ービジネスマン退職後の誇りある生き方章ー キングスレイ・ウォード著
  * 実業界には三種類の成功者群がある ー 翻訳者の、後書きより ー
 【 実業界には、三種類の成功者、つまり二億ドル人間と、二千万ドル人間と、二百万ドル人間がいるといわれます。
 二億ドル人間は、自分の起こした事業を世界的な規模に育てあげて市場を征服することに夢を託す本来的な企業家、実業家です。
 その結果蓄積される個入の財産は二億ドル(約二百四十億円)を下らないでしょう。一方、二千万ドル人間は、むしろ経済的な
 成功の成果である富で普通の人にはできない豪華な生活、つまり豪邸に最高級車、使用人がいて、海外の別荘でゴルフといった
 生活を楽しみたい人たちです。二千万ドル(約二十四億円)以上の財産がなければ、そのような生活は望めません。
 そして二百万ドル人間は、ウォード氏のような人たちです。製造業の例をあげるなら、二億ドル人間はホンダの創業者本田宗一郎
 二千万ドル人間はホンダと創業をともにした本社の幹部や部長たちと、関連会社の部品などの経営者たち、二百万ドルは自営業の域
 を出ない下請けの町工場の事業主ということになるでしょう。 二百万ドルは家族を養い、善良な市民の務めを果たしながら
 二百万ドルの資産を築けば、よくやったと自分をほめてやれる、ごく普通の金銭感覚を失わない市井の入です。本書で述べられている
 ウォード氏の意見が私たちの共感を呼び、私たちにとって適切な助言になるのは、ウォード氏がビジネスマンとして成功しながらも、
 市井人の心を失わない二百万ドルであるからです。 お金は生活を保証するもの、人生にはお金で買えないもっと大切なものがある
 というのがウォード氏の持論です。大企業の創業者の人並みはずれた才能、努力、そして時代を彩るまばゆいばかりのドラマを
 ウォード氏に期待することはできませんが、人生の成功者としてのウォード氏の功績は、決して彼らに劣りません。
 ウォード氏は普通の人たちの普通の悩みや喜びを語ることによって、人生の成功者になるための秘訣を明らかにしています。】
  ▼ 三種の成功者の分類が面白い。 娑婆は、それで色分けをして人の価値を決めていく。日本でも、この数値が百〜二百万、
   千〜二千万、一〜二億ドルと少し下がるが、こんなもの。これが人間の価値と信じて疑わないのが、俗に言う世間様。 
  一歩ひいてみると滑稽に見えるが、世の中の9割が金で買えるという幻覚の中にいると、それはそれで目安になる。3つの震災で
  実業界から退場してみて、「娑婆など死んで三日も経てば、‘それがどうした!’でしかない儚い世でしかないのが分かる。
  逆に、これも肯定してみるのも一つの理で、面白い。事業人生を送ろうと決めてから去年までの45年間は面白かったが、赤裸々人生。
  しかし45年間を通じて人間社会の実態を多くを学ぶことが出来、充実感が残っている。それも3つの大震災で崩壊なら諦めがつく。
  ・・・・・・ 敗者の言いわけか!
3645, 地震 ―つれづれに  ー8
2011年03月19日(土)
   * 震災 まる一週間
 地震も、昨日でまる一週間になる。 当初は、ここまでの大震災とは思ってもいなかったが、
時間が経過するにつれて、歴史的な大震災の姿が現われ出てきている。その上に原発事故の誘発である。
津波だけでも歴史的大災害の上に、もし大爆発をして日本中が被爆をしたら本州全体が破綻してしまう可能性がある。
3月11日から日本は、全く違う国になってしまったのである。 村山とかいう人が首相がなった時に神戸震災、
そして今度の首相では、この大震災である。 現在、我われは誰もが身近にデジタルカメラとビデオを持ち歩いている。
そのために生生しい写真とビデオが、あらゆる角度から映し出されている。それが規制無しでネットで多く飛び交っている。
その結果リアルの現実が直接、我われの目前に突きつけられる。 一つ例に挙げると、私の学生時代の友人が、
仙台を気に入って終の棲家として仙台飛行場近くの漁村に住んでいる便りを貰った。 恐らく、巻き込まれたのではと、
その村の名前を検索したところ、その地の震災の惨状の写真が、その村のブログに載っていた。 
跡形もない村の惨状に、驚いてしまった。。
   * 原発事故のリアルな現実
 福島原発事故で、20〜30キロ内の屋内退避が県外退避に転換され大型バスでの移動が始った。
この圏内には14万人が居住していて、今後、一斉に退避が始まるが、問題はガソリンや食料がないこと。
米国などでは、80キロ圏内の避難を指示しているが、福島原発の80キロ圏内には、更に数十万人がいる。
最悪の大爆発が生じて、放射能が日本中を覆うことになれば日本壊滅になってしまう。 それが、この数日中に
発生する可能性が大というから、何をいわんかである。 リーマンショックで疲弊している上に、
この大震災と原発事故の二重の打撃は、日本経済は致命傷になってしまう。 まず早急に消費税などの直接税が
20パーセントも現実問題になる。これは15パーの収入減と同じことになる。もちろん、この事態では当然、
受けいれるしかないが、体力を消耗してしまった中小企業は致命傷になる。日本全体が被災者という現実がある。
 ・・・・・・・
3280, 人みな骨になるならば ー2
2010年03月19日(金)
  * わたしは特別か?          
