昨夜、地元の長岡駅近くのグランドホテルで福沢恵介ディナーコンサートに行ってきた。
前夜の知人と福沢恵介さんとのガーデンパーティに招かれ楽しいひと時を過ごし、
是非参加してみたくなったのである。
9割が50歳〜60歳の中年の女性で、一割が和服姿。隣に昨夜、一緒だった同級生の席だった。
私の顔見知りが数人はいたが、ほぼ見知らぬ人ばかり。ところが、隣席の同級生が、
あれは何処どこの誰、これは誰と教えてくれると、正しくディズニーランド。
歳をとってきたせいか、面白おかしく姿を正視することができた。
武士の紋付・袴には背中と袖に3つ家紋が付いていたが、あれは正しく家を背負っていることを
意味していた。 それと同じことが、閉鎖社会では現在でも罷り通っているようだ。
同級生に「あんたも、大変だね。こういう社会で商売をしているのだから。よくノイローゼにならないね」
と思わず言ってしまったが。「いや、これが長岡。外部の人が長岡では中々、仕事をするのは難しい」とか。
コンサートは、福沢恵介さんのギターの弾き語りで、熱のこもった素晴らしいショーだった。
一人で300人の観客を自分の歌の世界に引き込むのだから、大変な仕事である。
ところで、同じテーブルの前の席の女性二人、歌っている最中に平気でオシャベリをしていた。
私に睨みつけられても、隣の女性に「注意」されても、平気で話し続けていた。何処かの老舗の??。
歌の半分は彼女らの声のバックグランド。 途中から慣れて気にならなくなってしまったが、家内に聞いたら、
かなり酔っていたとか。 まあ、ディズニーランドだから、それもご愛嬌だが、オバサマは凄い。
この二日間は、普段は経験できない楽しい貴重な体験をしてみた。 

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2597, みんなのたあ坊の哲人訓 ー1
2008年05月14日(水)

みんなのたあ坊の哲人訓」ー読書日記

図書館で見つけた小型版の絵本のような本である。
子供向けに サンリオの社長が選び抜いた言葉と、割り切ってみると違った風合いがある。
どれもこれも、耳にこびりついている言葉だが、子供向きにと思うと改め新鮮に思える。
何を今更というより、子供に道理の一部を伝えようという気持ちが伝わってくる。
今日は、100のうちの50までの印象に残った言葉を書き写してみた。
この中でも一番、好きな3つの言葉は
「虹だって15分続いたら人はもう見向かない」(ゲーテ
「失敗の最たるものは、何ひとつ失敗を自覚しないことである」(カーライル)
「他人の罪は目の前にあるが、自分の罪は背後にある」(トルストイ)である。
    
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    さんりお 辻信太郎

  「人間は考える葦である」(パスカル
「誠実に勝る知恵なし」(シラー)
  「逆境も考え方によっては素晴らしいもの」(シェイクスピア
「友情とは二つの肉体に宿れる一つの魂である」(アリストテレス
  「知は力なり」(ベーコン)
「天才は1%の才能と99%の努力である」(エジソン
  「汝自身を知れ」(ソクラテス
「真実の山では登って無駄に終わることは決してない」(ニーチェ
  「君の魂の中の英雄を放棄してはならぬ」(ニーチェ
「幸運は望むものにしか訪れない」(アイザック
  「人間、志を立てるのに遅すぎるということはない」(ボールドウィン
「虹だって15分続いたら人はもう見向かない」(ゲーテ
  「失敗の最たるものは、何ひとつ失敗を自覚しないことである」(カーライル)
「他人の罪は目の前にあるが、自分の罪は背後にある」(トルストイ
  「根本的なことは私にとって真理であるような真理を発見することだ」(キルケゴール
「賢い人は多くの事を知る人ではなく、大事なことを知る人である」(アイスキュロス
  「機会が二度扉をたたくなどとは考えるな」(シャンフォール
「太陽が輝くかぎり、希望もまた輝く」(シラー)
  「どんな問題にも両面がある」(プロとゴラス)
「美しい笑いは家の中の太陽である」(サッカレー
  「その日その日が一年中の最善の日である」(エマソン
「心に残るのは千の忠告よりひとつの行為だ」(イプセン
  「寒さに震えたものほど太陽の暖かさを感じる」(ホイットマン
「望みを持ちましょう。でも、望みは多すぎてはいけません」(モーツアルト

