ー 帰郷 ー 中原中也
柱も庭も乾いてゐる 今日は好い天気だ
縁の下では蜘蛛の巣が 心細さうに揺れてゐる
山では枯木も息を吐く あゝ今日は好い天気だ
路傍の草陰が あどけない愁しみをする
これが私の故里だ さやかに風も吹いてゐる
心置きなく泣かれよと 年増婦の低い声もする
あゝ おまえはなにをして来たのだと・・・
吹き来る風が私に云う
ーー
この最後の二行が、現在の自分の心?でもある。 自分だけでない、晩年の人間から湧き出る言葉。
「あゝ、おまえは何をしてきたのだと・・・吹き来る風が云う」 ったく!お前という奴は!と、まともに人生を生きてくれば、
この言葉が出るのが自然。 秘境ツアーに参加すると、平々凡々に生きてきた人が病気で突然、死に直面し慌てて人生の余白を
埋めに来る人に何人か出会うことがある。 死線を彷徨った手術の後、壮大な景色に感動して夫婦して肩を抱き合い泣いている姿も見た。
ネパールで遠景のヒマラヤ連峰が一望できる丘であった。 パタゴニアでは初老の婦人が何気なく、「親のいう通り生きてきたが、
ハッと気づくと、先が無い。 私の人生で何もしてこなかった。このままでは死にきれない。この旅行は、その穴埋めにきた。」と、
道すがら語りかけてきた。「・・・吹き来る風が云う」声で追われるように旅立ってきて、そこで何を感じたのだろう。
実は、この矛盾こそ実在。生きてきた証である。 エッ 証文が束になっている? 誰が?
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3688, 自己を見つめる −11
2011年05月01日(日)
「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
愛の不在の人=肉親の愛情に恵まれなかった人を見抜くことは難しい。 両親の仲が悪い子供には往々に多いが。
愛の不在の人は普段は分からないが、節目時に、それが表面化する。 人への憎悪と呪いが、そこで爆発する。
これは誰々という訳でなく、全ての人の心の奥に巣くっている。 節目時は、傷ついている場合が多い。
そのマイナーのエネルギーをプラスに転換するには、そのまま流される数倍のエネルギーを要する。
しかし流される人は意志が弱いため、そのエネルギーが空回りをしてしまう。そして自爆になっていく。
以下の箇所も、充分、肯ける部分である。
ー愛の不在ー
【 小さいときから、肉親の愛情に恵まれず、誰からも優しい扱いを少しも受けなかった人があったとすれば、多分その人は、
心の奥底に深い傷を抱いて、その後ずっと人生を恨みとおし、表面は穏やかであっても、おそらく心の底では、一生を通じてずっと、
他者に対して暖かい心をもつことができず、絶対に他人を許そうとはしないであろう。 小さい頃に親の愛情に恵まれなかった人、
また、周囲の人たちから嫌われ、いじめられ、除け者にされたと思っている人、さらに、長じてからも憂き世の労苦と意地悪な
世間にもみくちゃにされて、何の優しい愛の絆をも構築することができなかった人、そうした人は、その原因が何であれ、
その隠された心のなかで、人生を憎悪し、呪うことになるであろう。 そうした人は、自虐や他虐のふるまい方をする以外に、
人生への仕方をすることができなくなるであろう。 そのすさんだ心には、辛い人生に復讐する怨恨構の爆発だけが、
この世の慰めとなるであろう。 これは、ひとごとではない人生の最重要問題である。 こういう否定的な感情は多れ少なかれ、
誰のうちにも巣くっている心の病だからである。なぜなら人間は、どこにおいても、厳しい人間関係のなかに置かれ、
大なり小なり、この世の荒波にもまれ傷つ経験を免れがたいからである。】
▼ 無条件に親の愛をうけた人は、それが温もりとして性格を形成する。 逆の人は否定的感情に支配され、深く自分を傷つける。
それは誰も持っているが人により強弱がある。 普通の流れでは、それは出てこないが、節目時に暴風となる。それも家族全体が。
