いつの時代にも「今時の若者は」と言われてきたが、少し前の経済週刊誌に
 「現在の20歳代が危ない」という特集をしていた。
その特徴として、
・上昇志向なし
・10歳代で「失われた10年」を経験
・二年で3割離職
・20歳代前半の43パーセントが非正規社員
・親との同居率6割
・職場に不満は過半数
・海外志向のない若者が半数 等々である。
 今さらだが、彼らには弱肉強食の意識が欠落、若いときに辛い体験をして、それをバネにして上を目指そう
という気持ちが欠落している。韓国、中国などの若者に比べて、全く人生に対する姿勢が劣っているようだ。 
例の「ゆとり教育の犠牲者」なのである。 こういうマイナスの回転に引きこまれた世代は、
何処までもマイナスがついて回るのだから、気の毒といえば気の毒。
我われの世代が逆にプラスの回転だったから、それが鮮明に見えるのである。
前向きでないからか、消費や海外に対しても興味を示さず、ただ目先の安定を求めてしまう。
これからの長い人生をどう生きていくのだろうか? 
この世界恐慌の中で、プラスの気持ちも持ちにくいのはわかるが・・・。
アメリカが戦後日本を徹底的な隷属国家として、骨抜き戦略をしてきた最たる象徴が、
三十代前半から二十歳代の若者である。考えてみたら団塊の世代の子供たちが核になっている。
団塊の世代は日本が歴史上、冷戦の中でアメリカの支配下としても豊かさを一番享受してきた世代で、
その子供として、その恩恵を受けてきて、成人になったと同時に失われた十年を経験したのだから・・・。
 いま一つの現象が現在の政治家と官僚である。 国家の体質を変えることが出来ないのである。
戦後60年以上にわたり破壊された日本的風土は、長期にわたり国家停滞をもたらすことになる。

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2598, 中国の地震について
2008年05月15日(木)

中国の地震は、死者行方不明は十万人以上の可能性も出てきた。
産経新聞が行方不明9万人と報道していたが、まだ真偽は解らない。
中越中越沖地震がマグネチュードが6・8、今回の中国の地震が、7・8。 
震度が一違うと32倍というから、いかに大きな地震だったか!が推測できる。
32年前の文革真っ只中に24万人の死者の地震があったというから、日本の最近の地震とは規模が違う。
この地震もも、マグネチュードが7・8だったという。最近は誰もがデジカメか携帯電話のカメラや、
ビデを撮ってしまうから情報管制は難しい。連日、生々しい写真が出始めている。
スマトラ沖地震と、ミャンマーのサイクロン、そして、この地震と大規模の災害が続いている。
それも中国にとって華やかなオリンピックの聖火リレーの最中に。そういうものである。
 以下は、新聞の記事で、最も簡潔に知りたいことが書いてあった記事である。
  =毎日新聞 ー余録:四川大地震
人類史上最悪の自然災害は、明時代の中国で起こった華県地震と呼ばれる震災という。
1556年1月23日、陝西省西安の東方約70キロの華県で発生したマグニチュード8の地震で、死者は83万人に及んだ
▲その有り様は「地陥没、裂開し、震裂の大なるは出水、出火してその怪形容すべからず」と伝えられている。
人的被害が大きかったのは、この「地陥没、裂開」のなかでヤオトンと呼ばれる横穴式の穴居住宅の多くが崩れたためといわれる
▲今また倒壊した建物のがれきの下から助けを呼ぶ声がするというニュースを聞けば、繰り返されてしまった惨禍に言葉を失う。
四川省震源にしたマグニチュード7.8の地震が四川、甘粛、陝西の各省や重慶市を含む広い地域を襲った
▲被害の全容はなおつかめていないのに、すでに死者は1万人以上を数えている。現地からの報告では倒壊家屋の総計は
346万戸に達し、震源近くの街は壊滅状態という。
また各地で学校などの倒壊が相次ぎ、被災地全域で今も合わせて2万人以上が生き埋めになっているようだ
▲歴史上震災は何度も経験していたのに、今回も災いは地震への備えを欠いたもろい公共施設や
山間地の貧困層の暮らしを直撃した。今この瞬間もがれきの下で助けを待つ子供らがいる。
何かできることはないかと心あせるのは、このニュースを見つめる全世界の人々の気持ちだ
北京五輪を前にチベット人も多い土地を襲った震災だ。中国政府は直ちに首相を現地に派遣し救援態勢をとった。
今はただ救える生命を一人でも多く救うのにすべての決断を集中するのが、国際社会への最良のメッセージにもなろう。
               毎日新聞 2008年5月14日 0時07分(最終更新 5月14日 1時36分)
 ーー
 中国もソ連解体と同じ道を歩くのか、それとも13億の民を守るため、共産党という建前の強大な権力が
 必要悪として許容するのか、この数年は目を離せない状況になってきた。

