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* 乗りつっこみ
漫才の掛け合いに「乗りつっこみ」がある。相手のつっこみに、そのまま乗って、その直後に否定することで笑いを誘う。
サンマやタモリなどは、そのへんのプロである。 「御前のカミさんはブスや」のツッコミに対して、
一度「そうや、ワイのカミさんはブスや」と、答えた後で、「御前に、何で言われなければならないや」と切り換えて、
一瞬間を取るやり方である。 日常の会話も、その技が出来るかどうかで大きく違ってくる。「つっこみ」に対する「乗り」である。
落語の、ご隠居と与太郎との会話も、この技法が多用されている。その場の空気を読んで、落ちを考えて、笑いを誘うのである。
それも一瞬のタイミングを外さないことが重要。
* 言葉を使うときは王のような視点を持て、というが
言葉を使うとき、文章を書くときには、王のような視点を持てという。客観性と、真理、道理が厳然となければ、詭弁になる。
毎日この随想日記を書いていると、知らず知らずのうちに王様になった心持ちになっている。偉そうに、である。
自分の想いや意見は相手が納得しなければ、何にもならない。納得させるためには、王様が語るほどの内容に権威が必要である。
だから王のような視線で、言葉を選ばなければならない。 また一度書いたものと毎年の同月同日に、再び出会うことになる。
その時に矛盾や自分が恥じるような言葉と論理は、そのまま己に帰ってくる。そのため何ども読み返し、論理の矛盾を探す。
それでも数日後、数年後に読み返したとき、それに気づくことが多い。それが論理や思考にプラスになる。それを続けていると、
他の人の言葉、論理の矛盾が分かるようになる。その反面、評論家や作家の卓越した論理と自分のそれの違いが見えてくる。
王のような視点を持て、というが、一流のプロは全く違う。恥ずかくもなく、馬鹿な知能を公開するのも勇気がいるが、割り切って
しまえば、それはそれで自己満足になる。
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3528, 死に至る地球経済 ー3
2010年11月22日(月)
* トリフィンのジレンマ
この著書で基軸通貨国のジレンマを紹介している。 ロバート.トリフィンというベルギー人の学者が、
「流動性ジレンマ」と名づけ、以下のようなジレンマ「トリフィンのジレンマ」を見事に例えている。
ーその内容は次の通りだ。
≪「基軸通貨というものは、世界で幅広く使われるのであるから、潤沢に出回ってもらわなければ困る。供給不足は禁物だ。
だが、あまり出回り過ぎると値打ちが落ちる。基軸通貨たるもの、値打ちが下がったのでは、そもそも基軸通貨としての基盤が
揺らぐから、これも禁物だ。要するに基軸通貨は希少価値があると同時に流動性が十分でなければならない。
希少性と流動性を同時に満足させることは極めて難しい。これがブレトンウッズ体制下のドルにつきまとうジレンマだ。」
トリフィンはこのジレンマをブレトンウッズ体制の構造欠陥だと批判したのである。トルフィン流に考えれば、基軸通貨とは
要するに人気歌手のようなものだ。人気があるという人気が高いということは、希少価値が高いということだ。だが、人気に任せて
彼方此方に出すぎると、飽きられ人気が落ちる。さりとて、あまり希少価値にこだわって自重していると、出し惜しみで顰蹙を買う。
人気稼業の難しさは人も通貨も変わりない。希少価値と流動性の同時たっせい。基軸通貨国には、この至難の技が義務付けられる。
この両立不可能なことの両立を求められる、これぞまさしく基軸通貨国家に課せられた呪いに他ならない。≫
〜 とはいえ、基軸通貨国だけで、紙切れの紙幣を刷っただけで世界中のモノが入ってくるのだから、維持のためには
何でもするのは当然である。そのアメリカのドルによる基軸通貨体制が崩れようとしているのが現在の世界。
冷戦の終了と同時に共産圏が自由貿易圏に変わり、その広がりが増えたことが、20年近くドル基軸を保つことができた。
しかし、リーマン・ショック以降、それが崩壊を始まり、混迷を深めている。
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3153, ラ行の受身形 ー2
2009年11月22日(日)
ー まずは前回の続きの部分より ー
