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* 携帯とスマートフォン、複数所持7割
TVの街頭アンケートで、携帯とスマートフォンの複数所持が7割とあった。
私自身、iPhoneのタッチ式の文字が小さくて相性が悪いこともあり、普通の携帯に逆戻りをした経緯がある。
しかし、流れはスマートフォンに雪崩をうったように切り替わったようだ。街頭インタビューでは、携帯を電話専用に、
スマートフォンをパソコン代わりの情報収集に、使い分けているケースが多かった。 他に、会社用と個人用とか、
二台にして使い分けた方がスマートフォン一台より格安になるとか、色いろな使い分けがあるようだ。 私の場合、
iPadを簡易型パソコンと割り切って、使いこなしているので、携帯に変えたのが逆に良かったことになる。
若者達は、ネットゲームで互いに遊んだり、仲間同士、ナビを使って現在いる位置を共有したり、テレビ電話をネットで
繋げたりして遊んでいる。 何度も書いているが、iPadで日常生活が変わってしまった。暇さえあればiPadである。
他にも多機能TVも、居間生活を変えた。 数百の録画か、過去一週間の地上波のゴールデンタイムの面白そうな番組か、
WOWOWの中から選択できる為、面白いものばかり。家内がTVを見ている時は、パソコンかiPad。
横になってiPadで新聞、書籍が見れるのが、カウチポテト族には有難い。
* 三丁目の夕陽
少し前になるが、「三丁目の夕陽・?」をみてきた。これで3回続けてのシネマ通いになった。こと話題になった映画に関して、
外れと後悔したことは殆どない。 所詮は、すべて夢幻。 現実も、映画も、小説も、全てが虚構。そう割り切って楽しめばよい。
世の流れを、そのまま受け入れればよい。 ミーちゃん、ハーちゃんを楽しむ。これが家内から学んだこと。 それも人生経験を
積んだ後でこそ、その味わいが深くなる。 思い込み、先入観が、世界を狭くする。 高度成長期に向かって動き始めた
昭和三十年代半ばから後半が、この映画の時代背景。 団塊の世代向けにつくられた映画だが、当時は夢に向かって誰も必死に
学び働いていた、その頃の仄々とした空気が上手く映し出されていた。そしてバブルと、バブル崩壊、そして右下がりの20年を
経て現在に至っている。暗く淀んだ不景気の中で、明るい未来の予兆が国全体に漂っていた時代を懐かしむのも何とも複雑。
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3606, 大相撲八百長事件
2011年02月08日(火)
結局、これも携帯電話から致命的な証拠を残してしまった。 去年7月に野球賭博で力士の携帯電話が押収された時から、
一部親方衆から八百長の記録が表沙汰になるのでは?と危惧されていた。力士は携帯の内容を消去をしてしまえば大丈夫!
と思っていたようだ。 しかし携帯の記録は専門業者を使えば直ぐに現われてくる。 ここで分かったことは、
十両の一勝の相場が20万円。そして互いの前後の場所の貸し借りで清算されるか、違う力士との貸し借りにも融通されていたことである。
「関取の互助会組織」が暗黙のうちに出来ていて、大関や、十両などからの陥落の際にやり取りされていた。勝ち星の貸し借りの
噂は私が子供の頃からあった。その辺を暗黙のうちに了承し見ると千秋楽の取組みは面白く、幕下から幕内の大部分を見てきた。
本来、相撲取りに道徳など求める方がおかしい。それらのイカガワシサを含めたスポーツ兼芸能世界を楽しむのが好角家であり、
目くじらを立てる方がおかしい。 ここで、何故に警察が野球賭博で携帯電話から得た八百長の決定的証拠を表沙汰にしたのか?
誰もがエッと思ったはず。そんなに警察も野暮ではないはず。そこには一部報道されている相撲賭博疑惑があるからでは?
暴力団が仕切っている賭博組織の摘発のためでは?と思うのは私だけではない。その前に尻尾切りで、ウヤムヤになるのか?
その辺の筋たてを見ている方が面白い。もう一つ政変の前には意図的に「目くらまし」の事件を立て国民の目を、逸らす力が働く。
3月政変への御膳とみると、成るほど合点する。 相撲を長年みてきた者として、過去の関取の大部分は、何らかの形で
八百長をしてきていると確信している。最近、怪我の相撲取りが多いのは、八百長がやり辛くなってきたためともいう。
力自慢の見世物という興行世界なら、暴力団や花柳界との出入りがあって当然のこと。芸者遊びをTVを通し楽しむ世界でしかない。
その異質の世界を、一般の常識で縛ろうという方が不自然。 「相撲取り、関取落ちれば、ただの馬鹿(デブ)」
チョンマゲをつけ、褌姿で、裸でぶつかりあう神事を割り切って楽しめば良いだけ。やはり日本的ウヤムヤの延長しかないのか?
