社会に生きていくうえで、嘘をつかなければならない場面も往々にしてある。
その場その場で、ころころ変化する人物は直ぐに見抜かれて信用を失う。
「約束の時間を守るかどうか」で、まず評価されるのは、そこに言い訳と嘘が鮮明に出やすい。
後ろ向きの人は、言い訳から始る。そして小さな嘘を重ねる。

過去に何人かの長年行き来していた人と断交をしてきた。 その共通点が嘘が多い人である。
開いた口が塞がらないというほど、純朴に嘘をつく。 純朴を表面に見せて、次から次へと嘘を重ねる。
ある人を例に取ると「本人は嘘を言っていることに気づいてないだけ。 三歩ほど歩いたら全てを忘れる、
嘘など更々言っていない」のが真実。 
「私を信じて下さい」が、ある人物の口癖だが、そのことさえ自覚をしてない。
話を都合のよいように変えるのも、嘘の一歩手前の行為である。
営業口で、きれいごとを並び立てているうちに嘘の構築のプロセスを踏んでいることになる。
考えてみたら、誰もが大同小異ではないかい。他人のウソは見えても自分のウソは気づかいないだけだ。
所詮、世の中は全てが幻想、ウソも真実も大して変わらないではないか?と嘯くこともできる。

嘘も方便で嘘も相手を傷つけないように気遣う場面も必要である。
鮮明に憶えていることがある。父親が、末期癌になり、あと一年と宣告され一年間実家で同居をしたとき、
そ知らぬ顔をして、父親の葬式のための喪服をつくりに行ったことがあった。 嘘も必要悪と己に言い聞かせ。
「末期かどうかは自分は聞かされてない!」という前提で、全ての言動をしなければならなかったのも辛い。 
この時に、綺麗ごとだけでは生きれないことを、つくづくと知らされた。普段からウソの訓練も必要ということ?

私の場合は、後味の悪い他者への裏切りや、嘘は避けてきた。 結局は周り回って帰ってくる。
動機が純粋かどうかを、最終の判断基準にしている。 ただ、人間の窮したときの露骨な嘘こそ忌み嫌う。
自分の利益行為のために、綺麗ごとを当然のごとく並び立て、結果として尻尾を出している男かいる。
営業という仕事自体が綺麗ごとを並べ業績に結びつける要素が含まれる。
全てを営業成績を上げるため、生きるため、の手段にしなければならないのがプロと思わないと、やれない。
嘘をつかないで、相手をグサリと刺しまわっている「私」も大問題である。
嘘を言う前に、まず真実を知らなければ! 真実も嘘も知らない手合いが多いから困ったもの。
 
そうこう考えてみると、親の資質や、本人の教養度合いの低い人が、ウソが多い人、ということになる。
 
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