* 電動自転車を注文
 小学校4年時に、父親に自転車を買ってもらって以来、自転車を個人として持ったことがない。
中高校時代には何処の家にも一台はあったが個人としては持てない時代であった。子供時代の記憶に、
あまり乗りまわした記憶がない。 成人になってからも乗った覚えがない。 この25年間はウォーキングで
一万歩以上歩くことを心がけてきたこともあり、チャリを乗る距離なら歩いてきた。 ところが最近になって
自転車ブームになった。 またUターンしてきた長男がスポーツタイプの自転車を乗り回しているのを見て
自分も自転車が欲しくなり、数ヶ月前から自転車の選定を始めた。しかし、いざ買うとなると、なかなか決心が定まらない。
ママチャリか、スポーツタイプか、車輪の小さい折り畳みか、電動自転車か、など結構迷う。思い切って決めれば良いのだが。 
 ところが10日ほど前の新聞記事に「スポーツ用品チェーンの《アルペン》が、59800円の電動自動車を発売」
の新聞記事をみて、HPから注文をした。納入が10月末の予定である。選定で、まず考えたのが使用目的。 
あれこれ考えたが一番が休日のサイクリング。 他にも、休日の川崎のSC、図書館、公園。 
電動ということで、川向こうのSC、遠出のサイクリングなど、結構ある。
 ところで、ここで紹介した電動マッサージ、海老そり屈伸マシーンなど、その後どうか?というと、朝晩に数回使っている。 
どれもこれも愛用品になっている。 もちろん、ベースに毎朝の一時間近いウォーキングをした上で、それらを補助にしている。 
そして、このマシーンが電動自転車である。iPodや、健康機器など自分に合うものが見つかると本当に良い。 
あれば使う、無ければ使わない、ただそれだけだが、あっても、使わないものも結構あるが!
   〜〜〜
  * いわしの群れになるな!というけれど
「いわしの群れになるな」という言葉がある。 個人主義の強い欧米人からみたら日本人が屯している姿を見るにつけ、
「いわしの群れ」に見えるのだろう。 良くいえば他人に気を使い、互いに傷をつけないように細心の注意を払い、
自分を抑えて集団に従う心優しき人種ということになる。 が、反対からみれば、自己を確立できないで集団に流されている
意志薄弱な国民性。 天才に向かってなら、この言葉は似合うが、鰯か秋刀魚的人間性の人間には向かない言葉。
「ハグレいわし」と「群れいわし」と、どちらが良いかというと‘弱者は群れていた方が良い’から、群れいわしの方が良い」
ということ?。 私のようなハグレいわしは、どうもこうも、岩陰に隠れて小さくなっているしかない。
落ちカツオが秋口に出回るが、油がのって美味しいから逸れても効用がある。
 ところで、「いわしの群れ」と検索をしていたら、 
「日本人は鰯の群れ―戦後民主主義は間違っていた! 」アーサー ボストン (著) があった。
 ーアマゾンの内容紹介ーからみると、
《 いまだにマッカーサーの呪縛から覚めていない、島国日本の「気がつかない病巣」を鋭く指摘するアメリカの眼。
戦後の日本人の「井戸の中の良心」を的確に批判する目から鱗の書。 小さな島の中だけでしか通用しない民主平和主義。
日本人が知らない間に取りつかれているドクマ。 マルクスの画一平等主義と弱者救済の思想に対抗できなかった新保守の
理論的裏付けを、長い間中国とキューバ社会主義の現場を観察してきた著者が今ここに公開。≫ とあった。
 弱者が寄りそり、なるべく考えないようにして世間という世界を作り上げ、互いの顔色を窺って生きる島国根性の国民性も、
分からないこともないが。 天才なら光輝く存在だから良いが、鰯が一匹群れから離れても所詮は変わった鰯でしかない。
 それでも群れているよりは良いと思うのも、思い込みだけ。 敵に襲われた時にリスクが少なくないのも良いのか?

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2752, サブプライム問題の6つの波とは
2008年10月17日(金)

