一時期にジョークに興味を持って100以上を収集した。どれもこれも面白いものばかり。
ところが、ある時期から、これはという面白いものが無くなってしまった。
ハッキリいうと、ジョークは聞くほうに、それなりの素養が無いと笑いが生じない。
周囲には、その捻りの妙の可笑しさが解る人は極少?で、何時の間にか、酒席でも話すのを止めてしまった。
先日、借りてきた「続・ジョーク世界一」に、面白いものがあった。下ネタの、聖(ひじり)ものと、老婆もの。
最後の一言で落とすのが、ブラックものの面白さである。 それにしても久々にニヤリとした。
  * 神の思し召し
医師と密会していた女性、やがて妊娠することに。困り果てた二人はいろいろ対策を考えたが、名案が浮かばない。
出産の日がどんどん近づいてくる。丁度そのころ、一人の神父が腸の手術をするため入院してきた。医師はひらめいた。
「神父の手術を終えたところで、赤ん坊が誕生したと言って神父に押しつけよう」医師に計画を打ち明けられたが、
女性は懐疑的だった。「それしか道はないんだ。やってみよう」 医師は女性の出産と神父の手術を同時におこない、
神父に向かって言った。「神父さま、こう言っても信じられないでしょうけど・・・」
「何だったね、何があったんだね?」問い返す神父に耳元に
「神父様のお腹に赤ちゃんが宿ってました。幸い赤ちゃんは元気です」
「そんなバカな。ありえない」「そのありえないことが起きたんです。わたしがこの手で取り上げたんですから、
間違いありません」「奇跡だ!」「ええ、奇跡です」 奇跡の言葉に弱い神父は`すべては神の思し召し′と、
結果を受け入れ、赤ん坊を連れて修道院へ戻った。 それから十五年経ったある日、神父は息子を呼んで語り始めた。
「おまえも十五歳になったんだから、わたしは真実を語らなければならない。実は・・わたしは、おまえの父親ではなく…」
「何なんですか?」「母親なんだ」驚いた少年は問い返した。 「じゃあ、お父さんは誰なんですか?」
「これは絶対に内緒だぞ。おまえの父さんはとなり町のあの大きな教会の司教さま・・・」
 〜〜〜
解)ジョークの批評も野暮だが・・。 医師の不倫と、神父への冒涜、更に神父同士の男色の捻りまで入っている。
 最後の一言で、一瞬でブラックの笑いに誘い込む。 私のストックの中の「聖職もの」としては、次のものが面白い。
《 *旅たち* 修道院から、少女たちが旅立とうとしています。女性院長がはなむけの言葉を贈ります。
 「いいですか。修道院の外には危険がいっぱいです。一番気をつけなければいけないのは、男という生き物です。
 あなたたちにお酒や食事、お金をくれるのと引き換えに、あなたたちの服を脱がせ、とんでもないことをします」
 「院長。男って、そういうときお酒や食事、お金をくれるんですか?」「そうですとも」
 「でも院長。ここの司祭さまはクッキーだけでしたよ」
                              つづく
・・・・・・・
2728,  議論に絶対負けない法 −3
2008年09月23日(火)
  
「議論に絶対負けない法」−3   ー読書日記

物語になるまで、筋書きに対する準備に徹する、それも楽しんでやれるかどうかである。  
以下は、この本の一番好きな部分である。成功のノウハウが、この部分に全て含まれている!と、
いってよいほど。この天才的な弁護士が百戦百勝している最大の秘訣である。
好きこそ、ものの上手けれというが、何事も好きになり、その準備を楽しまなければならない。
 Pー195
 *私が百戦百勝している最大の秘訣