                        世界は知識で満ちている。
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2007年05月14日(月)
2232, しお壷の匙
      ヽ(★>з<)。o○[ォハヨ]○o。(>ε<☆)ノ
    
 車長吉の本の評価は、それがどうした?とみるか、驚きの目でみるか?
 二つに分かれる。私は「で、それがどうした?」という視点が強い!
 内容は事実をそのまま写生的だが、何処にでもある話である。
 人はそれぞれの人生を生きているのである。

 ー面白そうなところを抜粋してみた。
 ーーー
私が物心ついた時分の勇吉は、すでに七十を超え、鍛冶仕事はやめていた。
いつ行っても家の奥の暗がりに黙って坐っていた。異様によく光る夜蜘蛛のような目で人のすることを見ていた。
…そして何か癇に触ることがあると、たとえ相手が三つの子供であろうと、情け容赦のない険しい声で
「ド畜生めがッ。」と言った。恐らくは人間は凡て畜生であることを見抜いていたのだろう。
孫あやしをして喜ぶような甘さはカケラもなかった。私が五つ時分のことである。
ポケットから落ちた五円玉が日土間のたたきの上で、独楽のように廻転しはじめた。
それを足で踏んで拾い、顔を上げた瞬間、いきなり横っ面を張り飛ばされた。
私はもんどり打ってたたきの上へ転げた。
「この糞ったれめがッ。」その時の瞋恚(しんい)に燃え立った勇吉の目を今も忘れない。

吉祥天のような貌と、獰猛酷薄を併せ持つ祖母は、闇の高利貸しだった。
極道がドスを呑んでやって来ても、「うちは冗談は嫌いやが。」と言って、目をつぶっており、
なお相手が横車を押してくれば、いきなり鍋の蓋が飛ぶような烈しい声でカチ喚いた。
「斬るんなら斬りんな、うちは承知しないでッ」陰気な癇癪持ちで、没落した家を背負わされた父は、発狂した。
銀の匙を堅く銜えた塩壷を、
               (以下、字数の関係上カット2,008年5月14日)
                          ☆ァディオス☆(`・ω・´)ノ
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2006年05月14日(日)
1867, ブログは社会革命 ー1
        (。・ω・)ノ☆゚+.オハヨゥゥゥ
                   ー読書日記
    HPを開設してまる五年経つが、    「ウェブ進化論」と「グーグルGoogle」を読むまで、
    ブログがここまで進化ているとは思ってもいなかった。そして「ブログ進化論」を読むにいたって、
    情報革命の行きつくのは,ブログだったのか?と考えてしまった。
    とくに‘トラックバック’という革命的な‘双方向リンク・システム’には驚いてしまった。
    何じゃこれは!というのが実感である。私も、この旧式?なHPはこれとして、
    ブログの世界に入っていくつもりで、その内容を如何するか熟慮?をしている。
    自分の名前を出すか、仮名でいくか? 別人生の自分をつくって、遊ばせるか?   

まずは「グーグルGoogle 」(文春新書)第5章の中の『ブログについて』から抜粋してみる。
素人にはホームページ開設は敷居が高かったが、2,002年を境に状況が劇的に変わってしまった。
専門知識がなくても、ブログのサービスを利用すれば、誰でも簡単にHPをもてるようになったのだ。

    アメリカで、ブログが世間に認知されるようになったのは 2,001年のこと。
    きっかけは、9月11日の同時テロだった。
    この事件をきっかけに、アメリカ市民の間に『テロに対する自分の意見を言いたい』
   『お互いの気持ちを交換したい』という情報発信に対する熱望が広範囲に広がった。
    そして、HPやネット掲示板で政治的な意見を発信する人が急増し、
    ある種の『インターネット論壇』のようなものを形成するようになった。

