この御題目で書くのは、6月1日以来で3ヶ月あまりになる。
その前に「世界恐慌に入って、まる7ヶ月」というテーマ名で二回書いている。
「不況景気などを今さら書くことでもないだろう」だが、そこが生き物、ジワジワときている。
9月に入って落ち込みが始った。 こういう先ぶれが居酒屋とホテルに最初に来る。
 現場段階は十数兆のバラマキで何とか小康を保っているが、何が起きても不思議でない。 
重体患者を緊急の大量輸血で持たせているようなもので、集中治療室にいる事態は変わりない。
衆院選挙が8月末まで延びたため、株の暴落や経済の大混乱が来年2月まで延期しただけのこと。
まだ東海地区の輸出産業は、この数年間の好況の蓄積があるが、他の地方は体力を使い果たし、
大きく弱体化している。 これに悪質のパンデミックでもなれば、大きな波乱が起きるのは必定である。
 週に数回は、通勤の帰りや、家内のお供にスーパーや、駅の専門店街によるが、実際に売れてない。
TVのワイド・ショーで、「はしっこ食品」や「訳あり商品」の特売などを特集をしていた。 
ハムや、カステラ、魚などのスミの切り落としが半額から三分の一になるのだから客は殺到する。
そういえば最近、生ハムや鳥肉の燻製の『切り落とし』を、安さにつられて買ってしまうことが多い。
 新潟駅前周辺の飲食街では、潰れた店の後に出来るのは「ホルモン焼き肉屋」が目立つ。 
「安く、小じゃれて、腹が一杯になる」のが必要条件だが、時代が変わったものである。
 当社も、長期のミニ団体が何組かが途切れずに入っていたが、それが少なくなっている。
夏場の稼ぎ時は別腹と期待していたが、この冷夏で結果は芳しくはない。 それでも9月下旬から
10月にかけて国体があるので、数字は何とか例年に近い数字は作れそうだが、甘くないことは事実。 
 町内会の役員の人から聞いた話だが、新潟市内の町内連合会が、急激な売り上げの悪化に、
駅再開発計画を改めて説明会を開いて聞いたという。 今さらであるが。(10年遅れである) 
これに北陸新幹線開通という2014年問題がある。新潟県にとって大打撃になるが、それを誰も真剣に考えない。 
20年前に既に新幹線を新潟空港まで延長し、その沿線に環日本海都市としての機能をコツコツと造っておくべきだった
ことすら、誰も気づいていない。 飛行場の直接乗り入れも大きい要素だが、「日本海に東京駅直結の新幹線の乗り入れ」
が良いのである。 僅か5〜10キロの延長で済むのにである。 そこに新幹線駅沿線のサッカー場と野球場をつくり、
野外スポーツなどのレジャー施設を長年かけて造るべきべきだったのである。 更に夢のある高齢者向けの施設と、
本格的な中国人街もである。 金沢が関西と関東を後背にした新日本海都市創りを始めるのは目にみえている。
 不況景色から少し話が逸れたが。

