ー 「音楽の本」三枝成彰著 より
  * 革命か目茶苦茶か −評価が二分された「フリー・ジャズ
   ■ オーネット・コールマンからジョン・コルトレーンまで   ー P/203
【 一九五九年から翌年にかけ、アルトサックス奏者オーネット・コールマン(一九三〇〜?)は、『ジャズ来るべきもの』
『フリージャズ』というタイトルのアルバムを発表していくことになる。これらはジャズ・ファンのみならず、アーティストの間でさえ、
「ジャズの革命だ」「滅茶苦茶をやってるだけだ」と評価を二分した。大方のリスナーには調子はずれのちんぷんかんぷんな音楽にしか
聴こえない彼の演奏は、当然ながら大衆的な支持は得られなかった。しかし、六〇年代の"反体制気運"とあいまって、いっさいの
音楽的規則や形式にとらわれず、なんでも自由に演奏するフリー・ジャズ・スタイルを生み出す。
 このフリー・ジャズ・スタイルは、コード(和音)による進行がないばかりか、小節の制約すら取り払われたものだ。
結果、メロディーやスウィング感も失われていく。 古典派からロマン派と続く中で美しいメロディーとハーモニーを奏でた
クラシックが、近代.現代に入って失われていったが、あえていえば、ジャズでも同じことが起こったといっていいだろう。
オーネット・コールマン以外では、テナーサックスのアルバート・アイラー(一九三六〜一九七〇)やアーチー・シェップ(一九三七年〜)、
ピアニストのセシル・テイラー(一九三〇〜)などが、こうしたプリー・ジャズの流れの中で語られるアーティストである。
ジャイアント・ステップス一(五九年)、「マイ・フェバリット・シングス」(六〇)、「至上の愛」(六四)というアルバムにより、
ジャズ史上もっとも偉大なサックス奏者として、多大な影響を及ぼしたジョン・コルトレーン(一九二六〜一九六七》も忘れてはならない。
活動の初期においては、マイルスのクインテットに参加。とめどなく湧き出る鏡舌なアドリブによるソロを演じ、いらつくマイルスに
「でも止められないんだ」という言い訳をしたところ、「簡単なことさ、口から管をはずせばいい」と書われたという逸話を持つ。
そのコルトレーンも、晩年にはアイラーやシェップと共演して、フリー・ジャズ的傾向になる。】
 ▼ フリー・ジャズとは、どんな音調か、ネットで調べて実際に聴いてみたが、書いてあるとおり。 これまではメインの楽器の流れで、
  ジャズの流れを知ることが出来たが、この辺になると、かなりの熟知をしたファンでも、その評価は分かれるのは分かる。
  2ビート・4ビートとか、スイング、ビパップ、ハード・バップ、フリー・ジャズフュージョンとかの専門的用語が、
  この本と1200曲のジャズで、少しは知ることになった。何処までマスターすることが可能か、面白そうだ。 
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3355, 人みな骨になるならば ー13
 2010年06月02日(水)
  * なぜドラマみたいでないのか
 これがシビアで面白い。 自分はいうに及ばず兄姉などの人生を覗くと、決してドラマのような人生などない。
そこにあるのは夢も希望もないリアルの人生である。時にドラマみたいなのもあるが、それは喜劇か滑稽な悲劇である。
  ー まずは Pー27から抜粋してみる ー
≪ 前から不思議に思っていることだが、われわれの実人生はどうしてこうもドラマみたいでないのだろう。
なぜ次々に恋愛や心ときめく出会いがないのだろう。これは容姿がいまひとつといった大多数の平均的な人にとって、
そうしたラヴ.アフェアエアは青年期にそれらしいものが二、三あれば御の字で平凡でみすぼらしいものである。
かりに大恋愛の末に大団円を迎えたにしても、そのあとに退屈な毎日がだらだら続くであろう。そのうちヒーローは歯周炎を病み、
ヒロインは亭王の前で平気で放屁をするようになる。もし現実の男女が数奇で劇的な大恋愛に陥っても、かれらの日常をずっと
カメラで追っていけば映画として最悪の作品になること必定である。洗顔歯磨きに十分もかけるし、風呂には二十分も入る。
くちゃくちゃ咀噌し、いきんで排泄する。最悪なのが睡眠で、数時間も横になったままである。絶世の美男美女が演じたとしても、
観客としてとても半時間以上はつきあいきれるものではない。そこで編集が必要になる。 だらだら続く日常性の部分をカットし、
しかも肝心のストーリーがつながるように見せ場だけは拾い上げていく。これを工夫すれば、われわれ凡人の一生であっても
一作や二作ぐらいはドラマ化できないものではない。 映画なら二時間前後にまとめないと観客の集中力を保てない。
