2001年07月05日(木)
[74] 死について

誰もが直面するまで見て見ぬふりをする、一番厄介な避けてとうれない一大問題である。
40歳過ぎれば何時直面してもおかしくない問題である。
子供の頃から両親に‘死の不安’の話を聞いていた為、死にたいして耳年増になってしまった。

そして親戚が多かったせいか、死を身近に見てきた。 そして坊さんの死の話も聞いた。
その中で一番印象に残っているのが「人(他人)は先、我は後!」である。
自分が生きてる限り全くそのとうりである。 たしかギリシャの哲人の言葉に「自分にとって死は存在しない、
なぜなら死んだ瞬間は自身無になるのだから、死は残された者たちの自身の言葉でしかない。」
という言葉をその坊さんは噛み砕いたのだろう。 
ー以下は以前書いた文章である。
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H0503 “死”について

・ 自宅の両隣の御主人や息子さんも含めて近所で、このところ五軒も葬式があった 。
 六年程前に“いとこ”がやはり四人、たて続きに亡くなった。 私の年令の風景の一つなのか?
・ 人間の死亡率は百%!
・ 人間の恐ろしいのは、“死”より“死に際”じゃないか?
・ 親の死は、子供に対する最大のプレゼント
・“我々が生きている間は死はこない。死が来た時にはわれわれはもはや生きていない”(エビクロス)
・ 死んでしまえば塵である。(伊藤栄樹)
・ 死んで三日もたてば三百年前に死んだと同じ事。
・ “苦”は生きているうち。それが死への苦しみであっても!
・“いろいろ、あったが死んでしまえば何ってこたあない!
      はじめから無かったと同じじゃないか!皆の衆”(山田風太郎
・“ああ、自分が消滅した後、空も地上も全く同じとは何たる怪事!
・ 死とは人生における最後の挑戦である。(ハイデッカー)
・ 死はお浄土への単身赴任である……極楽世界があるかないかではないのです。
  あるべきなのです。いや、あらねばならないのです。(さち・ひろや)
・ 死も人生というドラマの一部分、それも最後の仕上げという。
・ 死に直面した時“さようなら、たださようなら、さようなら!”
                これこそ、死の苦しみにとらわれない妙薬。
・ 人間は死ぬ事を、ひそかに望んだので戦争をしたのだ。
  自己保存の要求はきわめて強いかもしれないが“死”への欲情はさらに深い。
・ “死の準備”は大別して“自分の心の覚悟”と“自分の愛する者達への配慮”に
  わけられる。死は根本的には“無”である。
 “無”にはいかなる準備のしようがない。“無”になる事に覚悟せよと言ったって、
  いかなる覚悟も“無”であり、“無”になる。死はどうであれ
 “無の世界”=“無”も自覚も存在のない世界へ運び去るのだ。
・ “父母によばれてこの世に遊びに来て、用が済んだら、はいさようなら”(一休和尚)
・ “自分の死”に対して、どれ位時間をかけたか?やっぱりかかった時間と比例します。
 だから死について考え続けるより他にありません。自分の心を明確にする事。
 それをやっていると毎日が濃縮されて、いつ死んでもいいと思う程、充実してきます!
                               (曽野綾子
・ 死は暗闇ではなく光明と考えられるかどうか、もどって来た人はいないのだから。
・ 他人(ひと)は先、我は後!
・生前、死後には無限の暗黒のひろがり…その暗黒は球状をなしているように幻想され、
 私の死後ばかりか、わたしの生前もぐるっと取りかこんでいるごとくだ。
 丁度、地球儀の或る視点だけが明るくかがやいていて、
 あとはすべて球形の闇だという格好である。向こう側(彼岸・無)よりみれば
 針の尖でついたような、しかしながら、たしかにここに光っているわたしの生、
 それ故にわたしはこの世に有る限り一日一日を大切に遺憾なく生き抜かなくては…
                       (吉野秀雄−やわらかな心)