ある本に「マップする視点」という言葉があった。グーグル・アースが出来てから
《誰もが何時でも、宇宙からの写真を気楽に見ることが可能になった。》気楽にマッピング出来るのである。
「秘境ツアーにはまって世界中を憑かれたように何ゆえに行ったのか」というと、ストレスの発散であった。
軽い痴呆症の母と同居して、ストレス発散をしないと家庭が壊れるという危機感を持ち、家内と年に2〜3度、
秘境旅行に行くことで何とか乗り越えることが出来た。 自分の存在を異質空間に移動して実感として
マッピングすることで、その時点の「今、ここ、自分」を括弧にいれ、旅行のストレスと相殺することだった。
遠くから「極限に近いストレス」の生活を眺めることによって乗り越えようとしていたのだ。
アフリカや南米の遠くからマッピングする視点を、自分たちの支えにしていたのである。
 これが空間的なマッピング体験である。
    ーーーーー――――――
 次に哲学に凝ったのである。初めは「ソフィー世界」など軽い哲学史から始めた。同時に哲学書入門。
学生時代には体験が少ないため、さっぱり解らなかったことも、経験の積み重ねで解ることが多いのが哲学である。
ギリシャ哲学から近代哲学、そして現代哲学を入門書を中心に読み漁ったのである。
その気になれば、ビジュアル哲学書などが、難しい話を砕いて誘導してくれる。
現在考えている自分は、ギリシャ時代から現在に至るまで、どういう経過をもって、このような思想の中にいるのか? 
現在の自分は、時代の、思想の編み目にいて、どのような機能を果たしているのか。
そして、60年あまりの時間の中で、どの様な学びをして、結果としての現在の自分があるのか?・・・等々。
 これが時間的なマッピングである。
    ――――――ーーー
 そうこういっても、死んでしまえば数年もしないうちに忘れ去られてしまう小さな存在。
でも、人間は考えるがゆえに動物とは違うのである。 
この十数年間は「時間、空間をマッピングすること」に費やしてきたといえる。
「グーグルアース」は地球だけでなく宇宙の星星に対するマッピングが可能な代物である。 
 
 この随想日記を8年の間、書き続けてきた。そして毎日、「8年間の同月同日の文章」を読み返すことは、
時間のマッピングであり、それぞれの日々のマッピングといえる。 
 これが主観マッピングである。 
    ーーーーーーー
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2592, 日本の国民皆保険は世界に誇るシステム!
2008年05月09日(金)

文芸春秋の4月号に、「日本の国民皆保険は世界に誇るシステム!」とあった。
当り前と思っていた日本の健康保険が進んでいる事実を初めて知った。
年間33兆円に上る国民医療費は、対GDP比でみるとOPEC30ヶ国中21位と高くない。
しかし、その質的レベルからみると世界に誇れるシステム。
それぞれの国によって、多くの規制があり、日本のように彼方此方の医者に気楽に行けないという。
 ーまずは、その部分を書き写してみたー
 ーーー
医療技術、たとえばがん治療は世界でも最高の水準を誇っている。
しかし一方で、納得できる治療を受けられずに複数の病院を渡り歩く「がん難民」もあふれている。
06年に近藤正晃ジェームス東京大学特任准教授らが、がん患者1168人に対して行った
アンケート調査の結果、「治療説明時に不満、または治療方針決定時に不納得を感じたがん患者」が53?を占めた。
これを日本のがん患者128万人にあてはめれば、68万人が「納得できる治療を受けていない」ということになる。
保険証一枚あれば、いつでも、どこでも、誰もが平等に医療を受けられる「フリーアクセス」を、
日本の患者は当たり前に享受しているが、これはどこの国にでもあるものではない。
1961年に始まったこの目本の「国民皆保険」は、じつは世界に冠たる医療制度なのである。
たとえば、イギリスでは地域の家庭医に患者が登録され、その医師の紹介なしには勝手に病院や専門医に
行くことはできない。いっぽう病院は、手術患者の待機期間が長く、手術まで半年以上待たさることもある。
アメリカには日本の健康保険のような公的制度がない。あるのは民間の保険会社が販売している医療保険だけ。
かけ金や契約内容によって、受けられる医療の範囲が決まってくる。
専門医にかかりたくても、保険会社の指定する病院にしか行けないケースもある。
民間の保険だから加入する義務はなく、事実アメリカでは4700万人が無保険で生活している。
加入したくてもできない低所得層救済のためにメディケイ下という医療保険制度があるが、これは実質上、
生活保護に近いものだ。いま、日本で行われている医療制度改革は、超高齢社会の到来をにらんで、
医療費の抑制を図ろうとするものである。患者の窓口負担は数年ごとに引き上げられてきた。
従来出来高払いだった診療報酬に、疾患ごとの包括払いが導入され、医師は高度の医療がやりにくくなった。
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海外旅行に出かけるときの必須の知識は、保険に入ることである。国によっては膨大な金がかかる。
日本にも良いところが幾らでもある。最近になって物騒になってはきたが、それでも治安も日本は最高水準にある。
治安と医療体制は、生きていく上で根幹の問題である。我々は、悪くなってきたとはいえ素晴らしい国に住んでいる。