たまたま二年前に、大相撲について書いてあった。
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2866, 大相撲が神事?
2009年02月08日(日)
大相撲が日本人力士の大麻吸引で、ますます面白くなってきているが「大相撲って実のところ何だ」というと、
いかに曖昧である。「国技」?法的には何もない。ただ税金は全面的に免除されていて、理事以上の利権のネタでしかない。
スポーツ、武道、格闘技それぞれの一面を持っているが、何か違うのである。歌舞伎のようにチョンマゲを頭の上に乗せて、
神主姿の行事が仕切り、その周りを審番が勝負を見守る。政の神事の時の余興で力自慢をしたのが由来という説と、朝鮮から入ってきた
モンゴル系民族が騎馬で日本を制圧、その時にモンゴル相撲も入ったとも考えられる。その面では天皇と深い因縁がある。
神前の儀式での力自慢が徐々に見世物としての芸能になり、大相撲になったのである。力自慢には、それぞれ大名などの
贔屓がついたのがタニマチとして現在も残っている。相撲部屋とは、その力自慢を囲い込んでいたところ。元々、そう上等のものではない。
その歌舞伎+格闘技+興行の混ざりこんだ男芸者衆の芸事?に、近代を持ち込んで批判すること自体がおかしい。
国技、神事とか、真面目な顔をして説いているのは、大相撲パラサイトの飯の種。八百長など、当たり前のこと! これは芸事。
まともに勝負をするから最近、怪我人が多くなったのである。フェアだというが、それは欧米の考えでしかない。
プロレスの観客は、あれは芝居ということを知ったうえ、悪役をどう倒すかの物語を楽しんでいる。相撲も真剣勝負の妙味もあるが、
力士の15日間の勝敗の星勘定と昇進、陥落の物語を楽しんでいる。初場所では朝青龍という名ヒール役の復活の物語を喜んだのである。
神事、国技というなら、外人を入れるべきでない。面白くするために必要なら、国技などという名をすてるべし。
税金を払うべし。そして、横綱審議会とかいうのを即刻止めるべし。恥ずかしげもなく、よく出てくる姿は微笑ましくもあるが。
息抜きの話題には丁度良いが・・・レベル的には週刊現代のネタというところだ。
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3241, 中学同期会にて
2010年02月08日(月)
中学校の同級・同期生は「選りすぐり前の色いろな社会の原型」を見ることができる。地方・城下町の駅周辺とくれば尚のこと。
サラリーマンの家族より、商売人の長男・長女で、家を継いでいる人が多いのが特徴。ここにきて地方都市の衰退の影響を直接受けて、
全体的に沈んだ雰囲気である。200年近い老舗を廃業した人が「廃業させてしまったプレッシャーが大きく心に圧し掛かっている」と、
語っていた。新潟県は公共事業王国だった反動は大きく、農工業も中国などの輸入品に押され県全体が悪化している。
それに従い、高齢化も含めて元気が無くなってきている。同年齢の姿を見て、自分の年齢にハッとする。
たまたま、4年前の昨日の随想日記にあった「老いのキー概念」が、同じ年代の置かれた状況から見えてくる。
(1)居場所がない (2)社会的役割の喪失 (3) 貧困と孤独 (4)生と死の間のさまよい
(5)青春への希求ー自分に青春がなかったという疑問等 (6)老年危機ー生きる意味の喪失 (7)枯れへの悶え
(8)矛盾する心性(自分の人生の肯定・否定の自問自答)(9)ボケと過敏 (10)成熟と衰え
その一歩手前というところ? どれもこれも、これから誰も直面する問題が羅列されている。還暦を過ぎてから
(8)矛盾する心性(自分の人生の肯定・否定の自問自答)が覆いはじめている。それ以外は、まだだが、いずれじわじわと
、くるのだろう。 人生60、いや70歳代が一番良いというが、準備をしてきたかどうか?で、その質が左右する。
中学校、そして高校と30年近く同期会が毎年のように開かれているが、地方だからこそ可能なこと。
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2008年02月08日(金)
2501, 無くてはならぬもの −8
おはよ〜(>ω<。)!!
