「2009-2019年  大恐慌 失われる10年 」 浜矩子/高橋乗宣 (著)
  ーまずはアマゾンの内容紹介からー
■これから「10年恐慌」が始まる!
 アメリカドルは基軸通貨としての価値を失い、今後さらなる保護主義統制経済へと突入していく。
 ユーロもドルに替わる基盤ができておらず、現在の大恐慌の痛手を直接こうむっている。
 リーマンショックに端を発した金融危機は、カネがカネを回す「金融IT化」「金融工学化」「金融証券化」の結末である。
 それゆえに、1929年恐慌とは異質なものである。これからの10年は「失われる10年」となるのか。その時、日本は
 どのような経済システムの中に組み込まれていくのか。大恐慌後の世界を、浜矩子、高橋乗宣2人の論客が読み解いていく。
■負の連鎖は世界各国に波及している 
 大恐慌津波は、アメリカ本国よりもむしろ欧州各国に直撃していると言っていい。
 ユーロがアメリカドルに替わる基軸通貨となり得ないことが、各国の状況、IMFのこれまでの不始末から言及することができる。
●老衰死のイギリス
 サッチャー改革で巻き起こったイギリスバブルは、ロンドン一極集中で、地域格差を生んだに過ぎなかった。
 日本のバブルの轍を踏んだイギリスは「失われた10年」を経験する
自閉症のドイツ 
 旧東ドイツのワーカー待遇改善で賃金格差縮小の狙いが、大恐慌で不透明に。
 立ち直りのきっかけを失ったドイツは、今後ネオナチの台頭の可能性も。
●目立ちたがりのフランス
「フランス・ナショナリズム」はどこまで突き進むのか?国外から入ってくる企業の締出しでサルコジ政権の実像が浮かび上がる。
●相変わらず身勝手なアメリ
 オバマ自由主義、市場主義に別れを告げるのか? 貯蓄傾向が高まっているアメリカの消費は確実にブレーキがかかる。
 明らかになったドルの崩壊から1ドル=50円時代がやってくる。強烈な保護主義統制経済となった時、日本は生き残れるのか?
暴走する国家は、今後、迷走する国家へと変貌を遂げる。さらにリセッションする国、ギブアップする国、
再びランディングを遂げる国……。「失われる10年」は、我々にどんな教訓を示してくれるのだろうか。
 ーー
 この本、何を言いたいのか何度も目を通したが、よくわからない。二人が対談をしているわけでもなく、
対策を述べているわけでもない。イギリスを中心とした欧州はダメ、アメリカは終わった。
中国もアメリカ目当ての輸出がダメで内需を目指そうとしているが、日本でさえ輸出頼みを克服するため内需拡大を目指したが
ダメだったのに、中国が成功するわけがないと切り捨てている。 「この10年間は大恐慌で大混乱、失われた10年になる」
と結論づけている。 甘い期待は無理ということである。

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2902, 脳と仮想  ー2
2009年03月16日(月)
「脳と仮想」茂木健一郎著    ー読書日記
 ー印象に残った部分を抜粋してみるー
・広大なグランドキャニオンの前に立とうが、北極のオーロラを見上げようが、体験する広大の光景は全て脳内現象である。
 世界に脳だけあるといっているのではない。そんなことは当然のことだが、外部から入った刺激に基づいて脳のニューロン
 活動しなければ、我われは広大の宇宙を表象することはできない。逆に、もし広大な宇宙が無くても、脳の中で
 ニューロンがある時空的な様式で活動すれば、私たちは広大な宇宙を表象することになる。もしそうなら、逆理が浮かび上がる。
 もし私たちが体験することが全て脳内現象なら、私たちは何故、広大な宇宙を思い浮かべることが出来るのか?