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3323, 「なぜ・なぜならば」の極限としての自由
2010年05月01日(土)
『カントはこう考えた ー人はなぜ「なぜ」と問うのか』 石川文康著 −3
「理性の極限として自由に行き着く」とは、驚きだが納得できる。 そしてカントも自由が「創造的能力」と看破。
自由は第一原因であることから、当然の帰結である。 自分の真にしたいことを人生を通して貫き、
創造性を発揮することが自由であり、それが理念であり、そこに理性が働くことになる。
*「なぜ・なぜならば」の極限としての自由 ーP・205 から
≪ 自由は第一原因である。原因は理由であり根拠であり、「なぜ」「なぜならば」であったから、第一原因としての自由は、
意外に思われるかもしれないが、「なぜ」および「なぜならば」の極限である。日常のことばの使用法からすれば、
「なぜ」は単なる疑問詞であり、「なぜなら」も単なる接続詞にすぎず、これらが自由とじかに結びつくことはない。
それを思えばよくよく意外な地点に到達したものである。しかし、「なぜ」「なぜならば」「理由」「根拠」「原因」、
そして「第一原因」と、一連の鎖を極限までたどってくると、おのずと「自由」に逢着せざるをえなかったのである。
これらの鎖の項は、いずれも理性のメタモルフォーゼ(変容・化体)である。理性は自由の最終的メタモルフォーゼである。
そして、自由はあの「なぜ存在するものがあって、むしろ無ではないのか」というライプニッツ以来の問いに対する、
考えられうる「なぜならば」の中で究極のものである。 その意味で、先にアプリオリな判断が、ライプニッツによる
十分な理由の法則の成長形態であることを確認したが自由はその成長の極致と言ってよい。
われわれ独自の定式で言えば、「なぜ『なぜ』なのか」という問いに対する究極の「なぜならば」でもある。
この背後に関しては、哲学はソクラテス以来の率直な「無知の知」をもって答える以外にない。
究極の「なぜならば」であるかぎり、そのさらに「なぜ」は少なくとも理性にとっては無意味である。
カント自身も、「なぜ」自由が可能なのかは、答えることが出来ないとした。自由が「なぜ」(理由=理性)の極限であれば、
理性にとってそれ以上の「なぜ」はあるはずがない。あえてその背後に踏み込もうとすると、理性の限界外に越権を犯すことになり
言葉が空転する。そこには、理性を満足させうる答えはない。 というのは、理性を満足させうるのは再び理性のみであり、
理性の限界外には「非理性」があるだけだからである。 ちょうど、鏡に万物が映し出されるが、しかしその中には何も
実在していないように。 非理性によって満足するものがあるとすれば、それはさしずめ「構想力」(イマージネーション)
であろうが、それを満足させることができるのも、やはり逞しい構想力であって理性ではない。・・・・
たしかに自由は無からの創造に類似する。超時間から時間への作用である自由は、どこか神による無からの創造を思わせる。
カントも自由が「創造的能力」であることを、はっきり認めていた。 しかし、理性的存在者としての人間は、その自由ゆえ
自己の行為の創造者でありえても、世界の創造者ではない。≫
〜「よく遊び、よく学び、よく遊ぶ」これが創造的能力を発揮する! この「よく」が理性? 親、社会の刷り込みからの自由?
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2948, 報道されないニュース
2009年05月01日(金)
ネットで「商業販売、過去最大24.0%減に」をみて驚いた。 大手の新聞記事を探したが見当たらない。
報道管制をしているのである? メーカーが40〜50パーセント減、流通・サービスが30〜40パーセント減、
と言われているが、あまり表面だった報道はされていない。ところが、共同通信社のHPに、この記事があった。
スーパー、百貨店などが24パーセント減とは、マスコミは間違っても報道はしないが、実際は、そんなところか?