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2714, 大相撲が面白い! −2
2008年09月09日(火)
               ぉは(σ。ゝω・)σYO!!
せっかく、面白くなってきたところで、北の湖は辞任。三重の海の武蔵川が理事長に選ばれた。
そして、ロシア人二人は解雇。 当然のことである。起訴猶予になった若の鵬を含めた三人をロシア政府は急遽
帰国させるであろう。立場は外国人労働者でしかないから、場所が始る前に大使館員に付き添われて国外退去ということか。
ロシアにとって、三人の言動はロシアにとって国辱ものである。これは世界的なニュースになるからだ。
この事件発覚以来、北の湖貴闘力の二人の親方の言動は最悪であった。
ウヤムヤにして責任回避をしようとしたのが見え見え。本人達に否定をさせたままロシアに帰ってしまえば、
それで済むと思ったのであろう。これで、二人とも今まで築きあげてきた社会的基盤は無くなったに等しい。
事件として、角界から二人を追放すべきレベルの事件、これで終わらないだろう。次は、今場所の開催の問題である。
理事長が辞めましただけでは済まない大問題。それもこれも、見るものからしたら面白いストーリーが続く。 
身の潔白をはらすための突然の検査、北の湖理事長も、自分の弟子が!と夢にだに思ってなかったのだろう。
理事長と一部理事は検査を知っていたというから、まさか自分の弟子がやっていたとは・・・
TV映像でみるロシアの兄弟は明らかに確信犯の顔になっていたが。
これで当分、皇室も大相撲観覧は当分の間は無理だろう。対策として外国人力士の規制まで、いくのだろうか?
大相撲も朝青龍と、貴乃花問題、リンチ殺人、マリファナ事件と、地に落ちたものである。
来年に入ると、再び朝青龍が何か問題を起こすだろう。この男、何でもありだから。 
まあ楽しみである。ところで他にいないのだろうか、吸っている力士?
 幕下以下の力士も検査をやればよい。 恐ろしくて、やれないか!
ところで、あの弁護士、論理を聞いていると、頭が悪そう! あんなものなのか?
見てるほうからしたら、今場所は、是非、開催して欲しいもの。
白けた中の大相撲を、これまた白けた目で見るのも、面白いだろう。
 (6年前の今日、下に貴乃花のことが書いてあった。 それからみて、如何に朝青龍
   日本の大相撲を汚したかが見えてくる。そして、このロシア三人組である)
  しかし、今のほうが、ずっと面白いのは、どういうこと??
  (*´з`*) それは理事長まで出演しているからである。 ヾ(^ω^*)

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2007年09月09日(日)
2350.ベナレス・・・6
 2,ヒンドゥー教とは

ヒンドゥー教は紀元前一五〇〇年頃に西方からインド亜大陸に移住してきたアーリヤ人
信仰していた祭祀中心の宗教を核にして、先住民のもつさまざまな民間信仰を融合して発展してきた。
それ故・この宗教には開祖が存在しないが、そのかわり『バガヴァッド・ギーター』(神の歌)など、
人びとを宗教的な道に導く数多くの聖典が編纂された。 ヒンドゥー教は基本的には多神教であるが、
それらのうち主要な神のどれもが最高神と考えられるという独特な神観念を持っている。
ブラフマー神(梵天)・ヴィ・ンユヌ神、シヴァ神がそれぞれ世界の創造・維持・破壊を司るという三神嫡体の概念も
生み出されたが、ブラフマーは相対的に地位が下がり、現在ではシヴァとヴイシュヌ・それに宇宙の根源的力を
象徴する女神信仰が盛んである。根本的な教義としては・暴人にもなじみが深い驚と輪廻、解脱の思想が説かれるが、
宗教的な営み(ダルマ・法)とともに、実利(アルタ)と性愛(カーマ)も人生の目的とされている。ヒンドゥー教は禁欲的な
審や修薯たちだけのための宗教ではない。一般の人びとが幸福に暮していくための必要な欲望は認めているのである。
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 5、ヒンドゥー教聖典
ヒンドウー教の聖典は、天啓聖典と伝承聖典に大別される。 天啓聖典とは人間以外の存在によつて示されたことを
聖仙たちが霊感で受け取ったものである。もつとも古いのは『リグ・ヴェーダ』(紀元前一二〇〇年前後)をはじめとする
四つのヴェーダ聖典で、インドラ神(帝釈天)などの神々への讃歌を中心に、世界創造の神話などが説かれている。
前五〇〇年を中心に前後数百年のあいだには、『チャーンドーギヤ.ウパニシヤッド』など数々のウパニシヤッド聖典
(奥義書)が編纂された。ここに最初に現れた。一方、聖仙によつて説かれたものは伝承聖典といわれ、その代表に
『マヌ法典』(前二〇〇〜後二〇〇年)がある。法典と訳されるが、その場合の法とは人間の行動の規範、
社会的.宗教的義務を意味し、法律の規定も含まれるが、全体的な内容はヒンドゥー教の百科全書的なものである。
また、パラタ族の領土をめぐる親族間の抗争を雄大に語る『マハーバーラタ』(後五世紀頃に現形成立)と、
ラーマ王子の英雄流離葬『ラーマーヤナ』(後三世紀頃に現形成立)は、インドの国民的叙事詩ともいわれている。
とくに『マハーバーラタ』に含まれる『バガヴァッド・ギーター』(神の歌)は、
ヴイシュヌ神が行為の結果を考えることなく自分の担うべき義務を遂行することを説くもので、
現在ビンドウー教徒にもっとも愛されている宗教書といえる。
ーーー
解)むげに否定することは出来ないが、それにしても酷いものである。
当時のアーリア人の何とも嫌らしい意図が露骨といえば露骨である。
支配のための宗教などが、このように露骨なカタチで残っている不思議。
それが地球上にあるのだから、何とも言いようがないのである。
明治憲法も、似たようなものだが。それと、葬式で食べている現在の坊主!