 いかに、私たちの思い描く世界は、脳内現象として一リットルの空間に閉じ込められていながら、無限定の空間を志向する
 ことができるのか? ・・・「熊本より東京の方が広い。東京より日本のほうが広い。日本より・・・」で切ったが、
 三四郎に男はいった「日本より頭の中のほうが広いでしょう」と。
・「真理がどこにあるかといえば、それは仮想の世界にあるというしか言いようがない。どこかの博物館に、
 これが真理でございますと飾ってあるわけがないのである。
 私たちの精神の中枢に仮想がある。そのように考えると、「見る」ということの本質も違って見えてくる。
・現実のどこにもない仮想は、現代人の心の中でも中枢の位置を占めている。
 私たちの精神は、頭蓋骨の中の「今、ここ」の局所的因果性の世界と、「今、ここ」に限定されない仮想の世界に
 またがって存在する。 私たちの精神は、本来的に二重国籍者なのである。
・脳内に閉じ込められているだけでなく、心の本質的な属性をとらえた概念が「志向性」である。
 志向性とは、心が何かに向けられた状態をいう。そこに心が
・私が恥じたのは、人間がそもそも生きものであり、それであるがゆえに、厳しい生存条件に置かれてきたことを
 理屈で判っていても、感覚的に忘れていたことである。つまり文明に飼いならされていたのである。
 真実は恐ろしい姿をしている。 人間は、なぜ、「平和」という仮想を生みださなければならなかったのか。
「愛」という仮想を生み出さなければならなかったのか。
 平安仏教を特徴付ける「極楽浄土」というヴィジョンは、どのような生の必然性から生み出されたのか。・・・
 私たちの意識の中で生み出される様々な仮想は、このうえなく厳しい人間の生存の中で、私たちの心が傷つき、
 その傷が治癒される際に放射される光のようなものはなかったか。
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考えてみたら、自分に対しても、頭に浮かんで考えている相手にしても、社会も、全て「仮想」でしかない。
「精神の中枢に仮想がある」と自覚すると、良きにつけ悪くにつけ仮想している自分を見ている自分も
仮想ということに気づく。自分の頭蓋骨の中の一リットルの脳は自分でさえ得体の知れない世界である。
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2538, 一神教vs多神教
2008年03月16日(日)
   最近、ユダヤ教キリスト教イスラム教などの一神教に対して疑問を持ち始めた矢先に
   図書館で、この本を見つけた。 この3つの宗教の元はユダヤ教で、共通の唯一の神を信仰している。
   それがお互いに憎しみあい殺しあっているから、複雑なのである。 早く言えば民族戦争なのである。
 ー概要を解りやすく箇条書きにすると、
・元祖であるユダヤ 教は、迫害されて逃亡した奴隷たちの宗教、迫害され差別された人々の宗教のために
 恨みと復讐心がこもっている。被害者は、その被害をより弱い 者に移譲しようとすることで被害者の劣等感、
 屈辱感を補 償しようする。 他人を同じように不幸にして自分を 慰める。  
・差別された奴隷たちがモーゼに 率いられてエジプトから逃亡する過程で形成された「民族」としてユダヤ人となり、
 ユダヤ教自体も、その逃亡過程でエジプトのアトン信仰の影響を受けながら、純粋な一神教へと形成されていった。
ユダヤ人の中でさらに差別されていた人たちを救う宗教としてイエスキリスト教をつくった。
 そのキリスト教が、ローマ帝国の奴隷、下層民に受け入れられ、ローマ帝国の国教となり、
多神教を信じていたヨーロッパ人もまた、ローマ帝国の圧力でキリスト教を押し 付けられて心の奥底で「不幸」を感じた。
 そのため一神教を押し付けられた被害者のヨーロッパ人が、自分たちが味わっている不幸と 同じ不幸に世界の諸民族を
 巻き込みたいというのが、近代ヨーロッパ人の基本的な行動だったのではないか。
・欧州で差別された人々が新大陸に逃げ込んで、その先住民へ攻撃と迫害などをしていった。
 そこで造られたのがアメリカという国。つまりアメリカは被差別の最終駅になる。
 だから潜在意識の中で人類を恨み、攻撃的になり、非常に強くなった、という。
・ヨーロッパ人が、人種差別に基づく残虐性を発揮して世界制覇を果たしたのは、
 強烈な被害者意識があったからだという。 それをもたらしたのは、白人の始まりが白子で、そのために黒人から