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2007年05月15日(火)
2233, しお壷の匙  ?2
         (´∀`σ)σ オハYO!
 
この中の「銭金について」の上司の言葉と、本人の動揺が面白い!
「学生気分が抜けない頭でっかち」を注意された時のカルチャーショック。
誰もが一度通らなければならない精神的脱皮の時である。
働くとは何か?  金を稼ぐことである。 生きるためである。
そして、その中に生甲斐を見出していくことである。
一度、徹底的に自分を破壊して、金を稼ぐプロとして再生しなければならない。
これが三年目にくるか、十年目にくるか、それぞれ違うだろうが。

ーまずは、その部分を抜粋してみる。
 ーー
「・・ある日、私は上司に呼ばれ、きみはまだ学生気分が抜けていないんじゃないか、
お世辞、お愛想の言い方がへただ、と注意された。突然のことに当惑していると、
上司は自分の机の抽出しから一冊の本を取り出し、いきない「これは何だッ。」と呶鳴った。
見れば、それは私の本だった。当時、新潮文庫の一冊として上板された、プラトーン・田中美知太郎訳
「ソークラテースの弁明」であった。私は己れを慰めるためにそれを書店で求め、通勤の往き帰りに
電車のなかで読んでいた。 上司はそれを私の机の中から取り出し、咎めているのだった。
「俺はお前が週刊誌を読んでいる姿、見たことねえぞ。これは何だ。
こんなもの読みやがって。こんなもの読んでて、金に頭を下げられると思ってんのか。
人間の心は捨てろ。そうすれば、どんなことだって平気で出来る。
人におべんちゃらを言うことだって、人を騙すことだって平気で出来る。
俺たちは人に頭を下げることによって、飯を喰ってんじゃねえぞ。
金に頭を下げることによって、喰ってるんだ。いいか。お前はその屈辱にもよう堪えん男じゃないか。
金に頭を下げることのありがたさを知ったら、どんなことだって出来る。
屈辱に堪えること、それがお前の喰う飯の味だ。お前だって、金なしには飯が喰えん男じゃねえか。
その金は誰からもらうっているんだ。おう、どんな別嬪も便所へ行ったら、パンツを脱いでしゃがむんだ。
人間の心を捨てろ。いいか。」 ・・・  私にあっては、この小事件は大きな意味・価値を持っていた。
私はプラトーンを読みながら、併しまた同じくプラトーンを読む他人で、これを読むことに屈辱を覚えない人には、
も早何も共感を覚えなくなっていた。 世の中にはプラトーンを読む人は多く、寧ろこれを読むことを己れの「誇り」
にしている人の方が多い。私にはその自慢がましい精神態度が、頓珍漢な思い上がりにしか見えなくなった。
・・・併し私はそれでもプラトーンを求めないではいられなかった。この屈折は、私に苦痛を強いた。
  ーー
  解) 私が金沢の某会社に勤めていときの上司に似たようなことを言われたことがある。
    もっと次元の低い内容であったが、まだハッキリ憶えている。 その時は「自分の見える限界でしか、
    人は見えないということか?」と頭の中で呟いていたことを覚えている。
    上司や仲間を同列の相手として見ていない自分が、そこにあった。
    甘さを背中に抱えながら、見て見ないようにしていた自分が当時の自分であった。
    この文章を読みながら、なるほど金を稼ぐということの難しさを改めて思い知った。
    生存と、成長と、ライバルとの競争と、何の手がかりのない空虚のあせりの中で・・・
    当時は、目の前に置かれた一冊の宗教書「大本教の出口王三郎」の言葉であった。
    その歪みの心の中で、木に登って=「プラトンを読んで」現実からの自己逃避をしていた著者と、
    現実という熊の吐く息が、その上司である。今の若者、いやこれは何時の時代にも通じることだが、
    本も重要だが、シッカリと地に足をつけた割り切りも重要である。現在の私の年齢の厳しさは、
    過去の自分の足取りがそのまま、自分に突きつけられるためである。
    心が締め付けられる思いを毎日のようにしている。 ただ金銭感覚は、両親から徹底的に教え込まれたが、
    一日、二時間の読書は必ず、していたが、それでも後悔すること然りである。
                   (*・ω)ノβψε★βψε
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2006年05月15日(月)
1868, ブログは社会革命ー 2
                      おはよ?!(*^ワ^*)i
    
