己の地平の土を耕す

知人が二人、最近になって(とはいえ10年前から)素人菜園に凝っている。
たまたま事務所で二人が出会ったとき、嬉々として話が弾んだ。
何か奥深く面白いらしいが、私には向いていないようだ。 下地に10年はかかるらしい。
『心身にとって、これほど良いことは無い』と二人は口をそろえて言う。
それを聞いていて畑での一連作業が、何か自分の心を耕しているに感じた。
人生は考えてみれば畑を耕すのに似ている。
長い人生の道のりも、計画通りに楽しみ生きるより、苦しみ努力をして歩むことが多いもの。
スキップだけでは面白く可笑しくもない。 たどたどしく、泥まみれが人生である。。

イソップの寓話に、面白いのがある。
《葡萄畑を持っている家族がありました。 あるとき父が病に倒れた。 病床の中で父はニ人の息子に言いました。
「実はおまえたちに財産を遺してある。金貨を壷の中に入れて、葡萄畑に埋めておいたのだ。
 私が死んだら、その壷を掘り起こして二人で分けなさい」。父が死んだ後、二人の息子は葡萄畑を一坐懸命に掘り起こした。
 しかし壷はとうとう出てこなかった。二人は落胆しました。ところがその翌年、何と葡萄がこれまでになく見事に実った。
 畑の土を掘り起こしたことで葡萄がたくさん採れるようになり、こ人の息子はとても裕福になりました。》
 
父の遺言は、息子に努力を教えるためのウソ。自分に与えられた人生の畑を懸命に耕してみること。 
そこには必ず金貨以上の幸福があるはず。イソップの、こういう寓話を幾つか遺しているが、下手な人生論より良い。
(そういえば本屋で、そんな題名の本があった。今度借りて読んでみようか)

「ところで御前さん、人生の畑を耕したの? それも真剣に?」と問われれば、
「う〜ん、耕してきました! これでも 」 そして、
「上を見れば限がない、横を見れば情けない、下を見れば底がない!」と言うところか。

このように毎日、随想日記を書き続けるのも、ある意味で、畑を耕しているようなもの。
テーマ一つずつが、畑の一部分を掘り返しているようである。しかしね〜、それで、この様だから・・・・
畑の土は、雑草や動物が腐って積み重なって出来ている。 
「人生を耕せなど、何をぬかす、御前さん! 土が既に決まっているのだろうが。」という心の奥の声が聞こえてくる。
「いや、違う。その土を見分けて肥料を自分で探して、時間をかけて自分の野菜を作るのが耕すことだろうが・・」
ということがを、畑から学ぶのだろう。

ところで土といえば、アイスランドに行った時に、驚いたことがある。国土に土が殆ど無いのである。
岩石の上に、辛うじて藻が覆ってあるだけである。植物が元々生えないので土が出来ないのである。
その時になって、成るほど我々は生物の屍の累積の上に生かされていることを実感した。
人生を耕す前に、畑を耕して、植物を育てると、その意味が実感できるのだろう。

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