 株の相場に興味のない人でも、今回の金融危機のタダならぬことに気づき始めてきたようだ。
今年の年末から数年にわたり、過って経験したことのない現象に遭遇することになる。
恐らく半数近くの事業所が閉鎖され、失業者が10パーセント以上、ハイパーインフレが襲い、食糧危機が襲うなど、
想像外の事態にジワジワ追い込まれる。 既に秋葉原の無差別殺人や、親の子殺し、などの予兆はあったが・・・
 リーマンブラザーズの倒産以来わずか一ヶ月で起きた一連の金融崩壊と、フォードとGMが倒産でもしたら
アメリカ炎上といっても過言でない。 歴史的大事件を毎日、目撃していることになる。
 この影響を一番被るのが、やはり日本。 それがハッキリするのが年末から来年の5月にかけてである。
まずは倒産ラッシュだろう。 この十数年で淘汰されるべきところはされたが、しかし、今度の津波は根こそぎ
私たちの生活を破壊するほど強烈になる。まずは衰弱の激しい地方の企業と地銀から問題が発生する。
銀行は金を貸さなくなり、売り上げは、平均30%は落ちる。 それで立ちいかなければ、消え去るしかない。
あれだけの思い切った資本注入を発表して、二日間しか相場が回復しなかった。 目先のカンフル剤になるはずだが? それさえもである。
GMが倒産した場面で6千円台をつける可能性がある。日本の生保・銀行の含み益が大きくマイナスに転じ体力を消耗する。
今回のサブプライム危機をステージとして、次の六段階になる。(参考ー日経、10月5日ーサブプライム危機ーより)
1、去年の8月のフランスのパリバショックである。
  −金あまりを背景とした欧米での信用膨張が瓦解を始めた瞬間ともいえた。銀行間の取引こ疑心暗鬼が広がり、
   中央銀行による多額の流動性供給など当局も緊急対策姿勢を強めた。
2、次に来たヤマ場は2008年2月、米証券大手ベアー・スターンズが資金繰りに行き詰まり実質的な破綻状態になったこと。
  円相場は一時=95円台に上昇、日経平均株価は12000円を割った。
3、三つ目のヤマ場となったのは7月。今度は米国の連邦住宅抵当公社(ファニーメイ)など、住宅公社二杜の経営悪化問題が浮上した。
  金融不安は現実の金融危磯に発展、
4、9月15日に米証券大手リーマン・ブラザーズが破綻したのである。
  米証券大手メリルリンチは米大手銀行パンク・オブ・アメリカへの身売りを決めた。
  リーマンは救済されるとの観測が大勢だっただけに市場では大きなサプライズと受け止められた。
  これを機に欧米の金融機関同士の疑心暗鬼は一段と強まり、各国中央銀行が大規模なドル資金供給を続けたものの、
  銀行間金利は上昇を続けた。
5、米大手投資銀行の経営不安が急速に高まるなかで、当局は公的資金を使った不艮資巌の買い取りに動き出す。
  これが5つ目のヤマ場だ。この局面では米金融安定化法案が下院でいったん、予想外の否決となるなど、
  政治の迷走も市場の一段の混迷につながった。 
6、なお政策が不十分と、市場は金融機関への資本注入を求める催促相場の様相を強め始める。
  サブプライム危機の6つ目のヤマ場に差し掛かった。「日米ダブル一万割れ」である。 現在は8千円割れを窺っている。
 −以上が、サブプライム危機の、これまでの6つの波である。
次の波は金融機関以外の大手の倒産のなるのか?。まずは、GMとフォードあたり?。
これで世界は、恐慌が起きたことを認識するだろう。これで7千円割れになるだろう。
来年の半ば辺りでは?と、思っていた大暴落を、あっさり経験することになる?。
既に世界の株式総額6千兆が、3千兆円に半減した。いくらバブルだったとしても恐ろしいことだ。

