■
* 冬は濁り酒と辛口の酒のミックスに限る
二年ほど前から10月から3月にかけて、濁り酒と辛口の酒を一対一の混ぜ合わせて飲んでいる。
濁り酒だけだと甘過ぎ、かつ癖が強いので、何気なく紙パックの酒を混ぜてみたところ、これが良い。
濁り酒は菊水酒造の「五郎八」(1980円)。辛口は全国ブランドの普通酒を混ぜ、燗にする。
これに水代わりでノンアルコールビールを一本飲む。 これで、かなりの酔いが襲ってくる。
濁り酒も色いろ飲んでみたが、値段の割りに「五郎八」が美味い。 混ぜ合わせると水割りにしたように和らぐ。
慣れると麹の深みを感じる。 一挙に酔いが回るため、つい飲み過ぎることもない。3千円と千円の酒のミックスと、
二千円の酒は、どちらが美味いのだろうか? 以前、事務所の飲み残しの酒、何種類かを一本の瓶に入れて冷蔵庫で
寝かせて飲んだことがあるが、それが極上の味。「吉田類の酒場放浪記」という番組で、京都の居酒屋の女将が
色々の種類の酒をカメに入れて当店ブランドにしていた。 自分ブランドは一合パック二つを混ぜれば可能である。
濁り酒と辛口酒のミックスは自分ブランド酒をつくっていたのである。 混ぜないで二つを交互に飲んでみたが、
辛口が負けてしまう。 ケチ臭い話だが、話題としては面白い? ホットビールとか、焼酎のビール割とか。
・・・・・・・
3611, 大相撲八百長事件 ー3
2011年02月13日(日)
二人が勝ち負けを決する個人競技である限り、そして個人の意思が携帯電話やパソコンで簡単に行き来できる現在、
「八百長をするな!」という方に無理ある。 お互いに四つに組んだ時に互いの耳と口が至近距離になる。
そこで、20、30万と仲間同士の符丁を決めておけば、阻止など出来るわけがない。「自動車事故死が数千人もあるので、
自動車を廃止してしまえ」と主張するようなもの。まずは交通違反を止めろと言っても、これも無理の話。
八百長に関して、今回のように発覚したら厳罰を科せばよい。「八百長が絶えないから大相撲を公益団体を外してしまえ」
という論理に無理がある。この怪しげな興行世界が日本伝統のマイナーの側面である。これを解説者では一部の人しか主張してない。
だから、今回も、4人は追放、疑問のある10数名を三場所の出場停止をして幕引きをするだけでよい。
日曜日の夕刻のお笑い番組の「大切り」は、作家がいて、そのストーリーにそって、落語家が珍妙なやりとりをする。
一時、週刊誌が、このことを槍玉に上げたが、メンバー全員それを否定したコメントをしていた。それは当然である。
160キロ平均もある鍛えぬかれた大男が、全力で15日間も続けてぶつかりあったら、どうなるか分かりきったこと。
幕内・数十人の閉鎖社会の中で勝ち星の貸し借りがあるのは当然で、それを含めて楽しむのが大相撲の面白味である。
だから、私は初日と千秋楽は幕下から見る。初日は貸し借りのない真剣勝負が見られ、千秋楽は出てくる互いの力士の
勝ち星を見て、暗黙のうちにドチラが勝つかを予測しながら見るのである。見る方も分っていて見ている。
私が知る限り、ほぼ100パーセント、貸し借りをしている。日本文化は談合世界の中で育ってきたのである。
麻薬などで追放になった元外国人力士などから、多くの実話が出てくるのだろうが、交通事故に気をつけた方がよい。
・・・・・・・・
3246, 新・欝の時代 −2
2010年02月13日(土)
* 「うつ」9つの症状
うつ病について何度か書いてきた。私は、うつ病は、普通の風邪や胃腸病などと同じで、精神も発熱したり、
傷口が化膿するのは自然であり、手当てをすれば治ると思ってきた。 知人に、重い躁鬱の人がいたが、
医者より私の見立てに信頼を置かれ、20年近く相談にのってきた。 数年前に癌で亡くなったが、
それは見ていても気の毒であった。「精神の束の大元が制御不能になってしまう」というのが、私の捉え方。
その時は病院に入るか静養をとって回復を待つしかない。 うつ病はれっきとした病気。
うつ病は「気分がひどく落ち込んだり何事にも興味を持てなくなったり、おっくうだったり、なんとなくだるかったりして
強い苦痛を感じ、日常の生活に支障が現れるまでになった状態」。
この状態は、日常的な軽度の落ち込みから、重いものまであり、原因については諸々ある。
