無縁社会 〜新たな“つながり”を求めて」 NHKスペシャル 2月11日
  =内容=
‘社会に居場所がない’―― ‘無縁’となる人たちは高齢者だけでなく、すさまじい勢いで低年齢化し、
日本列島に無縁社会が広がっている・・・。「未婚で高齢の親と同居しています。私も無縁死するかもしれません」
「介護で仕事をやめざるをえなくなりました。日々、自分は無縁だと感じます」。無縁社会の放送を見てNHKに寄せられた
一万件を超える声。 多くは20代から50代の働き盛りの世代からだ。未婚、離婚、失業、職場での人間関係の希薄化。
若い世代を無縁社会に引きずり込むきっかけはあらゆるところに転がっている。 この世代に広がる自殺や心中。
無縁化した若者たちが社会での居場所も、自分の存在意義も見失い「無縁死せざるをえない、無縁死してもかまわない」
と考えるようになっている深刻な現状が浮き彫りになる。 ‘心の居場所’を作りたい――無縁化した人たちが再び、
社会とつながるための様々な試みを通じて、無縁社会を乗り越えるための処方箋は何か、解決の道筋を模索していく。
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 この金・土曜日の二日間にわたり、ゴールデンタイムにNHKで放送されたが、考えさせらる内容だった。
知人に孤独死で亡くなった人がいたが、これは誰もが今後起こりえる問題。 ここでは、正社員をやめさせられ、
非正規写真をしながら食い繋いでいる中年に差し掛かった人たちの姿を追っていた。 また自分が社会から
必要とされてないのでは?という挫折感が心底の重しになっている。 「縁」という言葉は日本特有の言葉。
一神教の世界では、絶対神 X を発明し、常に祈ることで神様と共に生きている。 聖書が常に傍らにあり、
休日には教会に行けば、そこには信者仲間がいる。しかし日本には身近な周辺の因縁社会が、その役割を果たしてきた。
しかし最近ではプライベート的には、会社も、近所の人たちとの関わりあいが希薄なってきている。 一度、正社員から
非正規社員になると、社会との関わりが更に希薄になる。その中で縁を作るのも並大抵でない。
一神教徒からすれば、その辺がリアルに見えてくる。 しかし、彼らの切実な叫びから聞こえてくるのは凍り付く孤独感。
ふと孤独死をした知人の魂が、「御前さん分かるか、この気持ち?」と語りかけてきた気がした。が、最期は誰もが独り死ぬしかない。
仏様の像の小指と死にいく者の小指に赤い糸を結んで見送る風習があるが、やはり最後は神様しかないのか。
 そういえば無縁墓を両親に頼まれて、毎年、ひとつお参りしているが・・・ 
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3247, 時事放談
 2010年02月14日(日)
  アメリカの露骨な日本タタキが始った。小沢、鳩山の次はトヨタのバッシング。国内でも時を待ったように
 プリウスが槍玉に上げられた。アメリカにとって丁度良いネタ。次はドル安、円高圧力の再開である。 日本を揺さぶるなど朝飯前、
 次は年度末にかけて株式あたりの揺さぶり。アメリカの海外に向けての揺さぶりは北朝鮮かイラン。中国も上海万博までは景気を
 維持するだろうが、その後の反動期に狙われる。中国人は「流砂の民」。まとめようとしても 指の間からサラサラと落ちてしまう。 
 大きな権力で枠組をつくっておかないと体制は崩れてしまう。しかし20数年続けてきた「一人っ子政策」のプラス面もある。
 下々は底から這い上がりたい一心に両親が二人がかりで全エネルギーを注ぎ込む。 本人は堪ったものではないが、エネルギーが
 集中されるから教育効果は大になる。日本は、その間にアメリカの骨抜き政策の効果で「ユトリ教育??」が完成。 
 それが社会の中枢になりはじめてきた。秋葉の無差別殺戮は、その象徴的なもの。自分たちが、その犠牲者ということすら自覚できない。
 現在は就職難で企業は新卒を極力採用しなくなっている。 彼等大部分の素材が適応外ということを知っている。
