上流階級?の人が落ちぶれた時に、階級の存在をシビアに知ることになる。
その時のハビトゥス(その人の習慣をつくりあげている文化構造)の崩壊のプロセスを、身近で何人か見てきた。
その時に、その崩壊がシビアの起こる。 階級社会にとって必要なことは、その入れ替えの弾力性である。 
弾力性が無くなれば階級社会が自滅することを経験的に知っているからである。 時間軸の長短から考えれば
誰もが成上がりでしかない。 イギリスは階級制度のハッキリした国であるが、その入れ替わりには長年の経験上、
当然のように受け入れるシステムになっている。新しい価値をつくりあげれば、その価値の創造者として認める。 
日本でも明治時代の伝統で、家柄より学歴を優先する社会的システムができている。日本の最も優れた文化資産である。
 ところで一番上の姉が(設立した会社の倒産後)歌の先生をしていた。そこで聞いた城下街世界が面白い。
10人位のグループを幾つかつくって教えていたが、そのグループ分けユニーク。 未亡人だけを集めたグループとか、
医者の奥さんだけを集めたグループとか、金持ちの有閑マダムの社交クラブである。それも「プラティーク」の世界?
 こぞって慶応幼稚舎に子供を入れたがるのは、その階級に参加したいため。
かなり前の話だが、経営セミナーを東京のホテルで受けた時期に、夕食で隣に座った人と名刺の交換をした。 
飲食業界の大手の社長で私と同年輩の人だった。 その人の奥さんが柏崎の出身で、ブルボンの娘という。
「何処で知り合いましたか?」と聞いたところ、母親同士が慶応出身で、女性だけの何かOB会の役員をしていた因縁で
話がまとまったという。 成るほど、そういう世界があるのである。
 地元にもゴルフ場の格付けがあって、そこの会員権を持てるかどうかが登竜門になる。 
反対に、その会員権を売却すると倒産の前兆の噂になるという。 海外旅行に46回、行ったが、秘境ツアーに参加する人は、
世界中を周っている人達である。そこで聞く、彼らのプラティークの話は非常に参考になる。 
 ライオンズ・クラブとかロータリー・クラブとかいう活動も、その登竜門? というより、トップセールス
互いに容易にするための集まり? どうみても、文化遺産のあるようには思えないが。 
「売り家と 唐文字で書く 三代目」という古川柳にあるが、文化遺産の引継ぎだけでも駄目だから、難しいところだ。
「目くそ、鼻くそを笑う」の話。「上を見ればキリがない、下を見れば底がない、横を見れば情けない」か〜 ッタク!

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2697, 散歩について
2008年08月23日(土)

散歩の習慣と効用については何度か書いてきた。1月から3月半ばを除けば毎朝、豪雨でない限り歩いている。
もう25年ほどになる。年々少しずつだが歩数は減っているが、それでも毎朝一時間弱は歩く。
日本人の歩行は、この三十年で激減しているという。30年前で7000歩が現在では6000歩弱に、
車通勤では、4000歩も歩かない。江戸時代には日本には散歩という概念がなかった。
車がないので、何処に行くのにも歩いていたから、敢えて歩く必要も無かったようだ。
それでも、現代人と比べると3倍から5倍は歩いていたという。
西欧人のように、「楽しみのための目的なしの歩き」に名前を散歩と名をつけたのは、勝海舟であった。
氷川清話には、散歩の話がところどころ出てくる。散歩の語源は、漢方の言葉で、漢方の内服薬を飲んだあと、
その薬を早く吸収させるため歩くことを意味していた。
勝海舟は、外国人が生活の中に散歩を取り入れているのを見て、心身の健康の効用を看破した。
私にとって、散歩のない日々は考えられないほど、日常の生活の一部になっている。
大雨で歩かなかった翌日など、身体から毒素(恐らく活性酸素だろう)が抜けていくのがわかる。
それと、脳の活動が活発になるのも分かる。 これを続けていると鬱病などなる訳がない。
早朝に、陽光にあたりながら、鳥の声と、川のせせらぎの音を聞きながら、深呼吸をして歩いていれば、
マイナス思考など出ようがない。最近はiPodでアルファー波のタップリ入った音楽を聴く習慣も取り入れた。
哲学の小道が京都になるというが、決まった道を、他のことを意識しないですむ道という。
ソクラテスではないが、プラトンなどと問答しながら歩いたのは、脳が活性化するためである。
散歩を健康のためとか、考えるため、というのでは長続きはしない。
あくまで、楽しい日課の一つとして取り入れて、スキップするような気持ちで歩くことだ。
最近、80歳過ぎの少し痴呆症の入った年配の人が散歩をしている。
道に立って、来る人来る人に、手を上げて親しそうに話しかけている。
それが一日の大きな楽しみになっているようで、決まった時間に決まった何人かと親しそうに話しをしている。