「 悲しくて苦しくて涙がこぼれ落ちそうになり、胸が強く締めつけられるような状態が何日も、時には何ヶ月も続くという。
うつ病は、内因性うつ病と、心因性うつ病とに分けて考えられていた。しかし、内因性うつ病でも発症の
きっかけとなる心因があることが多いことから、症状の形で分類されるようになった。
*うつ病の基本的な症状は以下のようなもの(○は大丈夫、 ×はその傾向あり、 △は少し)
1.強いうつ気分 ○ 2.興味や喜びの喪失 ○
3.食欲の障害 ○ 4.睡眠の障害 ○
5。精神運動の障害(制止または焦燥)○ 6.疲れやすさ、気力の減退 ○
7.強い罪責感 ○ 8.思考力や集中力の低下 ○
9、死への思い ○
このうち、5つ以上が、二週間以上続いた場合に「うつ」と診断される。
私は最近、少し欝っぽいと思っていたが、全部○、全くの思い込みだった。
(1、の強いうつ気分)が、(少しうつ気分ぎみ)だけのこと。 何かガックリ?ときた。
4つが△なら、軽いウツとってもよいが。 高島忠雄や、小川宏の「うつ」の症状を聞くと凄惨である。
恐慌の時代、ある日突然に株と国債の暴落、それからくる経済麻痺が何時起きても不思議でない。
大部分の人にとって、生活環境が激変する可能性がある。
数年前の調査では、国内のうつ患者は250万〜300万人とされ、今では500万人の可能性も。
高齢者の大部分は、老人性鬱症という。 生老病死の問題が身近になれば仕方がないが・・人生の秋か!
・・・・・・・・
2871、 構造改革路線の罪
2009年02月13日(金)
最近買った「文藝春秋・三月号」や、昨日の読売新聞に、構造改革推進派だった
三菱UFJリサーチ&コンサルティング理事長の中谷巌氏が、新自由主義からの「転向」宣言を寄稿している。
*まずは三菱UFJリサーチ&コンサルティングのブログに、彼のコラムが載っていたので、
要所をコピーしてみる。
「なんでも市場に任せるべき」「国がどうなるかは市場に聞いてくれ」という新自由主義的な発想に基づく「改革」は無責任だし、
危ないのではないかということを強調したいのである。実際、グローバル資本主義は巨大なバブル崩壊を招来し、世界経済に
多大の損害を与えたし、平等社会を誇っていた日本もいつの間にかアメリカに次ぐ世界第2位の「貧困大国」になってしまった。
そのほかにも医療難民の発生、異常犯罪の頻発、食品偽装など、日本の「安心・安全」が損なわれ、人の心も荒んできたように見える。
これを放っておいてよいのかという問題意識である。 新自由主義的改革においては、「個人の自由」を「公共の利益」に優先させ、
あとは小さな政府の下「市場にお任せ」すれば経済活性化が可能になるという考え方をとるが、それが上記のようなさまざまな副作用を
生んでしまった。したがって、「改革」は必要だが、それはなんでも市場に任せておけばうまくいくといった新自由主義的な発想に基づく
「改革」ではなく日本のよき文化的伝統や社会の温かさ、「安心・安全」社会を維持し、それらにさらに磨きをかけることができるような、
日本人が「幸せ」になれる「改革」こそ必要であると考えたわけである。そのための方向性はもっと勉強しなければならないが、
とりあえずは、「貧困大国」の汚名を返上する改革が必要だろう。底辺を底上げし、貧困層が社会から脱落していくのを防ぐこと。
このことが重要なのは、「日本の奇跡的成長の原動力であった中間層の活力を回復しないと日本の将来はない」と考えるからである。
日本が富裕層と貧困層に2分されてしまえば、社会は荒み、日本の良さが失われるだろう。
もう一つは、明治以来の中央集権体制を解体し「廃藩置県」に匹敵する位の大きな制度改革を断行することである。
中央官庁に集結した優秀な官僚が今度は疲弊した地方を再生させるために地元に戻り、彼らに自分の故郷が文化の
香り豊かな元気いっぱいの地域にする術を死にもの狂いで考えてもらう。 これくらいの大改革が必要だと思う。
ー以上だが、
彼は懺悔の書として「資本主義はなぜ自壊したのか」を出版したが、その巨大な「牙」が負わすであろう「傷」に
対する認識を持たないで、グローバル資本主義を更に押しすすめることが愚かであり、危険と指摘。
(字数の関係でカット2011年02月13日)
・・・・・・・・・
2008年02月13日(水)
2506, 新・知的生産術 −1 ≪( \(・ω・)/ )≫オハヨゥ☆