 準備!そこから魔法がはじまる! だが私がそう言うと、若い弁護士は当てが外れたような顔をする。
彼らは労働と呼ばれる退屈なものを迂回できるような、楽な方法を知りたいのだ。
本当の準備は労働などではないと彼らに説明できればいいのだが…。 準備とは、創造する喜びだ。 
準備とは人生を苦労して前進すること、悩みながら生きていくこと、波にもまれながら生きていくこと、
人生を喜んで受け入れること、人生を自分自身に塗り付けること、人生を生きることだ。
 モーツァルトに労働したことがあるかと尋ねてみたとしたら、おそらくノーと答えたのではないだろうか。
だが彼の人生、彼の呼吸が、彼の音楽だった。不朽の音譜という形でなされた彼の議論は、人生のすべてを費やした
周到な準備の成果だった。並はずれたIQを持っているが準備をするほど賢明ではない人よりも、力強い議論の準備を
整えている普通の人になりたい。準備とは、あくまでも「心の底」の栄養だ。 結局、天才とは脳細胞の幸運な
並び方を言うのではない。天才とは土ネルギー、単に何かに向けられたエネルギーにすぎない。天才とは準備なのだ。  
 議論の準備をしている時、私は労働していない。この本を書く時も労働などしていない。遊んでいるのだ。
準備をする時の私は子供だ。子供だから遊びに飽きることは決してない。富あふれ・胸を躍らせる。ネズパーズ族の
酋長のスモーホール酋長が言ったように、「若者は決して労働してはならい。労働する者は夢を見ることができない、
そして知恵は夢の中で得られるものなのだ」あなたは共同経営者に会社の方針を変えることを納得させ、勝ちたいのだろうか。
配偶者に話をして転職に同意させ、そして勝ちたいのだろうか。陪審員に自分の主張は正しいことを納得させたいのだろうか。
それなら、よく調べ、勉強し、実践し、準備しなさい。遊びなさい。議論の準備をしなさい。自分の考えをくわしく書きなさい。
新しいアイディアが魔法の穴から飛び出してくるのを注意して見ていなさい。議論に関して知っておかなければならない
ことは何かだけではなく、人類の歴史上、最も興味深い人物tつまり、あなたについて知らなければならないことは
何かを発見した時の気分を味わいなさい。私はいまだに他の弁護士から「スペンスさん、あなたは法廷でどんな魔法を
使うんですか」と聞かれる。私は暗審員に催眠術をかけたということで被告側のリーダー的な人物から訴えられた。
 さらに、法廷でそれまで仕事をしてきたなかで、これほど熱心に陪審員が原告に有利な評決を下したがったケースは
一度も見たことがない、と論じた。彼は実際に前もって私の勝敗の記録を調べ、弁論という正当な方法によるもので
あるはずがないと主張し、自分の議論が正しいことを立証するために、私がリズミカルに手を動かし、声を使って
命令的で抵抗しがたい音楽のような音を出して催眠術を用いたと指摘した。
そして、これは今自分が暴いたただのくだらないトリックで、裁判所によって禁止されるべきトリックだ、と論じた。
言うまでもなく、相手方は準備というものを理解していなかった。彼は私をスヴェンガーリのような催眠術師だと誤解していた。
彼は自分自身の主張について勉強して準備をするよりもむしろ、私を攻撃するための準備をしてきたのだ。
私が何週間も、時には何カ月もかけてたった一人で自分の主張の準備をしていることなど、彼には少しもわからなかった。
彼の目に映ったのは、周到に準備した事実の貯えを持つことによって思いのままにふるまうことのできる一人の弁護士だった。
裁判官はことの成り行きを理解し、もちろんその弁護士の申し立てを却下した。 私が階審員に論じる番がくると、
その弁護士は何度も立ち上がって異議を申し立て、私をさえぎり、私の議論のカを無効にしようとした。
 −−−
後記)以前、銀座ナンバーワンのママとホステスのノウハウについて、取りあげた。
店というステージに立つ前の顧客への決めの細かいサービス(誕生祝い、ゴルフ、ビフォアー・・)に徹している。
準備準備準備準備なのである。それを趣味にする位に努力しないと、相手に伝わらないことは一番に本人が知っている。

・・・・・・・・・
2007年09月23日(日)
2364, 哲学とは何か、考えてみようか?
        Good☆Morning (p≧w≦q)オッ☆ o(≧▽≦)o ハァァァァァァ♪

