられるということを宣言することです。
・もし家庭が祈ることを始めるなら、愛と一致がもどるでしょう。
  というのは共に祈る家族は共にとどまるからです。祈りの実は信仰です。信仰の実は愛です。愛の実は奉仕です。
・今日の最大の病気は、らいでも結核でもなく、自分はいてもいなくてもいい、
  だれもかまってくれない、みんなから見捨てられていると感ずることである。
・最大の悪は、愛の足りないこと、神からくるような愛の足りないこと、すぐ近くに住んでいる近所の人が、搾取や、
 権力の腐敗や、貧しさや、病気におびやかされていても無関心でいること。……病気の人、苦しんでいる人にとっては、
 この会の人がいたわりと慰めの天使でありますように。わたしどもの貧しさの生活は仕事にも劣らず必要である。 
    《字数の関係でカット11年05月16日)
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ー1997年
平成 9年 9月5日(日本時間9月6日午後6時)「もう息が出来ないわ」の言葉を残し永眠。
(字数制限のためカット 2010年5月16日)
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2003年05月16日(金)
772, 家電の買い方
 私の値がさの家電やビデオなどを買う時の方法論を書く。 見る人が見たら何を今更のことでしかない。
しかし衣料量販店のバイヤーや、大きい買い物ではホテルビルの発注の経験をしてきたので、買い方は他の人よりは知っている?
 何事もまずは情報である。昨秋に50インチのPDPTVを買った時には事前に量販店の売り場に30~40回は通った。
職場の近くに石丸電気とヨドバシがあるからだ。また休日にはコジマ電気、ジョーシンヤマダ電機など5~6軒を数回ずつ回った。 
それを楽しむのだ。まあ買い付けがすきなのだろう。何といっても決めては、インターネットの価格・comで値段と情報を仕入れる。
商品ごとのチャットの記録が残っている。かなり詳細の実際買った人の会話が載っている。
 以前のTVを買った量販店に行き,正直に価格・comで調べた値段をいう。もちろん他の家電の見積もり値段も言う。
それは会員証の記録で解るから、本気で対応してくれる。全く同じ型番でも、数ヶ月で新機能が加えられる。メーカーはそれまでの在庫を
量販店に破格の値段で流すのだ。といってPDPTVはホット商品である。そういう情報はチャットに載っている。 ジョーシンで、
チェーン店内の在庫でそれを捜してくれた。買うと決めたら、その時点からゲームにしてしまう。一番スタンダードの方法は、
ヤマダ電機とコジマ電気に見積もりを取ることだ。《字数の関係でカット11年05月16日)