[こころ・魂]

2006年06月29日(木)
1913, くちなしの花
    \(^▽^*)おはようございます!(*^▽^)/

一昨日の日経新聞の「私の履歴書」ー遠藤実ー の中にあった詩である。
深い純粋な思いが直接伝わってきて、思わず息を呑んでしまった。

   俺の言葉に泣いた奴が一人
   俺を恨んでいる奴が一人
   それでも本當に俺を忘れないでいてくれる奴が一人
   俺が死んだらくちなしの花を飾ってくれる奴が一人
   みんな併せてたった一人

私が20代後半に流行った、渡哲也の「くちなしの花」(遠藤実・作曲)の元になった詩。
カラオケでよく唄う歌である。慶応大学出身の十三期飛行予備学生・宅嶋徳光少尉の遺稿集
「くちなしの花」の一節が背後にあったと初めて知った。

   「たった一人」とは出征に当たり「手向けの花にくちなしを」と約束した恋人。
    戦時中のこと、好きだと直接言えないので(くちなし)と言わざるをえなかった。
    それ故に、若い兵士の深い気持ちがもの悲しい。
ーー
インターネットで調べたら、
HP-「戦争と日記」の第十章 戦争で死んだ若者たちの日記の中のー「きけわだつみのこえ」の世代 ー
に取り上げてあった。 彼の死は、戦死ではく、事故死だったという。
    −−
   宅嶋徳光(1921−1945)の出征以降の日記は、恋人の津村八重子と後に見せ合うことを約束した交換日記であり、
   軍隊で上官の検閲を受けることを強いられた不幸な修養日記とは全く対照的な、
   愛する人に読んでもらうための日記である。
   だが宅嶋徳光は日記をつけることの意味をよく考えていて、次のように自問する。
   《私は〔日記は何を書くべきものなのかについての〕そうした狭隘な思慮に
   とらわれず、いつの日か、私を理解してもらいたい人達に、自分の性格や希望や
   考えを漫然と示しておきたい。けれども人のために……
   そして、見せるために書く日記にならないように心懸けよう。》(1944・3・21 )

 別の日には、こうも記している。《この日記も、先日、小母様にお会いした時、焼いてしまおうと決心した。
しかし、日々に加わる現実の厳しさに、私は自分の記憶や追想を放棄してしまう
ことのできない、ある種の感傷に患わされて、私にとってはささやかな、私の歴史の一文をやはり残して置きたい。
八重子もきっと私の言葉を理解してくれると思う。》(7・18)

     思うのだが、交換日記は、日記よりも手紙に近い。
    さらに言えば戦没学生の日記自体が、とりわけ近親の人に読んでもらうために書かれた遺書的なもの、
    つまり手紙的なものである。宅嶋徳光『くちなしの花』冒頭の、最新版にも残っている
    著者の父親徳次郎による「私家版はしがき」には、海軍に入ってからの徳光の日記「遺稿 くちなしの花」
    の部分が、どのような経路で入手されたのか、特に記してはいない。
 
だがこの日記のなかで何度も語りかけられる女性八重子が後に著した『私記くちなしの花』(光人社・1998)
によれば、徳次郎は八重子が貸した宅嶋徳光の日記をもとに《私家版『くちなしの花』を十七回忌に出版》
したのだが、そこには、八重子が読んでもらいたかった恋人の父親への苦言は取り除かれている。
また原ノートは返却されないままになり、結婚が破局に至った経緯についても誤った言及がなされているという。
 
    この日記は、宅嶋徳光が事故で死んだ日に、ちょうど飛行機基地の方に会いにきていた八重子に、
    徳光の僚友から手渡されていた。悲しみのために、彼が死んだ4月から戦争が終わる8月まで、
    八重子の記憶はすっぽり抜けたままになった。

『私記くちなしの花』を読んで救われるのは、1944年11月15日で途切れている「遺稿 くちなしの花」の後に、
恋人たちの本当の逢瀬があったからである。日記からも読みとれるが、八重子の方からの積極的な求愛を前に、
徳光は父親に結婚の許しを得ようとする。だが重要なのはそうした形式ではないことを彼は悟るのだと思う。
 
    この二人の逢瀬には、将校の特権が大きく作用しただろう。
    この時代には互いにその気持ちがありながら、会うことも叶わずにいた恋人たちが多くいたはずである。
  ■宅嶋徳光『くちなしの花』  (光人社・1995/大光社・1967)
                  (。・ω・)ノ☆゚+.バイ! 
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