妻の葬式の時、私は不思議な体験をした。 いよいよ出棺というそのとき。私の鳩尾(みぞうち)から喉に向かって稲妻のように
熱いものが走ったかと思うと、それは胸全体へと広がっていった。 その瞬間、私は言葉では譬えようのない至福感の中にいた。
あの体験は、「 死は悲しみではありません。 私は満ち足りた気持ちであの世へ向かっています 」という妻からのメッセージでは
なかったかと、今になってそう思うのである。もし、あの世の妻とコンタクト可能なら、私はこんな問い掛けを妻にしてみたい。
「 がんに殺されたと思う? 」、「 いえ、がんに殺していただいたんです。お蔭でたくさんのことを学ばしていただきました。
ありがとうございます 」 「ラ行の受身形」の透けとおった心で、そう応えるかもしれない。そして最後に
「あなたも感謝の心を持って、狼狽えることなく生きてくださいね 」と妻は、微笑みながらそう付け加えるのを忘れないであろう。
▼ こういうのは、本人しかできない不思議な体験である。 「鳩尾から喉に向かって稲妻のような熱いものが走った」というのが、
チャクラが反応したのである。 似たような経験を、幾つかの記述を何度か読んだことがある。身近な故人とは、色いろの魂の邂逅が
あるようだ。 私も父が亡くなった初七日に不思議な邂逅があった。 夢で父の気持ちになってしまい、死の恐怖心から
〔死にたくない〕と思った瞬間、我に返った時、あれっ、私は生きている!という不思議な安堵感と父の魂との邂逅と、似ている。
思いは、言葉で作られ、そして残るもの。 思いも、それを形成する言葉は、後々残るから大事にしなければならない。
気楽に、言葉遊びとして、ラ行の受身形を前向きな言葉に替えるように努めたいものである。〔こん畜生め!〕は、やめとこう。
言ってもいいが、その後に「何かのサインを出してくれて、ありがとう」を加えれば、気が楽になる。歳をとった暗い顔だけはなりたくない。
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2788, 平心庵日記
2008年11月22日(土)
「半歩遅れの読書術ー?」で紹介されていた本で、さっそくアマゾンで注文、朝晩の通勤の新幹線内で読んでいる。
これが何ともいえない味わいがある。 もしかしたら己の人生を間違えていたか?と、考えさせられる内容である。
明治初期に三井物産を創設した大茶人の益田孝(鈍翁)と、主治医・近藤外巻(平心庵)の心の交流を、
大正13年から昭和13年までの平心庵日記をもとに、平心庵の長男である近藤道生が描いた本である。
当時まだ年少だった著者の目を通してみた大正から昭和初期の時代の想い出がもの静かに書かれている。
「明治経済界の重鎮である鈍翁は,江戸の武士道気質と明治以後の欧米ビジネスマンの感覚を合わせ持つ実力者だが、
政治的には影の存在に徹した。 隠居の地小田原で,無私の外科医・平心庵と茶事を通じて結んだ親交は、
現代人が失ってしまった真のもてなしの精神と、日本文化の奥行きを伝える豊かな時間であった。」と書評にあるが、
成るほど読むほどに大茶人の片鱗が窺える。 千利休以来の大茶人と謳われ、茶の湯や美術関係の人には、
よく知られているという。両親の趣味が茶道だったこともあり、子供の頃から色いろな話を聞いたり、
茶席に同席させられたこともあり、何か、日記の一言一言が目に浮かぶようなイメージが沸いてくる。
これを読んでいて気づいたが、両親はかなりの茶人だったようだ。私は、どうも堅苦しい作法に反発を感じ、
現在も近寄れない。 しかし私の人生で、知っておくべき世界だったかも知れない。
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「平心庵日記 :失われた日本人の心と矜持」 近藤道生著
ー日記が大体が次のようなベースで書かれていまる。
「大正14年 元旦」
・・・五時頃より国民年中行事正月のところをよみ 六時頃若水をくみ洗面仏前にて礼拝
再建のわが家にもはじめて年を迎ふることとてうれしく勇む心しきりなり 長女千蔭 十二歳
次女みゆき 十歳 長男道生(筆者)六歳となる 道生をつれて海岸に初日の出拝みにゆく
今しがた水平線を倣なれて一、二尺、開運をいのるよりも安穏をいのる心先なるがこの頃の
傾きなり 銀盃にて屠蘇いはひ 雑煮いはふ 列席者塾生を含めて十三名と震災後迷ひ込みし三毛猫一匹