私も話しかけられたが、どうも苦手で笑って通り過ごしているが・・。痴呆症にとっては、あの習慣は一番の薬になる。
ところで何でもっと多くの人が早朝散歩をしないのだろう。あれだけ心身にとって良いことを。
時間が無いのなら、チョットした時間に意識をしてあるくことだ。
もし私が散歩を取り入れてなかったら間違いなく現在、娑婆には居いだろう。
寝る前の風呂と、早朝の散歩で猿コールを蒸発させているから、事なきを得ている。
二十年ほど前に「散歩について」書いた随想を読んだ恩師が手紙をくれたことがあった。その恩師は鬼籍に入られてしまった。
 後記)面白いものだ、偶然の一致になるが「夜明けのリゾートタイム」であとに書いてあった。
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2007年08月23日(木)
2333, ホッファー  −2
               *ヾ(´∀`o)+。才ノヽ…YΘ!
この特異な哲人ホッファーの存在が、今日のように我々に知られるに至ったのは、マーガレット・アンダーソンという
「コモン・グラウンド」編集長である。「たった一人、彼女が東海岸で自分の原稿を待っているのだと思えることが、
  自分の思索を持続させた」と、ホッファーは書いている。
世に出た著書は、好評だったが、爆発的に売れたわけではない。あくまでも彼は本の“著者”にすぎない状態だった。
1964年にカリフォルニア大学のバークレー校で週に一度の学生たちとの講義も担当するようになったときも
話題をよんだわけではなかった。ホッファーのような変わった人物を講師にするのは、バークレーのやり方である。
しかし、ホッファーはひとつの感慨をもつ。
「人にはこのように、世界のどこかでそれを待っているところが、少なくとも一カ所はあるものなのだ」ということを。
  以下は、ある本からの抜粋である。
  −−
ホッファーが人気をもつきっかけは、テレビであった。
1967年、エリック・セヴァリードとの対談がCBSで放映され、大反響になった。
それから一年に一度、ホッファーはテレビ対談に登場する。
かれ自身はつねに目立たない存在を望んだが、どんな評価も名声もホッファーの生活を
豊かにすることも、その精神を危機から脱出させることもなかった。
社会や世間のほうがホッファーのような“例外者”を必要とした。
こういうホッファー・フィーバーのなかで、彼はまったく変わらなかった。
沖仲仕をやめて著述に専念するようになるのは六十五歳をすぎてから。
八十一歳で死ぬ(一九八三)まで、本を書きつづけ主要な著作は十一冊をかぞえる。
うち六冊は日本でも邦訳が出たが、現在も入手可能なものは一冊しかない。
これほど数奇な人生があろうかと思わせるほど波乱に富んでいるが、これ以上に面白いのが、
彼がいろんなところで出会った、数々の特異な社会的不適応者たちの語る自分の人生である。
この自伝には、そのような忘れがたい人々との忘れがたい出会いがつまっている。
その一つ一つが、まるで短篇小説以上の仕上がりになっている。
こういった出会いのすべてが彼の哲学的思索のナマの素材になっているのである。
自分自身がそのような不適応者の一人であり、その不適応者にまじって生きつづける中で、
「人間社会における不適応者の特異な役割」という、彼の生涯を通じての思索のテーマ発見する。
「人間の独自性とは何か」ということを考えつめていくうちに、「人間という種においては、
他の生物とは対照的に、弱者が生き残るだけでなく、時として強者に勝利する」ということと思いあたる。
つまり、「弱者が演じる特異な役割こそが、人類に独自性を与えている」のである。
そしてアメリカを作った開拓者たちというのも、実は、社会的不適応者が故に、
家を捨て荒野に向かわざるをえなかった放浪者たち(弱者)だったのであり、
それがアメりカ社会の独特の特質をもたらしているという考察にも導かれていく。
 ー「ぼくの血となり肉となった500冊」立花隆著よりー
ホファーの思想の根幹を成しているのは「思いやり」である。
不適応者に対する温かい眼差しと理解である。不適応といえば、誰もが他人事ではない。
誰もが思い当たる自分自身へのレッテルである。自己不一致こそ、本来もっている近代社会の中の特質である。
それぞれが情報化の中でも孤立しているから、誰もが不適応の弱者と思い込んで自己嫌悪に落ち込んでいるのである。
組織内では、歯車の一つとして自分の自己存在の意識の希薄さに、孤独感にさい悩まされる「自己疎外」
に陥っているのである。それぞれが孤立している中で、それぞれが自己認識を深め、その中で他人を、
弱者を思いやることこそ、アメリカ社会の特質と考えたのである。
 ボランティア運動も、このような思想の中から生まれてきた。アメリカの開拓者は、実はそれぞれの国を
追われたミス・フィットの人たち放浪者だった!という説は、なるほど説得力がある!