いま一つ劇的なポイントがあった。
それはブログに書かれた記事は、検索エンジンにとっても検索されやすいということだった。
わかりやすく言えば、ブログの記事や日記は一本一本が独立したHPのような形式になっている。
検索エンジンはこうした構造のHPを好むから、結果的に検索エンジンはブログに書かれた内容であっても、
企業のHPと同じように検索エンジンに取り扱われるようになったのだ。  
ウェブ進化論」の第四章ブログと総表現社会 の中に解りやすく書いてある。
ーひとつはブログの仕組みは、記事をコンテンツの単位として設計されている
ということだ。つまり、ここの記事に固有のアドレス(URL)がつけられた。
技術的に難しいことではないが、これが当たり前になったのが非常に大きかった。
それぞれのブログの記事に固有のアドレスがつけば、「○○さんのブログ」というたくさんの情報が
混在する塊を指し示すのではなく、「○○さんのブログのこの記事」とピンポイントで紹介できる。
そのウェブサイト全体の内容が次々と更新されても、書かれたその記事のアドレスは変化せず、リンクは永続する。
ウェブサイトという単位よりも、もうひとつ小さなくくりである記事が、ブログで取り扱う標準単位になった。
                      (*^ー^)/C□~~ コーヒー
第二の技術的変化は、RSSという古い技術がブログという新しい仕組みに取り込まれ、全く新しい可能性を拓いたこと。
RSSとはウェブサイトの更新情報を要約してネット向けて配信するための文章フォーマットのことだ。
もともとウェブサイトとは実に受動的なメディアで、サイト上で何か更新を行っても、
誰かがそのサイトを見に来てくれない限り、その更新は人の目に触れないという
代物であった。しかし「更新情報を要約して配信」できるということは、
そのウェブサイトをの更新を能動的にネットに向けて知らしめることができるということを意味する。
記事をコンテンツの単位として考えたブログの仕組みと、サイト内の記事を配信するというRSSフォーマットの
構造がうまくマッチしていたため、ブログを書くためのツールの殆んどが、最初からRSS配信機能を組み込んだ。
つまりブログツールは、記事がかかれてサイトが更新される度に、RSSフォーマットの情報を、ネットに向けて
自動的に配信するようになったのである。むろんブログの書き手のほとんどはそんなことを知らない。
しかし、インターネット上は、ブログを書いた人たちの記事の数だけ吐き出されたRSSフィードで溢れるようになった。
フォーマットが標準化されていたから、ネット上の誰もが、それらを拾って蓄積したり、加工したり、サービスを開発が
できるようになった。情報の自己増強・伝播メカニズムの芽が、ブログとRSSの組み合わせによって生まれたのである。
            (o´・ェ・`o)ノ♪ バイバイ!
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2005年05月15日(日)
1503, 平等について ー1
ー不平等が人間の基本ー

