* どこで間違えてしまったのか?
「会社の寿命30年説」を検索したところ、日経ビジネスが1983年に総資産額のランキング分析を基に唱えたもの。
私の事業も、この説のとおり30年で寿命を向かえた。 創業当時、私が30歳代半ば、当時のマネジャーと次長は20歳半ばから後半。
三人の平均年齢が60歳近くになっていた。 ホテル4棟の平均年齢も25年になっており、引き時になっていた。 
 ここで、三つの震災などの外的要因を別にして、「この事業、何処で間違えてしまったのか?」という問いを立ててみる。 
◎ 首都圏から新幹線2時間圏内の駅前ホテルの客室需要が数分の一に落ち込む予測が出来なかったのが大きな原因。
◎ 更に企業の営業活動のあり方が、この20年間に根底から変わってしまった。20年前のバブル崩壊と、ソ連・東欧の崩壊で
  東西の垣根が無くなり、グローバル化が日本の国力を根こそぎ奪ってしまった。 その意味を捉えることが出来ず、
  思い切った方向転換を出来なかった判断ミスが次の要因。 
◎ それに加えて1995年にマイクロソフトが、ウィンドウ95を発売、パソコンが飛躍的に使いかってが良くなり、爆発的に普及した。
  それにネットが結びついたネット社会が現実社会の上位に出来てしまった。これで、ビジネスのあり方が根本的に変わってしまい、
  経済も社会も、スピードと変化が激しくなった。 それが資産デフレと物価デフレをもたらしていった。 
  首都圏と地方という経済と社会の関係が、首都圏と東南アジアとへシフトが変わっていった。 そのため、日本の地方の力を
  大きく削いでしまった。 それにリーマンショックと、東北大震災が重なり致命的大打撃になってしまった。
 ー 以上を、簡約すると、
* 20年前のバブル崩壊の影響が、ここまで日本を弱体化させる重大性が理解できなかったこと。
* 資産デフレと、物価のデフレが、これほど長期に続くと読めなかったこと。
* 情報化で、ネット社会が現実社会の上位に出来上がり、経済・社会を根こそぎ変えたスピードが、ここまで早いとは。
   要するに、バブル崩壊と情報化がもたらす影響の大きさの読みが甘かったこと。
 30年前は新潟駅に新幹線がオープン。 新潟駅周辺は活気に溢れていた。しかし10年後のバブル崩壊で、20の都市銀行
 3行になっていった。 時代の激変がもたらす影響を理解できず、バブル後に、さらに客室数を増加させた。これが最大の間違い。
  間違ってなかったとしても、それも時代の大津波が襲って破壊しているだろうから、どこで間違えたのだろうか?という問いが
 間違えていることになる。 チャンと継続しているじゃないか?というが、良くて半分、悪いと五分の一。
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2011年03月31日(木)
3657, つれづれに
  私にも大きな試練と転機がきた。 65歳ということか。 毎日が、原発事故の悪化を示すニュースである。  
 本格的な恐慌へ一歩踏み込んだようだ。 今日は、ホテル開業30周年になるが、 ・・・
  違う意味でのメルクマールになる! 偶然だが、去年同日の下の文章が身に沁みる。
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2010年03月31日(水)
 3292, 人みな骨になるならば ー8
 * くぐり抜けた境地   (p−237)
 ーまずは、スカッとする?部分を抜粋するー  (人によれば、冷水を浴びせらた感じか!)