 アフリカから差別されて追われたことと、ローマ帝国に無理矢理キリスト教を押しつけられたことだという。
多神教の日本も欧米の圧迫に耐え切られなくなり、唯一絶対神という天皇制を発明した。
 近代天皇制は一種の一神教、擬似一神教として、外に戦争を仕掛けるようになった。
 人類の不幸を被抑圧民族の連鎖という神経症として論じている。これがル・サンチマンである。

  • -

知識を持ってしまった人間は、己の生の限界も知ってしまった。そして未来の不安と恐怖という
マイナスの気持ちを解消するため、そして民族を統一するためにアブラハムはヤフーという唯一絶対神を創ったのである。
これがマイナスにもプラスにも人類に影響してきた。そして現在もである。
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2007年03月16日(金)
 2173, 「いい場所」とは何か     才八∋ウ_〆(∀`●)          
「ファンタジーの魔法空間」 著者・井辻朱美 岩波書店   ー 読書日記
著者が恐竜や古代文明を求めて博物館めぐりをしていた時に気づいたのは、
博物館という場所が、外界とは切り離された凝縮された場所ということである。
最も古い時代の物は必ず最下階に展示され、そこから上の階に昇るにつれて現代に近づいていく。
そして出口には必ず土産物屋やカフェが置かれて「現実へのなだらかな再接続が準備されている」
という。 博物館は時空のトラベルの装置であり、空間化された時間である。
またテーマパークのアトラクションも、閉ざされた建物に入ることによって短い死と再生を体験するように仕組んである。
そういう空間を創り出し、体験することこそがファンタジーの核であり、ファンタジー作品を支えているのは
そういった空間なのではないか、という切り口である。それに気づいた時、著者はファンタジーを「場所」や
「空間」という隠れたコードから読み直すと、より面白いという。
この書ではファンタジーを、
・「家」という空間のファンタジーと、
・「旅」という、別世界への道程のファンタジーと、
・「魔法」のファンタジーの 3つの織りなす物語と説明している。
ところで、「いい場所」とは何か?意識したことがあるだろうか。それは突きつめれば家族の団欒という場所である。
そこで、われわれの精神をつなぎとめ、温め、力を与えるのである。そこには厳しい父親がいて、優しい母親がいて、
温かい食事を皆でとること、そこが「いい場所」なのである。いい場所に神棚を置くのではなく、いい場所だからこそ、
神棚を置くのである。民族にとっては、その聖地が「いい場所」になる。そこが、いい場所だから聖地にするのである。
村にとって、鎮守様の祭ってある広場でおこなわれる盆踊りが「いい場所」になる。家の「いい場所」の台所は、
一家団欒のための煮炊きの釜戸のあるところ。そこは家という母性的な庇護空間の中でもとりわけ母と結びつく。
もう一つの、「いい場所」とは、屋根裏部屋(今では子供部屋)である。とりわけ自分の部屋の押入れの中とか、
押入れの天井の空間があれば、そこが子供の隠れ場になる。そこで最も静かな孤独への上昇をこころみる。母親から見れば、
そこに引きこもって誰もそこにはいれようとしない変な空間だが、本人にとってそここそが聖地なのである。
そこで独り高みから、世の中を見下すことができる唯一の場所である。しかし、独り閉じ篭っていたその場所も、
ある事件を契機に出ざるを得なくなる。ある事情で、ある日あっさりと何でもない空間になってしまう。
これは、誰でも経験する通過儀礼である。「いい場所」は誰でも持たなければならないのだ。
しかし、それは年代ごとに変わっていくものでもある。変われなくなったのが、引きこもりになる。
この冒頭に博物館に触れたが、そこは人類の屋根裏部屋でもある。我われの中に刻まれた古い記憶の痕跡として
懐かしい場所にある。そこは屋根裏部屋にある、先祖の写真だったり、家の宝と同じようなものである。
最近、図書館から4冊のファンタジー関連の本を借りてきたが、ただ単に異空間や、魔法の話ではない。
自分の心の屋根裏部屋の中の秘密の箱を開け、違う世界へ誘う魂への扉である。色いろの人生経験をしてきたからこそ
味わえるファンタジーも、また良い。数年前からWOWOWでファンタジーの映画やレンタルDVDを多く観ていた。