ー まずは、次の部分の抜粋から  P−41
自分だけは大丈夫と感じる原初的な感覚をE.エリクソンは「基本的信頼」と名づけた。
幼児期における適切な保護か養育者との愛着関係によって成立しているかに信じられている。個人差はあるだろうが、
相当の怖がりやでも心の底に、「自分だけは大丈夫だろう」という最低限の楽天性が備わっている。たしかに、
数百の卵子と、数億個の精子のうちの、一つずつが合体することでも大変な奇遇である。・・・・
われわれは生きているというだけですでに、宝くじを三回買って三回とも当たったぐらいラッキ-な人物なのである。
そのことを特別な存在だと感じても不思議ではない。もちろん、自分が特別だと感じる根拠はそうした
生物学的事実によるのではなくて、われわれが直接的体験として自分しか与えられていないといった心理学的(認識論的)
事実に基づいている。 われわれは各自の心しか直接に知ることがない。それ以外はすべて憶測である。
目の前にある花やコップでさえ、自分の感覚を信じないことには「在る」と断定できない。
ましてや自分以外の全人類は「在る」のかもしれないが、他方すべてが幻影や書き割りのようなものなのかもしれない。
コギト(われ思う)は不確かだが、スム(われ在り)だけは確かなのだ。そもそも現在の自分の在り方を「存在」と規定しないかぎり、
それ以外に存在を規定する原理はない。しかし、そんな特別な存在が地球上に何十億とひしめいているらしいのである。
そのことを認めたとたんに自分が特別でもなんでもないことを思い知らされる。なにしろ、自分は特別だと実感している人間が
自分以外にも六十億近くいるもようなのだ。これならあきらめるしかない。わたしは特別な存在ではなく、せいぜい
六十億分の一の特別さにすぎない。 宇宙において、わたしが生まれたり死んだりすることの重要性は、
地球の裏側でアンデスインディオの一人が生き死にすることの重要性と何らかのかわりのないものである。・・・・
「人間は特別」という価値観は人間だけにしか共有されてないからである。
 ー
人間は誰も、自分は特別の存在と思っている。で、還暦を過ぎて、そろそろゴールが目前と感じ、自分の存在が
必要とされないと気づいた時、特別の存在のはずの自分が、逆に邪魔なものと思い悩むことになる。
初老の身体の変わり目と、それに気づく時期が重なり鬱症・鬱病という人生の節目が訪れる。 
宇宙の視点からみて「わたしは特別ではない」のは当たり前。その当たり前のことを知らないまま、一生を終える。
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2905, 寝入る瞬間を意識したことがあるか
 2009年03月19日(木)
 * 寝入る瞬間を経験したことがあるか?