効率が10倍アップする 新・知的生産術 ―自分をグーグル化する方法 ー
勝間 和代 (著) ダイヤモンド社
本屋で何度か立ち読みをしたが、「自分をグーグル化する方法」という言葉が気になって思い切って買った。
買うほどの内容かどうかは人によるが、参考になる部分は多くあった。経済評論家・公認会計士として
活躍している著者自身が実践する効率的情報収集術だから、人脈形成術、読書術など説得力はある。
・IT機器を自身の脳の補助に使い効率を上げ、
・フレームワーク化・簡略化・階層化を駆使して絞込み、
・原理原則を組み立てて、
・GIVEの5乗で情報を共有し人脈作りに役立てるのは、情報化社会の流れを、そのまま実践した中で得た習慣であろう。
私自身、このHPを開いて、確実に10倍は知識のインプットと、アウトプットは増えた。だからどうなったということはない!
ただ面白く、やりがいがあり、充実感があるから、現在もつづけている。その結果、この卑小な人間性を曝け出してしまった反面、
公開することで(私のレベルの)質を落とさないように維持をすることができた。その結果、「考えざるを得ない日々」
を作り上げたつもりが??・・で、この程度。私が著者から学んだことは、ともかく月に15万円の本を買い続けて、
1ヶ月に100冊の本を読み?、そして、それから得たことをギブの5乗の気持ちで与える姿勢である。
良質な情報源(実体験、他者体験、良書)から効率よくインプットし、各種手法(ピラミッド・ストラクチャー、MECE、
ブログ)にてアウトプットする。それを繰り返すことにより、自分の読み書き能力、情報処理能力が高める手法である。
「1%の本質の見極め」そこから「具体的な目標設定と目標達成のための 無駄の徹底的排除」の見逃せない習慣である。
勝間流1%の本質を見極める6つの技術
・フレームワーク力をつける ・ディープスマート力で経験値を重ねる
・失敗力をつける ・ベストプラクティスの共有で学びを分けてもらう
・自分の価値を出せないところはバッサリ捨てる ・本代をケチらず良書を読む
『ノートパソコンがある・なしでは、カーレースを車で走るのか、徒歩で参戦するかの違いがある』は、
全くそのとおりである。奈良時代に、ジェットヘリの喩えと、同じである。 ーつづく
・・・・・・・・・
2007年02月13日(火)
2142, 世界で一番短い物語ーそれは名前 オッ(*^○^*)ハ〜ヨウ!
「世界で一番短い物語ーそれは名前」、ある本を読んでいたら飛び込んできた言葉である。ん〜んそうっか〜と、唸ってしまった。
その人にもよるが苗字は何十代も渡って受け継がれ、名前は両親が愛する子供のために名づけた愛の結晶。その二つが相まって、
その人のブランドになっている。ただし、そのことに気づかないのは当の本人!そのブランドを一生をかけてつくり上げていくのが
人生である。その二つの重りで充分に物語である。何度も苗字が変わる人もいるが! 多くの物語があるのだから、それはそれで、
その人の人生である。 ジョン・F・ケネディー。この言葉だけで物語である。ジョンという名前が、そこでもう物語を含んでいる。
ケネディー家の父親がつけたジョン・F君という名付けに思いがあり、本人のジョンが一生かけて、自分の人生をつくりあげたのが
「ジョン・F・ケネディー」である。それは人の名前だけでなく、ファッションのブランドも、レストランの名前も、その名前の中に
ある意味が物語をつくり上げていることになる。 子供の頃、自分の名前が嫌であった。しかし、歳を重ねるごとに自分の名前が
好きになってきた。自分の人生を気に入ってきたのと比例して好きになってきている。父親の名前が、堀井誠作である。
その名前が父の名前だけでなく私の物語の原点になる名前である。誠を人生をかけて作り上げた自分の原点である。私は人の名前を
直ぐに忘れる癖がある。フルネームを憶えるのは人間関係の基本である!はず。名前負けしている人もいるが、本人にとって重要な言霊。
人生で何十万回、いやもっと多く呼ばれる言葉である。それは自分の魂そのものと言ってもよい。子供の頃「ハッちゃん」と、
多くの人に笑顔で頭を撫でられたのが、人生の原点にあるようだ。それと同じぐらい殴られもしたが、武器は泣くことだった。
母が亡くなって、財産分与の話をしているときに姉に言われた「あの可愛いハッチャン、何処に行ってしまったの」と!
