2001年09月01日(土)
[128] 地獄の舗装

地獄の舗装の砂利は善意でできている。日本の裁判の何割かは善意が発端だ。
あれやってやったのにー善意だったのにー本人の為と思ってやったのにー
請け判はその典型だ、連帯保証人という言葉に勘違いをして一生を棒に振った人を何人も見てきた。
身近の親戚が、目の前で手形を出そうとしたこともあった。 私の目を見てヤバイと引っ込めた。
他の親戚までが「そんなに苦しいなら押してやりな」とかいう。ーそういう奴ほど自分では絶対に押そうとはしないが
善意という名の悪行が、善意という甘さをねらって行われてきた。 
正しく冒頭の「地獄の舗装の砂利は善意でできている」である。これでいかに人が人を傷つけてきたことか。

現実に仕事をしていて、善意という相手の甘さを狙ってくる人間のいかに多いことか。
仕事をしているとこの絡みのくもの巣である。しかしそれは現金をただ呉れてやると、全く同じことだ。
「何で貴方に現金をあげなくてはならないのか、現金にするとこの金額を呉れと
言っているのですよ!」というと、きょとんとする。全く他意がなかったり、利害を抜くのが善意である。
対価を求めるのは打算でしかない。 結局べたべたした関係がその巣窟である。