日本は、とんでもない領域にあるということだ。 時間の経過と共にツルベオトシになっている。
これに豚インフルエンザときたら、5〜6月は大荒れになってしまう。即死の企業が多出するのは必然である。
*3月商業販売、過去最大24.0%減=卸の全業種マイナスに 4月28日11時1分配信 時事通信
経済産業省が28日発表した3月の商業販売統計によると、卸売りと小売りを合計した商業販売額は前年同月比24.0%減の
45兆0650億円となり、4カ月連続で過去最大の減少幅を記録した。自動車や半導体の輸出が不振で、卸売業販売額が
29.2%減の33兆3420億円と急減したことが響いた。 卸売りは全業種でマイナス。
*2月商業販売、過去最大21.5%減=卸、小売りの全業種がマイナス (2009/03/27-10:20)
経済産業省が27日発表した2月の商業販売統計によると、卸売りと小売りを合計した商業販売額は38兆8620億円で、
前年同月比21.5%減と3カ月連続で過去最大の減少幅を記録した。卸売り、小売りとも全業種が減少した。
卸売業は半導体など電子部品や原油が過去最大の落ち込み。
全体としても過去最大の減少幅となる25.8%減の28兆8860億円となった。
≪字数制限のためカット 2011年5月1日≫
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2584, ただ、生命だけが‘びくびく’と生きている
2008年05月01日(木)
ー「人生の答え」の出し方ー 柳田邦夫著 ー2
この本の「魂を揺さぶる言葉」という項目の中でー「いのちの初夜」 北條民雄著ーを取り上げていた。
ハンセン病のために隔離され疎外され、23歳で夭折した小説家・北条民雄の代表作「いのちの初夜」で、
古株の患者が新入患者である主人公に語る言葉の一部がある。 まず、その部分を書き写してみる。
ーー
「人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのち そのものなんです。
僕の言うこと、解ってくれますか、尾田さん。 あの人たちの『人間』はもう死んで亡びてしまったんです。
ただ、生命だけが‘びくびく’と生きているのです。 なんという根強さでしょう。誰でも癩になった刹那(せつな)に、
その人の人間は亡びるのです。 死ぬのです。社会的人間として亡びるだけではありません。そんな浅はかな亡び方では
決してないのです。廃兵ではなく、廃人なんです。 けれど、尾田さん、僕らは不死鳥です。新しい思想、新しい眼を持つ時、
全然癩者の生活を獲得する時、再び人間として生き復(かえ)るのです。復活そう復活です。 びくびくと生きている生命が
肉体を獲得するのです。新しい人間生活はそれから始まるのです。尾田さん、あなたは今死んでいるのです。
死んでいますとも、あなたは人間じゃあないんです。あなたの苦悩や絶望、それがどこから来るか、考えてみてください。
ひとたび死んだ過去の人間を捜し求めているからではないでしょうか」・・? 「いのちの初夜」より
ここからは、ー「人生の答えの出し方ーより??
・・ハンセン病になったとたんに、家族からも地域からも排斥され、社会的存在としての人間は抹消されてしまう。
しかも、病気の進行によって、肉体は崩れて感覚器官もうしなわれていく。まさしく<生命だけが、びくびくと生きている>
状態になることを、北条は残酷なまでに表現している。<びくびく>という形容詞が情景と本質を正しく表現する決め手に
なっている。・・この作家が川端康成に出した手紙の中に次のような文章がある。
「この作品は書かねばならないものでした。・・僕には、生涯忘れることの出来ない恐ろしい気(ママ)憶です。
・・僕には、何よりも、生きるか死ぬか、この問題が大切だったのです。」
ーー
解)「人生の答え」など、あるわけがないと、この本を読むまでは考えていた。ところが、此処には、その答えがあったのである。
この本の構想のメモには、
<俺は俺の苦痛を信じる。如何なる論理も思想も信じるに足りない。 ただこの苦痛のみが 人間を再建するのだ。>
とすざましいことをいっている。 人間は、死を直前に突きつけられると「生きる意味」に気づかされるのである。
死を目の前に突きつけられると、自分が宇宙のチリの中の微粒子の、そのまた無に無限に近い存在に気づかされるのである。
そして、そこから改めて現世に振り返って、そのことを考えている己を見つめ直すと生死の際でボウフラのように、ふわふわ
している存在に大きな愛情を感じる。 著者のライ患者・北条は、そこで苦しみ苦痛こそ、崩れ去ろうとする人間性を
再建させてくれると悟り、 書くことに全てを捧げる。 それこそが、人生の答えの出し方である。
「その苦痛こそ、多くの人間の苦悩を救うことが出来る。それを書くという一点に全てを集中すること」
それが人生の答であると、柳田邦夫は看破している。
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2007年05月01日(火)
2219.平凡って幸せなの? おはよう! (=゜ω゜)ノょぅ!