弟の分際なので心の中で、「あの優しい姉さんは何処に行ったの」人は変わるのです、しかし魂は変わらない心の芯の部分。
変わってはいないのだ。変わったのは魂の外側の部分。今日を機会に名前をしっかり憶えようか!(゚∇^*)ホンジャ、バイ! ♪〜
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
2006年02月13日(月)
1777, わたしの「夢ノート」 −2
著者:中山庸子 出版社:三笠書房 (。・・)ノぉはょぅ♪
(字数の関係でカット2009年02月13日)
・・・・・・・
2005年02月13日(日)
1412, 失敗学の法則ー読書日記
失敗学とは、事故や不祥事の原因を探る学問で、狙いは「再発防止」にある。
それだけでなく、それが逆に新しい発見を生むこともある。畑村氏が、この「決定版 失敗学の法則」の中で
「『うまくいく方法』だけを学んだ学生たちは、既存の技術のまねや、過去に起きた問題への対応は上手にできても、
設計の分野でもっとも大切な『新たなものを創造する』という能力がなかなか身につかなかた。
(字数の関係でカット2009年02月13日)
・・・・・・・・
2004年02月13日(金)
1045、マ〜コー堀井正子に捧げる−2
ー姉の3回忌(3日前)の供養のための思いを書く。亡くなってまだ二年だが、もうズット昔のような気がする。
20代の頃、遊び相手に丁度良かったのだろう、大学時代は東京、勤めている時は京都、金沢と訪ねてきた。
観光がてらに遊びに来たのだ。12歳違いの姉というので、気が楽だったのだろう。亡くなる前年の5月に自宅に遊びに来た。
本人も、最後かもしれないという気持があったのだろうか。13時から17時近くまで4時間近く、一人話しまくっていた。
その時の写真を、当時このホームページのサロンに載せた。大手通の四つ角にいた頃のことや、亡くなった兄のことや、
手術のことや、現在の病気の状態を話していった。「大學を出てなかったことが一生に大きなハンデであった」と言っていたのが印象的。
特に芸大に行けなかったことが無念であったと。「取あえず父の死んだ71歳まで生きるのが目標で、あと4年は生きるつもり」
と言っていた。 まさか半年後に亡くなるとは本人は思ってなかったようだ。
「スキルス性(悪性)の癌ではないが、保険を有利にもらう為に、知り合いの医者が悪性の癌と診断書に書いてくれた」
と言っていた。その時ピンときたのは「実際にスキルス性ではないだろうか」という素朴な疑問であった。
数日後にすぐ上の姉に[直感だが、そう長く生きれそうもないから、理由をつけて、会えるうちに多く会って
おいた方がよい」と電話をした。そして、その年の10月に再入院後、翌年の2月に亡くなってしまった。享年68歳であった。
長女と末弟ということで気が合ったことは事実である。半分は息子のような気持ちがあったのだろう。
昔から「A型、長女、ウエット、お嬢様」タイプの女性が好きだったが、今から考えるとシスター・コンプだったのだろう。
家内には結婚してからシスコンと言われてきたが。4人も姉がいれば仕方がない。
大人数の末っ子は、兄姉に苛められる?反面、それぞれの生き様を直接見ることができる。
先生の悪口や、恋愛話?結婚話や、色いろな噂などなどが聞いていて、それぞれ見ていて良く解る。
姉兄の中で、一番夫婦仲が良かった。長女と旦那が末っ子という組み合わせが良かったのだろう。
組み合わせも、夫婦の機微に大きな影響を与えるようだ。悪い例もあるが、具体的に書くと差支えがあるからを止めておく。
派手なカリスマを持った大姉御というのが正子さんの一生を貫いていた。自分のステージを持った、本当に面白い人であった!