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2007年05月09日(水)
2227, 人生張っています ?1 
      (*´・ω・)ノおはよー
                  ー 読書日記                   
中村うさぎ」については、もういい加減にしろ!と思いながら、図書館で見つけると、つい借りてしまう。
エゲツナイ!の一言である。「人生張っています」は露悪という言葉など、はるかに超えている。
「無頼の女たち」5人と語った対談は、互いの最悪を引き出したエログロものである。
こういう話は、世間様の枠から遥かに出ていて中途半端なお笑いより面白い!
花井愛子、岩井志麻子、マツコ・デラックス、西原理恵子とくれば「たしなみ」など、ありえるわけがない。
「はみだし者」の世間の価値観におさまらないオバケのような妖怪女が普通人の「常識」と違う「異世界
の話を展開している。 個性的な女同士のバトル的、際物的な、ぶっ飛びの話題ばかり。
中村うさぎが普通の人に思えてくるから不思議である。女のシモネタの羅列も、ここまで明け透けの話すと、
なるほど納得する。 西原が「私から悪いところ取ったら私がなくなっちゃうじゃない」という言葉がよい。
自分自身を丸ごと引き受けて生きている言葉である。 
 まずは冒頭の ー無頼な女たち宣言ー
「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」
(マタイによる福音書第八章20節)諸君、我々には、あらかじめ用意された居場所などない。
それ故、人はさまようのである。自分の居場所を求めて・・無頼な女たちとは、ねぐらを持たない行き方を選択した女たちだ。
その道は自由で、孤独で、そして果てしない。人は彼女たちを笑い、彼女たちを恐れ、彼女たちに憧れるだろう。
多くの物を背負いながら、何も持たないかのように歩いていく、その軽がるした足取りに。
  ーー
 人生とは何じゃらかんじゃら?などクソクラエである。 世間?そんなもの何処にあるの? 
生きたいように生きて何が悪いの? 変態? それじゃあんたはどうなのよ?
新幹線の中で薄気味悪い笑いを浮かべながら読んでいるが、誰かが見たら不気味だろう!
                                      ーつづく
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2006年05月09日(火)
1862, グーグル Google -2  ε(´',_c')オハヨウ!
                ー読書日記
8年前に設立した小さなベンチャーが、彼らが持っていた新しい検索エンジンのテクノロジー
卓越していたため、瞬く間に15兆6千億の株式時価総額になってしまった。
2004年の株式公開時には、500億円が一年足らずで300倍になったというから驚異というしかない。
しかし、その実体を知れば何も不思議でないことではないことが解る。
この検索エンジンのお陰で、地方の零細企業が再生し、彼らに新たな顧客と以前の数倍の
売り上げを与えようとしている。この本は、その実体を解りやすく書いてある。
グーグルによって、地方と中央はかき混ぜられ、全く新しい産業構造が生まれようとしている。
ーー
そこで先ずは、第一章 世界を震撼させた「破壊戦略」の概略をまとめてみる。
この章は全体の概要になっており重要なので、次回も引き続き書く。
グーグルの中で解りやすい例として取りあげるのが「グーグルニュース」である。
このグーグルニュースは、世界のメディア業界を震撼とさせている。
なぜならば、この新サービスは、新聞やTV,通信などがネット上で
展開しているビジネスを、崩壊させかねない可能性をはらんでいるからだ。
それでは、その「グーグルニュース」とは?世界中の数千のニュース媒体から、様々な記事を集めてきて、
一括表示してくれるサービスである。日本語版もあり、国内の新聞社など600あまりのニュースホーム?
より記事を収集している。集められたニュースは、トップニュース、社会、国際、政治、経済、文化
などのカテゴリーに分けられ、グーグルニュースのHPにまとめて表示される。
この表示方法は非常にうまく作られており、同じ出来事を扱った記事は、代表的なものカテゴリーのトップに表示され、
他媒体の同内容の記事は「関連記事00件」というカタチで別ページに一覧表示される仕組みになっている。
(以下、字数の関係でカット2,008年05月09日)
             ー  つづく  バイ♪(ノ´∀`*)ノ                
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 2005年05月09日(月)
1497, いま・現在についてー5
  ー「私の」生成ー