池田晶子から、再び中島義道に戻るのも良いだろう。脳の筋肉を使わないと独りよがりの理屈の捏ね回しになってしまう。
色いろな本を手がかりに、自分で脳の筋肉を使うしかない。その手っ取り早いのが哲学である。
それも、同じことを同じように、何度も繰り返しながら、一人ブツブツと独り言を呟きながら・・・・
私の場合特に、自分の経験を照らし合わせて理解することが多い。何ごとも初めは心と頭を空にして
(空即是色から始めないと)新しいことは出来ない。解ったふりとか、それまでの些細な知識や経験は、全て邪魔になる。
それが創造である。 哲学は何ごとも一度横において、原点を見つめることである。
ーーー
「狂人三歩手前」 ー中島義道
ー夏には哲学がよく似合うー  P-51
メルローーポンティは言う。「真の哲学とは世界を見ることを学びなおすことである」脳髄の中はクルクル思考が回っている。
この「私」とは何者なのか?太陽が眩しい「いま」という時、それは何なのか?太陽から私の身体までのこの空間とは何なのか? 
このごろとくに考えること。それは、「見えるもの」は「見えないもの」に支えられて初めて見えるということだ。
他人の心も見えない…膨大な数の「見えないもの」に支えられて、特定の風景がいま眼前に広がっている。
ここにメルローーポンティとカントを繋ぐ線があるのではないか。カントの言う「経験を可能にする条件」とは、
「見えるもの」を見えるようにする「見えないもの」なのだ。フムフムいいそ、いいそ……。
哲学者とは、夏の海岸でも、こういうことを絶えず考えているヘンな奴である。
メルローーポンテイは次のようにも言う。「哲学者とは、目覚めそして話す人間のことである」(『眼と精神』)。
「目覚めている」とは、絶えず周囲世界を見ているということである。
そして「話す」とは、それを絶えず言語化しているということである。
この条件さえ満たせば、誰でも哲学者になれる。というより、すでに哲学者である。
いや・もう一つの条件を加えておこう。どんな場合でも、周囲世界に埋没していないこと。
いかなる事件が起ころうが、適度な距離をもって冷静に世界を眺めていること、つまり、「冷たい」厭な人間であること。
プラトンは哲学の開始を「驚き」と言ったが、ひとの驚くことを驚かず、人が驚かないことに驚くといい換えてもいい。
テロが起ころうが、いかなる残虐な事件が起ころうが、驚かないが(私は地下鉄サロン事件にもアメリカの同時多発テロにも
全然驚かなかった)、「見えることの」の不思議さに警き、いつも「いま」であることの不思議さに驚く。
思うに・女性哲学者が皆無なのは、こうした「驚きのズレ」がないためかもしれない。
少なくとも、私は五十数年にわたる人生において、こういう驚きのメカニズムを有した
女性にお目にかかったことがない。勿論、不安定なあるいは病的な人はいくらでもいる。
しかし、一通り社会生活をしこなしていて、しかも「いま、は何か」という問が絶えず脳髄の中で唸り声をあげている、
という女性に遇ったことはないのである。夏の浜辺で、ある女性が太陽に身を焼きなが、「いまとは何か?」と考えて
いることを想像するのは難しい。それはいかなる文化にも共通の根源的な両性の差異であるように思われる。
女性たちは「世界の安定性」に対する懐疑を抱かない。ふっと抱くかもしれない。
しかし、それを執念深く追究しようとしないのだ。次の瞬間世界はガラガラ崩れるかもしれない、という不安感がない。
彼女たちの悩みは「世界の中」での悩みであり「世界の枠」そのものに関わる悩みでない。
それは、彼女たちが生物体として劣っているからではなく、優れているからである。
男性の不安定性と哲学とは直結している。犯罪者も、自殺者も、精神病者も、性的倒錯者も、ひきこもりも・圧倒的に
女性より男性のほうが多い。哲学者も、疑いなくこうした反社会的グループの一員なのである。(哲学釣な)男たちよ
1真夏の海岸で身を焦がしたら、漆黒の蒸し暑い夜、反社会的行為に向かってまっしぐらに没落していこう……。
ーーー
評)「私は五十数年にわたる人生において、こういう驚きのメカニズムを有した女性にお目にかかったことがない。」
中島のこの部分は池田晶子の評価に対する、読者への間接的なメッセージとも受け取れるが。
池田晶子には不安定性が感じられないのは事実である。 反社会的な人間の匂いを、この中島には感じ取っても、
池田には感じない。社会的センスの問題もあるが。     
                    ヽ(★>з<)バイバイ
・・・・・・・
2006年09月23日(土)
1999, 「私」のための現代思想  −3
                 (。^0^。)ノ オッ (*^○^*) ハ〜 ヨウ
第一章 「私」を縛るものは何か ー?
  ー《価値》についてー

