一番、具体的に納得した「人生最良の瞬間」は
  小野田寛郎の「29年後の終戦記念日」である。
 彼にとっての終戦日は、昭和20年8月15日ではなく、その29年後であった。
その間に死亡した二人と共に、ジャングルの中で命令に従い戦い続けたのである。
終戦直後から「降伏命令」のビラがまかれていたが、彼等は信用しなかった。
そして29年後に彼を捜しに来た冒険家の鈴木と遭遇した時も、フィリッピンの掃討兵と
思い殺害しようと接近したが、思いとどまり、話をしているうちに、
「命令解除の命令書を持ってくれば投降すると」と、ボールを投げた。
それを持ち帰った元上官がやってきて残留命令と任務解除と投降命令を受けた。
その瞬間「なぁんだ」と思ったという。・・・・・
 投降ということは、それは死を覚悟したもの。・・・ところが、フィリッピン軍のレーダー基地に着くと、
捧げ銃の敬礼で迎えられた。捕虜にそんな礼を尽すわけがありません。
さらに面会したランクード司令官も、投降の意味で差し出した軍刀の受け取りを拒否しました。
そして翌日、マラカニアン宮殿で会見したマルコス大統領がこう話したのです。
「我われは、それぞれの目的で戦った。しかし戦いはもう終わった。私はこの国の大統領として、
あなたの過去の行為すべてを赦します」 もう疑う余地はありません。
昭和49年3月11日のその瞬間に私の身柄と生命は保証され、「私の戦争」は終わりました。
帰国のためにマニラ空港を出発する私に、フィリッピン空軍の軍楽隊が日比両国の国歌と「ハッピーバースデー」
を吹奏してくれました。死を覚悟した戦闘の日々から解放されたのだと、心から生きる喜びを噛みしめました。
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 以上が概略だが、この人の人生最良の日は、まさに昭和49年3月11日であった。
これほどの最良に日は、過酷の日々が兵隊生活の三十数年があればこそである。 
こういう体験記を読むと、迂闊に「わが人生最良の瞬間」など言ったり書いたりは出来ないと思い知らされる。
彼の一言一言が、過酷な経験の裏づけをもって光り輝いてくる。
そういえば、人生最良の瞬間より、人生最悪の瞬間が心に残るのは如何いうことなのだろうか?
「良いことが多くあったが、嫌なことも多くあったな?!」と、
「嫌なことも多くあったが、良いことも多くあったな?!」と、言葉を言い換えるだけで全く違ってくる。
私は、後者を口癖にしているが、悲観と楽観の差だろう。
喜怒哀楽を、それぞれに「わが人生で一番嬉しかった瞬間」「わが人生で一番怒りを感じた瞬間」
「わが人生で一番哀しかった瞬間」「わが人生で一番楽しかった瞬間」を、思い尽きるまで書き出した時に
その人の人生が浮き出ることになる。 怒り、哀しみ、喜び、楽しみ、どれもこれも、あまりに多い。
 やはり人生をタップリと生きてきたということか。