ある随想に、「寝入る瞬間を経験しようと狙っているが、まだ経験をしてない。
それは死ぬ瞬間に類似しているのではないだろうか?云々・・・」とあった。以前ここで書いたことがあるが、10年ほど前に、
その経験をしたことがある。その時に「過去の二万回で初めての経験だから貴重の経験だろう。無へ狭間の瞬間の実感してみた」
と記憶として刻印した。 具体的に、どうだったか?というと、「TVを消した時の画面の感覚で、一瞬のスッと小さな点に
意識が縮小し消えていく感覚。もしかしたら、死ぬ時は、あの感覚ではないだろうか。」である。
一般的に多くの人が経験していることなのか、してないかは、私は知らない。 先日、図書館で借りた「現代哲学がわかる」
というAERAMOOKという雑誌の特集号の中で、マギーという哲学者が「哲学人」という著書で、
「何故、人は眠る瞬間を意識できないか?」というテーマで論じているとあった。(詳細は書いてなかった)とすると、
その瞬間は意識できないことになる。しかし私は、その一瞬を捉えたのは間違いない事実。私が特殊経験をしたのか、
それともマギーが正しいのか? ネットで「寝る瞬間をけいけんしたか」と検索したが解答はなかった。 
ーマギーの「何故、寝入る瞬間を把握できないか」の論旨を知りたいが、私の推論をしてみる。
<寝入ったとは意識が無くなるということだ。 意識が無意識への瞬間など捉える由はないのは、その瞬間の無の際を
経験しようがないのは自明のことだ。見たという一瞬の知覚は、まだ寝入っていない意識であり実は寝入ってなかったのである。
意識から無意識への移行の瞬時など膨大な無意識が小さな意識の一瞬の補足できようがないのである。向こう側(寝入ったサイド)
から見ると、その瞬間=扉は、すでに無の世界である故に、その瞬間など捉えられないのである・・・>
ーマギーは、こんなわけの解らない論旨ではないはずだが。しかし、私は間違いなく、その瞬間を捉えた事実は事実としてあるし、
夢ではなかった。マドロミの中で、漂うことは何時ものことだが。 今度、この本を読んでみるつもりである。
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2541, ウェブ時代 5つの定理 ?3
2008年03月19日(水)
まず梅田望夫の第四の定理について述べている部分を抜粋してみる。
 ーー    
第4定理は「グーグリネス」である。グーグリネスとは、ウェブ時代をリードするグーグルという会社の気質や
グーグルらしさを表す言葉だ。 グーグルの経営・組織・文化における独自の論理は、ここまで取り上げた
アントレプレナーシップ」「チーム力」「技術者の眼(め)」が、高いレベルで統合された最新で最良の実例と言える。
 私はシリコンバレーで数多くの会社を見てきたが、その中でグーグルは、これまでの会社とは「種」が違うのではないかと
思うほどの、突然変異とも言うべき「変な会社」である。こんな奇妙で不思議な会社は、かつて存在したことがない。
そう断言できる。しかし、こういう会社がビジネス社会の中心に躍り出てきたことが情報化社会たる現代の特質なのであろう。
≪いま、世界は(以前と)本当に違う。それは、君たち一人一人が世界中のどんなことについても
「情報を得る力」を持ったからだ。私が学校に通っていたころと、本当にまったく違う世界だ≫
 これは数年前にグーグル創業者の一人、サーゲイ・ブリン(1973年生まれ)が高校生向けに行った講演での言葉である。
80年代と比べて今が「本当にまったく違う」のは、行き着く先は「時間」。 「時間」だけが私たち一人一人に平等に
与えられた貴重な資源だ。グーグルは「頭脳の拡張」の世紀のリーダーであるとともに、私たちが自発的に過ごす
「時間」からしか創造的イノベーションは生まれない、という思想の信奉者なのである。
 グーグルはこのやり方を貫き、創業からわずか9年でトヨタ自動車時価総額と肩を並べた。
しかも、社員数はトヨタの約20分の1にすぎない。
ーー
解)インターネットの、その中の検索こそが世界の要になると確信した信念が世界を変えたのである。下手の考えより、
己をグーグル化した方が手っ取りはやいのかもしれない。時間という資源を最大限活用できるという面から見たら正しいのだろう。
インターネット下のオープンソースの潮流の中で頭脳のネットに己をリンクすることこそ、一番合理的かもしれない。
ただし己というベースが確立してある前提が必要だが。それと、五つの定理をマスターした上での自発的に過ごす時間の重要性である。
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2007年03月19日(月)
2176, 流通業界・大編成の時代へ
                 オッ(*^○^*) ハ?ヨウ
 大丸と松坂屋経営統合で、百貨店業界も大編成の時代に入った。先日の「日経流通新聞」によると、
百貨店業界も4強時代に収れんという。 その内訳として、
 *大丸・松坂屋連合 1兆2000億円             
 *高島屋      1兆500億円
 *ミレニアムーイトーヨーカ堂系(西武・ソウゴ) 9500億円
 *伊勢丹      7700億円 の4つがアナリストや業界関係者の総合的な見方という。
アメリカの事例や国内の市場規模からみて日本はこの辺りだろう。
三越、阪急・阪神松屋、丸井、東武などは、そ4グループに最終的には収れんというから、都市銀行の大編成と
同じ道をたどり始めた。外資などの禿タカファンドが株の買占めなどで強請ってくるのは避けられない。
今までの独立性は維持はできなくなるのは、どの世界も同じ。流通グループとして最終的に、スーパー・家電も含めて
三?四グループに収斂するプロセスに入ってしまった。五年が目安か?