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2007年10月17日(水)
2388, こころの旅  −2
   「こころの旅」神谷 美恵子 (著)
第一章 人生の出発点
      の心の琴線に触れた部分を取りあげて考えてみる。
 ーー ーP.22
 天井からぷらさがったガラガラの動きに赤ん坊がよろこんでさらに手足を勤かすと、ガラガラはいっそういきおいよく
動いて音をたてる。これを何度もくりかえしているうちに「条件づけ」ができて、赤ん坊には何となく自分の動きと
ガラガラの動きとの間の因果関係がわかってくる。この感覚運動的知脳が発達してくると、今度は紐のついていない、
動かないガラガラをみると、自発的にひもを探し出す。これは「般化」という知能発達の始まりである。
その過程のこまかい分析はピアジェの名著「知能の心理学」にゆずろう。
ガラガラの操作をおぼえた赤ん坊はひとり遊びができる。もはや彼は孤独ではない。
彼をとりまく世界は彼の動きに応えてくれるし、彼みずからの動きは世界の状況を変えられる。
自分の生へのたしかな手ごたえを感じて赤ん坊は声をたてて笑う。この笑いやほほえみという現象は人間特有のもの。
ケロッグやケーラーがチンパンジーのあそびを観察して乳児のあそびと比較してみた結果、両者のあそびかたは
よく似ているにもかかわらず、重要なちがいがみとめられるという。 赤ん坊はあそびながらしばしば「驚き」と
「ようろびにみちた笑いやほほえみ」を示すが、チンパージは終始きわめてまじめなのだ。 
真の遊びとは、直接に利害関係のないことに対して注意と興味を示すことから始まる。
動物にその萌芽がみとめられると、それは萌芽にとどまる。
人聞の赤ん坊は早いうちから知覚の対象とある距離を保ち、事物の意味と可能性を発見して行こうという自発性を示す。
 主体から環境へ、環境から主体へ。この二つの方向の「循環」、すなわち交互作用こそヒトのこころを発達させる
必須条件であると思われる。そのさい、やりとりされる刺激の質も量も適当でなくてはならない。
ホスピタリズム」が形成される場合はこの双方に問題があるのであろう。
 ピアジェの考えでは右にいうような交互作用こそ適応ということばの真の内容なのだという。
すなわち「生活体の環境に対する活動と、その反対の活動、すなわち環境の生活体に対する活動とのバランス」
が適応なのであって、「生物は環境に対して単に受動的に従属するのではなく、かえって環境に働きかけて
これを変更し、環境に一定の独自の構造をおしつける」のである。
以後適応ということばを用いるとき私どももこのような内容を持たせたい。
 ーーー
解)
両親の愛情の温もりが直に伝わってくる人がいる。特に幼児期に両親や周囲の愛情をシャワーのように受けた人である。
深い愛情を受けると、人は笑顔になり周囲に対して積極的になるものだ。そして、それが性格の基礎としてカタチつくられる。
如何に幼児期の愛情が大切か身近の人を見ていると実感する。人間は絶対量で既に一生は決まっているといって過言ではない。
簡単にいえば温かみのある人で人品が良いともいえる。こういう人は本当に強いし、弾力性があり、不幸の方が弾き飛ばされるようだ。
反対に全くそれを感じない人がいる。 そういう人は直に解る。貧すれば鈍するでないが、両親の不仲の環境に育った人である。
自意識過剰で、自分を過大に勝手に評価、直に手の裏を返す。自分の顔に責任を持て!というが、顔と目に出るから恐ろしい!
                       \(^▽^*)バイ!
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2006年10月17日(火) 2023,
「私」のための現代思想  −12
        (。^0^。)オッ(*^○^*)ハ〜    ー読書日記

 ーまずは五章の「生きる意味は何か?」の概略をまとめてみるー

 私たちが「生きる」ということは<他者>との関係を基点として、《私》がつくり上げた論理の基盤=
 「超越確実言明」を通して居場所を確保していくことである。 <社会>の中で「自分の居場所をつくる」
 ための闘いは、同時に<私>が正しくありつづけるための場所を確保するための闘いです。
「超越確実言明」は《私》によって支えられているが、その《私》というと、「他者」によって引き受けられています。
 他者による《声》が「私」に届いたとき、そこに「共振」が発生します。
《私》の存在を支えているのは、<他者>でしかないからです「共振」は伝播し、その「不完全性」を緩やかに補うことができる。
「不完全性」は少しずつ補正していくことができます。「真の正しさ」ではなく「より正しい」方向へ世界を変化させていくのが、
「生命体」というシステム全体の方向性です。それが「生きる」ということです。
 ーー
 第五章 「私」が「生きる/死ぬ」ということの意味 −?
      ー「ともに闘う」ということー
  *−ドゥルーズの「あいだにおけるー闘い」ー
    <他者>との関係は、私たちの存在の基盤であり、また、私たちが束縛から逃れるための「基点」である、ということです。
   私たちの居場所は闘うことによって、《私》の価値と《他人》の価値とが衝突することによってしか
   居場所を作ることはできません。 これが「あいだのおけるー闘い」である。

  *−「外部における闘い」と「内部における闘い」−
    「あいだにおけるー闘い」に対して、「外部における闘い」とは、<私>の内部の<価値>の変化をもたらさない闘いです。
   (それは同時に《私》が構築した<価値>である)そして「外部における闘い」を回避することは可能であり、
   それも「闘い」の一つの形態です。しかし外部の戦いでも出会っても、《私》は《私》との「あいだにおけるー闘い」
   を行っているはずです。私が「外部において処理をする」と推測する「闘い」は、必ず<私>の内部に取り込まれます。
      (字数の関係でカット2008年10月17日)
・・・・・・・・・ 
2005年10月17日(月)
1658, 北イタリア旅行記−7