逆に、ミス・フィットでない適応者?とやらが、哀れに思えてくる本である。       
      ホンジャ ミス・フィット紳士淑女諸君 ヾ(´Д`、)マタネ
                         −つづく      
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2006年08月23日(水)
1968.事業百訓・・・? −1991・1992年(6)
  H0301新年を迎えて!!
 (字数の関係でカット 08年8月23日)
ーH0305事業百訓ー
  376、(危)業 (気)業 (輝)業 (起)業
   (基)業 (旗)業 (企)業 (機)業
  377 、神よ!出切きない事を諦める能力を与えたまえ、
    そして出来る事をやる能力を与えたまえ、
    そして出来ない事と出来る事をみきわめる能力を与えたまえ!
   (ドイツ軍本部に書いてあった言葉)
  378 、私は目がよくみえた時にはよくつまずいたものだ(リア王シェークスピア
  379、 人間という奴は敵を口に流し込んで脳まで盗ませてしまう(オセロ−シェークスピア
  380、 悩んでいる時は動けない!動いている時は悩まない!
  383 、 時流はー
    ディスカウンティング(競争の激化)イノベーションターゲット 複合化 郊外化(本格的車社会)
  384、 人は、これでよいと思った瞬間その人間は利口でなくなる。えらいと思った瞬間えらくなくなる。
    自分はこれでよいと思った瞬間、その人はくさったも同然である。

ーH0307事業百訓 ー
 今より20年前、人間には周期(波動)があるのではないかと気がついた。
九年が一周期で前半が陰・後半が陽である。
(マイナス3才〜5才) (6才〜14才) (15才〜23才) (24〜32)
(33〜41) (42〜50才)(51〜59)(60〜68才)(69〜77)……。
そして周期の変わり目が厄年となり 人にとって非常に危険・不安定の年となる。
これは決して人の論理の借物ではなく私自身の周期であるが、昔より数え年で24・33・42才と厄年と丁度一致する。
中高年の当社の応募の人の履歴書をみていると、大体厄年をきっかけに何か失敗しているケースを見うける。
厄年は、丁度肉体的に精神的にも節目の年ではないかと考えられる。
現在の私は今年までが陰で来年が転換の年となり1993年より陽転になっていく。
偶然の一致か事業計画も丁度それにあわせて立ててある。
過去を振り返ってみると全て陰陽はかったように明確になっており、一年の狂いもない。
少し運命論的な書き方になったがそうではなく、いかにその“節目”をみつけ“運”という波動(勢い)に乗るかである。
“陰”の時は“陽”の為の内的エネルギーの充実をはかる時になる。
これを書いていてマイナス3才(生まれる前の3年)とは、どういう意味なのか非常に興味がわいてきた。
私の兄が三才年上という年まわりに関係あるのだろうか? それとも……
ーH0309事業百訓ー
(字数の関係でカット08年08月23日)
ーH0311事業百訓ー
 最近私が造った言葉で“夜明けのリゾート・タイム”がある。(江藤淳の“夜明けの紅茶”をもじったものだが)
・早朝(4時半〜5時半)起床 ・近くの土手を一時間散歩 ・テレビ体操 ・瞑想 ・家族全員のお祈り・食事と続く。
 特に散歩がよい。山の彼方をみながら複式呼吸をして歩く。季節ごとの草花や鳥をみながら川のせせらぎを聞き、
 時々に般若心経をとなえる。この散歩に全てが含まれても過言ではないという“気”にもなる。これを実施して4年、
 副産物として夜に出あるく事と、酒量が激減した事だ。健康食品を口にする事も加えて七kgも体重が減った。
 時々不節制が続くと散歩していると身体がだるく重くなるのがはっきり判る。
 また朝の風呂も非常によい。当初は疲れが残ったがなれると気分爽快になる。
 早朝型のきっかけは松下電器の山下俊彦元社長の講演を聞き感激して、自ら挑戦してみた事だ。
 彼は登山がライフ・ワークであり、その訓練も含め毎朝3時半起床。 1時間半10km歩くという。
 そして読書とシャワーをあびるとの事。夜は定時がくるとすぐ帰宅。夜のつきあいは一切断っている。
 これが逆に考える時間と、心の余裕をつくったのでないか。山下跳び(飛躍的出世)の秘密もこれがポイントではないか。

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事業百訓ー1992年(11)
H0401新年を迎えて!!