・・・・・・・
2003年02月13日(木)
680、自殺志願
昨日の朝のニュースで自殺志願を報じていた。インターネットで知り合った若い男女3人が自殺をしているのが発見されたという。
インターネットの検索で自殺志願のキーワードを入れてみたら、あるホームページに、すばらしい文章が載っていた。
以下をコピーしておこう。
・・・
私は死に場所を探していた。脱サラして始めたラーメン屋も、思うように上手くいかずに借金だけが残り、
40を過ぎてやっと手に入れたマイホームも、結局、手放す羽目になってしまった。働き口も、そう簡単には見つからない。
妻も私に愛想尽かして家を出て行き、弁護士まで立てて離婚を迫ってくる。子供達も皆、妻の味方だ。今の私にあるのは借金だけで、
他にはもう何もなかった。夢も希望も、明日を生きる気力さえ残っていなかった。「ここにしよう。」私は、自殺の名所で知られる、
断崖に立っていた。ここから飛び降りれば、簡単に死ぬことが出来る。一歩、足を踏み出せば、もう苦しむ必要はない。
日が沈むのを待って実行する事にしよう。沈む夕日は、私の心を穏やかにした。そして、この夕日が消えた時、私も人生を終えるのだ。
最高の演出じゃないか。「おい!」 私はビクッとして振り返ると、一人の老人が立っていた。顔を見て、更に驚いた。
「親父!」夕日のせいで、ハッキリとは見えないが、間違いなく親父だった。10年も前に死んだはずの親父が、何故こんなところに
いるのだ?「そう見えるか。」親父はそう言いながら、私に鞄を差し出した。「5000万円入っている。使え。」
私は訳が分からなかった。 夢でも見ているのだろうか?「これは貸すんだぞ。20年後に、ここに返しに来いよ。
まったく金のせいで命を捨てるなんて、バカらしいと思わんか。」 夕日が沈み、辺りが暗くなると、親父の姿はもう消えていた。
だが、札束のギッシリと詰まった鞄だけは確かに残っていた。それから私は、その金で借金を返済し、一生懸命に働いた。
親父との約束を果たす為に。妻とも一度は離婚したものの、数年後に復縁した。子供達も結婚して幸せな生活を送っている。
そして、瞬く間に20年の月日は流れた。私も70を過ぎ、物忘れが多くなったものの、親父との約束の日が今日だという事は、
ハッキリと覚えていた。私は必死で働いて貯めた金を鞄に詰め込むと、あの時の断崖へと向かった。約束を果たす時が来たのだ。
丁度、あの時と同じような夕日。本当ならもう死んでいたはずの自分が、こうやって、またここにやって来た。
何やら不思議な気分だ。そして、親父はまた現れるのだろうか。夕日が海に沈み始め、辺り一面がオレンジ色に染まる。
その中で座り込んで沈む夕日を見つめている男の姿が見えた。すぐに分かった。親父ではなく20年前の私がそこに座っていた。
ー感想を書いてみるとー
父親が現れて与えた5千万円は希望・意志ではなかろうか。「20年後に約束どおりそこに行くと、若いときの自分がいた。
(字数の関係でカット2011年02月13日)
・・・・・・・・
2002年02月13日(水)
330,真実の時
闘牛に「真実の時」という瞬間がある。闘牛士が最後の止めを刺す瞬間、牛もそれを悟り最後の力を振り絞って突進しようとする
その「一瞬の間」ーこれを「真実の時」という。葬式の火葬場で最後に釜に最愛の人を入れる瞬間もそうだ。
最も親しい人との別れの瞬間もそれだ。何回見ただろうか。いや両親の経験をしている、叔母も。昨日もその場面を経験した。
感動の絶頂の時もそうだ。バンジージャンプの落下している瞬間もそれだ。純粋に泣いているとき、笑っているとき、
怒っているとき、そして悲しんでいるとき、そして楽しんでいるとき、感動しているとき、をいう。
・・・・・・・・・
2月13日 1969年
11時に学校にいく。兼古と昨日の件で先生と話した内容を話す。彼とは1〜2年の時親しかったが、
このところは何か気持が通じなかったが、何か以前の感覚になっていた。兼古とも、これが最後の話になるだろう。
一度だけの人生で、本当によい学生時代をおくれたことだ。