散歩の習慣と効用については何度か書いてきた。
1月から3月半ばを除けば毎朝、豪雨でない限り歩いているが、もう25年ほどになる。
年々少しずつだが歩数は減っているが、それでも毎朝一時間弱は歩く。

日本人の歩行は、この三十年で激減しているという。
30年前で7000歩が現在では6000歩弱に、車通勤では、4000歩も歩かない。
江戸時代には日本には散歩という概念がなかった。
車がないので、何処に行くのにも歩いていたから、敢えて歩く必要も無かったようだ。
それでも、現代人と比べると3倍から5倍は歩いていたという。
西欧人のように、「楽しみのための目的なしの歩き」に名前を散歩と名をつけたのは、勝海舟であった。
氷川清話には、散歩の話がところどころ出てくる。散歩の語源は、漢方の言葉で、漢方の内服薬を飲んだあと、
その薬を早く吸収させるため歩くことを意味していた。
勝海舟は、外国人が生活の中に散歩を取り入れているのを見て、心身の健康の効用を看破した。

私にとって、散歩のない日々は考えられないほど、日常の生活の一部になっている。
大雨で歩かなかった翌日など、身体から毒素(恐らく活性酸素だろう)が抜けていくのがわかる。
それと、脳の活動が活発になるのも分かる。 これを続けていると鬱病などなる訳がない。
早朝に、陽光にあたりながら、鳥の声と、川のせせらぎの音を聞きながら、深呼吸をして歩いていれば、
マイナス思考など出ようがない。最近はiPodでアルファー波のタップリ入った音楽を聴く習慣も取り入れた。
哲学の小道が京都になるというが、決まった道を、他のことを意識しないですむ道という。
ソクラテスではないが、プラトンなどと問答しながら歩いたのは、脳が活性化するためである。
散歩を健康のためとか、考えるため、というのでは長続きはしない。
あくまで、楽しい日課の一つとして取り入れて、スキップするような気持ちで歩くことだ。

最近、80歳過ぎの少し痴呆症の入った年配の人が散歩をしている。
道に立って、来る人来る人に、手を上げて親しそうに話しかけている。
それが一日の大きな楽しみになっているようで、決まった時間に決まった何人かと親しそうに話しをしている。
私も話しかけられたが、どうも苦手で笑って通り過ごしているが・・・。
痴呆症にとっては、あの習慣は一番の薬になる。

ところで何でもっと多くの人が早朝散歩をしないのだろう。あれだけ心身にとって良いことを。
時間が無いのなら、チョットした時間に意識をしてあるくことだ。
もし私が散歩を取り入れてなかったら間違いなく現在、娑婆には居いだろう。
寝る前の風呂と、早朝の散歩で猿コールを蒸発させているから、事なきを得ている。

二十年ほど前に「散歩について」書いた随想を読んだ恩師が手紙をくれたことがあった。
その恩師は鬼籍に入られてしまった。


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