人生を振り返ると全く、恥ずかしきことのみ多かりき!である。自分の輪郭がハッキリして、その卑小性に独り嫌悪感に
陥る瞬間が多くなる。これが人生の秋口の心の風景。 早くいえば基礎教養は足りなかったのである。
俄然と読み始めたのが20歳位だったのが遅かったためだろうか。40年以上は、一日2〜4時間は読み続けてきた。
しかし思春期の読書量が足りなかった。それも、家庭文化のレベルということもあるが。しかし子供のころから葬式などで
法話を聞き続けてきたし、書画骨董の一流品を見続けてきたし、それでも両親や兄姉から色々な教えを受けてきたし、
生き様を見てきて、このレベルである。 独り溜息をつく日々である。 後は、どう自分と折り合いをつけるしかない!
ただ面白かったが・・・この一点が救いである!若き時の自分の声のように当時の沁みた言葉が、本を通して語りかけてくる。
P−37 アンドレ・ジイドの『狭き門』という小説は諸君のなかにも読んだ人が多いだろうと思うが、あの狭き門という題は
聖書の有名な言葉からとったものである。イエスの言葉である。「狭き門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。
そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」
(マタイによる福音書七の13−14)この「命にいたる門」ということも、ほんとうの自己を見いだす門という意味である。
私たちはすぐにあの夏目漱石の『門』という小説を思い起こすであろう。あの漱石の『門』の主人公は、友人の妻を奪って
自分の妻にするのであるが、そのエゴイズムのなかで苦しんだあげく、鎌倉の円覚寺に行って坐禅をして悟りをひらこうとするが、
どうしても救われないでまた門をあとにして舞いもどってしまう。諸君は、ほんとうの自己を見いだすために、どのような門から
はいろうとされるだろうか門はたくさんあるようだけれども、他に道はないのかもしれない。「求めよ、されば、与えられるであろう。
捜せ、されば、見いだすであろう。門をたたけ、さればあけてもらえるであろう」(マタイにょる福音書七の七)とまた
イエスはいうのであるが、道を求めるという心を起こすことが先決問題であるだろう。
P−38 「何事でも人からしてほしいと望むことを、人々にもそのとおりにせよ」多くの人が、この黄金律を人生のモットーにして
生きてきたことを告白している。自分が幸福になるために、人から多くのことをしてほしいという思いである。それなら、
人々に対してもそのことをしてやるべきである。人から親切にしてもらって嬉しかったら、人にも親切にしてあげるべきである。
この黄金律は、本当の人生の旅路において幾らでも応用のきくルールである。 だから黄金律と言われるのである。
*「求めよ、されば、与えられるであろう。捜せ、されば、見いだすであろう。門をたたけ、さればあけてもらえるであろう」
*「何事でも人からしてほしいと望むことを、人々にもそのとおりにせよ」
*「自分を愛するように、隣人愛しなさい」
*「右の頬をはたかれたら、左の頬を出しなさい」などの黄金律が40年近く経って、 その意味の深さが少しずつ理解できるように
なったということだ。 難しいが、ことあるごとに口にしていれば、少しは実行をするだろう。ボランティアか〜。
群れてでも、しないよりよいのか?群れる何処が悪いのか? 群れることは、それより悪いのか?
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2007年02月08日(木)
2137, 占いと、細木数子について −2 b(^o^)dおっ W(^O^)Wはようー♪
*細木数子には、驚いた!
細木といえば、週刊誌やTVに30年位前より出ては消えを繰り返していた。ところが、ここに来て復活。
歯に衣着せぬ物言いで、芸能人を斬りすて、バラエティ番組に引っ張りだこの女性占い師ということになっている。
(字数の関係で中間カット2009年02月08日)
まあ読んでいるだけで、悪臭がプンプンとしてくる女ヤクザの経歴を持つ。人間の本質を知る上で、女ヤクザとしての
熟成されたテクニックを使った、竿の先の針の餌としての占いとしてみると即興劇を楽しめる。
何で、こんな女をバラエティー番組に出すのだろうか?そこまで日本が病んでいるということだ!
でも、この履歴は面白い!履歴をみるかぎり、塀の向こうには落ちてないから強かだ。 ーまだつづく¥(*^_^*)\バイバイ
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2006年02月08日(水)
1772, “サラ川"入選100作品 おはよ〜(>ω<。)!!