ツアーの楽しみの一つに、普段なら会えない人と会えることがある。一度会ったら二度と会わないから、気楽に何でも話せる。
共通点は旅行愛好家ということで互いの情報交換が気楽にできる。その中で色いろな人生が、それぞれ垣間見ることができる。
また私たちも彼らから同じ視点から見られているのだろう。今回は、北イタリアという場所ということもあり欧州派がそろった。
アフリカとか南米とかシルクロードなど殆ど誰もいったことがない。反面、欧州には隅々まで行っている人達ばかりで、
殆ど話がかみ合わなかった。特に、イタリア愛好家が何人かいて、イタリアへの深い愛情を感じた。
好きなものは好きなのだ。イタリアに行けば、その理由はよく解る。ローマ帝国から続いている長い文化が味わいがある。
どの街を見ても深い文化と歴史を感じることができる。イタリアとは関係ないが、面白い人がいた。趣味として、
デジタルビデオを番組風に編集してしまうのだ。元映像カメラマンの人で、編集には熟知しているから可能だという。
過去に30本以上も番組として完成してDVDに収めてあるという。5~6枚この旅行に持ってきてミニDVDデスクで見せてもらった。
奥さんが劇団にいた人で、ナレーターをして共同制作をしている。NHKなどで放映している海外ものの番組の内容と
同レベル?である。まず映像を編集して、ナレーションの内容を考え、バック音楽を選定し45分位にまとめ上げなくてはならない。
集中して三週間はかかるという。それにしても、旅行者として羨ましい限りである。そのテープを旅行代理店のツアー説明会に提供
しているようだ。代理店にとって、宣伝用の番組をつくるのには数百万円は最低かかるからそれを借りることができれば便利である。
「一人位、ツアーに半額位値引きしてでも?」と、考えるのは私の卑しい考えになる。何よりも、つくっている本人が
一番楽しいだろう。一度つくれば、コピーは簡単である。ボランティアとしても、誰からも喜ばれる。
今回も、希望者に送ると全員から住所を聞いていた。同行のツアー仲間にしてみれば、夫婦のビデオカメラマンを
引き連れていったと同じ。この夫妻にとって、最高のものを与えることで喜ばれ繋がりができる。
自分も楽しみ、そしてそれが因縁のある人達に最高に喜ばれる。
人生の最高の楽しみになるはずだ。世の中は広いし、人生の達人がいる。

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2004年10月17日(日)
1293, 「閑」のある生き方ー読書日記 −3

「今ここに」を、更に考えてみる。
 ー前回では 「空」を時の上から解釈して、「即今」、 平たくいえば、ーただいまーと解釈した。
 「空」がわかるというのは、その「ただいま」がわかるということである。
 この「ただいま」を手に入れなくてはならぬ。この「ただいま」を無限そのものだと悟るとき、零すなわち見元の式が成立する。
「今ココニ」を丸ごと心で把握するなら、そこには、あとに残る過去も先に待つ未来もなく永遠の今があるだけということに気づく。
 空と時を合わせて「一念」というほうがよい。 hereーnow が、それである。ーを抜粋し、そして感想を書いた。
 今回は、その即今の凝縮した瞬間はどういう時か考えてみる。 感動、感激、至高体験歓喜、感謝の時といえよう。
 その瞬間が「今ここ」を実感する時である。その瞬間を経験した時、それが永遠に通じている感覚がする。
 それが「永遠の今」である。 感動の時、その瞬間は自分の中に永遠に残る切り取られた時である。
 この経験をするため、この瞬間を経験するために、生まれてきたといってよい。それまでの全てを超えた体験する飛躍の時である。 
 その「今ここ」は、悟りの世界でもある。この中に、感激、至高体験歓喜、感謝が含まれる。いや、これらの言葉の中に、
 それぞれが含まれる。「今ここ」は、決してプラスの時だけでない。 挫折をした時、死を宣告された時、
 絶望を味わった時、 身近の人の死の時、 等々、あげることが出来る。 意識の深くに陥ってしまう時といってよい。
 その時は意識は研ぎ澄まされ鋭く自分を切り裂く。
 「今ここに」を意識している時は、宇宙の中心に立っている時であり、宇宙と直接つながっている瞬間である。 
 