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2006年09月09日(土)
1985, ハイデッガー
       (。^0^。)ノオッ*^○^*)ハ〜 ヨウ
                
10年来、トイレに常に哲学書が置いてある。そして一年に一度位の間隔で、入れ替えをする。
そして、普段も必ず哲学書のいずれかは私の鞄か机の横にある。
歳を重ねた経験の裏づけが哲学の言葉を噛み砕いてくれるようになった。
哲学的大問題の「死」に向き合わなくてはならない歳になったこともある・・・
「首切り役人の日記」とか、このHPの随想日記で辛辣に死について書いている。
哲学にしても宗教にしても結局は、ー人間いかに生きるべきか?
そして最後の最後は、いかに死ぬべきか?ー  ということだ。あと何があるのか?もし知っていたら教えて欲しいもの!
『面白がって死ぬことだ!』という黒鉄ヒロシの言葉位か、面白かったのは!
「ヒーヒー悲鳴を上げてジタバタしている最後の自分の姿をみるのが何で悲しいの? 
こんな面白いことが何で?」彼ならでの言葉だ。冷静に自分を見ていなくては笑えない!
ハイデッガーは、「その死を意識的に見ないようにして日常をすごしている我われの姿を、そのまま直視。 
見ないようにしている死が、我われにマトワリついていて、それが不安という漠然とした心理になっている」と看破している。
彼は不安とは現存在として最も根本的な気分であるとし、現存在は世界内存在として理由もなくこの世界に投げ出され、
そのつど、何らかの気分に規定されていると・・ 日常性の中に埋没されて生きている非本来的あり方から、
本来的自己を呼び覚ますきっかけとなるのが不安であると・・
とりわけ「死」の可能性の前にしての不安において、現存在としての根源的開示がはじめて生起する。
我われはいつか死ななくてはならない。 「この私」の死を誰も変わってはくれない。
その死を痛感する時、人は日常から引き離され、単純化し、自分自身と対面せざるを得ない。
その死を見つめることによって、その可能性に「先駆」することによって、初めて本来の自分を取り戻すことができる。
おのれの実存をたえず知覚させてくれる気分として「不安」を考察した。
恐怖と不安は違う。恐怖は対象を持つが、不安は対象を持たない。
ハイデッガーは「私は何が一体不安なのか?」という問いをする。「私が存在そのものが不安なのである。」という。
「私がある」こと自体が不安の発生現場で、私の存在は「無」の中に沈みこんでいくのである。それが不安の時である。 
不安は人間そのものの根源的な性格なのである。 彼は「人間は、日常性の中に存在の本来性を忘れている」という。
われに現存するのは「他人の死」のみである。
 「死、それはまだまだ自分の番ではない!」と思っているから、生きていけるのだろう。
私が死を度々とりあげるのは、その死を直視することで、生とは何か考えるためであり、
現存している自分を見つめるためである。夕陽をみて人は、その太陽を自分に投影する。 一日の死である。
そして、朝陽をみる、今日の生誕を感じる。そして、その夕陽のように沈んでいく。
しかし、夕陽のように沈んでいく死だけでないのが、人生の妙味であるから面白いのである。
                        (。^0^。)ノホンジャ、マタ!  あの世で!いや明日!
 そういえば、明日とあの世は似ている。あると言えば在るし、無いと言えばないし!
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2005年09月09日(金)
1620, 「仮想と虚妄の時代」