 これまで縷々と述べてきたことは、要するに世界はわれわれに対して、期待するほどには親切ではないが、
危惧するほど冷酷ではないということだ。 もちろん、われわれの幸運・不運によっては、期待する以上に
慈悲深かったり、また危惧していた以上に残酷だったりするが、それにも特別な意味などないのだ。・・・・
 究極の課題は、われわれがあらゆる無用な縛りを脱ぎ捨てて、自分だけの人生を積みあげることである。
それはたぶん海岸で砂の城を築くような児戯でしかないだろう。いずれ波が浚っていき、後には元の砂浜が残るだけだろう。
そのことが何故、かなしむことなのだろうか。われわれは僅かな時間でも立派に砂の城を積み上げたのに。
この事実だけは、何も否定できない。神であろうと宇宙であろうと。われわれの人生というものは、
ひとつのモニュメント≪記念碑≫である。 それだけで意味や価値の有無など関係ないのである。 ・・・ 
 誰も認めたがらないことだが、おそらくわれわれ一人一人の人生は無駄である。われわれの人生は将来だれにも
顧みられることのない記念碑なのだ。歴史的・空間的に座標を持ちはするが、束の間に開花して終わるモニュメント
でしかない。 早晩、誰も憶えている人が居なくなってしまう無駄な記念碑こそが、われわれ一人一人の生涯である。
無駄ならせめて輝く無駄でありたい。この場合、「何もかもが無駄なら、輝こうが輝かなくても同じだろう」という野次には
抵抗力をつけておこう。 単に、くすんでいるより、輝いていた方が良いだけだという、切り返せなくてはならない。
この「無駄である」という自覚を通してしか、われわれは知的な、あるいは心情的な束縛から抜けきることが出来ない。
「無駄である」という覚悟がないと、現世のさまざまな意味や価値や人道や正義に惑わされてしまう。
臨斉義玄が警戒した「人惑」とは、これら総称したものである。・・・・意味や価値の雲海を抜けきった先には、
実は何もないのである。 それを解放と感じることができない人々は、元の古巣に戻るしかない。・・・
「おそらくわれわれの一人一人の人生は無駄である」
「無駄であるという自覚を通してしか、知的な、心情的な束縛からぬけきることができない」 
「人生が無駄であると悟ることで、意味や価値の雲海を抜け、その先が実は何もないことを知り、
それが解放と感じる境地が全てである」と。 般若心経の色即是空、そのものではないか。
それを虚無主義とかいうベールで包んで、色=現象の世界の絶対言明としている全てを根こそぎ掘り起こし、
そんなものは何ということはない!と、断じているのである。 虚無も決してマイナスではないのである。 チロリか
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2009年03月31日(火)
 2917,日本人の8人に1人が鬱病
現在日本人の8人に1人が鬱病という。女性と男性の割合は、女性2に対し男性1、の割合で女性の方が倍になる。
イタリヤ人は4人に1人の割合というから、陽気なイタリア人のイメージとは、かけ離れている。私自身は20歳代半ばまで
少しは欝的だったが、本質的には陽気。 欝は青年期は誰でも通る道。精神的な落ち込みは独りで乗り越えてきたが、
落ち込む余裕さえ無かったのが実情。20年ほど前になるが、取引先の営業の人が重い躁鬱になってしまった。
病院の塀の上から内側に落ちるかどうかの際どい場面が何度かあったが、何時の間にか、その病気の聞き役になっているうち、
コントロール役になってしまっていた。その人も数年前に亡くなったが、「原因」は、プライバシーに関わるから書けないが・・。
本人の口から欝の状態をこと細かく聞いたが、壮絶の一言である。 家中の家財をバットで叩き壊すなど・・・。 
自分では、コントロール不能とか云々。亡くなる数年前から、自分で危なくなると、医者に行って入院を10日ほど願い出て、
落ちつくと退院をしてきた。そうなると精神病ではなく、精神症というらしい。病と症の境は、周囲に迷惑をかけるかどうか。
精神も肉体も同じで、病である。医者と相談をして、発症したときは薬を飲んだり入院をして俗世界から一歩引けばよい。
そのことを本人が相談にくるといい続けていた。欝になる前には必ず異常な躁状態になる。そうすると周辺から電話がかかってきて、
「欝の発生の予告」が来る。 そして、何時ものパターンが始るのである。今回の調査の結果の「8人に1人が鬱病」には驚いたが、
周りをみると、そういえば・・。2〜3家族に一人になるから深刻。生真面目で、常に誰かに頼っていて、周りに気づかいをしすぎ、
自然の笑いの無い人。私は自分の弱さを知っているので、予防の知識を充分に積んだが、それでも最近の不況は心を暗くする。 
毎朝ウォーキングをし、仏壇前で5〜6分瞑想的な祈りをし、美味い酒でも飲んで憂さを晴らせば欝になりようがないと思いきや、
そうでもない。歳をとると何らかのカタチで欝的状態がついてまわる。そりゃそうだ。一つずつ病が加算され、身体は老いていき、
友達・親兄弟は亡くなっていけば、欝状態になるのが自然である。 この世界恐慌は「グローバル欝」を誘発する。
それを利用して戦争を起こし、チャラにしたのが、これまでの方法。 
これからは、無いとは言えないのが世界である。 突き詰めると、やはり戦争??