・・・・・・・・・
2003年10月17日(金)
926, 180円ラーメン

 新潟市内で目についた180円ラーメン店に入ってみた。180円のラーメンと、色いろなトッピングを付けたラーメンと、
餃子とチャーハンのセットがメニューの基本であった。 ー何処のラーメン屋もそうだが。
 特別美味いわけでもないし、といって不味いわけでもない。ただちょっと食欲の無いときや昼飯に食べるのに丁度良い店である。
近所にあって欲しい店でもある。ポイントは何といっても値段の安さである。
美味しさの追求が今までのラーメン屋の課題であった。しかし気楽に食べられる値段に対しての盲点が出来ていた。
不味くもない廉いラーメンを腹を足すだけの目的で食べたい時の方が実際のところ多い。
現在ラーメンは500円が相場である。それが3分の1である。価格破壊の波にさらされてなかったのがラーメン屋である。
このラーメン店をBSTVで一ヶ月前に紹介していたのを見たことがあった。関西系で「ラーメン一番」という名前である。
 要約をすると
・目標は1千〜千四百店。
・ラーメンのマクドナルドをモデルにしている。
・この値段で提供しようとしたら、徹底的な機械化と大量出店が必要。
・「金鉱を掘り当てたようなもの」との社長のコメント。 全国は無店地帯  等々であった。
 そういえば何処かの讃岐うどんの店の関係者が「100円」の讃岐うどんをメニューに目玉商品として取り入れたら、
20?の売り上げアップになったと話していた。このラーメン屋があちこちに出来たら一般消費者は既存のラーメン
の値段に疑問を持ち始めるだろう!いま新規に開店する店は、スーパーセンターやドラックストアなど価格破壊の店ばかり。

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552, 人生に目的はあるのだろうか?

  • 2002年10月17日(木)

この年になると人生の仮決算期に入ってくる。「自分の人生はハタシテこれでよかったのだろうか?」
「人生に意味などがあるのだろうか? 有るとすればなんだろうか?」そういう話が最近面白くなってきた。 
 人生の目的とは漠然と考えてみるとー
・真にしたい事を見出して一生をかけてやりとおす事。
・そして全エネルギーをかけ一瞬一瞬を生き抜く。
・家庭をつくり、子供を育てあげるなど基本的な人生を生き抜くこと?
・誰かが困っている事を事業やボランテアを通して救うこと。
歓喜を何度か経験して「この生を受けて本当に良かった!」と全身で感じ取ること。
・死ぬ時、本当に良い人生を過ごせたと思える生き方。
意味ある人生とは、こういうこと? 知ること、行動する事、創ること、そして愛すること??
これが絶対だというものは無いだろう。 一番良くないのは、人生を生きてきて最後に後悔すること?
倒産や挫折で最後に号泣すること?それも人生である。 飯喰て、糞して、ただ死ねばよいか!
意味などクドクド考えるな!この馬鹿! 所詮は自己正当化か!? これが落ち! いや違う??

・・・・・
2001/10/17 
「189」ツアーのプラスとマイナスを考えてみる
ーマイナス面ー
・添乗員、エージェンシーの意図のまま飛行場に集まり、そのまま機上の人となる。
・そのうち外国の街に着く。そこに当地のガイドが待っており、そのグループは
 外国のエージェンシーのガイドにわたされる。そしてお膳立てされたホテルにバスで行く。
・翌日から予定表どおり、市内観光に博物館に繁華街に公園へとぞろぞろと行列。
・ホテルでお仕着せの食事をして、そして飛行場まで無事送ってもらい 成田に帰ってくる。
「ツアーで旅行する人は主体も無いし、知性もなにも感じられない」
 あるもの書きの本の冒頭に書いてあった内容であった。その人は自称ー知性の塊と自認している人である。
 慶応の大学院を出て、ケンブリッジ客員教授をしていたそうだ。日本の一応知性人と自認しているらしい。
 ツアーをほとんどしたことがないと思われる。時間をまとまって取れる立場にいるから、それぞれの立場が理解できない。
ープラス面ー    
・10数年前よりツアーの利用の仕方が全く変わった、進化したのだ。
 ツアーでなくてはできない事、行けないところに行くように変化した。
・使い分けをするようになった。添乗員なしで当地のガイドと空港で会い、そして翌日から手配どうりに動くパッケージもある。
・アフリカのサファリキャンプは普通の人はツアーでしか危険でいけない。
 ナイロビなどは単独では、数十回の旅行をしていても危険である。こういうところは4〜5名でも全く知らないもの
 同士で サファリができるのだ。 外国に行ったことがない人でも、ケニアでキャンプができるのである。
・考えられないほど安い金額で内容は詰まっているのである。
・環境からいって一般の人は2週間が、日本から離れられる限度だ。
 その中に如何に安く、価値ある商品パッケージを出せるかが、エジェンシーの役割になっている。
 私はツアーが大好きだ。 ある目的地に行きたいという主旨のもと、全国からあらゆる人が集まる。 
そしてその縁のもと一緒に時を共有し、 また別れていくのがよいのだ。個人では絶対に行けない、
かつ行く気もしない地に、同じ思いの人と行けるからだ。一日あたりの旅費をみると、国内旅行と大して変わらない。