2005年10月27日(木)
1668, おい、どうすんだ、定年後!−2

 定年になったら「囲碁とか、絵画教室、パソコン教室などに行けば!」と考えてしまう。
が、もちろん彼らは何回か行くが続かない。彼らは元仕事人間が多く、仕事の合間の自由の過ごし方は知っていても、
自由そのものの扱い方を知らないのだ。会社という縦社会の住人だったため、
心の鎧が自分を閉じ込めて裸の自分を曝け出せないのだ。 趣味の会などの横社会には全く馴染めない。

しかし人間であるかぎり、共同体に入ってないと自分を保てない悲しいのが人間。
共鳴してくれる相手を必要とするが、もはや誰とも波長を合わせることが出来ない。
そういう人達が、大都会のベッドタウンに溢れている。
2007年から団塊の世代が大量に定年をむかえる。高度成長期時代の騎士たちである。
右ならえ!という生き方しかしてこなかった、彼らこそ定年後のすごし方を知らない世代だ。

家では粗大ゴミ扱いされて、外の世界の生き方のノウハウが全くない。
電車の乗ると、働いていない自分が許せないのだ。サラリーマン時代の価値観から全く抜けきれないのだ。
群れているだけで、真の孤独を経験していなかったからである。
 ーー
ー以上が月刊誌の概略である。

定年直後は首輪をはめた飼い犬が、家から放り出されて行くあてがなくウロウロしているようなものである。
そこで元の会社の肩書きなど、何の役にも立たないことを初めて思い知る。
だからライフワークを長年かけて構築しておかなくてはならないのだ。
その暇がなかった大部分の都会サラリーマンにとって深刻である。 一から何か趣味を見つけチャレンジ出来る人は、
ほぼ限られている。 理想的にいえば、一から始める方が良いのかもしれないが。
私の場合、この問題について51歳時が大きな節目の年になった。(この随想日記で、何回か取り上げたが)母親を前年に見送り、
下の子供が大學に入り仕事も一段落ついた。 さあ、これからの人生を如何生きたらよいかと考えていた。

その頃、海外秘境旅行に年2~3回出ていた。秘境旅行に参加する人は、人生の究極を求めてきている人が多い。
一期一会の出会いの中から、彼らから「人生のあり方」の多くを学んだ。その一つに「人生先まわしで生きろ!」である。
そして、考えた結果として
・「60歳までの9年間で、80歳までの30年間分を詰め込んでしまう!」という生き方である。ー余白も行間も埋めてしまう。
・その為に社会的に如何でもよいことは可能なかぎり切りすててしまう。
そう決めると、旅行の行き先がアフリカや南米などになってくる。とにかく、先回しをして選定するのだから。
結果として、これを実行してきて本当によかった。この随想日記も早くいえば自分史の一環でもある。
55歳の時から始めて、思いはほぼ書き尽くした?感はある。60歳になったら、どうするのか?
余白は書きつくしたのだから、赤ペンで上書きをしていけばよい、
ポストイットに書き足して貼り付ければよい、ノートを買いたせばよい。とにかく、何ごとも準備と先まわしである。
 まずは自分を曝け出す訓練をしないと、誰も相手にしてくれない。 それも、どうでもよいことだが。       
                                つづく
・・・・・・・・