丁度その頃、サンフランシスコで「ムーブバブルタイプ」というソフトが生まれた。
このソフトを開発したのは、ミナ・トロットとベン・トロットという夫妻であった。
この夫妻が作ったムーバーバブルタイプは、ブログを簡単に解説できるソフトだった。
日記を書くソフトは以前から存在していたが、他人の日記に対してコメントを
つけ加えたり、過去の日記の蓄積を簡単に検索して閲覧できるような使いやすいソフトは皆無だった。
妻のミナは自分のブログを書こうと考えて、「もっと使いやすいソフトはないの?」とベンに相談し、
プログラマーだったベンがムーバーバブルタイプの最初の版を作り上げた。

    このソフトが2,001年秋に無料で公開されると、口コミで高まり、あっという間に
    インターネット社会に広がってしまった。 このソフトはあらゆる面で革新的であった。

その中で最も革新的だったのは「トラックバック」という仕組みを持っていた。
これは、誰かがブログ上で別のブログにリンクを張った際に、その相手のブログにも
「リングを張りましたよ」というメッセージが表示される仕組みだ。
つまりブログ同士がお互いにつながりやすくなり、意見が活発にできるような仕組みを用意したのである。

    これによって、インターネット社会が劇的に変化した。
    それまでの「インターネット大陸」の狭間にあって孤立していた個人のHPが、
    急速に他のHP群とつながるようになったのである。

これによって、ブログが「双方向リンクシステム」というトラックバック・システムを整えていた。
これによって世界中のHPはお互いにつながり合うことになった。これまで孤立していた個人のHPが、
トラックバックによって劇的にネット世界のあり方を根底からひっくり返った。
新たなパラダイムの出現であった。 いま一つ劇的なポイントがあった。
    それは次回に。
                  つづく    ゝд・) ノ バイ
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2005年05月14日(土)
1502, サラ川

第一生命が毎年募集している恒例の「サラリーマン川柳」の入選作100句が7日に発表された。
18回目の今年は全国から2万1878句が集まったというが、例年から見ると不況のためか五分の一以下である。
職探しや会社の競争に疲れた話題を取り上げた句が多く、サラリーマンには「逆風」が吹き付けている現状が、
そのまま反映されている。「帰宅して妻の気嫌を犬に聞く」など時代に翻弄されている庶民の実感が滲み出ている。
毎年、楽しみにして見ているが、それにしても川柳自体に勢いがない。捻りもないし、面白みも少ない。
時代背景のためなのだろうが、せめて川柳で笑い飛ばしたいところだ。
まず
1位は、「オレオレに 亭主と知りつつ 電話切る」 と‘振り込め詐欺’と妻に利用され、
2位、「ペと言えば 母はヨンジュン 父加トちゃん」 と韓流ブームも反映、
3位、「『振り込め』と 言われた その額もってない」 と自嘲し、
4位、「ヨン様かあ オレは我家で ヨソ様さ」 といったペ・ヨンジュンのネタや、
5位、「有害だ 『混ぜるな危険!』 嫁姑」 という、家庭内の事情も加え
6位、「オレオレは マツケンサンバ だけでいい」 など松平健もあり、
7位、「『残念!』と 俺の給料 妻が斬り」と投げパッチになる。 

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2004年05月14日(金)
1137, 「ライフ・レッスン」?14
   ー明け渡しのレッスン

ー抜粋ー
・自分を明け渡すためには、毎朝、目がさめたときに「『わたしの意思で』ではなく、
『汝の意思で』」といえばいい。 そして、こういうのだ。
「きょう、なにがおこるのか、わたしにはわかりません。 きょうは自分がすることの計画はあります。
 仕事に出かけ、芝生をかり・・・。
 でも、その計画は青写真でしかないという現実に対して、わたしは自分を明け渡します。」
  ーーー
?明け渡すとは仏教でいう、諦念に似ている。死ぬとは、この世にすべてを置いて消滅することである。
定年で会社を辞めることも、自分の仕事を明け渡すことである。
宗教の言葉に「死後残るのは、愛情だけだ」という言葉があるが、両親からは深い愛情を残してもらった。
 明け渡しのとき、すべてが空ということが解るのだろう。そして、残るのは無心の愛情だけである。
愛は言葉だけでない、その裏づけの明け渡しの中にある。
人生には最後のイベントとして、死がある。すべてを明け渡して‘無’に帰さなくてはならない時、
虚無の真っ只中で、自分の人生とは何だったのか、この人生で何を学んだのだろうかを振り返ったとき、
愛情と感動こそが、すべてだったと気がつくのだ。