[どうせ死んでしまう] の読書日記に戻る。
この著書の中のー[私の]の生成ーという内容の意味と、[いま]を重ねて考えると、面白い。
 ーその一部を抜粋してみるー
「この」身体や[この]心の状態を[私の]身体や[私の]心の状態に変形させるのはいったい何であろうか。
[いま]周辺を見回してもらいたい。そこには[私]は登場はしていない。
そこに認められるのは[この]身体の状態であり、[この]心の状態である。
それは[私]の身体の状態・心の状態ではない。だが、一時間前の光景を思い出してもらいたい。
それを見ていたのは誰か。それは、いまこの光景を見ているものである。
この光景を見ている者がさっきあの光景を見ていたものである。
現在と過去という互いに否定的な関係がここに登場する。世界は過去と現在に炸裂する。
そして、同時にそこに[私]がこの炸裂を繋ぐものとして登場してくるのである。
「私」は知覚においては登場してこず(川を眺めているあいだは「私」は登場してこない)
川を眺め終わって帰る時に想起したときに初めて登場してくる。痛みですら、現在と過去との炸裂で了解される。
犬が[キャン]と鳴くことと[私]が[ウッ!」と呻くのではなく、適切に[痛い]という言葉を使用できるのは、
やがて痛みが治まったときに[痛かった]と言えることでもある。そのつど刺激に対してのみ[痛い]という事ができ、
[痛かった]という過去形を使えない者は、実は痛いという言葉を理解していないのである。
こうして、「この」痛みが[私]の痛みに「なる」ためには、痛みがさったあとになお私が[痛かった]と語れることが必要である。
痛かった[あの]痛みが「私」の痛みなのである。他者とは、[別の私]のことである。それは、知覚においてではなく
想起においてはじめて登場する。犬は他者ではない。想起能力のない生物は、いかに私と同じような身振りで苦しがっていても、
他者ではない。他者とは、私と同じように、現在と過去という楔を世界に打ち込むことができる存在者なのである。
 ー以上であるー
過去と未来を想起するものが[私]であり、「いま」という時点で前の「いま」を想起しているものが[私]になる。
従って、その想起のできないものは[私]を持ち得ない。
人間以外の動物には、[過去]や[未来]の想起ができないから、[私]はないのである。
このことより考えてみても、「いま」と[私]は非常に深く関連していることになる。
何気なく使っている[私]という言葉は、現在と過去という世界に打ち込むことができる楔である。
それも現在[いま]、において。この連休は、「いま」と「私」について、徹底的に考えてみた。
「私」にとって、非常に有意義な「いま(時間)」であった。

