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2004年10月12日(火)
1288, 「閑」のある生き方ー読書日記 −2
11章の「今ココに」の心得が含蓄が深いので抜粋して、そして考えてみる。
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・ー現在只今の自分を全肯定できること、これが人間として達しうる究極の境地である。
そこに達すれば現世の中で翻弄されている最中でも平然としていられるのだ。
・「今ココニ」は過ぎ去っていくのではなく、自分が生きている事実がつづくかぎり同一のものとしてあり、
しかもそれがただち永遠につながっていることが、次第にわかってくる。
それは心の時間というべき状態である。 鈴木大拙はそれを「零=無限」として、こう言う。
「空」は空間の義に思い違えられるおそれがある。それで仏教者はいつも
その弁明に悩まされるが、存在といえば、いつも空間の存在の義に考えられ、時間を入れない。
しかし実際は空と時とを分けるわけにはいかないのである。空と時を合わせて「一念」というほうがよい。
hereーnow が、それである。(略)とにかく、「空」を時の上から解釈して、「即今」という。平たくいえば、
ーただいまーである。 「空」がわかるというのは、その「ただいま」がわかるという意味である。
「ただいま」を手に入れなくてはならぬ。この「ただいま」を無限そのものだと悟るとき、零すなわち見元の式が成立する。
アッというこの一瞬が直ちに無限の時間そのものであると気のつくとき、東洋思想の根底にふれることができる。
鈴木大拙「東洋的な見方」岩波文庫
「今ココニ」を丸ごと心で把握するなら、そこにはあとに残る過去も先に待つ未来もなく、
ただ永遠の今があるだけということに気づく。空間が時間であり、時間が空間であり、
その空間とも時間とも名付けられぬ絶対の現在がある。それが生きている場である。
そこから見れば、物差しのような時間観念はただ外にある人工的尺度にすぎない。
我々にあるのが「今ココニ」だけであると同様、二千年前に生きたセネカやエピクロスにも在るのは「今ココニ」だけである。
だから現在の自分とセネカは「今ココニ」というところで一つになる。これが人間の生きる時間の面白いところで、
過ぎ去っていく時間という観念から自由になれば、人は永遠の時の中に行き始めるのだ。
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以上であるが、この随想日記の過去分を読んでみると数年分の同月同日の「今ココニ」に、毎日出会っていることになる。
いや36年前の日記の自分の今ココニとも同じことだ。その意味で感情を文章に込めて書くことの重要性の意味が納得できる。
気持ちを込める、魂を込めるということは、現在の今ココニに現世を 超越した永遠の世界に入っている事になる。
「茶道」の世界に「一期一会」も、「今ココニ」の世界である。 その瞬間こそ、自分に生きていることになる。
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ー「閑」のある生き方ー
著者 中野孝次 発行元 新潮社
2004年10月3日長岡中央図書館
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