ということは七十年の時間から二時間だけをピックアップするのである。しかし、実人生とかリアリティというのは
七十年のほうにあって二時間のほうにはないのである。 だから二時間にまとめられたドラマは作りものであり、退屈な散文的な
七十年のほうがリアリズムなのだ。 活劇や冒険となると、そもそも凡人が経験できないもの、いや経験したくもないものである。
現実の警部補だと担当できる殺人事件は数件か、せいぜい二、三十件どまりで、そのほとんどが単純な激情犯ゆえすぐつかまる。
しかるに小説やドラマの名探偵名刑事たちは数十から数百の殺人事件にでくわし、そのいずれもが奇々怪々な難事件なのである。
しかも、どういうわけか解決する。SFの宇宙船で事故や怪物にでくわさないものはない。フィクションだからしかたがないと言えば
そうなのだが、ノンフィクションやドキュメンタリーであっても編集してあるからには、実人生から遠いこと恋愛物と大同小異。≫
 ▼ 逆に「なぜドラマみたいでなければならないか」という問いが立つ。自分の人生を脚色して自分を納得したいのが人間の弱さ。
 すべて仮想でしかないと冷めた目で周囲を振り返れば、ドラマも何もあったものではない。ドラマはつくりものだが、そっちの方が
現実と思いたいのである。 実際にカントは、対象を認識するのではなく、自分の認識が対象を決めると看破した。
ドラマはつくりもので、ストーリーを主にした抽象画のようなもの。 敢えて言えば主体的に生きていることがドラマみたいに
してくれるのである。だから主体的に生きなけれならない。人生を振り返ると、緩慢だがドラマのようにも思えるのは記憶が
ドラマ仕立てに都合よく変えてくれるから。それでもヘロヘロ・・。精一杯生きていれば、それだけでドラマになると信じたいが。
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2980,超円高社会  ー3
 2009年06月02日(火)
                      「超円高社会」 水澤潤著 ー読書日記
* 危篤状態の日本の実態
《第5章 政府が破綻しても日本は生き残る》の ー危篤状態に陥った日本政府ー
    が現在の実態を捉えるに解りやすい例え話である。
 国民もマスコミも、その深刻な事態の実感が薄いようである。NHKが毎週のように土曜日などのゴールデンタイムに、
特番を組んで報道しているが・・・。頭の軽い、その辺の人が?「マスコミは騒ぎすぎだから消費が冷え込む」とかいうが、
そんな事態とは違う。 明治維新幕藩体制が終わり、日本という国家ができた、あの節目より大きな変わり目である。
現在の日本は危篤状態の重病人。 そこに急に大嵐が来た中で重病人に、火事場の馬鹿力を出せという。 
そうしないと死にますよという。 しかし、この20年近く、もう力を使い尽くして、重体になっている身。
 その辺を、上手い例え話で説明しているのである。 ( P-112ー )
【 ブライマリーバランスという意味不明の言葉を、おそらく多くの人が耳にしたことがあると思う。
日本政府が「2011年度に回復する」ことを公約として掲げてきていたこの言葉だが、いったいそれが回復すれば、
どんな良いことがあるのだろうか。 国債の発行や支払というのは日本の国家予算の中でも巨額なのだが、
これをとりあえず無視して、税収と歳出のバランス取れる状態をプライマリーバランスがとれていると言う。
だが、こんな説明では、まだほとんど理解不能だろう。 そこで、不謹慎を承知で人間の症状に喩えて説明してみよう。 
重体の患者がいて、下血が止まらないとする。 輸血(新規国債発行)を行いながら、下血を止めようとしても、
下血の勢いが強いと体内の血液量がどんどん減っていく。このまま行けば、ほどなく臨終を迎えることになる。
そこで、親族を呼ぶように指示をするはずだ。危篤状態である。日本政府は今、まさに危篤状態に陥っているのである。 
医師団の緊急治療がいちおう成功して、下血をある程度抑え、輸血量と下血量とが釣り合うようになる状態が、
最初の目標となるだろう。この目標を達成できたら、医師団はホッと息ついて、患者の家族に「ひとまず危篤状態を脱出できた」
と言うはずだ。もちろん依然として輸血は必要だし、監視の目を緩めることは一瞬たりともできないが、体内の血液量は一定状態を
維持できる容態となったのである。つまりこれがブライマリーバランスが回復された状態なのだ。ブライマリーバランスの回復を
目指すというのは、危篤からの脱出を目指すということなのである。 輸血と下血が釣り合った状態を目指すことなのだ。