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 2008年03月31日(月)
2553, ヒルティの幸福論       ヽ(★>з<)。o○[ォハヨ]
アランの幸福論といえば、次にヒルティの幸福論を取り上げなければなるまい。
幸福論といえば、この数年来、哲学に熱くなっているので、浅いというイメージがわいてしまう。
格言や、哲学書の中で、軽く考えるレベルと信じていた。しかし、突き詰めれば幸福感を求めているのかもしれない。
幸せな人より、不幸せな生き方の人の姿?から、その不幸論がシビアに見えるからである。
まあ、それはそれで・・・・ いや、無知が全ての原因ということが、あまりに哀れで!
自分の姿を合せ鏡で見えたのだろう。 所詮、人間は結末は不幸なのだから。カール・ヒルティ1833年生まれの法律家。
アランの「幸福論」はストア哲学的であるのに対してヒルティの「幸福論」はキリスト教的で、お堅い。
アランの幸福論ともに、幸福を、自分の内部だけで完結するものでなく、自分を離れた、外的な環境や社会に対しての関心や、
献身的行動にこそ幸福があるとしている。ヒルティの幸福術のポイントといえば、仕事こそ最高の幸福と思い、
良い習慣を身につけることだ第一 自分の意志で幸せになれる 人間を知ることになる。 
  ーそれぞれの印象的な部分を抜粋してみた。   
「我を忘れて自分の仕事に完全に没頭することのできる働きびとは最も幸福である。」「本当に大切なのは、なによりも習慣の問題である。 
 第一の主要な規則は、すなわち、われわれは消極的に悪い習慣を捨てようと努力するよりも、むしろ常に良い習慣を養うように
心掛けねばならぬということである。」    (字数制限の関係でカット 2010年3月31日
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2007年03月31日(土)
 2188, 宮城まり子 ー3         (~Q~;)  おはよう??
今日で日経新聞の「私の履歴書宮城まり子」が終わった。深い世界を垣間見た思いである。純粋な動機こそ一番強いのだろうか?
彼女にとって、この生き方しかできなかったのだろう。障害者の一生を受けとめることは、生易しいものでない。
人生の全てをかけて受けとめているのだから、これこそ人生の格闘である。数日前の、この場面が彼女の性格と強さが出ている。
「私がやらなければならない!」という自負が、捨て身でコトに当たれるのだろう。
 ▼ ねむの木学園が始まったばかりで高校に進学する子はまだいませんでした。
「なぜ」「制度がないんだよ」私は躊躇いもなく東京に帰って、首相官邸に行きました。
1972年の9月16日。どんどん入っていって、「首相にお会いしたいんです」と言うと、2~3分もしないうちに、大きなしわがれ声が
して田中角栄さんが出てきました。「今日は、総理大臣にお知らせしたいことがあって参りました。両親のない子、貧しい子、
よくできるのにお金がない子が日本中の擁護施設にいます。大學にいくらなら自分で働いたらよいでしょう。
けれども働いても定時高校にいけない子もいます。その子が優秀なら高校にいけるようにしてください。面倒を見る職員のことも
少し考えてください。」「高校へ?」「はい」。総理はしばらく黙って私を見ておられましたが「やあ、ありがとう。
勉強になりました。すぐ返事ができなくて残念だが、待っていて下さい」と言われました。翌年1月17日に二階堂進官房長官から
連絡施設が入り、養護入所児童等で高校に進学できる能力を認めたものには国からの費用を交付する。直接処遇職員については
基本給に12~16?を加算するという制度に変わったことを教えていただきました。吉行淳之介さん、亡くなって13年たちますが、
ねむの木学園で格闘しているうちに、愛する淳之介さんの病気が、慢性の肝硬炎から肝硬変に進み、その原因がC型肝炎であることを
こっそり知らされました。入退院を繰り返す中の彼の一挙手一投足を素知らぬふりをしながら眺めて「まり子、淳之介と
ねむの木学園の子供達とどっちが大切なの」と思うときがあります。「淳ちゃんを一番愛している。そしてもう一つの、
一番愛しているのはねむの木の子ども」私は、愛ってマシュマロみたいに柔らくて、二つに分けたらふわって大きくなると思っています。
すこし色彩が違うだけ。愛って、二つも三つにも増えても大丈夫、愛して、愛して、愛しちゃって、もういっぱい愛しちゃったの。
こんな歌を歌ったことがありました。ミュージカル「イルマ・ラ・ドゥース」の中で。そして私の淳のことをドクターの野郎は
「ガンが見つかりました」と教えてくれました。豊かな心の持ち主とは、こういう人をいうのだろう! 