 数年もしないうちに大部分が適応できないで辞めていくからである。  日本はダウンサイズの過程に入った。
 これから10年は日本も世界も混沌とした時代になる。 二年後の予算編成が不可能という日本は、デノミという貨幣制度の変更が
 現実的になってきた。失業は10パーセントを超え、炊き出しが日常の視界に入っているだろうし、危険で街も歩けない事態か生じる。
 それが恐慌の現象である。一度、落ちるところまで落ちないと、この国は自己コントロールが出来ないようだ。 
 現在の国家の変調は、アメリカの日本人の愚民化の占領政策の完成と、百数十年づづいた官僚制の疲弊からきている。
 米英と官僚シンジケートが日本を支配していたのである。 そうこう考えると恐慌3〜5年目の、今年から三年間は
 特に厳しい時代になると覚悟をした方がよい。 開き直って「なるようになる!」で、立ち向かっていくしかない。
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2872, 貧困率 
2009年02月14日(土)
 最近になって、「貧困率」という言葉が話題になることが多い。
 −そこでウィキペディアで調べてみた
  貧困率は、「絶対的貧困率」と「相対的貧困率」とに大別される。
絶対的貧困率
 当該国や地域で生活していける最低水準を下回る収入しか得られない国民が全国民に占める割合の事。
 相対的貧困率よりも実状を反映しやすいという特徴があるが、逆に言えば、「生活していける水準」を
 どのように設定するかによってさまざまな基準があり、設定者の主観が入りやすいという危険を持つ。
相対的貧困率
 国民の経済格差を表す指標で、「年収が全国民の年収の中央値の半分に満たない国民の割合」の事。
 絶対的貧困率と違い数学的な指標なので主観が入りにくい。しかし絶対的貧困率と異なり国によって
「貧困」のレベルが大きく異ってしまうという特徴を持つ。この為裕福な国Aにすむ人が
 相対的貧困率の意味で「貧困」であっても、貧しい国Bにすむ人々よりもずっと豊かな暮らしをしている、
 という事もありうる。よって相対的貧困率は「貧困率」という名前であるが、貧困を表す指標と
 とらえるよりも国民の経済格差を表す指標ととらえたほうが正しい。
 −−以上だが、貧困率アメリカは17パーセントに次いで、日本は15パーセントの二位。
 アメリカでは黒人・ヒスパニック系が25〜30パーセントに対して白人は10パーセント。
2000年には日米ともに13・5パーセントだったことから、その数字はジワジワと上がっている。
社会保障の行き届いている北欧はわずか5〜6パーセントからみれば、異常な数字と見てよい。
現在の日本の平均収入が307万円だから、大よそ150万がラインだが、実際には月15万×12ケ月=180万辺り。
中流時代という言葉が懐かしい時代になってしまった。「ゆとり教育」の世代が社会の中核になってきたが、
ますます貧富の差が大きくなる要素が増えてしまった。 とはいえ社会主義政策の結果の総貧困社会も困る。
社会主義者は現在でも、やり方が間違っていただけと言ってはいるが・・貧困の恐怖が人間のエネルギーの元になってきたが、
それさえ感じられない世代を「ゆとり教育」が作りあげてしまった。結果として、能力カースト制度を子供時代から
作り上げてしまった罪は大きい。国が衰える背景には、マイナスの重なりがある。情報社会は、格差の実態をアカラサマに
露出するから鬱積が溜まり爆発するのである。自由主義の拡大は、結果として豊かになる自由もあるが、貧困になる自由もある。 
「自由、平等、博愛」は人類の永遠のテーマである。 これも動物である限り共同幻想ということ?
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2008年02月14日(木)
2507, 地頭が良い人       b(’0’)d おっ w(゚Д゚)w ハァ?