<価値>とは、何が良いか何が悪いかという時の価値基準をいう。良い・悪いの規範のことを「道徳」という。
道徳は私たちに本来セットされている「感じ方」や「考え方」ではありません。
私たちが社会から学ぶものです。 多くの場合、道徳は「規範の内在化」という過程を経過して私たちの中に形成される。
道徳そのものに本来は論理性は内在していない、と考える方が妥当です。ニーチェは『道徳の系譜』において、
キリスト教の価値観の問題点を指摘した。 その論理展開を箇条書きにすると
   ー、先ずは「力あるものは悪である」と考えた。
   ー、その逆として、「弱いもの=善」と考えた。
   ー、?により「力を自分のために使うこと=利己的な行為」は「悪」とされた。
   ー、?により「利他的・非利己的な行為」が善とされるようになった。
 ニーチェは、キリスト教においてこのような論理展開が行われたのは「ルサンチマン(怨恨・反感)」に求めている。
 人間は幸福を求める存在である。しかし、自己の幸福を(直接的には)もとめてはならないとキリスト教は説きます。
 こうした命令には従うことは普通はできません。しかし、この宇宙に絶対者が存在し、その絶対者の意志としてそれが命令で
 あれば、人間は従うしかありません。従って?^?に続いて、次のような論理の展開が行われるようになりました。
   ー、利己を求めることは「力の発露」であるから、利己を求める人間という生命体は罪深いものである。
   ー、「利他的・非利己的」行動こそが、「神の意志」である。
    「僧侶的な善悪の判断基準」と対になるのが、「貴族的・騎士的な判断基準」。
  (以下、字数の関係でカット2008年9月23日)
   ーーーー
  ー感想ー
    「意味」の意味の一つに、「価値」がある。逆に「価値の意味」の中に「意味」があるともいえる。
    何かこんがりそうな話だが、「価値」を「意味」とみるのも面白い。
    自分が家庭や社会などから知らないうちに形成された価値観、これが一番、その人そのものを束縛する正体。
    その価値観からの自由こそ、真の自由なのだろう。
    しかし、その価値観は手の平と指の関係のように切り離すのは難しい。
    だから若い時に色いろな伝記を読む必要があるのだろう。それと、よい学校に行くことも。
    そこでは良い同僚と、良い先輩と、よい教授に出会えるからだ。
                      (。^0^。)ノホンジャ、マタ!
・・・・・・・
2005年09月23日(金)
1634, 創造性とは何かー 日野敬三 対談集

今西錦司との対談「創造とは何か」も深い。もう23年前の対談で二人とも故人になっているが、
生々しい肉声がそのまま伝わってくる。自らを謙虚にして自然の声を聞く姿勢が、創造の原点であるが、
個性に対して「自己」と「自我」の相対の中から、その意味を導き出しているのも、鋭い指摘である。
 対談者ー今西錦司ー創造とは何か?
ー父性原理と母性原理ー
 ー今西
西洋では神を一番上において、次に人間を据える。そしてその間が切れている。
そこからもう一つ切りよって、その他の生き物は全部が人間の下に置かれている。
デカルトですけど、「我思う、故に我あり」に当たらん。こいつらは何も考えよらん、で切られている。
縦割りのヒラルキーが厳然と決まっている。我われは幸か不幸か、そういう絶対的な神はいない。
天照大神が一番偉いのだろうが。ホカに八百万の神というて、さまざまな神様がいるが、これは欧米の縦の系列でなく、
横の系列なのである。ほかの生物に対しても、やはり同じ平面においている。
西欧が父性原理できるところを、こっちは母性原理でつないでいる。
 (以下、字数の関係でカット2009年9月23日)
 分類のコーナーの検索に「父性原理と母性原理」と入れて下さい。
  (2009年9月23日)
・・・・・・・・
2004年09月23日(木)
1269, 否定的想念の恐怖