フランス革命の旗印は「自由・平等・博愛」である。
その自由に重心を置いたのが、自由主義であり、平等に重心を置いたのが、社会主義である。
博愛に重心を置いたのが宗教というところか。「自由」については何回か書いたが、今度は「平等」
について考えてみよう。『日常生活に哲学は必要だ』ー三浦朱門と鷲田小弥太の対談集ー
の中の「平等について」の一節に明快に書いてあった。 これから考察してみる。
ーまずは抜粋してみるが、「平等」に対して、これだけ解りやすく納得させてくれるのも珍しい。

ー「不平等が人間の基本」ー
・三浦
 社会主義の基盤は平等です。さっき、人間は共産主義者が好きなのではないという話がでましたが、
それは実は平等が好きだということなんです。実際、遠見に見ると、人間なんてどれもこれも同じなんです。
たとえば学校を見ると、卒業式とかなんかで、クラスの記念写真を撮りますね。
これが制服など着たりしているとなおさら、みんなと同じである。
だが、少し近づいてみると、男の子がいたり、女の子がいたりする。
偏差値も違うし、歌の上手い子もいる。ハンサムな子、美人な子、逆にブスな子もいる。
これだけの要素を順列組み合わせしてみても、千差万別といってよいほど違う。
まして人間の要素というのはこれだけではない。 本当に一人ひとり違う。
 だから、社会を構成上で大切なのは、平等の適用範囲なのでしょうね。
平等の心地よさは大事です。それは社会を安定させる重要な要素です。
人間を遠距離で見るか、中距離で見るか、近距離で見るか。
市民的平等、遺伝子的平等、文化的平等などさまざまな局面を考えてみると、
やはり平等は社会保障や法律の局面に限るべきだと思います。
その部分の平等が保障されていれば、その社会はまずはよしとしなくてはなりません。
ところが平等とはなんでも同じでなければならないととらえられている。
・鷲田
まず人間は基本的に不平等であると心得なくてはなりません。 
その基本的に不平等である人間が社会的生活を営む上で、なるべく円滑にいくように
考えだされてのが平等という概念であることを知らなくてはなりません。
そのためには、法律に定められた平等以外に不平等であるのが人間の姿なのです。
それを心得させるものは哲学であるということなのです。