ハリー・ポッター」や「指輪物語」「ナルニア物語」など・・・ 秘境ツアーでケニアパタゴニアで遊びに行くことも、
ファンタジーの世界を旅するようなものである。そこが私にとって、もう一つの「いい場所」である。ヽ(*´∀`*)ノ.+゚
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2006年03月16日(木)
1808, ずっとやりたかたことを、やりなさい ?1
   (☆-v-)。o○《Gооd Мояйiиg》○   書日記
図書館で何気なく借りてきて読んでみたが、すばらしい本である。早速、中古だがアマゾンで発注をした。
特に、「モーニング・ページ」の技法がよい。自分の心のブロックなどを徹底的に見つめて、気がつかなかった心の奥から
知恵を引き出す合理的な手法である。人生は自分の馬鹿の壁を一生かかって乗り越えていく道筋であることを教えてくれる。
夢日記』と同じくらい深い示唆がある。     (*^ー^)/C□~~ コーヒー
ーまずは、訳者のこの本の紹介文であるー  ジュリア・キャメロン著 菅 靖彦訳 サンマーク出版 
人は誰でも、自分の中にアーティストの子どもを住まわせている。
その子どもを大切に養い育てれば、創造的な生き生きとした人生を送ることができる。
どうすれば自分の中のアーティスト・チャイルドを育てることができるのだろう。
その疑問にきわめて具体的なプランをもって答えてくれるのが本書『ずっとやりたかったことを、やりなさい』
(原題『the artist’s way』)である。著者のジュリア・キヤメロンは十五年以上も前から創造性のワークショップを手がけており、
本書はそのワークショップの豊富な体験を元に書き起こされている。彼女自身、映画の脚本や監督を手がけ、『ワシントン・ポスト
ニューヨーク・タイムズ』『ローリング・ストーン』などに、いろいろな論説を載せているアーティストだ。
(字数の関係でカット2009年3月16日)        ー  つづく
ーーーーー
2005年03月16日(水)  
1443, 孤独についてー4
「孤独であるためのレッスン」NHKブックスー諸富 祥彦 (著)を図書館で借りてきた読んだ。
過去に4回、随想日記に「孤独について」書いてきた。
この本はより掘り下げた`孤独であるためのレッスン'が主テーマである。
今流の言葉でいうと、「孤独力のつけ方」が大筋である。
「孤独力」には、
・消極的な意味では、自分が他人の目に左右されずに生きる能力。
・積極的な意味の「孤独力」は、自分自身と深く対話することの出来る能力。
 深さの次元が、ここでは問題になる。 この「孤独力」が、楽しく生きるための大きな要素になる。
孤独はすばらしい。孤独こそが人が人として生きる王道だと、孤独を賞賛し、そして孤独を全うするには、「自分を超えた地点から
自分をながめるもうひとつの目を意識してその目を通じて自分をながめることができること」という。
{年二回の海外旅行は、その目を養うために行っている}といってもよい。また「人は孤独なときだけ精神の深みへ降りていける。
そして、本来の自己を探し当てることができる」と。さらに「本来の自己を探し当てた人だけが真に他者との出会いができる」と。
(逆に言うと、真の自己を見つけ出していない人は真の出会いができない、ということ)子狐を嫌うのは真の自己の何かも知らない輩。
だから、「寂しいからといって、ただ単に人と群れていたら、真の自分は見つけられない。
無理に人に合わせていたら、自分を見失ってしまう。群れない自由な孤独人たれ」と。
「ひとりだと感じているあなた。 人の中にはいりこめないと思っているあなた。
わずらわしい人間関係から、逃れたいけど、できないと思っているあなた。孤独になることを恐れないで。 
ひとりになって、本当に自分のやりたいことは何か、見つけ出して。..」と。この本が語りかけてくる。
 この中の<孤独であるための8つの条件>がよい。
1:「分かり合えない人とは、分かり合えないままでいい」と認める勇気を持て。
2:人間関係についての「歪んだ思い込み」やこだわりに気づけ。
3:自分の人生で「本当に大切な何か」を見つけよ。
4:「自分はまもなく死ぬ」という厳然たる事実を見つめよ。
5:「たった一つの人生という作品」をどう作るか、絶えず空想しながら生きよ。
6:ソーシャルスキルを身につけよ。 他人の話を聴き、他人を認めよ。