昨年より着手したる漢文学選中国の部大略終りたれば昨日より年表をつくりつつあり今日も百科大辞典みて
すこし調べたる後、二宮神社に参詣 小峯公園に遊びて皆と別かれ益田邸に御年首に行く
邸内にて御主人の迎へに来たらるるに遇ひ静江(平心庵の妻ー筆者註)をも 自動車にて呼ばれ
茶と御料理賜はる お手製の茶碗 珍品そろひの御料理うどの生など結構なりき」
「大正14年 6月8日」
五時半起床 便所掃除 朝礼。朝食。文学史万葉の歌例のところ講義。外来患者60人許。
益田大人より朝 お使ひあり。四時半頃自動車のお迎へいただき五時頃行く。わびたる田舎家風の寄り付き。
為楽庵にて初座。敦盛草とえぞまんてんの花の下にて懐石。後座 大燈国師の手紙,茶碗ととや 濃茶銘 松の華…」
真摯な開業医としの生き方が淡々とした日記のなかクッキリと浮かんでくる。
ーー
これを読んでいて、やはり両親の趣味だった、茶道を30歳辺りから入るべきだった。
それなりの子供の時からの下地があったのだから。 私が求めるのは、それだったのである。何か人生で足りないものは、
求道だったようだ。しかし、ある程度の金と、教養がないと出来ない遊びの世界。昔の社交の場だったのだろう。
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2007年11月22日(木)
2423, 夢のようなホントの話
Good☆':.*^ヾ('c_'ヽ,,)*.:'☆Morning
週刊誌を何気なく読んでいたら面白い話があったので、紹介しよう。作家の高橋三千綱のミニ・エッセーだが、引き込まれる内容。
こういうことが実際にあるのだろうし、また逆のこともあるはずだ。 その分岐点は、その人が持っている人間性である。
ーまずは、その部分からー
南カリフォルニアのラ.コスタに滞在していた、ある年の夏のことである。
・・ホテルのラウンジバーで飲んでいると、いつのまにか人の輪の中に紛れ込んでいた。
話題がラスベガスの話になったので、その頃人気のあったマジックショーを見たいものと私が言った。
時刻は午前一時を回っていた。どうやらホテルのマネージャーを呼び出しているらしい。
相当酔っているな、と私はあきれていたのだが、四日後にはラスベガス空港に降り立っていて、しかもリムジンが待っていた。
それから私は、夢のような3日間を過ごした。部屋はスイートで寝室がふたつあり、バーも広い談話室もついていた。
最前列で見るマジッグショーは迫力満点で、目の前で巨大な像が消えた。ホテルでは私専用の女性秘書をつけてくれて、
あらゆる用事を彼女がやってくれた。その全でが大男の招待だった。カジノでも私はつきについた。
一体、あの男は何者なのだ、と秘書に訊くと、ニューヨークの大富豪で、有名なプロデューサーでもあるという。
何も知らなかったの?と驚く彼女を見ながら、こんな話をしても誰も信じないだろうな、と私は思っていた。
▼ 大金持の酔っ払い世界に紛れ込んだということだ。その大男からみたら「気分が良かったのでしてあげた」
だけのこと。2〜300万の宝クジに当たったレベルの話でしかないが、それでも庶民感覚とは、
かけ離れた世界の一端を、垣間みた話である。 ☆bye-bye☆ε(*゜ω^*)
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2006年11月22日(水)
2059, あたりまえなことばかり −13
(。^0^。)オッ(*^○^*)ハ〜
ここでは、深い哲学のサワリを解りやすく書いてある。我われは「観念としての死」に、今まで取り付かれてきた。
そして物理的な時間軸を生から死へと一直線の前方に向け生きてきた。ところがそれは違うというから、面食らってしまう。
「永遠として直感される瞬間とは、それ自体で生死を越えて、生死を飲み込んで今ーこの瞬間に立ち上がる!」ということは、
人生の深い経験をしてこそ実感できるのである。経験の裏づけがないと、言葉の言い回し位としてしか理解できないだろう。
いや、鋭いのは解るか?その瞬間の「永遠」は、死後にあるのではない、生の真っ只中に垂直に立ち上がる。
(感動、歓喜の中で)著者の池田晶子の、その瞬間が以下の文章に立ち上がっている。
仏教でいう、悟り、覚醒感がそのまま伝わってくる内容だ。
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* 死ぬのは不幸なことなのか ー?