この時期に毎年の恒例になっている「サラ川」が発表された。 私が選んだベストファイブは
・48 セキュリティ 一番手薄な 妻の口 無給警備員 ・57 散髪代 俺は千円 犬 一万 下流の夫
・59 鬼嫁も 居るだけいいよと 励まされ 物は考えよう ・64 人生の 第二職場は 妻の部下 世の常人の常
・81 マイブログ 立ち上げたけど 話題なし 磯仁
私の場合48は 「セキュリティー 一番手薄な 俺の口」になるが、どれも切ない話題ばかりだ!
ーまずは読売新聞の記事をー ~~旦_(^O^ )お茶!どうぞ〜
“サラ川”入選100作品、家庭などの“悲哀”映す「刺客だと 言われ遠くへ 飛ばされた」――。
第一生命保険は6日、昨年11〜12月に募集したサラリーマン川柳コンクールの入選100作品を発表した。
今年も、サラリーマンの家庭や職場での“悲哀”を世相とともに映し出した秀作がそろった。
中でも、「小泉劇場」の流行語を生んだ昨夏の衆院解散・総選挙をテーマにした作品が目立った。
ー「チルドレン 昔『かすがい』 今『刺客』」と、子どもの心をつかみかねる父親の心情から、
ー「総選挙 家では妻が 総占拠」と家庭での孤立を描いた作品もあった。
また、「熟年離婚」も人ごとではないようで、
ー「離婚劇 昔成田で 今熟年(シニア)」
ー「年金の 出る頃妻は 家を出る」との不安を抱いており、
ー「妻準備 いい日旅立ち 退職日」 とならないことを願うばかりだ。 このほか、
ー「我が社では 部長のギャグが クールビズ」 ((((;-”-))))さ 寒い・・・・・・
ー「檄とばし 部下のヤル気も 消しとばし」 と上司への愚痴は相変わらず。
また、景気は上向いてきたとはいえ、
ー「“軽くヤバイ” ぜい肉よりも 我が会社」とサラリーマンの心配は尽きないようだ。 (σ・ω・)?
第一生命は3月17日まで投票を受け付け、5月上旬に「ベスト10」を発表する。
(2006年2月6日22時11分 読売新聞)
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ー“サラ川”入選100作品ー51以降は字数の関係上カットしました。
(字数制限のためカット 2011年2月8日)
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2005年02月08日(火)
1407, 大雪について
この大雪が、19年ぶりという。逆にいえば、1〜2mの雪が積もるのが19年ぶりでしかないということだ。
子供の頃は、毎年のようにこの程度の雪は降っていた。それが38豪雪(昭和38年の豪雪)以来、年々積雪が少なくなってきた。
そして、19年前の豪雪を最後に暖冬が続いてきた。温暖化現象の一つだが、近くの柏崎原発が直接的な原因である。
19年前の雪は、いやに記憶に残っている。東京で、学生時代のクラブの集まりがあって、ブーツで東京に行った。
その時に銀座で飲んだが、そこのホステスが帰り際にかなり厳しい一言を言われた。「銀座に長靴で来る田舎者がいる」と。
こういうことしか憶えていないものだ。それと長岡に帰ってきて30年間で一回だけ、屋根の雪下ろしをしたことだ。
それ以来は、積もっても1m位の為か、長靴は殆どはいてない。今年もこれでおしまいである。ブーツを履いて出勤したのは
三日間だけ。ニュースで見るほど大変でもなんでない。駅から近いということもあるが、何処も住んでいればプラスもマイナスもある。
19年ぶりでも、この程度だから冬国のマイナスなど何ということはない。町なかに居るから言えるのだろうが、
といって大して変わらないだろう。表日本の人が持つイメージと現実は全く違う。
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2004年02月08日(日)
1040、ドタ勘
ある経営者の言葉の「ドタ勘」が印象に残った。ドタキャン(土壇場でのキャンスル)をもじったのだ。
土壇場の勘を信じて、決断していくしかない時代になった。そこまで日本経済は追い込まれている。
ぎりぎりのところで、思い切った現場からの叩上げの勘と判断を信じて実行をしろといっているのだろう。
その感覚が今の日本に欠けているという。自信を失っているのだろう。その場限りの対策しか立てられなくなっているのが、
日本が現状だ。アメリカ従属国家の末路のこの時期、日本に必要な開き直りの言葉でもある。何度か創業を経験をしてきて、
実際のところ格好いい理屈はなかった。ドタン場の勘で、発狂状態?になって突き抜けてきた。崖っぷちに立って初めて
知恵と勘がでてくる。集中せざるをえないからだ。積極一貫とは、前向きに極み(崖っぷち)を積み重ねることである。
しかし、その極み立つためには緻密な計画と長年の準備が必要である。それが見えるのは、それをしてきた人間だけである。
その他の人には、それがドタバタ「勘」にしかみない。ついているという「運」の良さにしか見えない。運が良いとは勘が
良いということである。勘が良いとは、経験からくる暗黙知が良いということだ。暗黙知とは崖っぷちで積み重ねた知識と
研ぎ澄まされた深い眼である。それこそがドタ勘である。 解ったような事をいえた柄でないか、本当!
