2006年10月12日(木)
2018、「私」のための現代思想  −10
                           
「『孤独』とともに『自由』が発生する」の極みは一人旅であろう。
そういえば自由は孤独の極みにあった。過去を振り返ってみて、孤独の極みのときに一人旅に出ていた。
そして結婚と同時に自由は狭まり、孤独(感)も激減した。互いに首輪をつけて紐を握られ、握ってしまったからだ。
「自由になりたい」というが、自由ほど厳しいものはない。自由にはまず「個の確立」が要求されるからだ。
   <他者>了解不可能性というが、これは同時に<自己>了解不可能性になる。
   「誰も自分を理解してくれない」と、悩んでいるとしたら、それは悩んでいること自体が、無知からきている。
    もし誰かに「理解してもらっている」と思ったら、一時的な妄想を抱いているだけのこと。
いい歳をした男どもが、群れているのをみると気の毒になる。程度と比較の問題で、誰もが群れなければ
生きてはいけないことも事実・・  それも人生だが!孤独の人ほど、それが人間の自然の姿である。
孤独とは、他者と一線を画すこと、「自らの分」を他者と画すことである。
和して同ぜずの精神である。 和して同じたとき自由が狭まる。

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第四章 「私」にとって「他者」とは何か−?
     ー孤独と自由ー

「存在する」が「存在者」という「かたち」をとることによって、何が発生するか、レヴィナスは「孤独」が発生すると言います。
「私」は<他者>の「声」の存在を通して「境界」の存在を察知するのみです。 その境界の中で芯としての《私》に気づきます。
自分の外部が存在し、そこに<他者>が存在するのですが、それは<他者の了解不可能性」のよって推測されているに過ぎない。 
このとき《私》は、入り口も窓も無い「閉ざされた部屋」の中にいることを知ります。 これがレヴィナスのいう「孤独」です。

    その部屋の中で、《私》はいろいろな概念をつくります。 なに不自由なく暮らすことができます。
    しかし、親も子供も、友人も恋人も、そこに「存在しているように」見えるのですが、
    それは単なる「映像」でしかありません。彼らは全て<他者>であり、
    それは恐らく壁の向こうに側にあるだろうとしか思えません。

境界が発生することによって、「孤独」とともに「自由」が発生します。
「存在する」ということを「液体である」という状態にたとえるなら、そこには「自由」は存在しません。
なぜなら、それは「全にして一」の存在であり、動きは取れない状態。どのような場合に「自由」が存在するのでしょうか。
それは境界によって他と仕切られた状態になった時です。

それは「孤独」の別名でもあります。その時《私》は居場所を決めることができるのです。
つまり、自由とは「個別である」を前提としているということです。
このイメージは、「存在」という海の中で、結晶化した「存在者」が、孤独に浮かんでいるというようなものです。

    境界を「外側から」規定するのが<他者>であり、「内側から」規定するのが「超越確実言明」ということになる。
    この境界の範囲が「自我の範囲」であり、それを内側から支える行動(言語行為)によって維持されています。

ー《私》による「境界」の維持ー
 境界は《私》によって維持される必要があります。《私》は「正しい居場所」を求めてこの世界を移動しますが、
 そのとき境界は、積極的に守られる必要があるということです。
 それを達成するのが、ウィゲンシュタインの「超越確実性言明」です。
 境界を「外側から」規定するのが<他者>であり、「内側から」規定するのが「超越確実性言明」になります。

   ー<他者>了解不可能性ー
    私たちは<言葉>によって他人を認識するわけですが、その際の認識とは他人を制御するという目的のもとで行われます。
    私たちは<言葉>という道具によって、ある人の像を自分の内部に写しとりますが、写し取られた時点で、
    それは《私》がつくり出した像」となり、他者とは違ったものになります。

それは、制御するという目的の元で「認識」した像だからです。それは「他なるもの」ではなく<私>に属するもんです。
<他者>と<他人>とは違うものです。私たちは<他者>を直接的に認識することはできません。
これを<他者>認識了解不可能性」と呼びます。

   ー死者を「なでる」という行為が意味するものー
    私たちが生きる「一回性」の人生は(一回しか発生しえないという意味で)「奇跡の連続」ですが、
    最後には「必ず繰り返される現象」が存在しています。それが「死」です。
    一回性の人生を生きるということと、必ず繰り返される死の間には、整合性が存在しません。
    したがって、人は「死が必ずくること」を棚上げにしていく他はない存在である。
    私たちは「死を領海することができない」ことによる「回避的処置」です。

 私たちは、身体を持たされて、この世界に投げ出されている存在ですが、
 その「向こう」にある何かを感じることも、知ることもできません。
 自分の愛する者に死が訪れても、その「身体」は、物質として、まだそのままそこに存在しています。
 しかし、「死」に遭遇しても、 その「何か」(=<他者>)の不在を、私たちは知覚できません。

    撫でればそこに存在していることを何度も確認しながら、そこに「存在する」
    何かの「不在」を次第に受け入れていくしか他ないのです。
    私たちは、それに届こうと努力します。それが「なでる」という行為です。
    とても切ない行為です。なぜなら、「決して到達しえないものに到達しようとすることであり、
    決して了解しえないものを了解しようという行為である」からです。
 ーー
後記)亡くなった旦那や親を、火葬場の最後の場面で撫でている場面を何度も見てきた。
深い本人も知らない何かが、あることは解っていたが、その意味の一端を知らされた。
愛する人の最後の最後の別れである。その別れは自分自身との別れでもある。 
                   Good☆':.*^ヾ('c_'ヽ,,)*.bye       
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