人間の脳には磁力があり、否定的想念を持てば否定的情報とその類の人間が集まり、反対に肯定的想念を持てば、
肯定的情報とその類の人間が集まる。私の経験でいうと、否定的想念のほうが肯定的想念より磁力は圧倒的に強い。
周囲には否定的想念の情報とその類の人間の方が圧倒的に多いからだ。肯定は意志を必要とするし、否定的想念は
感情のまま周囲と供に流されていればよい。教養が身につけばつくほど肯定的生き方になるのは、その知識を
持つからだろう。いやそうでもないか。否定的想念の習慣はその人に、必然的に否定的人生を強いることになる。
「否定的想念の恐ろしさ」を説明するにわかりやすい実験として「ヴードゥー死」と呼ばれる実験がある。
ーその内容とは、
ヨーロッパのある国にプアードという死刑囚がいた。彼はある医師から、医学の進歩のために危険な実験に
協力してもらえないかと持ちかけられた。人間の全血液量は体重の10パーセントが定説となっているが、
われわれは10パーセントを上回ると考えているので、ぜひそれを証明したいという。
 (以下、字数の関係でカット2008年9月23日)

・・・・・・・・・
2003年09月23日(火)
902, 「守護霊との対話 」

 母が晩年よく「私には守護霊がいて、一生を通して、いつも守っていてくれたような気がする」といっていた。 
母の守護霊は、母が幼児の時に亡くなった実父といっていた。『幸せの宇宙構造』を書いた小林正観
中川昌蔵氏の対談集が、図書館にあった。早速借りてきて読んでみたが、なかなか面白い内容であった。
他愛のないものといえば、それまでだが。精神や意識に対する知識が少ない人には、具体的に守護霊と
いう表現で無意識の力を呼び寄せる大きな方法になるだろう。それこそストンと直感できるからだ。
 一般的には、守護霊といっても、何かピンとこないものだ。
『そんなものは、お前自身の神社だろう!勝手にしろ!!』と考て当然だ。
ところで『お前の守護神は誰だ?』と問われれば、私は間違いなく両親だ。
潜在的に自分の中にあるコントローラの抽象として捉えればよい。
 −−−−−−−−−
『守護霊との対話 』
ー以下はインターネットから検索したものである。 面白いといえば面白いー
ーこの内容は字数制限があるため、「分類のコーナー」でより多くの内容がコピーしてあります。
分類の「検索」に「守護霊との対話」と入れてください。  (2007年9月23日ー記)
 
 ーーーーーー
 貧すれば鈍する
 2002年09月23日(月)

 私の周辺に不幸を絵に書いたような人が数人いる。 「何をしてもうまくいかない人」である。 
 20対80の法則からいうと、その20パーセントの人間に80パーセントの不幸が集中するたぐいの話である。
  彼らの共通項とは
・甘さの塊である。そしてそれを周辺に押し付ける。人の甘さの隙を捜し続け、そこに擦り寄っていく。
・その結果群れたがる!一人になりきれない要素が非常に強い。腐った納豆?のような人だ。お互い粘粘絡み合っている。
暴力団の事務所はそういう溜まり場だ。
・言い訳だけを常に考え行動しようとする。
・ある土地を買った時、隣地に挨拶に行った。 その奥さんが初対面にかかわらず、
 買った土地の前のオーナーの悪口雑言である。その数年後旦那が脳梗塞になった。
・一番身近な連れ添いとの信頼関係がまず壊れている!浮気とか、嘘ごまかし、裏切りをまず一番の身近から始めている。
 最悪の場合、自殺とか、ストレスで早死にしている。その場合父親も本人も親子揃っての場合が多い。
 2~3の事例ではない。そういうのを家系というのだ。
 (以下、字数の関係でカット2008年9月23日)