今の日本政府は依然としてプライマリーバランスを取り戻すこともできず、枕元に親族が集まって涙をこらえながら、
「がんばってねアナタ」と呼びかけ続けている状態なのである。できれば2011年度までには、なんとか危篤状態から脱出したい
ものですねえ、と医師団は言っていたわけだ。2011年度に健康体を取り戻そうというわけではない。退院はおろか、
輸血をやめる日すら、まったくメドが立たない。とにかく三年で危篤から脱出したいと言っているだけである。】
 ▼ 実際は、こんなものではないほど、痛んでいる。 この一現象が1〜3月期のマイナス15・2パーセントのGDPである。
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2616, サルトルを考えてみる  ー3
 2008年06月02日(月)
ーまずは、あるサルトル入門書に書いてあった、
 サルトル批判と人気衰退の理由の箇所を抜粋してみよう。
 *サルトルへの批判と、忘却の原因とは
サルトルの影響力は、サルトルの死後急速に低下したが、それは「構造主葉」という新しい思想が現れたことが大きい。
構造主義は、スイスの言語学者ソシュール言語学文化人類学などが結びつき、1960年代に作られた新しい思想である。
レヴィ・ストロースジャック・ラカンミシェル・フーコーアルチュセールらがその代表者とされた。
構造主義は、モノではなく関係を重視するところに特徴がある。またこの思想は、主体(私)としての人間に、たとえば言語のような、
関係の網の目としての構造が先立っている、と考える。構造主義は、西欧近代哲学全体を、主体としての人間を中心とする人間主義
(ヒュー・マニズム)として批判した。またそれは、人間を作るのは歴史ではなく構造だとして、マルクス主義に代表される
進歩的歴史主義を批判した。サルトルの思想は、実存における選択を強調する点で「主体主義」「ヒューマニズム」の哲学とみなされ、
またマルクス主義を評価していた点で「歴史主義」の哲学ともみなされた。
要するに、サルトルは、それまでの古い西欧哲学の代表としてやり玉にあげられたわけである。
構造主義の後には、ジャツク・デリダジル・ドゥルーズらの「ポスト構造主義」が話題となったが、サルトルはしだいに批判される
というよりも忘れ去られるようになっていった。デカルトヘーゲルの哲学は西欧近代哲学を代表するものであり、批判されながらも
古典として今も読まれ続けている。ところが、サルトル哲学は、古典にもなりえない二流のものとされてしまい、ほとんと読む人が
いなくなってしまった。サルトルは、もう時代遅れの思想家なのだろうか、そして本当にサルトルを乗り越えたのだろうか、
この二つが、サルトルを見直した後の疑問である。 サルトルは「偽の知識人」を徹底的に批判した。
「偽の知識人」は普遍性の番人を自称し、高みから大衆を導く気になっているが、個別的などの戦争を停止させようとせずに
ただ一般的な平和の望む、などという。 彼らは植民地の人たちを人間以下のものとして排除することで成り立っている。
こういう知識人の問題は、我々の問題である。 閉じた場所の外へ、世界へ関係するとき私たちは真の知識人になるのである。
 ーー
以上だが、この批判を読むと、サルトルは時代遅れの鼻持ちならないフランス人と切り捨てられるのも解る。
人間を作るのは歴史ではなく構造だと主張し、西欧近代主義=白人中心主義自体ということを看破したした構造主義の土台に
なったことも見逃すことはできない。 現フランス大統領サルコジが、サルトルのマイナスの現象とみることも出来る。
 30数年ぶりに、サルトル入門書を数冊読んでみたが、現代にも十分通じるところがある。
果たして、サルトル現代社会は乗り越えたのであろうか? NO!であることだけは事実のようだ。 
  構造主義と、ポスト構造主義について、今度取り上げてみたい。
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2007年06月02日(土)  
2251, ビョーキな人々探訪記  ー1    才ノヽ∋?_φ(≧ω≦*)♪
             ー読書日記ー
 「変? ビョーキな人々探訪記」 著者・中村うさぎ・扶桑社
またまた「中村うさぎ」である。買い物依存症の中村が、他の依存症の人と語る、際どい話である。
この変な人が、それに劣らないほどの変な人の病巣を浮き上がらせる。やはり両親、特に父親との愛情不足の問題がある。
色いろ反省することが多い。両親から愛情をたっぷり注がれたわりに子供には?等々・・・