このように人知れず人生を恵まれない人に捧げている人 が数知れず存在している。豊かさとは何か考えさせられた一月であった。 
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2006年03月31日(金)
1823, 日暮里界隈 ー3         才八∋ウ_〆(∀`●) 
 飲み屋の話になると話は、止まらない!
日暮里の・谷中銀座の商店街が、何ともレトロの味がある。数十軒の商店が両側に並ぶが、空き店舗が一軒も見当たらない。 
昼間は観光客で溢れかえっているのだろう。魚屋、衣料品店、肉屋などパパ・ママストアには商品が満ちていた。夕方の閉店まぎわの
店の雰囲気が何ともいえない情緒がある。こういう風景に惹かれるのは地方の商店街では、もう失われてしまったからだ。
その通りから一歩はいった処に、情緒ある居酒屋が目に入った。前までいくと料金が書いてあったが、普通の居酒屋の倍近い。
次男も一緒なので、たまには良いだろうと入った。25坪ほどの店だが居酒屋にしては高級つくりである。変わっているのは、
店の中央に奥の料理場から人ひとりが商品を出せる空間のある10席位のカウンターがある。(吉野家のカウンターのような・・)
サラリーマン風の中年男性が4人飲んでいた。その入れ替わりに60歳代後半の品の良い旦那様風の人が入ってきた。
何かのキッカケで話を始めたが、上野周辺で『三河屋』という老舗の葬儀関係の商品を扱う旦那という。
 ( ・・)つ?{}@{}@{}-  やきとりどーぞー♪ 「新潟から来て、東京在住の息子と飲んでいる」というと、
自分の生活圏の文化ー趣味(常磐津・・)とか、町内の話などを面白おかしく話してくれた。
下町文化の話は聞いていても飽きない。二軒目に入った店なので、あまり注文しなかったためか高くは
なかった上に谷中ならではの雰囲気を充分味わえた。  旦_(。-_-。)いい仕事してますな?
ところでJRの日暮里駅駅周辺の居酒屋は、店構えは良いが殆んど外れである。
下町の為か、朝鮮系の店が多い。宿泊しているホテルに紹介された駅近くの居酒屋に行ったら、かん酒(前の客が残して
アルコールの抜けた酒)を出されたり、どう計算しても何割か高く後味の悪い思いをしたこともあった。
日暮里界隈というイメージとおりの危ないところもある。その危なそうなところが面白いのだが!バイ ._〆('Д'*⊂⌒`つ
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2005年03月31日(木)
 1458, はだしの学者ー西江雅之
以前、図書館から借りた西江雅之旅行記「花のある遠景」を読んで、常識をはるかに超えた生き方に驚いてしまった。
世界を乞食のように放浪して、その土地・土地の言語と文化の研究に従事、50ヵ国の言語を話す。
ハダシの学者といわれるように、目線が現地人になっている。そのためか、どこの地に行っても誰とでも友人になってしまう。
深い教養があってこそである。「砂漠で出会った人と、二人で手を取って歩きながら、どちらかが失敗したら死ぬであろうという
ギリギリの状況で二月、三月と一緒に過ごしたというような経験がたくさんある。別れたらもうその人と生涯会えない。
住所を聞こうにも、手紙を書こうにもその人は字が読めないし、書けない。 居所もわからない。そういう経験を何十回も重ねて・・・ 
そのときの思いは言葉では表現できない。いやしたくない」と、時には言葉を重ねないことの大切さを述べている。無理に言葉に
置き換えるという作業が、驚きを別のものにしてしまいがちになる。「外国の何とか村を紹介した本があって、
読むと面白かったりするでしょう。だけど本当は、その村が面白いんじゃなくて、書いた人が面白いんです。
その人は何とか村を面白がれる力があるんです。面白がる力があれば、世界中どこでもおもしろい。 実力のない人は、