 感動はじゅうぶん経験してきたが、無心の愛を残してきただろうか?
  いや、残せるだろか?
 ーいい日は幾らでもある。 手に入れるのが難しいのはいい人生だ。
                ?アニー・ディラード
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2003年05月14日(水)
770、 私が二十歳の頃-時代背景

20歳の頃の話は、半年前に「学生時代のこと」のテーマで書いた。
今回は、その時代背景はどんなであったかを書いてみる。
・二十歳の前年の1965年、米軍がベトナムの爆撃を開始、
 ベトナム戦争が二年目であった。 ベトナム戦争反対運動と学生運動がピークに向かっていた。
 また中国で文化大革命運動が始まっていた。 高度成長の始まりもあり、騒然とした雰囲気であった。
アメリカ大統領がジョンソンで、日本は佐藤栄作が首相二年目に入っていた。
ビートルズが来日。
・尺貫法が廃止される。
・TV では『おはなはん』が放映、『笑点』がこの年に開始された。
 他には『サンダーバード』『ウルトラマン』『銭形平次』があった。
・漫画では『巨人の星』『意地悪ばあさん』があった。
・流行歌では、「星影のワルツ」「君といつまでも」「夢は夜ひらく」 「霧氷」「バラが咲いた」
 「こまっちゃうな」「思い出のワルツ」 などポップスの全盛期であった。
  翌年は「ブルーシャドー」「小指の思い出」相良直美の「世界は二人のために」
 「夜霧よ今夜もありがとう」「女の波止場」など、名曲がつづいた。
・スポーツでは巨人は堀内恒夫が入団で、44イニング無失点の記録をつくった。
 君原がボストンマラソンで優勝した。 社会人ラグビーでは、八幡製鉄が4連覇を果たした。
・新宿に西口ができた。西口の浄水場の近くをバイトで何回か通ったことが 懐かしい。
 こう書いていると次々と当時の記憶が蘇ってくる。

振り返ってみると、高度成長期の真っ只中で日本が未来に向かって光り輝いていたようだ。
音楽も漫画も夢のあるものが多い。半年前にこの頃の事を書いたものをコピーしておきます。

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2002年11月08日(金)
574, つれづれに-学生時代のこと

学生時代の最後の半年間の日記を「ある時間の断片」という題で書き写している。
そのときは34年の時空を飛び越えて青春真っ只中の自分に立ち返っているようだ。
記憶もそのときのことが走馬灯のように立ち返ってくる。
現在と変わらない自分と、全く変わってしまった自分がそこに見える。
今時に悠長なことを思い出しているものだとも考えてもしまう。

学生時代は、
・そこで住んでいた青雲寮の生活
・武澤ゼミと卒論
・欧州の一ヶ月の旅行
・影響を受けた大学の先生と授業
・クラブの先輩同僚などの思い出
・軽井沢の友愛山荘のアルバイトの思い出
・合コンや合宿などなど
結構多くの構成が重なっている。この4年間が人生の圧縮であった。
物理的には馬小屋のような部屋に住んでいたが、出来事は数え切れないほどのことがあった。
脱皮脱皮の連続線上にいたようだ。20代30代は誰でもそうだが、私の場合創業を目指していたこともあり、
刺激の強い20年間であった。
武澤ゼミ、欧州旅行、青雲寮、軽井沢友愛山荘、個性的な教授と結構恵まれていたのは時代の背景もあったようだ。
高度成長期で日本がアップスケールの真只中だった。
当時の日記の中で色々な友人と語っている内容は、これからどういう生き方をしようかという内容と、
その批判である。 未来が光り輝いていた。
・自分は留学しようと思う。
・いや大手の会社に勤めようと思う。
・大学に残ろうと思う。
・自分で事業を起こしてやろう。

