ここにきて、金の価格が動きだしてきた。世界は、大恐慌に向けて動き出したかどうか。
  ーまずは金について、その現状をダイジェストにまとめてみたー

・現在の金の地上在庫(有史以来採掘された量)は約16万㌧で、オリンピックプール約3杯分。
 残されている推定埋蔵量は7万6千トン(50mプール1.5杯分)で、地上在庫の半分しかない。
 公的機関が保有している「金」は約3万2千トンで、地上在庫の約22%を占めている。
  その用途は、宝飾品約50%、公的機関20%強、民間投資15%強、工芸品等10%強。
(2007年)安全資産とはいえ、その需要は宝飾関連が多い。現在、新たに採掘されてる金は、
 年間2500㌧弱で、ここ10年ほどで頭打ち状態。
 16万トン×3千円として500兆円もあれば、地上在庫全ての金が購入できることになる。
・各国・地域・公的機関の金保有量は、
1位  米国     8133,5トン
2位  ドイツ    3412,6トン
3位  IMF    3217,3トン
4位  イタリア   2451,8トン
5位  フランス   2340、7トン
6位  中国     1054  トン
7位  スイス    1040、1トン
8位  日本      765,2トン
9位  オランダ    612,5トン
10位 ロシア     536、9トン
   最高値 1980年1月 6,495円    1982年9月 4,326円
   最安値 1973年3月  750円    1999年9月  836円
  これからみて、現在値の3000円が高いのか安いのか?
 私は「本格的世界恐慌あり」と見ているので、3年後には5000円は超えていると信じている。
 金は投機というより長期保存の投資として目先に惑わされないだ。

 ・・・・・・・・・
2756, 何か変な世界の空気!
2008年10月21日(火)

 *AIG、当初借り入れ8・4兆円の融資枠、ほぼ使う!
株は九千円を回復したが世界経済の実態は火が燃え盛っているようだ。 昨日の日経新聞に何気なく
AIGが、FRBからの当初借入総額850億ドルのうち829億ドルをほぼ使い切って、残りはわずか
21億ドル。6日には緊急融資枠として378億ドルが追加され、現時点では融資枠総額が1228億ドルになってしまった」
とあった。 近々に、この1,200億ドル(円換算で12兆円余り)を使いきるだろう。
既に単純計算でも三千億の利息が発生しており、このままの状態が続くと、FRBは重大な決断を迫られる。
恐ろしいことだ。 AIGだけでなく何処の火薬庫の火が点火するかの問題になってきた。
リーマンの負債の毒だけでも大きな火種である。それにGM/フォード、シティー、まだ表面化してない
大手金融機関、大手企業が何時表面化するか分からない事態である。
 −−
 *北朝鮮が変
北朝鮮金正日に重大事態があったのは事実。 それが死亡か、政変なのか分からない。
産経新聞北朝鮮の外国などの官公舎に「禁足令」が出ているとか、軍部の動きが変だとか、
アメリカ軍が異常な動きをしているとか、何だろか?  CIAが何かを仕掛けたとか。
共和党系の軍部が大統領選挙対策で?・・・ 何かおかしい。 
 ーー
 *オバマが、このままでは勝利の勢いだが、
このままだと、オバマが勝ちそうだが、共和党のマケインの最後の望みは「ブラッドリー効果」。
1982年の選挙で絶対有利と思われていたカリフォルニア知事選挙で、絶対有利と思われた黒人のブラッドリーが、
黒人ゆえに落選したことに起因している。 白人は建前ではブラッドリーを支持していたが、いざ投票では・・・
もしかしてブッシュが選挙対策で、北朝鮮に攻撃を仕掛けるか、謀略をしかける可能性もある。
 ーー
 *衆院選挙は?
自民党の悩みが手に取るようにわかる。選挙を延ばすほど自民党の当選の数が減るし、
もう当分は政権は戻ってこないだろうし、権力の味は少しでも味わっていたいし、というジレンマ。
国益からすれば、民主党が政権を取ってから、民主党内から造反が出て、政界再編製を早くやることだ。
時間がないといっても、仕方がないだろう。この国のサイズを小さくするために。それが、世界の潮流でもある。
戦後、アメリカと共に肥大化してきたのだから、ダウンサイズするしかない。