この10年間でナショナル・チェーンのスーパーも、ダイエーやマイカルの破綻で、セブン&アイHDと、
イオンの二つのグループに収れんしてしまった。情報化などの設備投資の重装備化の闘いの中で
トップグループに入らないと、生き残れない時代である。自動車業界をみても、日本とかアメリカという国単位ではなく
世界の中で、数社しか生き残れない時代に突入した。情報化、グローバル化とは、こういう時代ということか。
情報化は大きな波乱を含んでおり、変化は想像を遥かに超えたものになる。隠されている不平等・格差が情報化で露出した時、
一強の支配が圧倒的多数の弱者に一瞬で破壊される不安定社会の到来でもある。日々刻々漫画的に下克上のカタチの中で、
色々な現象になって出てくる。その一つがテロでもある。より快適になる反面、より不安な時代である。
流通業界は暗黒の大陸とドラッガーが看破して半世紀経つが、どこまで変化するのか、見ものである。
高島屋は駄目だと思っていたが・・、やはり駄目だろう!   憶測だが・・    ヾ(*'-'*)バイバイ!!
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2006年03月19日(日)
1811, ずっとやりたかったことを、やりなさい ー3   Good☆':.*^ヾ('c_'ヽ,,)*.:'☆Morning
空想上の子供をイメージで作り、その子供のために特別な時間をとって、二人だけのデートをする。その子供のために
特別指導をする。私のライフワークにしてきた、秘境旅行がそれに似ている。世界の端を点で埋めていくストーリーを
たて旅行していく。上野のスカイライナーを乗ったと同時に、別世界の子供になる。そして、帰ってきてスカイライナーに
乗ると同時に元の自分に戻る。これは年二回・平均10日間の私にとっての違ったカタチのアーチィスト・デートである。
少し違うか? 20年間続けてきたウォーキングもアーチィスト・デートか? まずはアーティスト・デートとは
何かを要約してみる。          ~~旦 ゝ(-_- ) まあ、お茶でも!
 ーアーティスト・デートー
「人は皆、内なるアーティストをその心に抱えており今までの経験や年齢等に関係なくアーティストとしての創造性を
秘めている。そして誰でもカンタンに(もちろん継続と努力は必要だが)その才能にアクセスする方法がある」
ここで誤解しないでもらいたいのは、アーティストの才能とは画家・音楽家・歌手・陶芸家・舞踏家といった俗にいう
「アーティスト」だけを表すものではなく、全ての職業に共通して求められる「創造性」の開花をいっている。
その意味で、全ての人を対象にした才能開花術である。特にクリエイターの方々(デザイナー、各種コーディネーター、ライター)
には参考になる方法である。机上の空論ではなく、才能開花のための実践的なトレーニング法が12週間という具体的なプランに
落としこまれた、レーニングプログラム。本を読みすすめていきながら書かれている通りに、一週間約30ページずつ
作業を進めていけばよい。そのプログラムの核ともなるべきものが「モーニング・ページ」と「アーティスト・デート」。
先回はモーニング・ページを紹介した。今回は「アーティスト・デート」である。
                    _〆( ̄Д ̄||)
  ー本文から要旨を抜粋してみる…
《アーティスト・デートとは具体的に何なのか?それは週に二時間程度のまとまった時間をとって、
あなたの創造性の象徴である「内なるアーティスト」の育成に専念することだ。
もっとも基本的な形を言えば「アーティスト・デート」とは旅行であり、あらかじめ日時を指定しておくデートであり、
他人の進入を禁じた時間だ。「アーティスト・デート」には部外者を同行させてはいけない。
行ってもいいのはあなたと、あなたの「内なるアーティスト」、つまりあなたの「想像する子供」だけだ。
恋人も、友人も、配偶者も、子供もだめ?どんな肩書きの人もお断りだ…》
要約すると「週に二時間ほど自由な時間をとって、その時間だけは自分が好きなアートを好き勝手にやりなさい」ということ。 
* 私は読んだとき、私が毎朝しているウォーキングが正に「アーティスト・デート」である。