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2004年05月09日(日)
1132, 「ライフレッスン」ー 12
 ー 幸福のレッスン
 
 不幸論なら書けるが、幸福論となると何か書きつらいものだ。
幸せ感なんてものは、一時の気分でしかないと思ってしまうからだ。
といって幸せを意識して求めてないと、その時間を知らないうちに過ごしてしまう。
また、せっかくの幸せを得る機会を失ってしまうことも事実である。
ハッピーはハプニングが語源という。偶然におきた中に幸福を見出すセンスをいうのだ。
良い偶然を得たことを喜ぶ気持ちと感謝である。考えてみたら、生まれてきたことも、いまあることも偶然?
後にある抜粋の一番初めの「幸せを私たちは、不自然と感じ、それに値しないと思い込むように子供の頃から洗脳されている」
のかもしれない。しかし幸せ感を得ようとするなら、少しの訓練があれば、誰でも可能である。
心の底から「ありがとう」と言えているときが幸せなのである。
 幸せの格言の中にも多くの幸せに対する示唆がある。「幸福人とは過去の自分の生涯から満足だけを記憶している
人々であり、不幸人とはそれの反対を記憶している人々である。」という萩原朔太郎の言葉が真髄をついている。
それは、訓練でも可能になるのだ。いま私が実行していることは、マイナスの気持ちや言葉が出てきたとき、
自動スイッチとして「ありがとう」という言葉を繰りかえしていうことにしている。
お陰で「ありがとう」という言葉を繰り返しいうことになってしまった。
知人に万年欝の人がいるが、過去の生涯の嫌なことだけを記憶している人である。
よく記憶していると感心するくらい憶えているのだ。 むしろ不幸にいることが、
自分の存在意義であるようにさえ思える。やはり基礎的な知識を持ってないからであろう。
それだけ深い心の傷をためこんでいるいるのだろう。
「愚人は終夜睡眠し、昼間は交際を楽しむ。いったい、苦悩を消滅するのは何時のことか」という言葉もあるが。
 ー抜粋ー「ライフ・レッスン」
・幸福は人間の自然の状態なのだが、わたしたちは不幸な状態に安住するように訓練されている。
わたしたちは幸福になれてないのだ。せっかく幸福の状態にあるのに、それを不自然と感じ、それに値しない
人間とおもってしまう。だからこそ、幸福の状態をいいことだと感じる訓練や幸福になる為の訓練が必要になる。
・幸福になるか不幸になるかは、周囲におこることによって左右されるのでなく、
おこることにどう対処するかによって左右される。
おこっていることをどう解釈し,どう了解し、こころにどう対処するかがその人の幸福を決定するのだ。
そして、ものごとをどう了解するかは、その人がものごとのかかわり方によって決まる。
ものごとからレッスンを学び、ものごとと自己との真実を想起するバランス点はそこにある。
ものごとのや相手の状況の最悪の側面をみる傾向にあるか、最良の側面をみる傾向があるか
によって、事態は大きく変わる。最良、最悪、いずれの側面をみるかの傾向も、その人のなかで育ち大きくなる。
・不幸への最短経路は、ものごとを比較することにある。
比較というこの自己破壊な行為には、しかも、比較する他者さえ必要でない。
過去または未来の自分と比較するだけで,おなじ惨めさが味わえる。
ところが幸福は、だれと比較することもなくて、いまここで、ありのままの自分を「これでよし」
と感じるところからやってくるのだ。
・人は矛盾のかたまりである。つねに『もっと』を望みながら、一方では、あるがままの自分をうけ入れ愛そうとしている。
自分が霊的な存在でもあることを知っていながら、世俗的な経験が織りなす現実を受け入れようとしている。苦しみながら、
一方で苦しみを乗りこえようとしている。わたしたちは多いものと少ないものの、優れたものと劣ったもの、
足りないものと豊かなもの、大きいものと小さいものに満ちた世界に住んでいる。
その両極に気づいたとき、わたしたちは以前より豊かになる。
宇宙の中のわたしたちという部分はつねに、みごとにバランスを保っている。
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ー幸福の格言
コロンブスが幸福であったのは、彼がアメリカを発見した時ではなく、それを発見しつつあった時である。
 幸福とは生活の絶え間なき永遠の探求にあるのであって、断じて発見にあるのではない ーF.M.ドストエフスキー
・人間は、死、悲惨、無知を癒すことができなかったので、
 自己を幸福にするために、それらを敢えて考えないように工夫した。 ーパスカル「パンセ」
・自分の仕事を愛し、その日の仕事を完全に成し遂げて満足した。
  ーこんな軽い気持ちで晩餐の卓に帰れる人が、世の中で最も幸福な人である。  ーワナメーカー
・幸福の秘訣は、自分がやりたいことをするのではなく、自分がやるべきことを好きになることだ。ージェームズ・バリー
・幸福は対抗の意識のうちにはなく、協調の意識のうちにある。 ?ジイド「文学と倫理」
・私達は踏みなれた生活の軌道から放り出されると、もうダメだ、と思います。
しかし、実際はそこに、ようやく新しい良いものが始まるのです。生命のある間は幸福があります。ートルストイ
・人は幸福を探し始めると、たちまち幸福を見つけられない運命に陥る。
しかしこれには不思議はない。幸福とは、あのショーウィンドウの中の品物のように、
好きなものを選んで金を払えば持って帰れるというものではない。        ーアラン