・・・・・・・・・
2007年10月21日(日)
2392, 人生で出会いしもの
                           φ(* ̄0 ̄)ノ[才八∃一]ヘ
10月02日(火) の {「2373, 人は60歳で何をしたか」−2} の読書日記で、作家の新井満が寄稿していた
「60歳以降に何をすべきか」について書いた。ところが、その中で彼の奥さんとの出会いの話が非常に印象的だった。
人の出会いの不思議さをつくづく感じる内容。 20歳代に何回かダブル・デートで、片方が結婚したケースがあった。
私は相性のあう相手がいなかったか?ためか、簡単に一生の伴侶を決めてしまう彼らを見て、
「何でもっと色いろな人を見てからの方が?」と、不思議でならなかった。
「本当に決めなければならない時は、それなりの人と出会うもの」と、信じて疑わなかった。
更に常に4人の姉と比べて、それ以下?は妥協できない! あとは両親に対して自信を持って紹介できる人?
という無意識の判断があった。 ところで、姉と上さんドッチが?? まあ、それはそれで・・・
色いろあって、新井満の、こういう出会いに驚いてしまった。もう少し、色いろな女性と付き合ってから
という生き方もあろうに? というのも、相手次第ということか! それにしても幸せな人だ。
 ーその一部を抜粋してみるー
  −−−
 *人生最悪のコンディションで出会った運命の人は誰だったか
人にはそれぞれ、運命的な出会いというものがあります。 私にとっては妻との出会いがそうでした。
19歳の大学生のときに、郷里の新潟から上野行き特急の座席指定車に乗ったら、隣の席に座っていたのが、たまたま彼女だった。
以前から、おふくろには「東京の女には気をつけろ」とよくいわれていました。
見るともなしに見ると、どう考えても典型的な東京の女性。ベレー帽かぶって、その上にミニスカートです。
だから列車が出発して2時間ぐらいは一言もしゃべらなかった。清水トンネルを越えたあたりから、お腹が減ってきたので、
ポストンバッグの中から、おみやげの笹団子を出して食べようとしたんです。すると、どうも団子を持った手に熱い視線を感じる。
新潟を出て2時間も経っていて、私も空腹を感じているんだから、きっと隣の彼女もそうだろう、とそのとき思った。
で、どうしようかと一瞬迷ったんです。おふくろからの注意もあるから、そのまま放っておいてもいいわけですからね。
だけど、身近にお腹を空かしている人がいるのに、それを見て見ぬふりをするのは、やはり温かくないですよね。
で、一種の人類愛みたいなもので(笑)、ジーッと熱い視線を笹団子に注いでいる彼女に「よかったらこの笹団子、
一つ食べてみませんか」と差し出した。普通、見ず知らずの男から食べ物を進められたら、たいていの女性の
反応は決まっています。多少気持ちが動いたとしても「いえいえ、とんでもない」と一応は遠慮するものです。

 *人を疑わない態度にひかれて自然と会話がはずんでいった*
 ・ 以下は字数の関係で中間カット(2007年10月21日)・
  ーーーーー
最終の学校時代に出会った人が最適の人と出会う確率が高いというから、
彼は彼なりに最高の人と出会ったのだろう。
               ババ━━━( ´ _っ`)ノシ━━━イッ!!!
・・・・・・・・
2006年10月21日(土)
2027, 「私」のための現代思想  −14
        おはよ〜!(*^ワ^*)i(~O~)ふぁ・・