死は、恐るべき避けるべき事柄と、深く思い込んでいる。転倒した生存本能としての死の恐怖は、人生の孝、
不幸を量るわかりやすい目安とも化し、観念と現実からも判然としないまま、今も岩のように人類を縛り付けている。
死は、恐れるべきものではなく、あるいは祝福すべきこと、喜ばしきことなのかも知れない、
という可能性である。これは死は恐ろしいもの、と言う可能性と同じく、その論拠は無い。
それを恐れとして、喜びとしての「死後」を提示することで答えようとする宗教とは哲学は違う。あくまでも、
「死後」を語っているのは、生きている人だけである。永遠として直感される瞬間とは、そのこと自体で生死を越えている。
あるいは、すべての生死を飲み込んで、今である。考える精神として、一直線に前方へと流れる物理的時間塾から
垂直に立ち上がる時、人は、自分が肉体として生き死ぬ自分でない存在であることを知る。生きているか死んでいるかが、
なぜ今さら問題であり得るのだろうか。すべては永遠に存在し、永遠に生成する。今この瞬間に直感されるそれは、
したがって、「死後」ではない。死後などない。死後は死後に存在するのではない。 生の真っ只中においてこそ、
それは永遠の時間として知られるものなのである。ギリシャ人たちが、肉体を墓場であると呼んだことの背後には、
このような確信が存在している。精神でありながら、同時に肉体である我われが、永遠の存在であると同時に
死するべき存在である。しかし、死への恐怖に衝き動かされながら、直線時間軸上をよろめきながら歩いているという
惨めな表象が錯覚であるとしたら,逆に肉体こそ死後であろう。 したがって、肉体が死ぬということは、本来の「生」、
すなわち永遠的存在への開放に他ならない。死ぬということは、精神の再びの誕生として、祝福すべきことでなかろうか。
だからと言って、死すべき肉体を粗末に扱うということにはならない。摂食、生殖、快楽の意味、幸福の源泉であることで
不幸の源泉でもあるところの肉体を、精神がどのように扱うか、それが肉体によるこの生を、われわれが経験していることの
意味だからである。この生で幸福になるのでなければ、どの生で幸福になることができるのだろう。
(字数の関係でカット 2010年11月22日)
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2005年11月22日(火)
1694, 「官から民への流れ」の一現象
選挙の自民大勝を受けて本格的に小さな政府に向けての動きが本格的になってきた。
まずは政府系の金融機関の大鉈がふるわれることになった。中小・零細企業は大きな岐路に立たされる。 (X_X;)
ところで身近でも、面白い動きが出てきた。 求人を出していたところ、『財団法人・雇用能力開発機構センター』
という所より連絡が入った。国から、雇用を促進するために委託をうけた独立行政法人という。
・雇用保険を受けている人で、ある職業を希望している人の仕事を
・三ヶ月間、希望先で実習・訓練して、互いに合格すれば入社をする。お互いに不一致でも、本人の職業訓練になる。
・その期間、求人側は採用不採用に関わらず約2万5千円を補助してもらえる。
求職者も雇用保険を貰いながら、一日500円の日当が支払われる。
・パート、準社員の求人でも雇用保険と社会保険が支払われれば適用範囲になる。
解りやすくいえば、今までの丸抱えの職業訓練を、「一日500円払うから、就職の適正を互いに見合うという条件で
現場で教えてくれないか」という仕組みである。よく考えたものだ。採用する方も三ヶ月という期間、雇用保険も社会保険を
支払わないで済むというメリットがある。 三者両得という理屈に合った仕組みである。 ?¬_¬)nannjai
現在、職安に行くと30台ほどのパソコンが並んでいて、求職者で満杯で、一昔前の様子と様変わりという。
全く求人する方も求職する方も、世知辛い世の中になったものである。考えてみれば当たり前のことでしかない!