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2003年02月08日(土)
675, ぶざまな人生ー3
ーおれ様の人生と馬の骨の人生ー
この本にはなるほどと合点する面白い内容がいくつもあった。
人間の存在とは
1、この世でたった一人しか存在しない人間ー「自分」・・「自分様・オレ様」
2、他人から見ると、その他大勢のなかの一人 ー「自己」・・「馬の骨」
この二つを同時にもつ存在である。この二つの認識を持つことが重要である。
個人主義とは、もともと集団的価値よりも個人的価値を上位に置く対集団的な考え方だが、それが個人に向けられた時には、
たった一人のオレ様である。お互いに馬の骨同士「個人」であるがゆえに、お互いの唯一性を尊重することになる。
それが個人主義であり、その領分を守るのが自分ー自らの領分である。利己主義は、自分だけがこの世でたった一人しか
存在しない人間としか認めない。他人と自分の領分も理解できない輩である。以上が「オレ様と馬の骨論」である。
人と話していて驚くことがある、ある二代目が皮肉交じりに「お前は金儲けだけは上手いからな!」と私に言ったことがある。
この言葉の論外に「オレ様の仕事は金儲けでなく、お前ー馬の骨のやっていることは金儲けでしかない」という自惚れの
気持ちがありありであった。「人間とは自分に都合のよいように自分を買い被っている存在に自分で気がついてない」と、
呆れたのを憶えている。この手前勝手さは誰もが、勿論自分も形を変えて基本にある。それがこの馬の骨論で、ずばり書いてあった。
「みんなが大将!というところか。私が怒ると知らずと「あの馬鹿が!」とか、「あの馬鹿どもが!」という言葉が
頭をよぎるが、おれ様という意識がそう言わしめるのだろう。以前「世間様」論を書いたことがあったが、
世間様とは自分の領分をわきまえない集団主義者のことである。いや集団主義というより仲間主義の連中である。
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2002年02月08日(金)
325、いまによくなるさ!必ず!
こういう時代だから、この言葉が大事だ!といって、これは手を打っての話だ。「最善をつくして天命を待て」の時の言葉だ!
考えてみたら、心の奥で何時もこう呟いていた。歌に「明日がある、明日がある、明日があるさ・・・」とかいう歌があった。
「明日がある」も似た言葉だ。「何とかなるさ」も同じ意味か。今更、一休和尚の話しをしても仕方がないが敢えてする。
「死んだ後どうにもならなくなったら開けよと、一通の封筒を残して死んだ。そしてどうにもならない時に開けたら(どうにかなるさ!)
と書いてあった」実際今まで生きてきて何とかなってきた。そして良くなってきた。実際起こりうることより、それに対する不安の方が
10倍は大きい事は、誰も経験済みである。海外旅行ほどその段差を実感する。今の悪い状態に対して悲観するのでなくて、
よくなる方策を考え抜き実行すればーーーー「今によくなるさ!」「今の日本はそれをやっているのだろうか?」
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2月8日 1969年
小林が寮に約束どおりに訪ねてくる。彼と話しているうちに、若さとエネルギーの新鮮さに感化されてしまった。
私の卒論を見せると、構成のいい加減さをつかれる。昨日日以上にショック。一年がかりに書いた卒論も基礎と
基本のいい加減さを見透かされた。自分の為の自分の作文でしかなかったのか。根本からやり直すことは今更むりである。
先日の反撃をしたかったのだろうが。いま気がついたことは、破ったと信じていた殻から、全く出てなかったことだ。
友人の批判に耐えられないレベルということか。批判者は批判者で気にすることはないが、隙をつかれてしまった。
動揺が一日一日と激しくなる。卒業間近というのに。いや間近だから動揺しているのだ。