月刊誌の文藝春秋5月号の石原慎太郎の「仮想と虚妄の時代」ー援助交際と純愛ー
が、現在の日本の現状と病巣をそのまま書きあらわしていた。
若者、いや現代人の携帯電話やインターネットの仮想と虚妄の実体と病理をえぐっていた。
ITは確かに便利で効率は良くなったが、人間の情緒などの一番大事な部分を失ってしまったと看破。
ITは情報を無限に提供してくれるが、人間本来の情念やエネルギーまでも伝えない。
そのため、リアリティと虚構の差が解らなくなってしまう。私の知人に、何かあると友人に携帯電話で相談する男がいる。
それも、いい歳をした大人?である。自分の頭の中で、「あれやこれやを考えること」ができない。
思索を何度か繰り返した上で相談するなら解るが、それを一切しない。いや出来ないのだ。
本人を観察すると、彼は本を読んでいない。読書は、著者との無言の対話でもある。
それを普段の生活の中でしてないから、内面の対話が出来ない。だから、何かあるとすぐ携帯電話で相談するしかない。
事態を多角的に見ることや深く掘り下げることなど、彼の世界には存在していない。
携帯は会話しか成り立たない。内面の対話をした上で、それを相手に投げかけをしあうのが対話である。
 ー石原はここで以下のように述べていているー
ー最近、問題になっているエンコーなどの新しい風俗の正当化(?)
のために作られる言葉の醸し出すヴァーチャルなイメージは、ことの本質を外れた価値判断を容易に導き出す。
内質の空疎化とは想像力の枯渇であり、無個性化による自己喪失画一化であり、
人間としての尊厳の喪失の繋がり社会そのものの活力を失わしてしまうーと警告している。
現在、中高等学校の生徒の間で人気のある生徒の評価の指標が勉強やスポーツの能力ではなく、ただ携帯電話が鳴る頻度と、
いかに多くの連絡相手が登録されているかにかかっている現象は、人間関係における本質の変化を暗示している。
こうした浅はかな人間関係が何ももたらさないことを、彼等は解っていない。
そんな交流の中では本気にお互いを預けあい頼り合うことができるだろうか。
 ーー
 そういう私も一日数時間もパソコンに向かい、家ではTVを3時間は見ている。情報の多くは、ITから得ている。
それから入ってくる情報は、実際のところ生の人間からも質も量も格段に上である。
だから困ったものである。この随想日記で書いている内容は、私の脳の多くの部分を占めている。
実際に会って話すより、より自分の言いたいことが顕わに書いてある。 といって、それが私の全てではないし、
誤魔化しも、虚構もある。やはり、情けの報せとして直接会わなければ伝わらないことがある。
 −−
 また、この中で触れられているホーキング博士の発言の部分が面白い。
石原慎太郎ホーキング博士の講演に行った時「地球ほどの文明を持った惑星は、どのくらいあるだろうか」という質問に
「二百万ほど」という答えがあった。それに対して、「それほどの数があるのに、どうして他の惑星の生命体を目にすることが
ないのだろう」と質問があった。 その答えが、「現在の地球ほどの文明を保有してしまうと、そうした惑星は自ら正当な
循環を狂わせ環境を破壊しつくし、文明の主体者たる生物は内面的にも極めて不安定な状況をきたして、彼らの惑星は宇宙の
時間の総体に比べればほとんど瞬間的に自滅してしまう」というという答えであった。終末論や環境論として興味深いものである。
ーー
以上が概要だが、情報化は基礎教養の蓄積があってこそ、
仮想と虚妄の世界に漂う現代人は、自分という存在さえ仮想と現実の境が無くなっている。

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2004年09月09日(木)
1255, ダイエットに100万円賭ける ー2

本人に「どうして、そのダイエット方法を知ったのか」の問いに、「インターネットの検索で調べた」という。
そこで早速、インターネットで「グレープフルーツ・ダイエット」で検索を入れてみた。 色いろのHPがでてきた。
それによるとグレープフルーツに含まれるクエン酸 がダイエットに効くようだ。
糖の分解酵素を抑制して脂肪をつきにくくし、新陳代謝を促すという。またダイエット効果のほか、疲労回復、
エネルギー生成にも重要な働きをし、ガン予防、抗酸化作用、脳梗塞予防などにも効果があるとか。
クエン酸はもともと体内で生成されるのですが、現代人の多くが不足気味。
これにトマトやバナナやリンゴや生野菜を組み合わせて、なるべく肉食をしなければ、5〜7?はすぐ痩せそうだ。
インターネットで検索をすれば「レシピ」がすぐ出てくるので、興味のある人は是非検索をしてみるとよいだろう。
「ダイエット」と検索をすると他の多くの方法が出てくる。グレープフルーツを三食食べるのが億劫なら、
ジュースを飲むという手もある。冷蔵庫には、リンゴジュースと、ブドウジュース、オレンジジュースが交互に
入っているが、グレープフルーツは無かった。スーパーの特売で1000mlが最近では88円で売っていることもある。