「平等と権利の主張」
・三浦
平等は社会生活を営む上で便宜的な概念であって、人間の本質でないということことですね。
だが、その平等の概念がしばしば混乱するのは、ほかでもない、
権利意識と平等が混同されるからではないでしょうか。
・鷲田
権利を主張するのに平等を楯にする。しかしね、平等を楯にした権利の主張は利己主義に過ぎないよ。
その証拠に、こちらに何かを寄越せ!という権利の主張なら大いに平等を口にしますが、
平等にするためにこちらの何かを削らなくてはならないような場面では、平等のビョの字も出なくなる。
・鷲田
いまの政治家や役人の二代目なんてのは世襲化しているが、これを如何考えるか。
・三浦
何代目であろうが、一応外交官試験を通ったり、選挙に当選しているのだから、
やはり平等と見なくてはなりません。
・鷲田
平等は聞こえがよいし、居心地がいいかもしれない。また、社会生活を円滑に回転させるための円滑油としての効果もある。
だが、それはあくまでも法律的な枠組みに限られたことだとわきまえなくてはならない。
良識などという言葉は私にはもっとも似合わないが、やはりそういう良識を持ち合わせてないと、
品位のない社会になってしまいますね。その良識を確立するためにも哲学を持たなくてはなりません。
ーーーーーーー
以上、書き写すのに時間がかかったが、私にとって、それをするだけの価値は充分あった。
まずは、「平等が基本」という前提が突き崩された。しかしよく考えてみれば、子供の時から社会を見ていても
「不平等が基本」にあった。裕福な家庭の友達と、貧困の家庭の友達は厳然とあった。 学歴の差も、
美人とブスの差もあった。 成績の良い子もいれば、劣等性もいた。 弱い子は虐めの対象になっていた。
色いろな人がいるのが社会である。 そして、弱肉強食が実態である。
平等は何処にも存在をしてないのが実社会である。しかし、心のどこかに平等意識が働いているから、
歪みが出てしまうのだ。同じ兄弟なのに! 同級生なのに! 市民なのに! 国民なのに! 等々。
しかし、そこに落とし穴がある。
「人間の基本は不平等」と割り切っていれば、「人生の敗北者」の考え方にならないですむ。
「敗北者」の甘さに、心のどこかに平等意識があるからだ。
「世間様」に棲む「子狐的人間」が、この不平等と平等意識の狭間の中で右往左往する。
中国旅行の時の現地添乗員が、日本に留学に来ていた時に日本の豊かさを観て
「何で同じアジアに住む人間として、ここまでの差がなくてはならないのか?
戦勝国の中国の方が貧しいのか?非常に疑問を持ってしまった!」と言っていた。
国内だけの貧しさの平等なら解るだろうが、敗戦国なのに100倍近くの収入の
差を見せつけられれば疑問を感じて当然だろう。「国家体制のシステムそのものに問題がある」
ことに蠟小平が気がついたからよかったが。
                       ーつづく
・・・・・・・・・
2004年05月15日(土)
1138, つれづれなるままにー駅の風景
(字数の関係でカット2,008年5月15日)
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2003年05月15日(木)
771、ゆっくり急げ!
(字数の関係でカット2,008年5月15日)

・・・・・・・・・
2002年05月15日(水)
407,ホームページを開いて一年

以前「テーマ随想日記を書いて一年」を書いたが。このテーマはホームページである。
「ホームページつくりを通して、パソコンをわがものにする」と目標を立て、実行して一年半経つ。
やはり人生が根本的に変わろうとしている。 情報化を実感している。
たどたどしく、やってきたというのが実感だ。一つの目安が、現在のこの時期と考えている。
ここで一回ホームページの解体の時期かもしれない。 実施は夏以降か?
現在の自分の現状に似ている。今までのビジネスや人間関係や慣例の解体のプロセスの時期だ。
ゼロベースからの見直しである。ホームページづくりと、旅行の積み重ねと、去年の9・11で、
世界と世界観が全く変わってしまったからだ。 やはり情報は最も大事である。
どこまで一人になりきれるか、とりあえず一人に。 とくに「??会」といっている集まり。 
当分は「空」への過程だ。 そしてある時期がきたら、新しい「色」を求める。 
ポイントは「電脳、グローバル、21世紀へ、前向き、楽しさ、興味」である。濡れ落ち葉にはなりたくない。
ここで他者のホームページが見えはじめてきた。素晴らしいホームページにいきあたる。
それと自分のホームページとのリンクがポイントである。特にリンクの分類がポイントになってくる。
それとやはり絞込みが重要だ。そうしないと、みさかえなく情報が入ってくる。
現在、電脳というキーワードがある。その時代に入ったことが実感できるかできないかが分岐点だ。
ポイントはホームページだ。 自分のリンク集でもいい。

・・・・・・・
2001年05月15日(火)
赤面ー自嘲ー入力ミス

日記の文章で、文面に2日に一度は入力ミスがある。1度見直せばこんなに多くないのはずなのだが。
2?3日前より一度パソコン内のメモ帳上に書いた上で、コピーして載せるように切りかえた。
ブラインドタッチの訓練をかねている為、余裕が無かったとことと、日記帳という気楽さという言い訳は
公開した以上成り立たない。書き直す方法は明後日にパソコンの先生の授業課題なので土日に直すつもりだ。
毎日は書かなかった日記を公開すると同時に欠かさず書き始めるのも自身が可笑しい。