ーこの章の一番のポイントは次の部分であるー
ある個人の「死」とは、<身体>に属する要素が存在しなくなることを指す。
死によって、<身体>が消滅し、<身体>の属している「声」も消失します。
それでも、<私>を構成する要素である「超越確実言明」は消滅しません。また、構築されていた《私》も消滅しません。
    ーー    
 何度も何度も、この部分を考えてみた。納得できるような、釈然としないような深い内容である。
《私》が死なないのは、ソクラテスの《私》がプラトンによって記録されて、永遠に生きていることをみても解ることだ。
《私》は消滅しないということが哲学的にみて正しいとすれば「いま生きている瞬間」を全てを丁寧に、そして人生そのものを、
あらためて考え直さなければならない。 {<私>と《私》は消滅しない}という言葉を「超越確実言明」としていれば、
過去の人生は変わっていた!「死んでしまえば、それまでよ!」を{超越確実言明」としてきたが、そうではないということだ。 
ブログなどで自分を語り、公開する時代なら尚のこと顕わになる。その意味で、この本は難しい内容だが、根本から人生観を
考えさせられる。「私」のことだから、根本問題である。
<身体>が消滅しても、<私>と《私》は消滅しないというカルトみたいなことが論理的にもいえるとは・・・
もう一度、本当に納得できるものか振り返ってみたが、矛盾は無い。 <身体>も<私>も《私》を大事にしなくては!
ーー
第五章 「私」が「生きる/死ぬ」ということの意味 −?
    ー 正しく死ぬ・正しく生きる ー
    
 *<私>は「死」によっては消滅しない*
「《私》は、<他者>によって引き受けられている」<身体>が消滅しても、<私>は存在しつづける。決してカルトではない。
ある個人の「死」とは、<身体>に属する要素が存在しなくなることを指す。
死によって、<身体>が消滅し、<身体>の属している「声」も消失します。
しかしそれでも、<私>を構成する要素である「超越確実言明」は消滅しません。また、構築されていた《私》も消滅しません。
さらには、<声>によって共振することはできないものの、<他者>も消滅しません。
   <身体>が無くなり、「声」への応答がなくなったことによって、<他者>は直接的に「糧」を得ようと
   《私》や<私>に接近し、それによって、<他者>が共振を受け取ることができます。
   一方、死によって発生するのは、「もはや『糧』を得ることのできない私」であり、「受益を放棄した私」です。
   死んだ後に残るのは「<他者>によって引き受けることのない生」としての《私》と「超越確実言明」の束としての<私>。

 *「死ねば楽になる」は正しいのか?*
「死ねば楽になる」は、「死ぬ」−>「辛さから逃れる」と変換できる。
そこでの「辛さ」とは、束縛から逃れられないときに<私>が発生する信号である。
それは「私」が「逃れる物語」を遂行中であり、かつ、そこにおいて「自由が失われている」
ことを指している。「辛さ」とは、<私>において発生し、<私>に含まれる概念であるということです。
したがって、まず「どの物語が『辛さ』を発生させているのか」を考えるのが、論理的な思考であるはずです。
それがわかれば、それを放棄すればよいだけですが『生きること自体が辛い』という場合は、自ら死を選ぶことになっていまいます。
[<身体>の消滅]−>[辛さから逃れる]は正しくありません。なぜなら、[辛さ]とは<身体>に属する概念ではないからだ。
但し、[<身体>の消滅]→[痛みから逃れる] は、可能です。 痛みは身体が発している信号なので、<身体>が消滅する
ことによって発生しなくなります。[<私>の消滅]−>[辛さから逃れる]という図式を考えなくてはなりません。
これが[死ねば楽になる]という表現の意味です。 末期ガンの患者が望むそれ?
 <私>の思考は、すべて「超越確実言明」という基盤を支えとして、その上に構築されています。
そして「超越確実言明の束」とは<私>そのものです。それに、論理は自己言及できないということを考え合わせると、
 <私>という基盤の上に構築された論理が、<私>を否定するという構造は、矛盾していることになる。そして、
その結果として「<私>の否定」を意味する「死ねば楽になる」という考えは誤りであり、成立しないことがわかります。
 −−
 以上だが、死ねば楽になるのは、身体の苦痛とそれに伴う絶望だけ。 精神の歪みが「死ねば楽になる」と妄想させる。 
それでも、死にたくなるのは解るけど! だから、死後に天国のイメージを作りあげたのだろうが・・  
その一つが音楽、そして絵画であろう。毎晩、クラシックを聞きながら「ア〜よい一日だった!」と思いながら寝入っているが・・
それでも夜半にマイナスの気持ちが襲ってくる。 それが人間じゃない?
死ぬしかない時、「死ねば楽になる」と思えたら実際のところよいが、理屈は違うのです・・ まあまあ!
                Good.*^ヾ('c_'ヽ,,)*.bye
・・・・・・・・・
2005年10月21日(金)
1662, 「人生の実りの言葉」−2
 ー運命
 この章『運命』冒頭のモンテーニュの「エッセー」の一節がよい。