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2003年09月09日(火)
888, バックナンバー 2

バックナンバーを見ながら、今まで書いてきた随想日記を総括してみる。まずは読書日記や映画日記の感想文。
あの時、あの本を読んでこんなことを考えていたのかがリアルにわかる。日記は未来の自分に対して書くものだ
ということが、一番わかりやすい事例といえる。
 映画もそうである。感想文を書いてないと、単なる娯楽で終わってしまうものが多い。
それはそれでよいが、文章化をきっちりしていると、自分のメルクマールとなる。
また映画日記を書き続けていると、映画の見方が変わってくるのが解る。その世界に意識的に飛び込みと同時に、
冷静な目が養われているのだ。日記としての追悼文も姉と両親には書いていたが、親戚や友人の場合も
書いた方がよいことに気がついた。故人に対して一番の供養になる。
こうして書いていると、いかに毎日つまらないことに振り回されている自分に気がつく。
それをいつの間にか鳥瞰してしまう作用が書いていて解る。人が見ていたら、こんな面白いものはないのではないか。
他人の内面の棚卸と陳列変えと改築を傍観しているようなものだ。また誤字なども冷静に見れるからだ。
 一番面白いのは実は自分だが。

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2002年09月09日(月)
514,大相撲−貴乃花のこと

昨日は貴乃花が8場所ぶりの出場で館内が異常な雰囲気であった。
土俵に上がった瞬間、これは闘える身体ではないと感じた。
昨日は辛うじてかったが、今場所乗り切れる確立は5分かそれ以下だろう。
横綱が2場所休むと土俵に上がるのが恐ろしくなるといっていた。
かなりの緊張感が館内に漂っており、他の力士まで異様な盛り上がりをみせていた。
兄弟子の貴ノ浪まで次の対戦で武蔵丸に勝ってしまった。前回の優勝の時の怪我で、引退の状態であった。
協会の一人横綱では都合が悪いという状態で、ここまで引き伸ばしてきたのは誰の目にも明らかであった。
館内にはいる待合では、凄い気合の入れようであった。
アフリカで100メートルのバンジージャンプの飛び降りる直前の10分前は、丁度あの状態であった。
あの極限状態が見ているものの心を打つのだ。勝負審判をしている父親が勝った瞬間、泣きそうな顔に見えた。
そういえば、貴乃花千代の富士に勝った時の事を思いだした。
今の彼の頭に、その時のことが去来するのはいつの事か!相撲取りは現役がすべてだ。

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2001年09月09日(日)
[139] カースト制度−1

インドに行ったときそのカースト制の現状かいま見た。4つの階級、その中に500以上の更なる階級があるという。
白、赤、黄色、黒色とみれば、直ぐ階級がそのままわかる。3000年前、侵略してきたアーリア人(白)が
その維持のため、宗教を創った。そして人種が混ざらないカースト制度をつくり、その階級を3000年維持してきた。
彼らはその理屈はわかっている。ただ3000年かかった、その積み重ねからくる体質はどうにもならない、
人種の差を作ったしまった。 日本にもそのカースト制があるという。今崩壊しつつある、体制がカースト制そのもの。
学生の時、すぐそれを感じ取った。そのカースト制だ。但し学生は大学の優劣だけで済んだ。都会ではそれが露骨だった。
 1、どこの大学を出て、 2、家柄はどの程度で、 3、収入はいくらか、 4、地方出か都会か。
大体これで決まる。それでまずその連中が友達友人になっていく。
ガールフレンドももちろんその範囲。金持ちの友人が、カースト制度者であった。
こういう考えがこの世にあると初めて知った。学校でまず露骨の差別、次に家柄、
そして能力、地方かどうか、女性なら容姿と、その一つでも80以下は眼中にない。