 私の知人に何人か、地頭の良い人がいる。本人も自身の地頭の良いことを自認している。これは学歴の高低ではなく、
彼は常に何かを目標を立てて、ポイントを把握して、最重要順に実行する手順に入る習性が身についている。
人生の節目を知っており、その時節には自然と変身を始めている。こういう人は、人の話を良く聞く。そして、その話(情報)を、
己の言葉に置き換え行動の手順に置き換える。小林秀雄の「無私の精神」という文章に行動家の精神パターンを書いていた。
行動家は無私の精神構造になっていて、全てを知った上で、己を抑え目標を達成する。ある意味で、それをゲーム化をして楽しむことの
できる人である。ところで、昨日の日経新聞の新聞広告に「地頭を鍛えるー問題解決に活かす『フェルミ推定』」−という本があった。
気になったので、アマゾンで内容を調べてみた。買うほどの内容ではないが、一応、概略を私なりにまとめてみた。
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地頭力とは「未知の領域で問題を解決していく能力の事で、環境変化が激しい過去の経験が未来の成功を保証するとは限らない
現在において重要な 能力と定義される。まずは、IT化によって手軽な情報を安易に利用してコピーする『コピペ族』が
増加しているが、真に頭を使いこなす者は減少していると前書きで述べている。地頭力の本質は、「結論から」「全体から」
「単純に」考える3つの思考力である。すなわち「結論から」考える仮説思考力、「全体から」考えるフレームワーク思考力、
「単純に」考える抽象化思考力だ。地頭が良い人とは この3つの思考力は鍛えることができるものであり、地頭力を鍛える
強力なツールとなるのが「フェルミ推定」である。「シカゴにピアノ調律師は何人いるか?」。
こうした荒唐無稽とも思える問いへの解答を導き出す考え方のプロセスを問うのが、「フェルミ推定」だ。
フェルミ推定」と呼ばれるのは、「原子力の父」として知られ、ノーベル物理学賞受賞者でもある、
エンリコ・フェルミ(1901~1954)に由来する。本書では、「日本全国に電柱は何本あるか?」といった例題や
その解答例から「フェルミ推定」のプロセスを紹介しつつ、「好奇心」「論理的思考力」「直感力」
という地頭力のベースとそれらのベースの上に重なる仮説思考力、フレームワーク思考力、抽象化思考力の3つの構成要素と
その鍛え方を解説している。」未知のテーマに向かうとき圧倒的に効率よく対処する方法、思考力を 鍛えるための方法、
仕事のアウトプットを増やす方法として大変参考 になる。特に「完璧主義」的傾向のある人はこういう現実的なやり方 もあるのだ
ということをインプットしておくことはきっと自分の能力 をさらに高めるきっかけとなるのではないかと。
地頭力とは「未知の領域で問題を解決していく能力の事で、環境変化が激しい過去の経験が未来の成功を保証するとは
限らない現在において重要な 能力と定義される。「フェルミ推定」とは 把握する事が難しく、ある意味荒唐無稽とも
いえる 数量について何らかの推定ロジックによって短時間で概数を求める方法です。
フェルミ推定はこれら3つの思考力(仮説思考力、フレームワーク思考力、抽象化思考力)に知的好奇心を
含めた要素から 、アプローチ設定、モデル分解、計算実行、現実性検証といった基本プロセスを通じて実行されます。
 ==
この本の要点としてはこんなものだが、地頭は色々な要素が重なって出来上がる。それは、その人自身が長年かけて
作り上げていくしかない。逆に地頭のまったくない人は、羅針盤機能が荒い人が多い。
考えることを知らない人? 自分のことを考えると、まあ、自己嫌悪に陥るから止めとこう。 。´_`)ノ バイ
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2007年02月14日(水)
2143, さおだけ屋はなぜ潰れないのか?
        オッ(*^○^*)ハ〜ヨウサン!
いつも本屋の平台にあったが、初心者用の会計本と何度か手にとってみたが、それ以上には興味の無い本だった。
ところが図書館でこの本を見つけたので早速借りてきて目をとおした。月に一度は土日に『毎度お騒がせのチリ紙交換です』という
替わりに『さおやー、さおだけー、たけやーさおだけ、二本で1000円のサオです。』とあいも変わらず聞こえてくる声がある。
何をしているのだろうか?と誰もが思うのが当然である。この種明かしは簡単である。金物屋が、副業で暇な時間を
見つけてテリトリーの中を、在庫原価をゼロに落としたサオをアタカも専門店のようにしてマイクで走るのである。
そのサオ屋は情報収集をしているのである。
  (字数の関係でカット2009年02月14日) ホンジャ  ヾ(*´▽`)ノ=з=з=з  バイバイ!
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2006年02月14日(火)
1778, ライブドア問題の深層         b(’0’)d おっ  w(゚Д゚)w ハァよー
ライブドアの株価が、昨日91円から60円に暴落、絶望的な株価になってしまった。
毎日新聞の数日前の「記者の目 」ー「プロの金融犯罪」の印象ー の、ライブドアに対する記事が鋭い。
・何故いきなり東京地検特捜が、金融庁や証券取引委員会の告発の手順を 踏まずにストレートに踏み込んだのか、
 という経済関係者の疑問と
資金洗浄をしなければならない理由は?