ーまずは、その目次からー
*私たちって「変」ですか?うさぎと語る12人
ー目次
(字数の関係でカット09年06月02日)
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2006年06月02日(金)
1886, 友、遠方より来るー2
              (。・ω・)ノ☆゚+.オハヨゥゥゥ
訪ねてきた友人と話していて、37年ぶりの忘れていた昔のエピソードの中に、若い時の自分の姿が垣間見ることができた。
若いときは神経質で、プライドだけは高くピリピリしていた。振り返ってみると、家庭環境が大きく自分を支配していたのが解る。
自由になるということは、家庭環境などに植えつけられた価値観や思い込みから解き放たれることである。
一生かかって、その壁を乗り越えるのが人生である。前にも書いたが、中学の担任の先生が停年退職の祝いの同級会の二次会で、
私に悩みを打ち明けたことがあった。 「俺には、俺の人生がなかった!」と。昔の学生時代の友人とのエピソードの中に、
当時はまだ支配されていた両親の価値観や躾などから発する喜怒哀楽などに、その壁を見ることができる。
私の記憶には全く残ってないが、その友人が言うには、「欧州旅行時に、船の甲板でセーターを私から借りた。
そして返そうと手渡したら、烈火のごとく怒った。‘たたんであったセーターを返す時は、たたんで返すのがスジだろう。
それを、そのまま返すのは失礼じゃないか!」 と。今なら、まあいいや!位にしか思わないが、10才位までの家庭環境が
10人の大家族のうえに、従業員が7~8名が住み込みでいた。そのため人に対する気配りを幼児の時から仕込まれていて、
金の貸し借りは厳禁、ものの貸し借りも非常に厳しく制限されていた影響が残っていたのだろう。当時も25人の寮生活をしていて、
他人に対する気遣いが要求されていた。合気道というクラブにも入っていた。当の本人(友人)は集団生活などしたこともなく、
友人から怒鳴られたこと無かった。「その時、初めて相手に対する気づかいを教えられた」という。それ依頼、
現在でも他人に対する気遣いの教訓にしてきたという。「ふーん、昔から怒りっぽいかったのだ。それと、躾がチャンと
身についていて、知らないうちに友人に押し付けていた」と、改めて思い知った。しかし当時、島田の彼の家に泊めて
もらった時のこと。朝食を食べている時に、箸を持った手で味噌汁の御椀を持ったら「何で、そんなミットモナイことをするのだ」
と怒鳴られたことがあった。私の家では、箸での引き膳などに対して注意されることはなかった。それぞれの家庭文化があるのだ。
それは結婚した時に、互いに実感することであるが。寮生活でも、全国から集まっている多種の人と共同生活をしていると、
それぞれの人の背後にある家庭まで見えてくる。そして異種の人との軋轢が、現在になって勉強になっていたと恩い知らされる。
その点で軍隊生活の経験も必要ではないだろうか。 変な洗脳がなければ、の話だが。
        (o´・ェ・`o)ノ♪ バイバイ!
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2005年06月02日(木)
 1521, お人よしニッポン
昨日の産経新聞4面の「北京春秋」というコラムーお人よしニッポンーというコラムが、言いえて妙で面白い内容であった。
日中関係の悪化のおり、この紹介してあった小話が「日本人のお人よし」を旨くあらわしている。
先日書いた、『知らないことを知らない恐ろしさ』に内容は通じるが!
 その内容とは。
ー小話ー1
「・アメリカ人は殴りたい奴を殴る。  ・イギリス人は殴られている奴を殴る。
 ・ロシア人は殴られたら殴り変えす。 ・中国人は殴られたら抗議する。
 ・日本人は殴られても愛してしまう。 ・中国人は殴られなくとも抗議するというところか」
ー小話ー2
「六ヶ国協議で日本人がトイレに立った後の会話。
・中国「日本を本気で怒らせようと思っても難しい。潜水艦で領海を侵犯してもおこらない
・韓国「独島を占拠しても怒らない。」
・ロシア「北方領土を占拠し続けても怒らない。
北朝鮮「なら俺がミサイルを撃ち込んでみようか。」
アメリカ「よせ、もう60年前に原爆をうちこんでみた。」
 まあ強烈な皮肉の小話だが、今の日本の弱腰の外交を そのまま言い表しているようだ。まずはアメリカの属国を直視すること。
 そして今後も属国であり続けるのか、真の独立を図るのか? 前者を選択をしているのが現状である。現在の事態では真の独立は無理?