ー運命はわれわれに幸福も不幸も与えない。ただその素材と種子を提供するだけだ。
それを、それよりも強いわれわれの心が好きなように変えたり、用いる。
われわれの心がそれを幸福にも不幸にもする唯一の原因であり、支配者なのである。ー
自分の人生で、いつも何時もこの心の葛藤があった。そして、いつも何事も修行と思えば気分まで卑屈になることはなかった?
何事も、その対処をするに如何考えるかである。 高見順がガンによる死の前にこういう詩を作った

    電車の窓の外は   光にみち
    喜びにみち     いきいきといきづいている
    この世ともうお別れかと思うと
    見なれた景色が    急に新鮮に見えてきた
    この世が        人間も自然も
    幸福にみちみちている  だのに私は死ななければならぬ
    だのにこの世は実にしあわせそうだ
    それが私の心を悲しませないで  かえって私の悲しみを慰めてくれる
    私の胸に感動があふれ    胸がつまって涙が出そうになる
                             高見順『詩集 死の淵より』
  ーーー
 死に切迫した人間の、ぎりぎりの葛藤から生まれる孤独の詩である。
誰もが身近な人の死に直面した経験があるはずだ。
・・・・・
  以下は字数の関係でカット(2007年10月21日)・・

                          • -

2004年10月21日(木)
1297, 原価は一人170万円

毎日新聞の『外国人事件の実情』という、シリーズものの記事によると、
フィリッピンパブや、外人パブや、性産業に売られる女性の値段は一人当たりの原価が170万円前後。
女は原価の3倍の500万を返すまでは逃げられない」という。 その筋の男の話によると、
「タイの女性なら、シンガポールブルネイに寄らせて、その国の偽造パスポートで日本に入国させる。
両国は、日本入国にビザが必要ないからだ。 現地からブローカーが付き添い、
例えば上野のホテルで170万円と引き換えで引き渡す。タイ、フィリッピン、台湾、コロンビア・・・。
女性の国籍はさまざまだが、値段の原価は一緒である。取締りの厳しい時は、品不足になり、高くなる。
売春の値段は大体、泊まりで3万が相場で、早い娘で3ヶ月で返す娘もいる。その後は儲けになるから、悲壮感は無い」とか。 
一方で、「同じ地域の出身者を一箇所に集め、逃げたり通報した場合、どの家の娘か分るようにして、ブローカーから
家族から取り立て出来るようになっている」という。バブル華やかな頃、何回かフィッリピン・パブに行ったことがあった。
そこは、ただ遊びに行くコースと、口説いて店の外で売春をするコースがあると聞いていた。ただ会話が面白く、
陽気で、何ともいえない異国情緒が良かった。それと、一生懸命、接客してくれるのが良かった記憶がある。
ところが最近になって、殆んど暴力団が背後にあると知った。 彼女等は、こういう値段で仕入れられていたとは、
また日常的に売春がおこなわれていたことも、この記事を読むまで知らなかった。バブルの崩壊とともに、
そういう店が激減したようだが。こういう記事が出れば出るほど、こういう店は激減するだろう。いや、しないか?