・そして役員が何故、自殺をしなければならなかったのか? 等々。
 今朝、毎日新聞に載っていた自殺した野口取締役の自宅から発見された構造的犯罪システムとしての
 チャート図からみてもITという名の隠れ蓑の下に「もともと悪質のプロの金融犯罪集団(ライブドア)が金融機関と組んで
 おこなった可能性」である。たまたま、やり過ぎたのではなく、もとともプロの犯罪集団だった?のではという疑問である。
 そういう眼でみれば、この一連の不可解な強圧的な日本放送の乗っ取り劇や、資金洗浄、役員の自殺、
 そして特捜の直接的な動きが見えてくる。 背後にあるのはユダヤ資本か、あの穢れた関西系の??か、 
 それとも・・                   アーへ(´д`へ)(ノ´д`)ノ
  ーその毎日新聞の記事 「記者の目 」とはー
 ライブドア堀江貴文容疑者について、法律違反を犯したことは責められるべきだが、
 彼が果たした功績については評価すべきものもあるのではないか、という議論がある。 
  (字数の関係でカット2008年02月14日)
  ー毎日新聞 2006年02月10日付  βyё βyё...φ(´д`
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2005年02月14日(月)
1413, スペインについてー2
ー闘牛の話
闘牛について何回か断片的に感想を書いてきたが、もう少し詳しく闘牛について書いてみる。
三回行ったスペイン旅行のうち、二回見ている。マドリッドで初めて見た闘牛には、大きな衝撃を受けた。
帰りは下を向いて黙って帰ってきた。とにかく残酷なのだ。その日、一人の闘牛士が牛に突き殺されてしまった。
牛の角に刺されて空中に放り出され、会場が異常にどよめいた。こういう場合殆ど、闘牛士は亡くなるという。
死ぬと、闘牛の世界では大ニュースになる。現地のガイドが興奮をして、「こういう場面に出くわしたことは、不謹慎だが、
非常に幸運です」と言っていた。二回目に見た、パンプローナ牛追い祭りの最終日の闘牛が面白かった。
牛追いは、その夜の闘牛の牛を早朝街を追い上げる時に、男達がその前を走って勇気を競うことから始った。
またヘミングウエーの小説の舞台にもなって、世界的に知られるようになった。延々と続いたパンプローナの最終日、
興奮は最高潮に達してスペイン中がこの闘牛に注目する。二回目となると、初めと違って冷静に見ることができる。
闘牛は、闘牛士と人間の殺し合いである。生と死のギリギリのドラマが演じられる。興奮した牛の登場から、熱狂的な
闘いの後、死体になって数頭の牛に引きずられながら葬送のラッパと供に消えていくまでの全てを見るからこそ良い。
アンフェアなのは、牛に何回か槍を刺して弱らせてから、闘牛士と闘うことだ。そのままで闘うと闘牛士が殺される
ケースが多いからだ。初めてみた時には、アンフェアと腹が立った。が、二回目から「こんなものだろう」と楽しむことにした。
一晩、2時間以上かけて、前座から横綱クラスまで、三人の闘牛士と六頭の闘牛の闘いがある。闘牛士にもランクがあって、
その実力は見ていても解る。牛にも実力があり、闘牛用の牧場で人間に触れないようにして、野性味を残してある。
とにかく逆三角形で大きく格好がよいのだ。また闘っている姿は、勇者そのものである。気の強い奴、弱いくて逃げ回る奴、
性格のクセのある奴、それぞれ違っている。闘牛士も同じだ。 気の弱い牛は途中でも退場させることがある。
相撲は僅か数秒の勝負に気を入れた仕切りを長々し、だんだん気合を入れていく。そして立ちあいの駆け引きの後に勝敗が決する。
最後に負けた力士が、肩を落として帰る場面までのフルコースで成り立つ。ダイジェストで勝負の一瞬を見ても何も面白くはない。
闘牛も同じである。地元の観客を見ていると、この殺戮をサンドイッチを食べながら家族連れで見ている。
最後に死んだ牛を、ラッパによる葬送と供にヒモを付けた虚勢した牛が引きづって退場するのだ。そして、帰りに解体された牛肉が
売店で売られている。西欧文化東洋文化は基本から全く違う。長岡近郊の山古志村の「闘牛」は、牛同士の押し合いでしかない。
中世にスペインが南米を占領したのも当然である。イラクとか、アフガンも同じ構図である。アルカイダの立場も解らないではない。
今の日本は、この闘牛の牛でしかないのだろう?少し飛躍をしたが。とにかくスペインは、情熱と死と愛が、入り混じった文化が
露出している。芸術、建物、踊り、そして、闘牛。  以前書いた、「スペインについて」をコピーをしておきます。
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2004年02月14日(土)
 1046, ノンアルコールに切り替えて
ノンアルコールビールに切り替えて10日ほど経つ。アルコール度は0.5?ほどで普通のビールの10分の一程度だ。
500mmのビールを、350mmのノンアルコールしたのだから体調はよい。紹興酒一合位を今でも飲んでいるので、
一晩のアルコール量は半分になったことになる。今のノンアルコールは一度ビールを造った後に、アルコールを抜く
製法をとっているためか以前のような不味さはない。面白いもので慣れてくると、こんなものかと気にならないし
普通のビールを飲みたいとも思わなくなった。
(字数の関係でカット2010年02月14日)
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2003年02月14日(金)
681,「まれに見るバカ」ー 読書日記 ー1
「ぶざまな人生」が面白かったので、同じ著者のこの本をインターネットで取り寄せた。とにかくスッキリする!
