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私の好きな哲学者の中島義道が『哲学者というならず者がいる』の中の
カント哲学「実践理性批判」で、誠実性について次のように述べている。
「誠実性が実現されてない限り、いかに外形的な善が実現されても厳密な意味で『善』は実現されていない。」
誠実性とは何か?とは、「善い行為」を実現するさいに、僅かでも自己利益が混入してはならないということ。
(取引を求めない、という仮言命法、ということか)
中島はカントが実際言ってないとしても、言いそうなこととして次の4つをあげている。
?自分をわずかでも実際より善く見せようとしないこと。
?自分が不利益を蒙るとわかっていても、それが真実だから「そうだ」と語ること。
?他人が不利益を蒙るとわかっていても、それが真実だから「そうだ」と語ること。
?いかに優位に立っていようと、たとえそれがいかに理由のあるものであろうと、
いささかも放漫であってはならない。-誠実な人は決して放漫ではない。
いささかも誠実を誇ることはない、ということである。
以上のことを実際に実行すると社会は成立しないだろうから、ある程度は不誠実でなければ生きていけない。
そういえば以前に、誠実であるとは如何いうことか?以前、考えたことがある。
「誠心誠意、無心に対象にエネルギーを注ぎ込むこと」が、結論であった。
それと、「自分を騙さない。それが人を騙さないことになる。」「約束を守る」ことである。
「あの人は誠実な人」というと、それからどんなイメージが連想されるだろうか?
・自分の言った言葉に対して責任を持てる人。
・自分を信じてくれる人である。
・「良心」を大切にして、人を利用しない人である。(心の綺麗な人)
誠実そうな人はいても、誠実な人は、ナカナカいないものだ。
「論語の会」にでも入って、鼻声で斉唱しようか?
私の姉の名前は、正子、恭子、優子、そして礼子。
正しく、恭しく、やさしく、礼儀か〜
誠実そのもなじゃないかい!
父親の名前は誠作だから、潜在意識が、そうさせたのか?
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