数日前の出勤前の朝飯の時に、家内が神妙な顔をして「平凡な生活って幸せなの?」と聞いてきた。私が読んでいた
「14歳からの哲学」(池田晶子)を、この数日の間、読んだ影響だろうと思ったが、待ってましたとばかりの
瞬時の私の答えといえば・・・
▼ 「もちろん、平凡ってのは幸せだと思う。何でもそうだが、平凡の生活も、非凡も、現象をどう受けとめるかだ。
脳には長年かけて作りあげた、絶対超越言明という、言葉の受け皿がある。その受け皿が<受け止め方>として、
自分の脳の中で、経験を分類・整理をするようになっている。だからマイナス要素の強い人なら、その受け皿の分類で
何ごともマイナスに選り分けることになるし、プラス要素の人ならプラスに分類・整理をするだろう。
だから、平凡な生活が幸せかどうかは、それぞれの人によって当然違ってくるし、他人がとやかく言う問題ではない。
平凡な生活という言葉だって、その人の受け皿の分類でしかないじゃないか。
その辺の連中は、自分で受け皿がしっかりできてないので、他人のことが気になって、その比較しか判断基準がないので、
平凡な生活が、幸せだとか、非凡の日々が如何だとか言いたがる。 要するに教養がないということ。」
何か、あまりにスラスラ出たので自分でびっくりした。ところで平凡って何だろうか?「平凡って何?」と検索をしたら、
面白い問題設定に、色いろな答えが次々と出てきた。「人間は深いところで生きているのに、驚いてしまった。
<平凡な生活に対する疑問>
毎日を平凡に生きている人間って、どうして生きているんでしょうか? はっきり言って僕は、そういう人間は
死んでしまってもいいと思います。毎日何も変化のない暮らしというのは最も最低な人間の生き方と思うのですが・・
みなさんはどう思いますか? *この答えが、素晴らしい これは次回のお楽しみ!
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2006年05月01日(月)
1854, モーニング・ページ、7週間経過
毎朝、ペンが動くままノート・3頁に書き込む「モーニング・ページ」を始めて7週間経過した。
「8週間は読み返さないこと」と、あったので、ほぼ見てないが、あと7日で8週間になる。
MPの一週間の総括を始めるとまた変わってくるだろう。(週末に一週間単位に20分かけて一ページの総括をする)
7週間のMPの感想といえば、毎日が驚きに連続である。日記はその日の出来事を書くが、M・Pはただ頭に浮かんだことを
書き込むのだから、違ったものである。慣れてくると、何が出てくるか面白くなると同時に、気の重さは全く無くなる。
≪字数制限のためカット 2010年5月1日≫
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2005年05月01日(日)
1489, 男と女ー2
あるHPの「男と女」の格言が含蓄の深いものが多い。私の「my感想」を加えるてあるが、品位を疑われる内容もある。
初めて読むときは、私の感想を見ない方がよい。それにしても、よく集めたものだ。そして男と女の本質をズバリついている。
読んでいると、耳年増になってしまう。「人間に男と女があるのではなく、女と男を合わせて人間という」というジョーク?がある。
この格言をじっくり読むと、それもそうだと思ってしまう。それだけ、身体と心の構造が違う。
だから面白いのだ。何回か読まないと、奥行きの深さが解らないものもある。
まずは ー男とはーの格言から
・どんな男の人と一緒になってみても同じ事だろうと私が言うと、
「そんな筈ないわ、石鹸だって、十銭と五十銭のじゃずいぶん品が違ってよ」 ー林芙美子「放浪記」
ーmy感想ー女にだって言えること、長くつかわないと解らないのところが石鹸と違うが
・身も心も愛して欲しいのに、なぜ男は冷たいふりをするのよ。 ー川端康成(「雪国」のキャッチコピー)
ーmy感想ー男はシャイなのです
・こんなことをしたら嫌われるのではないかと、何もしない男が一番嫌われる。 ー中谷彰宏
ーmy感想ーそれで何時も嫌われていました。それだけでもないか?