「わが内なる馬鹿」というところか。わたしも辛辣だが、ここまでひどくはない!読んでいて私など可愛いものだと
思ってしまう本である。こんな本を書いてみたいものだが無理だ。下手な書評などより「まえがき」と「あとがき」を抜粋。
ー表紙裏ー
人の世に一定程度のバカがいるのは常識である。「浜の真砂はつきぬとも、世にバカの種はつきまじ」と。
しかし、そうは知りつつも、平成の世にわが日本につぎつぎとバカが異常発生している驚くべき事態をいったい
どう考えればいいのか。性別も年齢も、収入も地位も関係がない。さらには有名人・無名人も問わない。
なぜ、こうした事態がこの国に出現したのか?「バカ」の生態と由来とその現状をあますところなく伝え、
読む人に不思議なことに、生きる勇気が湧いてくる「当世バカ」                 生態図巻。
・・・・・・・
2002年02月14日(木)
 331,、お見舞いの手紙−堀井正子さんへ
お見舞い申し上げます。どう見舞ったらよいか? 最善と考えてこの本(フランクルの<生きる意味について>)を贈ります。
非常に深い内容のある本です。今度の貴女の病、あなた自身にコペルニクス的大転換(人生に何を要求するかより、
人生そのものが貴方になにを求めるか?)の問いの大転換のチャンスです。この本を読んでいるうちに、何かが見えてくるのでは
ないでしょううか。<過去の総てを肯定し、容認すべし> 父が死を目前にした時「もう一度、同じ人生を・・」と言っていました。
これは非常に深い言葉だったと思います。それも知識より触発された言葉でなく「苦しみの底より掴んだ言葉」だからこそ
父のこの言葉を素晴らしいと思います。貴女の場合「池津屋とともに生き、そしてそこを去り倒産、そして音楽の先生という人生」
はそのまま安穏とした人生より、はるかによかったという見方です。自分の人生の総てを肯定する見方です。
この数年父の心境が判りかけています。「社会的自分を一度すてて、真なる自分」を今一度じっくり見つめ直す時期です。
「過去の総てを肯定する視点をもつべし」これは私が言った言葉でなくフランクルがいっている言葉です。
神が一日だけ、この世の中にある人を呼び戻したそうです。総てが光輝いて見えたそうです。
娑婆の人間に「何故それが見えないのか?」「どうでもよいこと、娑婆の表象」に流されているからだと思います。
そのゴミの中で生きているからです。それを餌の種にしているからです。これを機会に真実に生きてください!
    ご自愛のほど!             ー魂の言葉ー    2000年11月30日 ー 八郎
・・・・・・・・・
2月14日 金曜日  1969年
10時起床。 17時に、池袋の松山寿司で行われるゼミの「我々の追い出しコンパ」に出席をする。
和やかな時間を過ごすが、石川と雲行きが怪しくなった。同期の田島も出席をしていた。
卒論を出せなかったのでやめたといっていたが寂しそうな顔をしていた。武澤先生と話をしながら泣いていたようだ。
私も気が緩んだのか、好き放題のことを先生に言ってしまった。そんなことを言えた柄でもないのに。
先生の最後の贈る歌が感動的であった。三年生からの贈り物で電気スタンドをもらう。
武澤ゼミに入って本当によかった。 自己疎外に陥り、反発も感じ、苦しんだ。
しかし、それもゼミに対する私自身の能力不足が原因である。これだけの思い出を、このゼミに入ったおかげで
得ることができたのは青春の財産になる。本当によかった!その後、2次会で私が幹事をする。
そこで先生の前に座り込んでクダをまく。先生に見得を切ったのだ。 バカもいいところだ。
最後の最後、石川と殴り合いをしてしまった。どういうことか、過去に一度も乱れたことのない自分が今日は本当におかしい!