2006年09月22日(金)
1998, 「私」のための現代思想  −2  
   (。^0^。)オッ(*^○^*)ハ〜  −読書日記

第一章 「私」を縛るものは何か ー?
 
 ーまずは問題とはー
まず「我われの世界は正しいのか」という問題をまず考えなくてはならない。
我われの世界には正しい部分と、腐った部分がある。
《「世界」と「私」は、ともに腐っていく》という方が解りやすい。
この世界で自分が腐っていくのを実感することは、さらに腐敗にまみれないようにするためには、
非常に重要である。 我われを拘束する要素として、<言葉><価値><社会>が考えられる。

ー言葉ー
私たちは<言葉>を使ってこの世界を認識し、他者に何かを伝えます。
言葉は「思考の枠組み」であり、便利な道具ではあるものの、
逆にその「枠」の外には出られないという意味で束縛となる場合がある。

    ー価値ー
    私たちは何らかの、<価値>を求め、それに照らし合わせて自分の行動を決定したり選択したりします。
    自分が重要だと考えている<価値>そのものが、私たちを束縛している場合がある。

ー社会ー
この枠組みは、私たちがよりよく生きるために構築されてきたものですが、そこに窮屈感や閉塞感が出ることがある。
これらは「束縛」となる場合と、「自由になるための武器」になる場合がある。 この束縛から脱するには、
これらを得なくてはならない。 得るためには、まずは言葉・価値・社会とは何か知らなければならない。

まずは
ーー《言葉》についてーー

言葉の機能の中心には「分類」があります。
これは、言葉は「私たちが知覚したものを分類する」ために用いられるという意味である。
私たちが「何かを学ぶ」ということは、
ー社会において重要とされている分類基準を自分のものとするー
ということを意味しています。このとき私たちは、少しだけ「自分を殺す」ことになります。
それが「大人になる」ということであり、「社会化する」ということです。
    
    フランスの精神分析家のピエール・ルジャンドルは =換言すれば、    
   「 自己と世界に対する関係は言葉のスクリーンを経由する 」ということです。
    人間のアイデンティティには複数の水準がありますが、自己への同一化
   (それが主観的なアイデンティティ形成です)と、世界の同定および世界への同一化ということです。
    その全てにとって前提となるのが言葉のスクリーンなのです。

自由に「思考」するためには =「他人の考えるように考える」ということは、重要である反面、
「他の人が考えるようにしか考えられない」という状況を発生させてしまう。
そのときに人は「言葉による束縛」もしくは「言葉の専制」を実感します。
そうならないために‘社会の側の分類規準は便宜的なものでしかないことを、しっかりと把握しておかなくてはならない。
自分を殺さずに、社会の側の分類規準と上手くやっていかなければならないが、
そのとき重要なことは、「言葉の主人は自分である」という意識を持ち続けることである。
すなわち言葉は、自分を拘束するものではなく、認識の道具であり、意思伝達の道具であり、思考の道具である。

    言葉が「意思」伝達の手段である時、私たちは社会の側の分類基準に従わなくてはなりません。
    しかし言語が「認識や思考」の手段であるとき、私たちはそれに必ずしも従う必要はありません。
    問題は、認識と思考のための道具である言語を、伝達のための道具として使ってしまったところに
    あるわけですから、その用途を明確に区別することができれば、その束縛から逃れることが可能になる。
    しかし、実のところ容易なことではありません。
 
 ここで、思考や認識は、単に「思考し、認識すること自体」を目的とするのでなく、
 <価値>という基盤の上に存在する営みだということに注意が必要です。
 私たちは言葉を使って何らかの<価値>を実現しようとしています。
 
 次には、 その<価値>について考えていくことにします。
 ー感想ー
 この随想日記を書き続けることの束縛が、反対に言葉の束縛を一つずつ開放してくれる。
 一つの束縛が、一つの開放の獲得になる。要は、それぞれの束縛が物語としての基盤になっていれば、
 それが人生の物語の完遂になっていく。まずは、言葉による自分の物語の構想を若いうちからしておくべきである。
 それが、その人の価値観になるのである。
             ヽ(●´ω`●)ノ。バイ!
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