7:「この人だけは私を見捨てない。どこかで見守っていてくれている。」そう思える人を見つめよ。
8:自分だけは自分の味方であれ。「自分を見守る眼差し」を自分の中に育め。
人との距離感を適度に保つため、むやみやたらと人に近づかないように相手との距離を保つためと考えた方が良いが。
P-172の文章が孤独について、わかりやすい要約になっている。
ー私はこれまで、こう述べてきました。孤独を恐れるな。孤独は、人生の普遍的な本質であり、
 (字数の関係でカット2009年3月16日)
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この詩は孤独を恐れている心を励ましてくれる。
【詩】ゲシュタルトの祈り
わたしはわたしのことをやり、あなたはあなたのことをやる。
私はあなたの期待に応えるために、この世にいるわけではない。
あなたは私の期待に応えるために、この世にいるわけではない。あなたはあなた。わたしはわたし。
もし偶然にお互いが出会えれば、それは素晴らしいこと。もし出会わなければ、それはそれで仕方がないこと。
フレデリック・パールズ作 (ゲシュタルト療法の創始者

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2003年03月16日(日)
711, キャッシュポイント
 このシビアの言葉が気に入った!ヤクザが恐喝のネタを掴んで「これ脅せる、銭になる!」という瞬間が
キャッシュポイントといってよい。 人生の中で、自分では気がつかないポイントがあったはずだ。
私のごく身近の人に、集ることを人生のポイントにおいている人が数人いるが「これをいっちゃお終いよ」の世界だが。
子供が資産を受け継いだその瞬間も、その人にとってキャッシュポイントである。
 「キャッシュポイント」は、その人にとって経済的に豊かになってしまう、豊かさの源泉のポイントである。
これは誰にでも必ずある。成功する人は人生のある時点でこのキャッシュポイントを見つけている。
この、「自分の内奥に眠る資産」を現金化する方法を見つけてしまえば恐れるものはない。このキャッシュポイントを
いかに探って掘り当てるかが重要なテーマである。これを見つけ、実際にお金に変えることができると、
この上ない幸福感を感じる。本人にとっては「これでお金をもらっていいの?」と考えてしまう感覚である。
そういうものをどんどん掘り進めることがポイントになる。 しかしこのポイントは結果としてしか解らないことが多い。
この反語としての言葉、失禁ーいや失金ポイントがある。私も何回かある、致命傷にならなかったから事業が生き延びているが。
キャッシュポイントより失金ー失敗ポイントのほうが厳しいのが現実である。
事業は14勝一敗では駄目で8勝7休の方が優先されなくてはならない世界である。
それまでの蓄積を一瞬に奪い去ってしまう。 上手くいった時も失敗した時も、そのポイントにいきつくまでの準備に
全ての原因が含まれている。 この言葉はチャンスポイントとも言い換える事ができる。
チャンスはそうあるものでない。やはり準備をしっかりしておかなくては
その一瞬を捉えることができない。このキーワードをレンズとして過去を振り返ってみると面白い。
やはり自分の意志がチャンスポイントをつくっていることが解る。
逆に危機ポイントをみてみると、その裏腹である。チャンスは危機であり、危機はチャンスでもある。
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2004年03月16日(火)
1077, 三分間
スピーチ三分、カラオケ三分、電話三分、メッセージのやり取り三分、
スポーツでは、ボクシングが一ラウンド三分、相撲も土俵に上がって立合いまで三分である。
数年前まで、公衆電話の料金が三分十円だった。本の立ち読みも大体一冊三分である(私の場合だが)。
インスタントラーメンは、お湯を入れて三分である。これは意味が違うか?我慢できる時間が三分ということか。
この随想日記の閲覧もユックリ読んで三分である。これ以上だと、気持ちが他に移り変わってしまう。
集中の一ユニットが三分ということだろう。効率面から考えると、三分の積み重ねをするのが合理的といえる。
会社の朝礼で「三分間スピーチ」を毎朝各人に持ち回りでするところがあるが、これは思考訓練と自己表現の場になる。
 岡惚れ三年 本惚れ三月 思い遂げたが三分間     これは全く関係ないか。