・人生が歌のように流れている時に楽しい気分になるのは容易だ。だが、立派な男とは何もかも
うまくいかない時でも笑える男だ。 ーE.ウィルコックス
ーmy感想ー私の場合は何時も引きつった笑いになってしまう!
・男ってなぁ、普段なんか茶色だろうが灰色だろうが構やしないんだ。いざって時に黄金色に輝やきゃあな。
ー本宮ひろ志(漫画家)
ーmy感想ー金メッキが多いからね、娑婆には。メッキの内側の色の方が良いのにね、
いざって時に、その茶色とか灰色が輝きゃよい
≪字数制限のためカット 2010年5月1日≫
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2004年05月01日(土)
1124, いま不幸と思っている人へ
不幸論を書いたことがあるが、一般に自分のことを不幸と思っている人が多い。幸・不幸は、気分と解釈の問題でしかないと
割り切って考えないようにしてきた。躁の時は幸せ気分、鬱の時は不幸せ気分でしかないと。何げなく検索をしていたら、
面白いHPに「不幸について」多くの格言がまとめてあった。これを見ているだけでも、こころやすまるから不思議である。
結局他人と比べてしまうのが人を不幸にしているのだ。「人は自分が幸福であることを知らないから不幸なのである」といった
ドストエフスキーの言葉が真髄をついている。 仏様は人間は生きている限り、苦しむものだと看破をし、それを「四苦八苦」に分類。
それを乗り越えるために「八正道」を説いた。先人の不幸に対する解釈も深い。 ー面白いところだけを抜粋してコピーした
・もしある人が自分の不幸な出来事について話したら、そこにはなにか楽しんでいるものがあると思って差し支えない。
なぜならば、本当にみじめさだけしかないとしたら、その人はそんなことを口にしないだろうから。ーサミュエル・ジョンソン
・不幸なる人々は、さらに不幸な人々によって慰められる。 ーイソップ
(字数の関係でカット09年5月1日)
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2003年05月01日(木)
757, ミスマッチ
(字数の関係でカット2,008年5月01日)
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2002年05月01日(水)
393, 倒産の後先
子供時の両親の話題はいつも「倒産、夜逃げ、自殺の話」であった。子供なりに刺激の強い話しであった為、記憶に鮮明に残っている。
少し上手くいくと、「妾」か「ライオンズ」か「商工会議所」通い。本分を忘れてしまうものらしい。子供ながらに「人間は幼稚なものだ」
と感じていた。現在の全国の会社の70?が赤字、30?が倒産予備軍(いつ潰れるかの線上)という。県内はこれより更に悪いという。
身近で多くの倒産を見てきた。(誰もが見てきているはずだ) 人間の死と同じで悲惨で直視できない。離婚などの家庭崩壊が
それに加わるからだ。それと最後は資金繰りのため、詐欺同然までに陥ってしまう。「狂言自殺」や「??揃っての計画的詐欺」
よくやるなというほどの知恵を出す。それを社員や親戚や同級生や親友にやるから深刻になる。
子供の時より子守唄のように聞いていたが、いざ自分が実際目の辺りでであうと、そのリアルな悲劇にとまどってしまう。
事業をしていると常に倒産の危険に出会うが、ついついその備えを忘れてしまう。それを予防の為に反面教師という意味で、
そういう場面にあった時それを直視する。時代が変化する、事業の利益はその先取りからくる。変化の先行益であることを忘れてしまう。
したがって常に時代を読み、自分を変えていかなければならない。変化対応の体質を作っていなくてはならない。それでも今までは
愚直にやっていれば、何とか生きていけたのだが。今はそうは行かない時代に入ってしまった。実質社会主義制度から資本主義制度の
移行期であるからなおさら難しい。事業は上手くいっている時は天国、上手くいかなくなったときは地獄である。
坂道を転がり落ちるように破滅へ向かう。難しいといえば難しい。そうでなくては誰もが自分で事業を興すだろう。
特に金の心配は地獄の苦しみという。こと事業に関して、資金繰りがつかない時点で即倒産だ。ゲームとはそこが全く違う。
その危なさが面白いとは、上手くいっている時の感情・感想でしかない。