変わったものでないとよく見えないんです。」以上の言葉から見ても、その言葉の奥行きの深さを充分に知ることができる。
以前読んだ本の概要を紹介してみよう。
 ▼ 「花のある遠景」 西江雅之著 (旺文社文庫)  副題は「東アフリカの裏町から」である。
アフリカであっても、普段多くの人間は街に住んでいる。働いてもいるし、食事もするし、酒も飲むが、しかしほぼ働いてない。
この旅行記で出てくる女たちは娼婦である。彼女らは著者にとっては、性の相手対象ではなく、キクユ語の先生であり友達である
(著者は、言語学者文化人類学の研究をしている)。彼女らは娼婦だからといって、娼婦的な陰鬱さが全く無い。
さわやかさまで感ぜられるほど、さばさばいている。    (以下字数の関係でカット2008年3月31日)
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2003年03月31日(月)
726, 結婚式で思う
私は結婚式と葬式に参列するのが好きだ。 その中に色いろな人生の圧縮がみえるからだ。
一般には「人生で集まって褒めてくれる」のは、「生まれた時と結婚式と葬式の三回」だけだ。
そのうち結婚式だけが、祝福されるているのが自覚できる。「人生は結婚式で道半ば」ともいう。
それで人生の大半が決定してしまうからだ。当たりか外れは神のみぞ知るである。
今はジミ婚になってきて「社会の体面や家どうしの対面」というより「本人同士のお祝い、かつメルクマール」
という面が強くなってきている。以前よりは結婚式に対しては、気楽な式になったようだ。
若い二人が夢を持っての門出を祝うのは気持ちのよいものだ。次は葬式である。本来葬式はお祝いであるべきだ。
その人が人生を終えて、無に帰っていくのを送る儀式である。人生の卒業式である。悲しみであると同時に、
その人にとって大きい意味を持つ。参列して思うのは、その人の生き様がそのまま現れていることだ。
その厳粛な雰囲気がなんともよい。その人の「魂と社会と世間がそのまま圧縮されている」といってよい。
人が一人亡くなるのは、その人の積み重ねた人生が無に帰ることである。それぞれの社会的なものもあろうが、
今は生き残った人の体面の場になっている。葬式もそれぞれの残されたものの価値観があるから、とやかくいう問題ではない。
最近は葬式に出席すると、いつも遺影を常に自分の顔に当てはめて考えてしまう。
その目で会場の人達を見ると、何ともいえない気持ちになる。「死んでしまえばお終いよ!」と。
・・・・・・・・・・
2002年03月31日(日)
 362,ある思い出-慈善
中学の頃の話である。 隣にMという一家がいた。そこに一歳年上のカッチャンという遊び友達がいた。
その家の裏に倉庫があった。そこに乞食のような生活をしている親娘が住んでいた。母親が肺病で、私のある姉に
あの家の近くに近寄らないように言われていた。カチャンの母親が気の毒がって面倒を見ているという。
カッチャンの父親は数年前亡くなり、母親とカッチャンとその姉と3人の家族。今考えるとカッチャン一家は、
その生活を維持するのに精一杯の筈だ。その苦しい中、その親子を面倒見ていたのだから大変だったろう。
ところが彼女(母親)が癌で、なくなってしまった。神も仏もあるものかである。残されたカッチャンと姉さんは、
おじさんと同居する事になった。その肺病の母親もまた二年後亡くなった。そして娘は施設に引き取られていった。
その事を今から20年前に何かの拍子に思い出した。そのMという人の心に気がついた。どういう気持ちでその苦しい生活の中、
その人を面倒を見ていたのか。そしてその中で死を迎えた時の本人の気持ちは、いかなるものだったのか?
人間の一番大事なことは何であるのか? それとは関係なく、現実は非情に動く。「愛は世界の中心である」という言葉がわかるが、
反面本当かとも疑問が湧く。人生で最後残るのは、そういう愛の行為か。 少なくともカッチャンと姉さんには、
深く残っているのではなかろうか? それとその娘の心に!