「住まうこととさすらうこと」 ウーテ・グッツォーニ著
                           ー読書日記
 *世界という家の中で、住まうこと と さすらうこと

図書館で何気なく手にとって、そのまま二時間以上も近くの机で読み込んでしまった。 
その本の冒頭に芭蕉の『奥の細道』 「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。 舟の上に生涯を浮べ、
 馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。」が書かれていた。
住まうこととさすらうこと、さすらうことと住まうこと。 人生を振り返ると、この二つの間を行ったりきたりした。
そこで学生時代の寮生活を思い出してみると、住まうこととさすらうことの重なっていることが解る。
そして、その後にジャスコに勤務をし、三重、神戸に行き。 東京に舞い戻り、金沢に、住まいさまよい、長岡に舞い戻り、
千葉に、そして、再び長岡・新潟に 住まいさすらってきた。 人はそれぞれが、住まいさまよってきたから、
その一言一言が鋭く心の奥に響いてくるのである。 
通勤途上に私と同じ年位のホームレスの姿が「住まうこととさすらうこと」を目の当たりに見せつけられる。
 住まうことは、特定の場所に、特定の時間にいることである。
 それに対して、さすらいは、動いており、過程にある。異郷の馴染みのないものの挑発に実をさらし、
 その中から身の証を立てていかなければならない。 その経験が、その人の人生である。 
住まうことは「より自然に生じたもの」、より大地に結びついている。
それは、「屋内」という閉ざされたなかで、緊密な領域でくつろぐことである。
そこでは、開かれた外を忘れ、ゆったりと落ちつくところである。
しかし、住まいのないさすらいは、ただ落ち着きのないだけ。 住まいがあるからこそ、さすらいがある。 
男はつらいよ」の寅がそうである。 正しく人生は、住まうこととさすらうこと、である。
だから、この本に引き込まれ自分の人生を重ねてしまう。
人間の存在が、住まうことであるなら、それは「世界という住まいー家ー」に住むことである。
天の下、地の上を我が家にしていることを自覚することである。 
逆にさすらいは、つねに新たな未知の空間や辺鄙な地域に行ったとしても
「全体的な世界」を自分の住処にするのである。