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2003年05月09日(金)
765, 流砂の民

いま中国を中心にSARS が猛威をふるっている。誰かが「これはソ連のチュルノブイノである」と言っていた。
なるほど、そうなる可能性が大である。孫文が中国人のまとまりのなさを喩えて流砂の民といった。
つかんでも手の指の間からサラサラと落ちていく。今までの共産党は、むしろ中国の発展にプラスに働いた。
ところがこのSARSで、その体制がソ連の崩壊と同じ道をたどるのではないかという指摘は的をえている。
いまの中国を頭の一部だけ赤い丹頂鶴に喩えたのも面白い。
あの磐石に見えた中国はこれをきっかけに、国として激動期に入る。恐ろしいことである。
昨日のニュースでWHOが死亡率が7?から14?5?に修正した。65歳以上だと50?という。
子供がかかるケースが少ないことも不思議な現象である。この成り行きによって世界は大恐慌に入る可能性がある。
ホテルなど誰が泊まっているか解らない。もしSARSの患者が出たら、ホテルとして即死?倒産である。
スーパーやデズニーランドも一人出たら終わりである。本当に恐ろしい時代になった。

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2002年05月09日(木)
401, 腰痛

昭和38年の三八豪雪の時、長岡高校の屋根の雪落としをしていて、腰痛になってしまった。
母が腰痛もちで、よく腰が左右に曲がっていたのを見たが、それがそのまま遺伝したようだ。
腰の骨が本当に左右にずれるのである。 その時の痛みは言葉に言いがたく、脂汗がにじみ出る。
大体が季節の変わり目に出る。その対策として15年前から散歩を始めたが、今は腰痛対策というより、
精神的肉体的両面の健康のすべての対策になっている。散歩も一日30000歩を超えると、逆に腰痛になる。
人間の今の身体の構造は、歩く前提で出来ているという。何かあったら歩くのが一番自然だ。
腰痛は猿が人間に進化する過程で、腰に不自然な力がかかるようになった。
その結果、人類共通の持病になってしまった。歩行がその対策によいことは、15年続けての実績で解る。
しかし完治はしない。腰痛が出はじめたら、ホッカイロをその部分に当てるのが一番効果がある。
(母の対策を見て知ったことだが)それで4~5日で直るからだ。
医者には一度もかかったことはない。あとは腰痛と仲良くしていくしかない。