そういえば結婚をしようという人は誰もいなかった。如何しようか?という人は多かったが。
自分が何か使命を持って社会に期待されているようであった。何かやっと自分の出番が回ってきたようでもあった

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2002年05月14日(火)
406, 倒産の後先ー2 -失敗の条件

倒産にもいろいろある。特に自分で事業を立ち上げて失敗するケースである。
実際経験しなくては解らないのが経営である。早くいえば、実際は博打に似ている。
博打は多くは場数を踏まないと上達しない。遵って、経営管理と経営は全く別物である。
経営に無知?の社長が大手の幹部を社長にスカウト。そこまではよい、経営を全面的に任せる?
その間違いという事に気づかないケースが身近にあった。「飾り」ならいいが、あるいは叩き上げならまだよい。
それをカバーするには、準備を何処まで周到にできるかにかかっている。
自分が22年前、今の事業を立ち上げた時、「500?の成功確立」が、自分の信念の中にあった。
そしてそれだけの準備を、15年間ー19歳よりーかけてきた。
その15年の中身は誰もわからない。そして表面を見て「運」と思ってしまう。
ある人と飲んだ時、かなり深酒の後、ふと横を見ると私の顔を不思議そうな眼でじっと見ていた。
「何でこんな奴が、事業の創業ができるの?」 何処でも捨てるほど失敗事例がある。
起業、起業と最近いわれるが、そう甘いものでない。 それだけの充分の準備が必要だ、それも周到の。
もう先年亡くなったが、以前地銀の次長として長岡の店にいた人が、支店長として私の会社の取引店に栄転できた。
いうことがずばり「たまたま上手くいったの?それとも周到の計画の上で?」
たまたま上手くいった奴と、勝手に決め付ける人よりよいが。
失敗した人はいっぱいいるが、彼らは「たまたま失敗した、運が悪いだけだ!」と思っている。
その上に、失敗の共通点は、私生活が崩れる場合が多い。
打つ買う飲むに溺れてしまう。自己管理ができない人が、経営管理ができるわけがない。

二代目では、変化対応ができないで失敗するケースが多い。
青年会議所のトップ?になってるが、自分の会社は潰れそう。
それと商工会議所の部会長とか?あの街、この街の現在進行形?のパターン!
ゼネコンとか集り政治家に煽てられ、再開発とか。
何処かの街の話だが、厚生会館をつぶし2Fの大駐車場を造ればよいのに地下駐車場を数十億かけつくり、
一台あたり20万~50万で、できるのに確か??00万の経費をかけ、地下駐車場を再開発。
こういうのをマフィアという。利権の為の犯?的行為だからだ。
一桁の差でもありえないのに、二桁は歴史に残る話だ。
その??人形に使われて、娑婆はだから面白い!少し問題がずれた。
潰れるまでに、こういう体質を永年かけてつくっている。会社は一瞬にして潰れるが、
しかし反面まともに?経営をしていれば、そう簡単には潰れない。経営に向かない人が成り行きや、
立場上なってしまう。他人のことでないかもしれないが!明日はわが身か?

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2001年05月14日(月)
つれずれに‐変化の中で

数年ぶりにここにきての‐連休明けー客数の極端の減少で感じた事を書いてみる。
あまりこの(当社ホテル)辺りは、露骨な客引きや売春婦はいなかったが、急にここにきて増えてきたという。
売上ダウンで撤退したあとの店にあらての風俗系の店が入れ替わった結果であろう。
私も飲むときは決まった店で恒例の会か、10年20年飲んでいる気のおけない
飲み仲間としか行かなくなった。そしてその時は1期1会 徹底的に楽しむ。
要するに安くいかに楽しむか、断るか。中途半っぱの飲み会は出ない。でもこれは私だけでない傾向のようだ。
TVもインターネットもますます面白くなってきているし、1日の中身がより濃くなっている。
大相撲も野球の巨人戦も全くつまらなくなった。 
格闘のk?1とかアメリカでの野茂や一郎の大リーガ‐戦等の為である。
時代が変わってきたのだ。情報化が今までの感覚を知らぬ間に変えてしまったのだろう。
この変化を面白いと言っていられないのが今の日本であり、我々各々の当面の課題である。