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2004年06月02日(水)
 1156, 世間とはー4
「世間さま」という、我々を取り囲んでいる妄想について何回も書いてきた。世間とは、いつの間にか自分で作りあげてきた
バカの壁」でもある。といって、日本のような島国では、どうしてもお互いに気を使いながら藤沢周平の「海鳴り」の中で、
ある商人の世間に対する気持が正直に書いてあった。作家は、世間というものを鋭く観察するものと感心をした。
私の世間感とほぼ一緒である。それぞれの世界では、世間の妄想とはこんなものだろう。
 ーたしかに世間には善意の人もいれば、悪意の人もいた。
世間は時には悪意をむき出しにして襲いかかってきたが、稀には救いの手を差しのべても来たのである。
渡る世間は鬼ばかりではなく、世間は善意と悪意の巨大な混合物だった。だが善意の人も、一たん利害が対立すると、
手のひらを返したように悪意に満ちた中傷をばら撒いたりすることもめずらしくなかった。つまり、と新兵衛はそのころ
思ったものだ。無償の善意などというものを世間に期待するのは馬鹿げていて、この世はむしろ悪意に満ちていて、
隙があれば足元をすくおうとしていると覚悟をしていた方がいい。それが、どうにか自分の才覚でまわりと折り合いをつけ、
自分自身も人の足をすくうような真似をして、きわどく世を渡っているうちに。商人である小野屋新兵衛の身についたようなものだった。
その中で得た一番の教訓は、人に弱味を見せてはならないということだった。世間に侮られず、憎まれず世間を渡るということは
難しいことだった。だがかりに憎まれても、根性さえしっかりしていれば、商いが潰れるようなことはない。
同業に憎まれながら大きくなった須川屋嘉助のような例もある。須川屋は人の思惑など屁とも思わず憎まれれば反発をしてコワモテの
商いをして、ついには誰も手がつけられない大物になった。だが、人に弱味をにぎられ、侮られるようになると、商いもお終いだった。
人の弱味をにぎり、侮る側に回ったときの世間が、いかに残酷に振舞うかをみてきている。
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2003年06月02日(月)
789, 東京見物
この二日間、東京と鎌倉に行ってきた。まずは初日の東京見物の話。さっき帰ってきたところだが、「新潟と地球の僻地」
を行ったり来たりしていた世界とは少し違う。一泊二日で約16000円の東京宿泊パックである。新幹線とホテルのパックで、
ホテル代が無料ということになる。指定された列車で二人以上という条件がつくが安い。日曜日の8時45分の新幹線で出発する。
家内は上野で降りて、息子に会いに行く。私は東京駅近くの八重洲ブックセンターに行く。13時の待ち合わせまで、アッと
いう間に時間が過ぎる。よくぞこれだけ面白そうな本があるものと驚く。その後、家内と丸ビルに行く。思ったより落ち着いた、
奇をてらってないのがよかった。そこの和食のランチが1800円と高いが、それを感じさせない店であった。
そして日本橋三越本店に行く。 店員の多いのと、催事場の人の多さに驚く。それと年配ー60歳から80歳が8割がたであった。
17時半より、はとバスに乗る。20数年ぶりのハトバスである。新宿の高層ビルの54階での食事と、お台場をまわるコースで
7500円である。50人以上の定員に12名の乗客である。世界の刺激の強いところばかり行っていた為か喩えると、
薄いコーヒーをクリープをタップリ入れて飲んだ感覚であった。お台場も雨上がりの為、何ともいえない趣があったが!
それより、新宿のパックの指定されたホテルが見つからず、危なそうな場所をさ迷ったほうが刺激的であった。
ポイントを効率的に回った!のがよかった。
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2002年06月02日(日)
 425,父・堀井誠作のことー2
・女性の噂の全くない非常に真面目の人であった。家庭人としてこれが一番の基本である。
・非常にシャイなところがあった。
・商売では非常に厳しし反面、それを離れるとやさしいところがあった。 これは自分で心がけているが、
 営業を狙ってくるタイプはその隙を狙ってくる。 年内にその整理に入る!!!!ーこれは自分の話しか!
・その時々の時代に合わせて仕事を変えていったのは、最も学ぶ事であった。
・仕事も私生活も、楽しむ事が基本にあった。これも両親からの最大の教えである。
・宗教に関しては、ごく普通の仏教徒であった。 特に法事などの仏事に関しては非常に大事にしていた。
 (字数の関係でカット2010年06月02日)