・・・・・・・・
2003年10月21日(火)
930, 自己責任の時代

 今日、ある見積もりの結果を見たら、77万円と240万の二つの結果であった。
工事関係は素人が餌食でしかないのだろうか。当事者が解ってやっているのか、どうかも問題であるが。
今のホテルを創めるとき、客室掃除の下請けの見積もりをとった。五社の見積りは最低が月67万で最高が280万。
凄い世界を垣間見た思いをした。建設業界は業界そのものが、こういう恐ろしい世界である。
 いま道路公団総裁が首を切られそうなり、自民党の癒着の暴露を脅しにして、情けない醜態を見せている。
今までの官僚社会主義世界の暴露と、自民党の利権汚職構造を露呈してをしてくれるから!、面白いといえば面白い。
奇麗事で人間信頼の経営などというと、こういう手あいが工事で入り込む。社員もだが。
ホテルの創業時には二代目の??ビル管理の専務が、二倍の見積もりを持ってきた。小ばかにしたような面をしていた。
世間様の世界に、だまさて二倍の経費をかけるか、シビアにやるか?当然後者でやるべきである。
いや前者だというのが、いまだ地方世界でまかり通っている。地方ー痴呆の崩壊は当分続いて当たり前である。
 いま、マンションをつくらせ、「入居保障の殺し文句」で詐欺に近い商法をしている会社があるが。
「つりの計画書」も素人騙しそのものである。倒産した「ジュエリーをいつでも買い戻すといって販売道具にして倒産した」
詐欺宝石会社より性質が悪い。 「断言してよいのか?」と思われるかもしれないが、事実だから問題はない。
ある人がマンションビル計画の提案に「入居保障が不可能の場合はどういうケースですか?」の問いに、
「当社が倒産した時」と答えたと言う。こんな営業保障は、当然行き詰るに決まっている。
 株式の四季報でみると減資をしたり、内容が滅茶苦茶!月に一度は自宅に営業から電話がかかってくる。 
義弟にも電話があるという。それもしつこく何回もあるという。ジュエリーの詐欺販売の世界と全く同じである。
これだけもっともらしく広告を出して、よくやるよ!という世界である。素人に、この手あいを見抜くには限界があるはず。
「マルコー」という会社が以前、違う形で詐欺的商法? でマンション販売をして倒産。
その会社が成長真っ盛りの時に、周囲に「あれは詐欺世界!」と言たが、誰も「まさか!」という顔をしていた!

・・・・・・・
556、一秒一円の価値

  • 2002年10月21日(月)

[時は金なり]というが、人生という意味でわかり易く考えてみよう。
一秒一円で一生を80年とすると何と25億円になる。 時給1000円のアルバイトとすると、
一生で換算すると7億円だ。時間をお金に置き換えるのはおかしいが、わかり易く考えるに丁度よい。
高利貸しや銀行はその事を一番知っており、借りる方はその事を一番解ってない。
海外旅行は大体の目安が一日3〜4万、実質滞在日が4〜5万円である。
一年を一秒に圧縮すると、一年前が3153万年前になる。
数年前に恐竜がいたことになる。150年前が地球誕生、400年前がビッグバンになる。
人生を考える時に一日に圧縮して考える事がある。昼の12時ですでに40歳で、60歳で夕刻の6時である。
そうすると私は17時半あたりになる。このテーマとは関係ない事だ。
製品もグラムあたりで値段を読む事がある。鉄が安い象徴で、パソコンの半導体が高単価である。
人生で感動の場面は金かプラチナの価値、平凡な日々を銅か鉛と例えると、可能な限りそういう場面を
求めていった方がよい事になる。芸術や大自然に可能な限り触れ感動のシャワーを浴びる事だ。

・・・・・・・・・・・・・
「193」 まだ生きている! ー漂流
 2001/10/21 
もう古い?話になったが、数ヶ月前に「33日の漂流の後、奇跡的に助かった漁船の船長」がTVに出ていた。
「スイカが流れてこないかなーとか、おや今日も生きているとか、なかなか死なないもんだとか、ぼーと考えていた」
このような一つづつが奇跡の原因らしい。スイカが流れてこないかなーはプラス発想、なかなか死なないもんだは生に執着しない、
今日も生きているのかというは、事故(自己)の客観化、一人者で、一人船長で待っている家族もないのも諦念にあったのだろう。
10年位前ののヨットレースの佐野某の漂流記を読んだことを思い出した。 鴎をを捕まえて食べていたらしいが、
一種の死の瞬間の倒錯?がすごい。「乗っているボートごと垂直に数百メートル昇っていった」という。
「それは夢でもない事実としかいえない出来事だった」という。かれは手記で今でも絶対に事実と信じていると強調していた。
 ユングがそれに似た経験をしている。瞑想をしていてそのまま天に上るくだりである。インドの上空をどんどん昇っていく、
インドの国の地形,青い海,そして地球が見えたという。それがそのずっと後,宇宙飛行士が見た光景と同じであった。
中世では人肉を食べた内容が克明に残っていたりした。子供の時読んだジョン・万次郎を思い出した。