フウ〜 ( ̄ω ̄;)!! ーつづく
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2004年11月22日(月)
1329, 教養と自由とバカの壁
「教養とは自由になるためのアーツ(芸術・芸)」と、昨日の読書日記で書いた。
そういえば「自由」について以前書いたことがあった。 (後に、コピー)
そこでは、自由について
・積極的な自由とは、自分の真にしたいことを見つけて追求すること、
・消極的な自由とは、束縛されていることから解放されること、 の二つに分類した。
教養とは、「真に自分がやりたいことを見つけ実施していくために蓄積し、知識、経験を芸にまで高めておくこと」
である。また自己を束縛していることから、いかに解放するかのアーツ(芸術)といえる。
「話が通じない時、情報を遮断しているもの」を養老孟司が、「バカの壁」と名づけたが、
情報を遮断している小さな固定観念を一つずつクリアーしていくことが、経験を芸に昇華していくことになる。
自由とは、選択の自由である。多くの選択肢の中から、一つの選択をしなくてはならない。
これは非常に難しいことである。そこには決定という自己責任と結果が生まれてきて、その不安に常に付きまとわれる。
そこに哲学が必要になってくる。教養としての哲学は、取り囲んでいる壁に対して自覚することから始り、その壁を土台にすること、
そして乗り越えるのに必要になる。話は少し変わるが、「英語をマスターすることも教養のうちか?」と、問われれば勿論教養のうちだ。
英語を話せる分、読める分、それだけ自由の枠が広がる。特に英語は、現在世界の標準語になっているから。
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2004/05/17
1140, 自由についてー1
学生時代より『自由とは何』を考えてきた。そして自分の自由を優先して生きてきた?
しかし、よく考えてみたら、自由は自分のしたいことをみつけ、それを追及することであった。
自らの自己実現に対して忠実に生きることであった。字のとおり「自らに由り、生きること」である。
そして自由な生き方ー周囲の因縁や世間といわれている束縛から解放されている状態を理想としてきた。
調べてみると、自由には多くの意味やとらえ方があるようだ。手の自由といっても、所詮は人間の体の一部としての
腕の範囲内の自由でしかない。といって使い方は自由である。また自由には、当然の責任がともなってくる。
アイザリア・バーリンは自由を「消極的自由」と「積極的自由」の2つに分類した。
ー「消極的自由」とは「他者からの強制・干渉を受けずに自分のしたいことができるという意味での自由」であり、
ー「積極的自由は自己が自己を支配している状態」と捉えられる。
例えばカントは、恣意に従うのではなく「理性」に従う状態が自由であると主張している。
(字数の関係でカット 2009年11月22日)
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2004/05/19
1142, 自由について −2
(字数の関係でカット 2007年11月22日)
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ある時間の断片
11月22日(金) ー1968年
・8時起床 今日は人事管理に出席。 ゼミの同期の外山君と食事。彼は新潟の三条市の同郷だ。おとなしく誠実な男だ。
彼と行きつけの喫茶店の‘ウイーン’に行く。田島のグループがいる。彼らと口泡を飛ばして話し合う。
奥野君も来る、彼は先日突然部屋に訪ねてきた男だ。
・13時にゼミに参加。 ゼミの先輩で社会人になっている人が二人がきて、社会人になった実感を語る。
その後マクレガー「企業の人間的側面」という本の内容について、読後感を各自発表する。 15時に終了。
その後、16時まで明日のゼミのOB会のネームのバッジつくりをする。
・帰寮後、大妻大の宮本さんから電話で昨日の件で1人いい人を紹介するという。
かなりの美人だとか。 冗談だったのに、まあいいや、なるようになるだろう。
・その後、市川さんと飲みにいく。 夜半の2時に就寝する。