            (字数の関係でカット)
ーH0403事業百訓ー
 385 、否定は結論であって、探究を中止する事だ。
   正しい結論は自ら体験をして、あらゆる角度から探究をして、疑問を解明してこそ出るものだ。
   根拠のない否定は自らを否定する事になる。(高橋信次
  386、負けた時、すぐ反省することは一番良くない。反省するのは2番目でよい。
   反省というのは、まじめにものを考えすぎてしまうからです。そこには笑いがありません。
   趣味や道楽でもそうですが、とにかく無心になる、これが一番です。そして心底で笑うことです。
  “商売にうまくいく”“勝負に勝つ”すべてに共通している事は、無心になり笑うことです。
   それが幸せになれる最大の条件です。(米長邦雄
  387 つきつめよ!あいまいにするな!先に伸ばすな!(渥美俊一
  388 “人間の奇妙な特質の一つは他人の欠点はすぐみつけるが、
   失敗の原因となるような己の特質には気付かないという点である。
   ”この問題は人間に限らず企業にもあてはまるもので、危機管理における重要な課題を示している。
  389 「人間の真価は、その人が死んだとき、何をなしたかで決まるのではなく、
     彼が生きていた時何をなそうとしたかである。」  (ユング
ーH0405事業百訓ー
  390 “阿弥陀仏”“十万億仏土”“極楽浄土”は“空”の別名であり、彼等(法然親鸞・一遍)
    にとっての“空”の解釈であった。“空”こそさびしいものでなく、“光明”であり、
    極楽・阿弥陀如来のモチーフを借りた(司馬遼太郎
  391 (一)十一年前に“統一料金×ロープライス×オールシングル=(業態の創造”をコンセプトに創業
    (二)(それより三年後)より“規模(量・シェア)の追求=300室規模・体制の確立”を次のコンセプトに、
    (三)二年前より次のコンセプトを目指して……
  392 “私は書物を人にはすすめない。その人にとって本は買うまでが勝負である。
    本屋でこの本を自分が買うと決めるその一瞬こそ最も大事なのだ。”(第一生命・桜井社長)
  393 夫婦というものはおたがいの悪行を果しなく吸いこんでしまう、不気味な沼のようでもある。(川端康成“山の音”)
  394 人生は、ただ向こうから与えられるものではない。 自ら創ってゆくものである。
    自ら創ってゆくには、やはり三つの人生の段階が必要。ラクダの人生とライオンの人生と小児の人生。
   いいかえれば忍耐の人生と勇気の人生、そして創造の人生。   (梅原猛学問のすすめ”)
ーH0407事業百訓ー
  395 ~402,字数の関係でカット
ーH0407高野山へ旅してー
 十年前より行きたいと願っていた高野山へ二泊三日の旅(ドライブ)をしてきた。
初日は比叡山延暦寺へ寄り、“根本中堂”へ、二度目だがその荘厳さに圧倒された。
また新しくできた国宝堂の国宝・重要文化財の仏像・仏画等も延暦寺ならではのものであった。
翌日の高野山、特に“奥の院”への老杉に囲まれた参道は神秘的で左右の墓石群に千年の歴史の深さを感じた。
何げなくみた墓が上杉謙信明智光秀、浅野内匠・伊達政宗前田利長豊臣秀吉等の墓であった。
三十人位の白装束の集団がすわりこみ“般若心経”を、あげていたのが武田信玄の墓であった。
県内では村上藩、長岡藩、新発田藩などがあった。他にも代々の天皇家の墓や松下(電器)家の墓等も印象的であった。
この終点にある灯竜堂も灯竜の灯火が天井等に無数にならび、形容しがたい感動的なものである。
その奥にある弘法大師の御廟所も信者がそれぞれ“お経”をあげており、奥の院そのものという感じであった。