《 怒りは耳を傾けてもらいたがってる。 怒りは声であり、叫びであり、懇願であり、要求である。
 怒りは敬意を払ってもらいたいのだ。というのも、それは心の地図だからである。
 怒りは私たちの限界がどこにあり、私たちがどこに向かいたがっているかを教えてくれる。
 また、自分が現状に満足できなくなっていることを知らせてくれる。・・怠惰、無関心、絶望は敵だが、怒りはそうではない。 
 怒りは友達である。 素敵な友達でも、やさしい友達でもないが、きわめて誠実な友達だ。
 それは私たちが裏切られたときや自分自身を裏切った時、かならず知らせてくれる。
 そして、自分の興味に従って行動するときであることを告げてくれる。怒り自体は行動ではない。行動への招待である。》
《アートとは、みずからを社会にさらす行為である。アートは物事に光を当て、私たちを照らし出す。
 そして、私たちの中に残っている暗闇に一条の光を当て、「みえるでしょう?」と語りかける。
 あるものを見たくないと思っている人たちは、それを見せる者に怒りを覚え、徹底的に糾弾する。》
《真摯な表現はクロゼットを開け、地下室や屋根裏に新しい風を送り込み、癒しをもたらす。》
「違った別人格の子供を内に持ち、その子供のために課題を与え二人だけの時間を持って、育て続ける」ということ。
    それはライフ・ワークには待っている自分とどう違うのか?と問われれば、
「それをもっと合理的に内なる指導者の目をクリアにしなさい」ということか。   ε(´',_c')зβyё ?
 ・・・・・・・・
 2005年03月19日(土)
1446, 小学校中退、大学卒業 ?2
花柳幻舟の文章の中に、実際に血みどろになりながら、極限を乗りこえようとする魂の叫びを感じ取ることができる。
言葉の中にウソも虚飾も全く感じない深い心の叫びがある。学問に対しても、その本質を求める気概が正直に述べられている。
自分を日本のインテリと、お述べになっている何処かの教授より学問の意味・真髄を実感しているのが解る。
 以下は、昨日のつづきである。
  ーー
 一日20時間の猛勉強をつづけ、塾入学6ヶ月には司法試験の模擬試験で優秀者の中に堂々と並んだ。
一橋、中央、東大等法学部現役学生を抜いていった。アルファベッドもろくに読めない小学校中退の、
しかも人生の折り返し地点を過ぎた私がある。人間、やったらできる、それまでできなかったのは、私がやらへんだけかっただけや。
集中力は全てを可能にすると実感した。学校という、地域という排他的の中で、私ははじき出され、私の読み書きは
奪われてきたのである。私にとっては恐怖の学校と先生に必死の思いで対峙した。ついに私は、学問と学校は違う、
教養と学歴は違う、無知と無学も違うということを心底知った。私は学校と学問を一緒くたんしていたのだ。
学校は、教育の現場は、今も排他的で差別的だが、学問は素晴らしい。学問は、人間に勇気と希望、物事の本質を見せてくれる
誰にも開かれた世界だ。私の大学卒業論文は、誤報と伝聞を繰り返すメディアによってつくりあげられた虚像化された「花柳幻舟
という一人の創作舞踊家の、デビュー当時のいびつな加熱な報道を検証し、いまや巨大権力といわれているメディアの
‘光と影'の深層に踏み込んだものである。卒業論文の評価を、副学長が次のように言ってくれた。
「こんな面白い卒業論文があってもよいんじゃないか」 と。
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2004年03月19日(金)
 1080, フランチャイズ・ショー ?5
・一番印象的であったのが「MBE]という会社である。
「メールボックス・エトセトラ」の頭文字の略である。
  (字数制限のためカット 2011年3月19日)
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2003年03月19日(水)
 714, 難関ー困難性
 学生時代読んだ本に「困難に出会ったら、チャンスと思いなさい。それを躓きの石にするか、土台の石にするかは
貴方の意思できまります」という言葉があった。その時これから生きていく人生のキーワードでないかと思った。
  (字数制限のためカット 2011年3月19日)