秀吉が母の菩提を弔うために建てた金剛峯寺も剛荘な構えで、“柳の間”(関白秀次が切腹させられた間)
がそれとは知らず、突然目の前に歴史を見せつけられたようであった。
高野山へ登る途中の林海の深さに感動、千百年も前によくぞこの場所をみつけたものと不思議であった。
ーH0407城下街小唄 ー
 私の出身地の長岡はかつて“長岡藩”の城下街であった。
その大手通りのほとんど真中に生まれ育った事もあり、その長所・短所がよくわかる。
その特質は閉鎖性・固定的、商人的であり、“城下街曼陀羅”がきっちりできており漫画的ですらある。
彼等の社会は“ウワサ社会”で構成されている。特に長岡財界とかいう社会が存在(?)しており、
彼等の出す“ウワサ”がその社会を大きく左右する。それが事実であろうがなかろうが“マンダラ”の中心に
近い人間が言った事こそ絶対?(“ウワサ”として)彼等の社会をみていて、維持型の人間こそ“一級”と評価される。
固定社会が故に何もしない(何もできない)事こそがベストなのだ。
“非能動的二代目+婿取り娘サロン社会”と言える。先日もいやな“ウワサ”を聞いた、今は下火になったのだが、
新興の各業界の?1の社長が聞くに耐えない“ウワサ”を流された。“一種の集団いじめ”、そのストーリーが陰湿でリアル。
冷静に考えればほとんどが尾鰭のついたウソである。それがおもしろおかしくて集団ヒステリック的につくりあげられており、
自らの名が出るかどうか怯えている。“参加型変態うわさゲーム”を全員で楽しんでいる“痴呆社会”そのもの。
ーH0407霊的体験ー
二十年近く前になるが、父の死後四九日の終わるまで何度か不思議な体験をしてみた。
死後一週間後位か妙な夢をみた。私自身父の気持になり“死にたくない。
もっと生きたい、生きたい”という“念”になってしまった夢である。
そして夢よりさめた時の妙な気持。私自身父になってしまった。
いや私自身(父自身)生きている!という妙な不思議な感覚である。
夢の“念”は父そのものであるし、父と一年身近で苦しんだ為に“念”が実感できたのだと思う。
それが夢よりさめた自分の魂が“父の魂”と一緒になった!という不思議な実感。
経験した人間ではないとわからないはずだ。また死後二〜三日後の夢も強烈な夢であった。
何か強烈な恐怖感がおそってきた。その時、父のベットで寝ていたが“おやじ助けて!”と言ってしまった。
と同時に廊下の向こうにある仏間より本当に強烈な“引力”が足をひっぱった。
そのひきずりこまれた瞬間ベットにしがみついたが、その時隣に寝ていた母がスクッと立ちあがり
トイレに行った。全身汗びっしょりであった。まだまだ不思議な事がいっぱいある…。
あれ以来最近は少なくなったが幽体離脱とか、妙な霊的体験が多くなった。
ーH0407禁断の秘密 ー
「近年の分子レベルの系統進化学は、神学者や哲学者によって数千年守られ続けてきた
禁断の秘密を一気に暴露してしまった。DNA(遺伝子)の構造上の相違量を測ると、
ヒトと二種のチンパンジーは1.6%であり、一方我々に近縁なもう一つの類人猿ゴリラは、
人とも二種のチンパンジーとも2.3%異なっていた。
この結果はゴリラがチンパンジーと人類が分枝する少し前にわれわれより分枝した。
となるとチンパンジーにとって最も近縁な動物はゴリラではなくヒトであり、
チンパンジーは実は“チンパン人”だった。……せいぜい六万年前まで
「単なる大型ほ乳類の一種あるいは、ちょっと変わったチンパンジーにすぎなかった。」
“7/14読売新聞” 東大、動物行動学 助教授・長谷川寿一
霊長類ヒト科ヒト属ヒト、これが我々の今までの分類上信じられており、
人類だけが高み立って勝手に分類していた事になる。
ヒトも含めた三種のチンパンジーの一種でしかなかった。 本当に刺激的“禁断の秘密”